地響きが、鼓膜の奥でまだ燻っている。 巨大な質量が大地を叩いた衝撃は、リーファウス街道の平原に深いクレーターを穿ち、舞い上がった土煙が視界を白濁させていた。
だが、その土煙の向こう側から聞こえてきたのは、苦悶の咆哮ではなく、勝利の凱歌だった。
「やった……! 落ちたぞ!」
「白鯨が地に伏した! 我々の勝利だ!」
「剣鬼様が! ヴィルヘルム様が目を潰したぞ!」
兵士たちの歓喜の声が、波紋のように広がる。 四百年の長きにわたり、世界を恐怖の霧で覆い尽くした災厄。多くの旅商人を飲み込み、幾多の討伐隊を全滅させてきた空の王者が、今、無様に大地を舐めている。
その事実は、極限状態にあった彼らの精神を、瞬く間に希望の頂へと押し上げていた。 老剣士ヴィルヘルム・ヴァン・アストレアが、白鯨の鼻先へ着地する。 愛妻を奪った憎き仇敵。その巨体を見下ろす彼の背中は、執念と達成感に震えているように見えた。
(……違う)
けれど、たった一人。 勇者ヒンメルだけは、その歓喜の輪の外側にいた。
彼は、愛剣を握ったまま、動きを止めていた。 周囲の兵士たちが武器を掲げ、互いの肩を叩き合っている中で、ヒンメルだけが、蒼い瞳を細めて土煙の奥を凝視している。
背筋を、氷柱で撫で上げられたような悪寒が走っていた。
終わっていない。 終わるはずがない。 記憶の中の「死」は、こんなにもあっけないものではなかった。 もっと、粘着質で、理不尽で、絶望的な――。
(静かすぎる)
ヒンメルは、額に浮かんだ脂汗を、前髪をかき上げる仕草で拭い去った。 指先が、微かに震えている。 心臓が早鐘を打ち、血液が血管を突き破りそうなほどに脈打っている。
体が覚えているのだ。 かつて、この場所で味わった「続き」を。 まだ誰も知らない、この後に訪れる本当の地獄を。
「ヒンメル様?」
隣に控えていたレムが、不審げに小首をかしげた。 彼女の青い瞳が、ヒンメルの横顔を覗き込む。その鼻が、微かにひくついた。
「匂いが……増しています。先ほどよりも、濃く、深く」
レムの言葉は、死刑宣告に等しかった。 彼女が感知する「魔女の残り香」が増大しているということは、即ち、死の運命がより強固に、より確実なものとして確定しつつあることを意味している。
「……レム。モーニングスターを構えろ。そして、決して僕のそばを離れるな」
「え?」
「来るぞ。本当の悪夢が」
ヒンメルがそう呟いた、直後だった。
ドクンッ。
世界が、脈打った。 それは音ではない。大気そのものが心臓を持ったかのような、不気味な鼓動。 歓喜に沸いていた戦場が、一瞬にして静まり返る。
土煙が晴れていく。 そこに横たわっていたはずの白鯨の巨体。 その輪郭が、不自然に歪み始めていた。
ブシュウウウウウウッ!
白鯨の身体の側面から、腐った蒸気のような噴煙が吹き出した。 傷口ではない。 皮膚そのものが泡立ち、沸騰し、内側から何かが突き破ろうとしている。
グロテスクな肉の裂ける音が、戦場に響き渡る。 メリメリ、ベリベリと、巨大な質量が自己増殖を始める音。
「な、なんだ……!?」
「再生しているのか!?」
「いや、違う! 増えて……!?」
兵士の絶叫が、現実となる。 傷ついた白鯨の左半身が、まるで腫瘍のように膨れ上がり、新たな「頭部」を形成した。 同時に、右半身からも同様の膨張が起こる。
尾びれが裂ける。 ヒレが増える。 そして、三つの巨大な口が、同時に開かれた。
――オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!! ――ギイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ!! ――ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!
