――ァ……?
叫び声を上げる暇さえなかった。 体の下半分を蒸発させられた本体の白鯨は、糸が切れた操り人形のように力を失う。 同時に、上空に展開していた二体の分身が、陽炎のように揺らぎ、音もなく霧散していく。 核を失ったマナの塊が、世界に還っていく。
巨体が、傾いた。 重力に従い、ゆっくりと地上へ落下を始める。 その傍らで、空中に投げ出されたヒンメルもまた、重力に引かれて落下していた。
風切り音。 回転する視界。 遠ざかる夜空と、迫りくる大地。
(……やったか)
ヒンメルは、薄れゆく意識の中で、自分たちが成し遂げた奇跡を噛み締めた。 勝った。 生き残った。 フリーレンの魔法は、やはり最強だった。
「ヒンメル様ッ!!」
落下地点。 蒼い髪のメイドが、両手を広げて駆け寄ってくるのが見えた。 レムだ。 彼女の必死な形相を見て、ヒンメルは少しだけ笑った。 ああ、そうだ。 着地まで、格好をつけなければ。
ヒンメルは空中で体勢を整えると、ふわりと舞い降りるように――実際はレムが絶妙なタイミングで彼を受け止め、勢いを殺してくれたおかげだが――地上へと帰還した。
墜落の地鳴りが止んでも、大気は未だに恐怖を記憶しているかのように震えていた。
リーファウス街道の平原に横たわる巨大な影。かつて空の王者として君臨し、世界を白い絶望で塗り潰してきた魔獣、白鯨。その巨体が大地に墜落した衝撃は、周囲の地形を変えるほどのものだった。舞い上がった土煙と、魔獣の傷口から噴き出す腐臭を帯びた蒸気が混じり合い、視界を白濁させている。
静寂。 それは、あまりにも唐突な決着だった。
直前まで響き渡っていた鼓膜を破るような咆哮も、空間を歪める衝撃波も、今はもうない。ただ、墜落した山のような肉塊が、ごぼり、ごぼりと不快な音を立てて体液を垂れ流している音だけが、生々しく耳に残っていた。
勇者ヒンメルは、荒い息を吐きながら、愛剣を鞘に納めた。 カチン、という硬質な音が、彼自身の正気を繋ぎ止める楔となる。
(……勝った、のか?)
ヒンメルは、自分の足元がおぼつかないことを自覚していた。膝が笑っている。いや、笑っているなどという生易しいものではない。骨の髄まで凍りつくような恐怖の残滓が、彼の脚の筋肉を硬直させ、同時に弛緩させていた。
心臓が、早鐘を打っている。 ドクン、ドクン、ドクン。 その鼓動は、生きている証というよりも、死の淵から這い上がってきた者が鳴らす警鐘のように聞こえた。
もし、フリーレンの魔法があとコンマ一秒遅れていたら。 もし、白鯨の牙があと数センチ深く食い込んでいたら。
脳裏にフラッシュバックする、かつて幾度となく味わった「死」の感触。 それらの記憶が、現実の光景に二重写しになり、ヒンメルの視界を明滅させる。喉の奥から、酸っぱい胃液がせり上がってくる。
(吐くな。ここで吐けば、全てが台無しだ)
ヒンメルは奥歯を噛み締め、脂汗の滲む額を前髪をかき上げる仕草で隠した。 そして、ゆっくりと振り返る。
そこには、心配そうに彼を見上げるメイド服の少女、レムがいた。 彼女の鼻先は、微かにひくついている。ヒンメルの身体から立ち上る、濃厚な「魔女の残り香」を感じ取っているのだ。死の運命を濃縮したようなその悪臭は、レムにとっては耐え難いもののはずだ。それでも彼女は、逃げることなくヒンメルの袖を掴んでいた。
「……ヒンメル様。顔色が、優れません」
レムの声音は、慈愛に満ちていた。彼女だけが知っているのだ。この「勇者」が、どれほど脆弱な精神をすり減らして、虚勢を張っているのかを。
「やれやれ、君には隠し事ができないな、レム」
ヒンメルは、口の端を無理やり吊り上げた。その笑顔は、鏡の前で何千回も練習した、完璧な「勇者ヒンメル」の仮面だ。
「少し、空の旅が激しすぎただけさ。絶叫系のアトラクションは嫌いじゃないが、乗り心地の悪い怪物は御免だね。次はもっと快適な竜車を用意してもらうとするよ」
軽口を叩きながら、ヒンメルは震える手をマントの下に隠した。 レムは何も言わず、ただ強く、彼の手を握り返した。その温もりだけが、ヒンメルを現実に繋ぎ止めていた。
周囲では、呆然としていた討伐隊の面々が、ようやく事態を呑み込み始めていた。 クルシュ・カルステンが、緑の戦旗を掲げて叫ぶ。
「総員、確認せよ! 白鯨は地に伏した! 我々の勝利だ!」
