ゼロから始める葬送のフリーレン   作:西方物理

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開戦

 世界は、呼吸を止めていた。

 リーファウス街道の中腹、平原の闇に聳え立つ「フリューゲルの大樹」。  伝説の賢者の名を冠したその巨木は、天蓋を支える柱のように夜空へと枝葉を広げている。樹齢数百年、あるいはそれ以上。悠久の時を見下ろしてきたその樹皮は、歴史の重みを無言のうちに語っていた。

 風が止んでいる。  本来ならば草原を撫でていくはずの夜風が、不自然なほどに凪いでいる。虫の音も、鳥のさえずりも、獣の息遣いさえもが消失していた。

 そこにあるのは、圧倒的な「無」だ。  何かが来る。  生物としての本能が警鐘を鳴らすほどの、巨大な何かが。

 大樹の根元付近に展開した討伐隊の陣営もまた、凍りついたような沈黙に支配されていた。  クルシュ・カルステン公爵家の私兵団、そしてアナスタシア・ホーシンの私兵「鉄の牙」。歴戦の猛者たちが、誰一人として言葉を発することができない。彼らが握りしめる武器の柄は、滲む手汗で濡れていた。

 恐怖。  顔のない死神が、すぐ背後に立っているかのような重圧。

 そんな、針が落ちる音さえ響きそうな静寂の中、一人の男だけが動いていた。

 勇者ヒンメル。

 彼は陣営の最前列、誰よりも空に近い場所に立ち、愛剣の柄に手をかけていた。  蒼い髪が、風もないのにふわりと揺れる。  彼は懐から小さな手鏡を取り出すと、月明かりにかざし、己の前髪を指先で丁寧に整えた。

「……ふむ」

 静寂を破る、場違いなほどに落ち着いた声。

「やはり、この角度からの月光は僕の蒼さを引き立てるね。決戦の前に、自分の美しさに目が眩んでしまいそうだ」

 独り言にしては声量が大きく、演説にしてはあまりにも個人的な陶酔。  その突拍子もない言葉に、後ろに控えていた数名の兵士が、毒気を抜かれたように呆気にとられた顔をした。極限の緊張の糸が、ほんの少しだけ緩む。

 ヒンメルは鏡を懐にしまうと、満足げに微笑んだ。  その背中は、揺るぎない自信と、黄金の輝きに満ちているように見えた。

(……吐きそうだ)

 内実は、真逆だった。

 ヒンメルは、鏡をしまった手で、外套の下の腹部を強く圧迫していた。  胃が痙攣している。  冷たい汗が背筋を伝い、シャツを肌に張り付かせている。

 心臓が早鐘を打ち、全身の血流が逆流しているかのような不快感。耳の奥で、キーンという耳鳴りが止まない。

 知っているからだ。  これから起きることを。  これから訪れる、「絶望」の形を。

(来る。……あと、数十秒で)

 ヒンメルは、昏い夜空を見上げた。  彼の網膜には、まだ誰も見ていない「過去の記憶」が焼き付いている。

 五回だ。  この場所で、彼は既に五回、死んでいる。

 最初の3回は瞬殺だった。一度目は、出現と同時に放たれた霧による混乱で。何が起きたのかも分からぬまま、視界が白く染まり、隣にいた兵士の首が飛び、次の瞬間には自分も上半身と下半身が泣き別れになっていた。

 二度目は、空から降り注ぐ「声」を聞いた瞬間に発狂した味方の剣に、背後から心臓を貫かれた。焼けるような痛みと、裏切りへの困惑の中で、血の泡を吹いて絶命した。  三度目は、フリーレンを庇って。開幕早々、彼女に向けられた攻撃を身体で受け止め、全身の骨が砕ける音を聞きながら、肉塊となって潰れた。後の2回は、まだ戦いになった。でも、それでも、届かなかった。

 痛みが、蘇る。  腹を割かれた時の、内臓が零れ落ちる熱さ。  骨が皮膚を突き破る、鋭い激痛。  呼吸ができず、自分の血で溺れていく苦しみ。

 それらが鮮明な映像となって、脳髄を直接殴りつけてくる。  指先が震えそうになるのを、剣の柄を握り潰すほどの力で抑え込む。

 逃げたい。  今すぐに馬に飛び乗り、この地獄から一目散に逃げ出してしまいたい。  だが、できない。  逃げれば、フリーレンが死ぬ。レムが死ぬ。ここにいる全員が、あの化け物の餌食になる。