三重奏。 魂を削り取るような咆哮が、三方向から重なり合って降り注ぐ。 一匹でも天災級の怪物が、三匹。 圧倒的な絶望の視覚化。
物理法則を無視した、悪夢の細胞分裂。
空を埋め尽くす白鯨の群れが、ゆっくりと高度を上げ始めた。 月明かりさえも遮断され、戦場に再び濃密な闇が落ちる。
「あ……あぁ……」
カラン、と乾いた音がした。 誰かが、剣を取り落とした音だった。 それを合図に、戦意の崩壊が始まった。
「無理だ……」
「勝てるわけがない……あんなもの、どうやって……」
「神よ……」
膝をつく者。 恐怖で失禁する者。 狂ったように笑い出す者。 先ほどまでの希望は、より深い絶望へと叩き落とすための前フリでしかなかったのだ。
クルシュ・カルステンでさえ、その緑の瞳を見開き、唇を戦慄かせていた。 ヴィルヘルムが、血走った目で空を睨みながら、老体に鞭打って構え直す。だが、その足元もおぼつかない。
終わった。 誰もがそう思った。 この場にいる全員が、今度こそ、確実な死を悟った。
だが。
「ははっ! やってくれるじゃないか!」
その空気を、場違いに明るい声が切り裂いた。
全員の視線が、一点に集まる。 絶望の闇の中で、唯一、輝きを失っていない存在。 勇者ヒンメル。
彼は、三体の白鯨を見上げながら、心底おかしそうに肩を揺らしていた。 恐怖? 微塵もない。 絶望? 欠片も見当たらない。
彼はあろうことか、剣を鞘に納め、両手で髪をかき上げながら、うっとりとした表情で巨獣たちを見つめていたのだ。
「一匹倒しただけで、後世まで語り継がれる英雄になれると思っていたが……。まさか、三匹になってくれるとはね!」
ヒンメルは、芝居がかった動作で両手を広げた。
「あいつは僕のファンなのかな? どうやら、世界中の広場という広場を、僕の銅像で埋め尽くしたいらしいぞ!」
シーン、と静まり返る戦場。 あまりにも突拍子もない発言。 あまりにも現状とかけ離れた、能天気な解釈。 だが、その呆れるほどの「余裕」が、凍りついた兵士たちの思考を強制的に解凍した。
「……ど、銅像……?」
「この状況で、何を言って……」
「おいおい、何を呆けているんだい?」
ヒンメルは振り返り、極上のウィンクを飛ばした。
「三倍だよ? 名声も、報奨金も、そして僕の美しさが歴史書に記されるページ数も、全部三倍だ。こんな美味しい話、断ったら勇者の名折れだろう」
嘘だ。 全部、嘘だ。
(吐く。今すぐ吐く。胃の中身を全部ぶちまけて、この場で泣き叫びたい)
ヒンメルの内臓は、恐怖で雑巾のように絞り上げられていた。 奥歯が砕けそうなほど噛み締めているのに、顎の震えが止まらない。
視界の端がチカチカと明滅している。 三匹の白鯨。 その威圧感は、過去の死の記憶を鮮明に呼び起こす。 身体が引き裂かれる感触。 熱い血の味。 永遠に続くような、死への落下。
逃げ出したいという本能が、全身の細胞一つ一つから悲鳴を上げている。
だが、彼は笑う。 唇の端を無理やり引き上げ、能面のような笑顔を貼り付ける。 なぜなら、彼が膝をつけば、後ろにいるレムが死ぬからだ。
フリーレンが死ぬからだ。 彼が「勇者」という虚像を演じ続けなければ、この場の全員が恐怖に飲み込まれて全滅する。 だから、ヒンメルは自分自身さえも騙すように、虚勢を張り続ける。
「総員、武器を持て! 絶望するにはまだ早い! なにせ、この僕がいるんだからね!」
その声に、力が入る。 兵士たちが、のろのろと武器を拾い上げる。 瞳に、再び光が宿る。 あの人が笑っているなら。 あのふざけた勇者が、まだ銅像の話をしているなら。
まだ、なんとかなるのかもしれない。 根拠のない自信。だが、それは伝染する。
(……よし。立たせた)
ヒンメルは、内心で安堵の息をついた。 だが、状況は何一つ好転していない。 三体の白鯨は、悠々と空を泳ぎ、「消滅の霧」を散布し始めている。