その声が、凍りついた時間を溶かした。 わっと歓声が上がる。抱き合う兵士たち。武器を空に放り投げる傭兵たち。誰もが、生きて帰れることの喜びと、伝説の魔獣を討ち取った興奮に酔いしれていた。
だが、戦いはまだ終わっていない。 それを誰よりも理解している男が、一人、巨体へと歩み寄っていた。
剣鬼、ヴィルヘルム・ヴァン・アストレア。 老剣士の背中は、周囲の歓喜とは無縁の、冷たく鋭い殺気を纏っていた。
墜落した白鯨は、まだ死んではいなかった。 フリーレンの「ゾルトラーク」によって頭部と下顎の半分を消し飛ばされ、核を破壊されたとはいえ、その生命力は異常だった。 ブシュウ、ブシュウと、残った肉片が痙攣し、再生しようと蠢いている。しかし、その再生速度は遅い。フリーレンの魔法が、魔獣の構成術式そのものを破壊し、再生を阻害しているのだ。
ヴィルヘルムは、血に濡れた剣を提げ、巨大な瞳――今はもう光を失いかけている白濁した眼球――の前に立った。
「…………」
十四年。 長い歳月だった。 愛する妻、先代剣聖テレシア・ヴァン・アストレアを奪われてからの日々は、彼にとって灰色の煉獄だった。復讐だけを糧に生き、剣を振り続け、その果てにようやく、この瞬間に辿り着いた。
ヒンメルは、レムに支えられながら、その光景を見守っていた。 声をかけることは野暮だ。これは、ヴィルヘルムという一人の男の、人生の清算なのだから。
(復讐、か……)
ヒンメルは心の中で呟いた。 自分には、復讐したい相手などいない。魔王を倒したのも、世界を平和にしたかったからであり、誰かを憎んだからではない。 けれど、ヴィルヘルムの背中から漂う執念の熱量は、痛いほどに理解できた。 大切な人を奪われる痛み。二度と会えない絶望。 もし、フリーレンがいなくなったら。 もし、彼女が自分の手の届かない場所で、理不尽な死を迎えてしまったら。
想像しただけで、ヒンメルの視界が暗くなる。 おそらく自分も、この老人のように修羅と化すだろう。世界中を敵に回してでも、神の理を捻じ曲げてでも、彼女を取り戻そうとするだろう。
ヴィルヘルムが、剣を構えた。 その構えには、一片の迷いもなかった。老いや衰えを感じさせない、極限まで研ぎ澄まされた剣の理。
「眠れ」
短く、彼は言った。 それは憎悪の言葉ではなく、愛妻への手向けの言葉のように響いた。
「我が妻と共に。……夢の中に」
銀閃が走った。 それは、美しく、儚い一撃だった。 物理的な切断力を超えた、剣鬼の魂の一撃が、白鯨の残った命脈を断ち切る。
ズンッ、と巨体が最期の痙攣を起こし、そして完全に沈黙した。 再生しようと蠢いていた肉芽が崩れ落ち、ただの腐肉へと変わっていく。
同時に、夜空を覆っていた雲が割れた。 月の光が、スポットライトのように老剣士を照らし出す。 彼の足元には、斬り裂かれた白鯨から噴き出した体液が、まるで花弁のように散っていた。
「ヴィルヘルム様!」
クルシュが駆け寄る。兵士たちが、英雄の名を連呼する。 ヴィルヘルムは空を仰いだ。その瞳には、涙が光っていたかもしれない。だが、彼はすぐに表情を引き締め、振り返った。 そして、ヒンメルの方へと歩み寄ってくる。
老剣士は、ヒンメルの前で立ち止まると、深く、静かに頭を下げた。
「……感謝を。ヒンメル殿」
その声は震えていた。
「貴殿がいなければ、私はこの妄執を果たすことはできなかった。貴殿が囮となり、あの娘が地に堕とした。……この老骨に、妻へ報いる機会をくれたことに、私に許される最大限の感謝を」
最上級の謝辞。 剣鬼ヴィルヘルムに頭を下げさせるなど、王族でさえ叶わぬことだ。 だが、ヒンメルはいつものように、大げさに肩をすくめてみせた。
「頭を上げてくれ、ヴィルヘルム殿。僕はただ、自分が一番目立つポジションを選んだだけさ。それに、トドメを刺したのは貴方だ。貴方の剣こそが、あの怪物を葬ったんだ」
嘘ではない。けれど、本心でもない。 ヒンメルは知っている。自分が囮にならなければ、全滅していた未来を。何度も繰り返した死のループの中で、ヴィルヘルムが白鯨に食い殺される光景を見たこともある。 だから、これは奇跡ではない。必然として手繰り寄せた結果だ。
「……貴殿は、真の勇者だ」
「そう言ってもらえると、銅像のポーズを考える励みになるね」