 そして何より――。

(……勇者が、敵に背中を見せるわけにはいかないだろう)

 ヒンメルは、奥歯を噛み締めて吐き気を嚥下した。  震える膝に力を込め、大地を踏みしめる。  彼は英雄だ。  世界を救った勇者だ。

 たとえ中身が、死の恐怖に怯えるただの人間だとしても、その「ガワ」だけは完璧に演じきらなければならない。

「ヒンメル様」

 鈴のような声が、彼の意識を現実に引き戻した。  振り返らずとも分かる。レムだ。  彼女は音もなく歩み寄り、ヒンメルの隣に並び立った。その手には、棘のついた鉄球モーニングスターが握られている。

「顔色が優れません。……匂いも、濃くなっています」

 レムの声は低く、しかし深い慈愛に満ちていた。  彼女の鼻は、誤魔化せない。  今のヒンメルから立ち上る、甘く腐った死の瘴気――「魔女の残り香」。  死に戻りを繰り返すたびに増大するその悪臭は、今のレムには鼻が曲がるほどの濃度に感じられているはずだ。

「そうかい? 香水を少しつけすぎたかな」

「……嘘つき」

 レムは悲しげに眉を寄せ、けれどヒンメルの袖をきゅっと掴んだ。

「無理をなさらないでください、とは言いません。貴方はきっと、無理をするでしょうから。……ですが、せめて私のそばにいてください。私の命は、貴方の盾となるためにあります」

「それは困るな。君のような可愛い女の子を盾にしたら、僕の勇者としての経歴に傷がつく」

 ヒンメルは軽口を返し、そっと彼女の手を自身の袖から外した。  そして、代わりにその小さな手を、一瞬だけ強く握り返す。

「盾はいらない。必要なのは、僕の背中を守る共犯者だ。……頼めるかい、レム」

「――はい。謹んで」

 レムの瞳に、決意の火が灯る。  彼女だけが知っている。ヒンメルの震えを。その虚勢を。だからこそ、彼女は誰よりも強くあろうとする。

 その時だった。  世界が、軋んだ。

 前触れは、音の消失だった。  そして次に訪れたのは、大気の変質。  頭上を覆っていた夜空が、歪む。月が、星々が、まるで水面に映った絵画のように揺らぎ、巨大な影に飲み込まれていく。

 来る。  来る。  来る来る来る来る来る来る来る――!

 ヒンメルの脳内で、警報が鳴り響く。  記憶の中の絶望が、現実とリンクする。

「総員!!」

 ヒンメルは叫んだ。  まだ誰も気づいていない、敵の姿が見えるよりも早く。  肺の空気を全て吐き出すような、裂帛の号令。

「上だ!! 空を見ろ!!」

 その声に弾かれたように、数百の兵士が一斉に空を見上げる。  直後。  雲が割れた。

 ――オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!

 咆哮。  いや、それは音という概念を超えた、大気の振動だった。  鼓膜ではなく、骨を、内臓を、魂を直接揺さぶる、圧倒的質量の暴力。

 夜空を覆い尽くすほどの巨躯。  白亜の体躯。  全身に生えた体毛が、不浄な霧を撒き散らしながら波打っている。

 白鯨。

 四百年もの長きにわたり、世界を蹂躙し続けてきた災厄の化身。  そのあまりの大きさに、遠近感が狂う。空飛ぶ山脈。あるいは、意志を持って動く雲。  眼下を見下ろすその瞳には、虫けらに対する慈悲など欠片もなく、ただ純粋な「食欲」と「殺意」だけが宿っていた。

「あ……あぁ……」

 誰かの口から、絶望の呻きが漏れた。  武器を取り落とす音が響く。  無理もない。  生物としての格が違いすぎる。  目の前に現れたのは、天敵そのものだ。

 恐怖が伝染する。  一人が膝をつけば、それは波紋のように広がり、軍勢は瞬く間に崩壊するだろう。  過去のループでは、そうだった。  恐怖に縛られた兵士たちは、為す術もなく霧に巻かれ、存在ごと消滅させられた。