まともにやり合えば、数分で全滅だ。
「フリーレン!」
ヒンメルは、後方に控えるエルフの少女に声を張り上げた。 彼女は、三体の白鯨を見上げ、杖を構えたまま微動だにしていない。
その瞳は、冷徹なまでに透き通っている。
「解析は終わっているかい? どれが本命だ?」
フリーレンの視界には、世界が数式とマナの流れとして映っていた。 三体の巨獣。 外見は瓜二つ。咆哮の音圧も、放つプレッシャーも同等。
だが、魔力の「密度」と「構造」には、決定的な違いがあった。
「……下にいる二体は、マナの密度が低い。本体から切り離された質量を持った分身。攻撃力はあるけど、核がない」
フリーレンの声は、戦場の喧騒の中でも、不思議とヒンメルの耳にクリアに届いた。
「本体は、上。あれが核を共有して、他の二体を制御してる。本体を叩けば、分身も消えるはず」
「なるほど、司令塔は高みの見物というわけか。悪趣味なやつだ」
ヒンメルは、苦笑いと共に剣を握り直した。 一番上にいる個体。 だが、それは同時に、最も警戒が厳重であり、分身たちによって守られていることを意味する。
兵士たちの攻撃は、分身に阻まれ、本体には届かないだろう。 誰かが、分身を引きつけなければならない。 そして、誰かが、本体の懐に飛び込み、その命を絶たなければならない。
誰が? 決まっている。
(僕だ)
ヒンメルは、自分の体から立ち上る「匂い」を意識した。 レムが顔をしかめるほどの、魔女の残り香。 魔獣たちは、この匂いに異常な執着を見せる。
つまり、自分が動けば、奴らは必ず反応する。 自分が囮になれば、本体を引きずり出せる。
それは、最も危険な役割。 死に最も近い場所。 けれど、だからこそ、「勇者」の仕事だ。
「フリーレン」
ヒンメルは、背中越しに彼女に語りかけた。
「一番でかいのを頼む」
短い言葉。 だが、その意味を察した瞬間、フリーレンの無表情が崩れた。 彼女の半眼が、驚きに見開かれる。
「……ヒンメル、何を」
「僕が走る。奴らの注意を全部引きつける。そうすれば、本体の口元が隙だらけになるはずだ」
「無理だよ。三体の集中砲火を浴びる。死ぬよ」
フリーレンの声が、僅かに尖った。 彼女の杖を持つ手が、白く強張る。 死ぬ。 その言葉の響きに、ヒンメルの背筋が跳ねた。
ああ、そうだ。死ぬ。 痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。 フリーレンを置いていくのは、嫌だ。
でも。
「死なないさ」
ヒンメルは振り返り、満面の笑みを浮かべた。 月光よりも眩しく。 宝石よりも気高く。 震える膝をマントで隠して、彼は言い切った。
「君がいるからね」
フリーレンが、息を呑む。
「僕が囮になって、本体の動きを止める。その一瞬。たった一瞬の隙に、君の最大火力を叩き込んでくれ」
それは、狂気の作戦だった。 囮となるヒンメルごと、白鯨を撃ち抜くということ。 少しでもタイミングがズレれば、ヒンメルは消し飛んでいただろう。
少しでも狙いが逸れれば、ヒンメルは白鯨の餌食になる。 フリーレンの魔法制御能力を、極限まで信頼していなければ成立しない、命知らずの賭け。
「……できない」
フリーレンが、首を振った。 その声は、少女のように頼りなかった。
「巻き込まれるよ。私の、本気のゾルトラークは、ルグニカの魔法とは違う。当たれば、ヒンメルでも跡形も残らない」
「当たらないさ」
「万が一ってことがある。私は……君を傷つけたくない」
フリーレンの瞳に、恐怖の色が揺れていた。 彼女は知っている。自分の魔法の破壊力を。 そして、無自覚な領域で、彼女はヒンメルを失うことを何よりも恐れている。
その迷いは、魔法の照準を狂わせる致命的なノイズになる。
だから、ヒンメルは言葉を紡ぐ。 彼女の迷いを断ち切るための、呪文のような言葉を。
「フリーレン。思い出してくれ」