その時だった。 兵士たちの人垣が割れ、一人の少女が歩いてきた。
白い髪。長い耳。小柄な体躯。 手には質素な杖を持ち、その表情は、勝利の熱狂の中にありながら、氷のように冷徹だった。
フリーレン。 かつて魔王を倒した勇者パーティの魔法使いであり、今はヒンメルの記憶を失い、自分が何者かも曖昧なまま戦場に立っていた少女。
彼女の周囲だけ、温度が数度下がっているように感じられた。 兵士たちが、畏怖を込めて道を開ける。 あの一撃。 天を貫き、神話級の魔獣を一撃で粉砕した極大魔法。それは、ルグニカ王国の魔法体系とは根本的に異なる、異次元の破壊力だった。 人々は彼女を英雄として称えるよりも先に、理解不能な「力」への根源的な恐怖を感じていたのだ。
ヒンメルは、近づいてくるフリーレンを見て、ごくりと唾を飲み込んだ。 怒っている。 無表情だが、彼には分かる。彼女は猛烈に怒っている。
フリーレンはヒンメルの目の前まで来ると、無言で立ち止まった。 その瞳は、ヒンメルの全身を――焦げた髪の毛先から、泥だらけのブーツまで――舐めるように観察した。まるで、検品作業を行う職人のような目つきだ。
「……怪我は?」
短く、彼女が問うた。
「ないよ。見ての通り、五体満足だ。君の魔法制御が完璧だったおかげさ」
ヒンメルは両手を広げ、無事さをアピールした。 だが、フリーレンの瞳は揺るがなかった。彼女は一歩踏み出し、ヒンメルの胸元を、細い指でトンと突いた。
「……馬鹿だね」
ポツリと、彼女が言った。
「死ぬところだったよ」
その言葉の響きに、ヒンメルの心臓が跳ねた。 彼女は知らないはずだ。ヒンメルが「死に戻り」できることを。彼がこの場所で既に何度も死んでいることを。 だが、彼女の言葉は、ヒンメルの核心を鋭利な刃物のように突き刺した。
「計算上、君の生存確率は数パーセントしかなかった。私がタイミングを誤れば、君は消滅していた。白鯨の攻撃が少しでも早ければ、君は食われていた。……どうして、あんな無茶なことができるの?」
淡々とした口調。 しかし、その奥底には、理解できない生物を見るような困惑と、微かな――本当に微かな、焦燥が含まれていた。
記憶を失っていても、彼女の魂は覚えているのかもしれない。 ヒンメルを失うことへの、根源的な恐怖を。
ヒンメルは、苦笑いを浮かべた。
「勇者だからね。仲間のために命を賭けるのは、職業病みたいなものさ」
「……理解できない」
「理解できなくていいさ。結果として、僕たちは勝った。誰も死なずに済んだ。それが全てだよ」
そう言って、ヒンメルはフリーレンの頭に手を伸ばそうとした。 いつものように、彼女を撫でてやりたかった。 よくやったね、と。君のおかげだ、と。
だが、その手が彼女の頭に触れる直前、フリーレンが動いた。 彼女は自ら、ヒンメルの伸ばしかけた手に、自分の額を押し付けたのだ。
「……?」
ヒンメルが目を見開く。 その瞬間だった。
ドクンッ。
世界が、再び脈打った。 しかし、それは先ほどの白鯨が見せた、不気味な肉の鼓動ではない。 もっと清浄で、もっと力強く、そしてどこか懐かしい、魔力の波動。
フリーレンの体から、淡い光が溢れ出した。 それは七色に輝くマナの奔流となって、周囲を包み込んでいく。
「あ……」
レムが、小さく声を上げた。 あたり一面を覆っていた、白鯨の霧。 視界を遮り、人々の記憶を食らい、存在を消滅させる呪いの霧。 それが、フリーレンの光に触れた端から、急速に晴れていく。
風が吹いたわけではない。 物理的に吹き飛ばされたのでもない。 それは、概念的な浄化だった。 「忘却」という現象に対して、「記憶」という歴史を上書きするかのような、圧倒的な存在証明。
フリーレンの触れているヒンメルの手から、温かい何かが流れ込んでくるのを、ヒンメルは感じた。 それは魔力であり、感情であり、そして記憶だった。
――視界が、白く染まる。
(これは……)
ヒンメルの脳内に、映像が雪崩れ込んでくる。 それは、彼自身のものでありながら、彼のものではない記憶。 フリーレンの視点から見た、旅の記憶だ。
蒼月草の花畑。 一面の青に囲まれて、幼い日のヒンメルが笑っている。 『綺麗だろう? 故郷の花なんだ』
ダンジョンの暗闇。 フリーレンに言われるままに宝箱を開け、ミミックに噛まれて半泣きになっているヒンメル。 『助けてくれ!フリーレン』 『……置いていくよ、ヒンメル』