 だが。  今回は、違う。  いや、違うようにする。ここにいるのは、運命を変えるために死を積み重ねてきた男だ。

「美しいねえ!!」

 朗々とした声が、戦場の空気を切り裂いた。

 ヒンメルだった。  彼は、降り注ぐ暴風圧の中で、仁王立ちしていた。  怯えるどころか、まるで待ちわびていた旧友を迎えるかのように、両手を広げて空を仰いでいる。

「月夜に浮かぶ白き巨体! なるほど、絵画的な美しさだ! だが――」

 ヒンメルは、腰の剣を一閃、抜き放った。  蒼い刀身が、月光を反射して鋭く煌めく。  彼は切っ先を、遥か上空の絶望へと突きつけた。

「主役の登場を邪魔する脇役にしては、少しばかり体が大きすぎるんじゃないかい!?」

 ニヤリと、不敵な笑みを浮かべる。  その笑顔は、完璧だった。  一ミリの曇りもなく、一ミクロンの恐怖も感じさせない、傲岸不遜なる勇者の貌。

「なっ……」

 兵士たちが、呆然と彼を見る。  巨大な怪物を前にして、この男は「自分が主役だ」と言い放ったのだ。  そのあまりの図太さ、あまりの不敬さに、恐怖よりも先に困惑と、そして奇妙な高揚感が湧き上がる。

 あの男が笑っているなら。  あの英雄が、あんなにも堂々としているなら。  もしかしたら、この怪物は「倒せる」相手なのではないか?

 錯覚。  だが、戦場において、その錯覚こそが最も強力な武器となる。

「聞け! 我らが同胞よ!」

 ヒンメルの声が、腹の底から響き渡る。

「相手はただのデカい魚だ! 四百年生きていようが、空を飛ぼうが、所詮は獣! 知性なき害獣に過ぎない! 我々は人間だ! 知恵と、勇気と、そして何より――この僕がいる!!」

 彼は剣を振り上げ、大地を蹴った。  誰よりも早く。  誰よりも先陣を切って。  たった一人で、山のような怪物に向かって駆け出したのだ。

「総員、僕に続け!! あのでかい魚に、陸に上がったことを後悔させてやろう!!」

 その背中が、火をつけた。  凍りついていた兵士たちの心臓に、爆発的な熱を送り込んだ。

「う、うおおおおおおおっ!!」

「続けぇ!! 勇者に続け!!」

「ヒンメル様に遅れるな!!」

 咆哮が上がった。  恐怖の叫びではない。戦意の雄叫びだ。  数百の軍勢が、雪崩のようにヒンメルの背中を追う。  もはや、彼らの目に白鯨への恐怖はない。あるのは、先頭を走る蒼い英雄への盲目的な信頼と、それに報いんとする熱狂だけだ。

(よし……! 足が動く……!)

 先頭を駆けるヒンメルは、内心で安堵の息を漏らした。  兵士たちの士気は上がった。恐怖による硬直は回避された。

 だが、問題はここからだ。  あの距離。あの高度。  剣では届かない。  通常の魔法も、あの分厚い表皮と霧の結界に阻まれて決定打にはならない。  白鯨を地上に引きずり下ろすには、規格外の一撃が必要だ。

 だが、ヒンメルに焦りはない。  彼には、最強のカードがある。

「フリーレン!!」

 走りながら、彼は名前を呼んだ。  振り返る必要はない。  確認する必要もない。  彼女は、必ずそこにいる。  いつだって、僕が必要とした時には、必ず。

「分かってる」

 風のような声が、耳元を掠めた。  後方、竜車の上。  エルフの少女が、静かに杖を構えていた。

 フリーレン。  彼女の双眸は、半眼のまま、遥か上空の白鯨を見据えている。  その瞳に、感情の色はない。  あるのは、冷徹なまでの解析と、解体へのプロセスのみ。

(高度、三〇〇メートル。サイズ、全長五〇メートル級。周囲に展開されたマナの霧……これは一種の防御障壁か。構造は単純。だけど、密度が異常に高い)

 フリーレンの思考速度は、瞬きよりも速い。  彼女は、このルグニカという世界の魔法体系を独自に解析し、理解していた。  ゲートを通して大気中のマナを取り込み、体内で変換して放出するこちらの魔法とは異なり、彼女の魔法は「世界そのものの改変」に近い。