ヒンメルは一歩、彼女に近づこうとして――止めた。 今は、背中を見せるべき時だ。
「君は誰だ? 歴史上もっとも多くの魔族を葬り去った、葬送のフリーレンだろう?」
彼は、空を指差した。
「信じろ! 君の魔法の高みを!」
その声は、雷鳴のようにフリーレンの魂を打った。
「僕が信じている君を、君自身が信じなくてどうする! 君の魔法は完璧だ! 君の計算に狂いはない! 僕は、君の魔法が最強だと知っている!」
ヒンメルは、愛剣を抜き放ち、切っ先を天に向けた。
「だから撃て! 僕ごと狙え! 君ならできる! 僕の髪の毛一本傷つけずに、あの怪物の脳天だけをブチ抜いてみせろ!!」
傲慢。 無茶苦茶。 理不尽な要求。 けれど、その言葉は、フリーレンの中にある「魔法使いとしての矜持」に火をつけた。
千年の時を生きたエルフ。 魔法を愛し、魔法と共に生きてきた彼女にとって、その技術を全幅の信頼で委ねられること以上の喜びがあるだろうか。
「……馬鹿な勇者」
フリーレンは、小さく呟いた。 その口元に、微かな笑みが浮かぶ。 迷いは消えた。 彼女の瞳から、感情の色が消え失せ、再び冷徹な照準器へと変貌する。
マナが収束する。 大気が悲鳴を上げるほどの、圧倒的な魔力が杖の先に渦巻く。
「いってくる!!」
合図は、不要だった。 ヒンメルが、大地を蹴った。 爆発的な加速。 彼は瓦礫を足場にし、垂直に近い角度で駆け上がっていく。
風になる。 重力を振り切る。 心臓が破裂しそうなほどの恐怖を、アドレナリンという名の燃料に変えて、彼は空へ舞った。
「こっちだ、化け物共ぉおおおおッ!!」
ヒンメルは空中で外套を広げ、自らの存在を誇示するように叫んだ。 瞬間、三体の白鯨が一斉に彼を見た。 その鼻腔をくすぐる、濃厚な魔女の残り香。
極上の餌。 無視することなど不可能な、甘美な誘惑。
――ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!
本体である下の個体が、巨大な口を開けて飛びかかってきた。 世界を飲み込むような顎門。 数千の牙が、ヒンメルをすり潰そうと迫る。
臭い。 腐肉と死臭の暴風が、ヒンメルの顔面を叩く。 死ぬ。 食われる。 噛み砕かれる。 本能が警鐘を乱打する。
(怖い怖い怖い怖い怖いッ!)
ヒンメルの脳内は、幼児のような泣き言で埋め尽くされていた。 だが、彼の体は動いていた。 迫りくる牙の隙間。 そこに、一筋の生存ルートを見出す。
彼は空中で体を捻り、白鯨の上顎を蹴りつけた。 衝撃。 骨がきしむ音。 だが、その反動を利用して、彼はさらに高く、白鯨の鼻先へと躍り出た。
目の前に、巨大な眼球がある。 憎悪に燃える、混濁した瞳。 ヒンメルは、その瞳と至近距離で視線を交錯させ、ニヤリと笑ってみせた。
「チェックメイトだ」
それが、合図だった。
「……」
地上から、静謐な声が響いた。 直後。 世界が白一色に染まった。
音速を超えて迫る魔力の奔流。 それは、天を貫く逆落としの雷。 フリーレンが練り上げた極大の魔力撃が、一直線に空を駆け上がった。
熱波。 衝撃波。 ヒンメルの全身の産毛が、静電気で逆立つ。 死の熱量が、彼のすぐ隣を――物理的な距離にして数ミリの空間を――通り抜けていく。 もし、彼が恐怖で指一本分でも動いていれば、その腕は消し飛んでいただろう。
もし、フリーレンの狙いがわずかでもズレていれば、彼は塵になっていただろう。
だが。 その光は、ヒンメルの蒼い髪の毛先を僅かに焦がしただけで、彼の横を通過した。
そして。 白鯨の大きく開けた口、その中心へと吸い込まれた。
ドッ、ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!
貫通。 防御障壁も、強靭な頭蓋も、再生能力も、すべてを無視した純粋な魔力の暴力。 漆黒の光は白鯨の口と頭の下半分を突き破り、遥か彼方の夜空へと突き抜けていった。