そして、くだらない日常の数々。 変な味のかき氷を食べさせられて顔をしかめるハイター。 斧の手入れをしながらブツブツ言っているアイゼン。 鏡を見て髪型を気にしている、ナルシストな勇者。
それら全てを、少し離れた場所から、呆れたように、でも温かい眼差しで見つめている自分がいる。 時が経つのが早すぎて、人間の寿命が短すぎて、戸惑っているエルフの少女がいる。
大切だったのだ。 くだらなくて、騒がしくて、面倒くさい、あの十年の旅路が。 人間の、ほんの瞬きのような時間が。 悠久の時を生きる彼女にとって、それは魂に刻まれた、決して消えない黄金の輝きだった。
白鯨の霧は、「存在」を消す権能を持つ。 誰からも忘れ去られ、世界から爪弾きにされる孤独。 だが、フリーレンの魔力はそれを拒絶した。 彼女の中にあるヒンメルへの想い。無自覚で、重く、そして深すぎる執着が、白鯨の呪いを凌駕したのだ。 彼女は決して忘れない。たとえ世界がヒンメルを忘れても、彼女だけは彼を覚えていたい。その強烈なエゴが、霧を霧散させた。
光が収束する。 周囲の景色が、鮮明さを取り戻す。 夜空には満天の星。月が、静かに彼らを照らしている。
フリーレンが、顔を上げた。 その緑色の瞳に、光が戻っている。 冷徹な観察者の目ではない。 眠たげで、ドライで、でもどこか優しい、いつもの彼女の目だ。
彼女はまじまじとヒンメルの顔を見た。 まるで、数十年ぶりに再会したかのように。あるいは、長い夢から覚めて、一番最初に見たいものを見つけたかのように。
「……戻った、のかい?」
ヒンメルが、恐る恐る尋ねた。 フリーレンは答えなかった。 ただ、ゆっくりと杖を取り落とした。 カラン、と乾いた音が砂利道に響く。
彼女の小さな両手が、ヒンメルの腰に回された。 そして、彼女は顔をヒンメルの胸に埋めた。
「…………」
布越しに、彼女の体温が伝わってくる。 微かに震えているのが分かった。
「フリーレン?」
「……怖かった」
消え入りそうな声だった。
「何も覚えていないことが、怖かったんじゃない。……君のことを、思い出せないことが、怖かった」
それは、彼女が初めて吐露する弱音だった。 常に合理的で、感情の起伏が少ないエルフ。そんな彼女が、記憶を失っている間、ずっと抱えていた空白。 ヒンメルという存在が欠落した世界は、彼女にとって色彩のない灰色の荒野だったのだ。
ヒンメルは、胸が締め付けられるような愛おしさを感じた。 ああ、報われた。 何度死んでも、何度肉体を引き裂かれても、この一言で全てが帳消しになる。 彼女が自分を想ってくれていた。それだけで、自分はこの異世界(じごく)で戦い続けることができる。
「そうか」
ヒンメルは、優しく彼女の背中に手を回し、抱きしめ返した。 蒼い髪が、夜風に揺れる。
「僕はここにいるよ。どこにも行かない。……君が望む限り、ずっとね」
それは呪いの言葉だ。 死ねない体を持つ彼にとって、それはもしかしたら永遠の束縛を意味するのかもしれない。 だが、今はその嘘さえも美しく響いた。
フリーレンは、ヒンメルの胸に顔を埋めたまま、ぐす、と鼻をすすった。 そして、顔を上げる。 その目じりには、涙の粒が光っていた。
彼女は、泣き笑いのような、不器用な表情を浮かべて言った。
「……ただいま、ヒンメル」
その言葉は、勝利の歓声よりも、白鯨の断末魔よりも、強く、深く、ヒンメルの心に刻まれた。 霧は晴れた。 世界は再び、残酷で美しい時を刻み始める。
ヒンメルは、涙を指で拭ってやりながら、月光よりも眩しい笑顔で答えた。
「おかえり、フリーレン」
少し離れた場所で、レムがその光景を見ていた。 彼女は、胸に手を当て、小さく安堵の息をついた。 ヒンメルから漂う「死の匂い」は、まだ消えていない。むしろ、フリーレンが記憶を取り戻したことで、その匂いはより一層、甘く、濃密になったようにさえ感じられた。 それは、決して解けない呪縛の香り。
(……ヒンメル様)
レムは思う。 この優しい英雄が、いつかその重荷に押し潰されてしまわないように。 自分が、支えなければならないと。
戦場に、穏やかな夜風が吹き抜けていく。 蒼月草の幻影が、風に乗ってどこかへ飛んでいくのが見えた気がした。