 魔力による、物理法則への干渉。

(ルグニカのマナは重い。……でも、その分、威力は出る)

 杖の先の紅い宝石が、眩い光を帯びる。  展開されるのは、ルグニカの魔法使いが見たこともない幾何学模様。  複雑怪奇な魔法陣が、空中に多重に描かれていく。

 それは美しい数式だった。  無駄を極限まで削ぎ落とし、殺傷能力のみを追求した、人類の英知の結晶。

「ヒンメル」

 フリーレンは小さく呟いた。

「君の指示なら、当たる」

 彼女には、白鯨の動きの予測がつかない。生物的な動きは、戦士の領分だ。  だから、彼女は照準を合わせない。  ヒンメルが走るその先。  彼が剣を向けたその一点こそが、敵の急所であり、未来の着弾点であると、疑うことなく信じている。

 記憶を失っていても。  自分がなぜ彼を信じるのか分からなくても。  身体が、魂が、覚えている。  勇者ヒンメルの剣が指し示す場所に、間違いなど存在しないのだと。

「そこだッ!!」

 ヒンメルが、虚空の一点を剣で指し示した。  白鯨が大きく身をよじり、下降しようとしたその瞬間。  未来を予知したかのようなタイミング。

「ゾルトラーク」

 フリーレンの杖から、漆黒の閃光が放たれた。

 音速を超えた魔力の奔流。  それは、ただの破壊の光ではない。  対象の防御術式を解析し、貫通し、その肉体を崩壊させるために特化された、「魔法を殺す魔法」。

 ヒュンッ――

 大気を切り裂く音がした刹那。  白鯨の周囲に展開されていた「消滅の霧」が、ガラス細工のように砕け散った。

 ――ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!?

 絶叫。  四百年間、傷つくことなど知らなかった魔獣が、初めて上げた苦痛の悲鳴。  漆黒の光は、白鯨の分厚い脂肪と強靭な表皮を紙のように貫き、その巨体を空中で大きくのけぞらせた。

 焼けた肉の臭いが、戦場に充満する。  ボトボトと、大量の血の雨が降り注ぐ。

「すごい……」

 疾走する地竜の上で、クルシュ・カルステンが目を見開いた。  彼女は見た。  あのエルフの少女が放った魔法の、あまりの異質さを。

 詠唱もなしに。  これほどの大質量のマナを、針の穴を通すような精密さで制御したというのか。  魔法というよりは、それはまるで、神が定めた「断罪」のようだった。

「見惚れている暇はないよ、公爵!!」

 ヒンメルの声が、再び戦場を叩いた。  彼は血の雨を浴びながら、一歩も速度を緩めず、墜落しつつある白鯨の真下へと突っ込んでいく。

「フリーレンが作ってくれた好機だ! 畳み掛けるぞ! 総員、攻撃開始!!」

 ヒンメルの顔には、返り血が付着していた。  だが、彼はそれを拭おうともしない。  蒼い瞳は、狂気的なまでに澄み渡り、ただ勝利のみを見据えている。

(痛い。……心臓が、張り裂けそうだ)

 独白。  全速力で走りながら、ヒンメルは内なる歓喜と悲鳴を聞いていた。  フリーレンが、自分と一緒に戦っている。 自分を信じてくれている。ただそれだけの事実がたまらなく嬉しく、それだけの事実を裏切るのがたまらなく怖い。この時間が死んで無かったことになる未来に絶望する。ぐちゃぐちゃに混ざった喜怒哀楽が暴走し、足の裏の感覚がない。  自分が地面を走っているのか、それとも死の淵を走っているのかも、区別がつかない。

 それでも、彼は笑った。  口角を吊り上げ、誰よりも楽しそうに、誰よりも勇ましく。

(見ていてくれ、フリーレン。君の魔法が最強なら、僕の剣は最高だ)

 恐怖はある。  絶望もある。  だが、それ以上に――勇者として君と戦えるこの瞬間が、どうしようもなく誇らしい。

 白鯨が地上に激突し、地響きと共に土煙が舞い上がった。  その土煙の中に、勇者ヒンメルは、一筋の蒼い流星となって飛び込んでいった。

 

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