夜の森は、死の臭いが充満していた。 腐った土、湿った苔、そして鉄錆のような血の臭い。それらが混然となって、リーファウス街道沿いの深い森を支配している。 勇者ヒンメルは、愛剣を振るい、目の前の虚空を薙いだ。 剣先が何か硬質な空気に触れ、火花のような魔力の残滓が散る。
「……やれやれ。姿が見えないというのは、戦う僕の美しさを引き立てるのには不足していて困るね」
ヒンメルは、額に滲む汗を拭う素振りを見せながら、不敵に微笑んだ。 月明かりに照らされた彼の横顔は、絵画のように整っている。その立ち姿には、微塵の隙もないように見えた。 だが、その内実は張り詰めた糸のように脆い。
(……今のは、危なかった)
心臓が、早鐘を打っている。 肋骨の内側で、恐怖という名の冷たい塊が暴れ回っている。 見えない腕。「見えざる手」と奴が呼んだ攻撃は、殺意そのものが物理的な質量を持ったかのような代物だった。 風切り音もしない。殺気すら希薄だ。ただ、理不尽な「死」が唐突に迫ってくる感覚。
「ヒンメル様!」
レムの悲痛な叫び声が、ヒンメルの意識を現実に引き戻した。 モーニングスターの鎖が唸りを上げ、ヒンメルの背後に迫っていた教徒の頭蓋を粉砕する。 彼女の鬼気迫る表情。 その瞳には、ヒンメルへの心配と、敵への激しい憎悪が渦巻いている。
「助かるよ、レム。君の愛のある援護のおかげで、僕の美貌は保たれたわけだ」 「軽口を叩いている場合ではありません! ……奴の気配が、おかしいのです」
レムが鼻をひくつかせ、森の奥を睨む。 先ほど、ヒンメルたちが連携して追い詰め、フリーレンの魔法で吹き飛ばしたはずの男、ペテルギウス・ロマネコンティ。 その体は確かに動かなくなり、地面に転がっているはずだった。 だが。
「……素晴らしい。素晴らしいデス! 肉の器が壊れても、愛は決して滅びない! そう、愛は不滅! 勤勉なる愛は、魂と共に在り続けるのです!!」
声が、聞こえた。 倒れた死体からではない。 まったく別の方向。木々の陰に潜んでいた、黒装束の教徒の一人からだ。 その教徒は、ゆっくりとフードを脱ぎ捨てた。 顔立ちは平凡な男だ。しかし、その表情筋の使い方は、先ほどの狂人そのものに変貌していた。 眼球が飛び出しそうなほどに見開き、口角を耳まで裂けんばかりに吊り上げる。 そして、自らの指を噛みちぎりながら、狂喜の声を上げた。
「あァァァ! 脳が! 脳が震えるぅぅぅぅ!!」
ヒンメルの背筋に、氷柱を差し込まれたような悪寒が走る。 なんだ、あれは。 奴になりきっているのか? いや、違う。 まるで、乗り移ったような。
「憑依……魂の転写か。……趣味が悪い」
隣に立つフリーレンが、不快そうに吐き捨てた。 彼女の杖の先には、幾何学的な魔法陣が展開されたままだ。その翠緑の瞳は、敵の構成を冷静に解析している。
「術式じゃない。もっと原始的で、呪いに近い強制力。……あの集団全体が、予備の体として機能している」
フリーレンの言葉を裏付けるように、森のあちこちから、同様の気配が立ち上った。 十人。いや、二十人か。 黒装束の「指先」たちが、一斉に奇妙な動きを始めた。 彼らは個々の意識を失い、統一された狂気によって統率されているようだった。
「アナタ方は、私の指先から逃れることはできません! さあ、愛を受け入れなさい! 福音を! 試練を! 魔女の寵愛を!!」
指先たちが一斉に襲いかかってくる。 短剣を構えた者、魔法を詠唱する者。そして何より厄介なのが、四方八方から伸びてくる「見えざる手」だ。 戦場は、一瞬にして混沌の坩堝と化した。
「くっ……!」
ヴィルヘルムが老練な剣技で教徒を切り伏せる。 ミミとヘータローが小さな体を弾丸のようにし、敵陣を掻き回す。 だが、敵は死を恐れない。 どれだけ傷つけようと、手足が千切れようと、彼らは笑いながら突っ込んでくる。 そして、ペテルギウスの意識は、次々と別の肉体へと飛び移っていくのだ。
「キリがないぞ……!」
ヒンメルは剣で教徒の短剣を受け流し、その腹に蹴りを入れた。 教徒が吹き飛ぶが、すぐに立ち上がろうとする。 殺せばいい。 首を刎ねれば、動かなくなる。 だが、ヒンメルの剣は、致命傷を避けていた。
「……できるだけ殺すな! 無力化するんだ!」
ヒンメルは叫んだ。 それは、戦術的な判断というよりも、彼の魂の叫びだった。 彼らは、狂信者だ。罪のない人々を殺し、エミリアを狙う悪党だ。 それでも、元は人間だ。 魔族とは違う。言葉が通じるはずの相手だ。 勇者ヒンメルは、人間を殺さない。 少なくとも、殺したくない。 人の命を奪うことを取りうる選択肢の一つに入れてしまえば、自分が本当に「化け物」になってしまう気がした。 ただでさえ、自分の体は死に戻りを繰り返し、人間としての枠組みから外れつつあるのだ。 精神まで怪物に堕ちるわけにはいかない。
「ヒンメル様、ですが!」
レムが悲鳴のような声を上げる。 手加減をして戦える相手ではない。 教徒の一人が、自爆覚悟で炎の魔法を放った。 熱波がヒンメルのマントを焦がす。
「おやおやァ! 甘い! 甘いデスねぇ! その優しさ、その怠惰な慈悲! それこそが魔女への冒涜! アナタは、救いようがないほどに傲慢だ!」
憑依された教徒が、嘲笑いながら見えざる手を放つ。 不可視の拳が、ヒンメルの脇腹を抉る――その寸前。
キィィィン。
硬質な音が響き、見えざる手が弾かれた。 六角形の防御結界。 フリーレンだ。
「……ヒンメル」
彼女の声は、戦場の喧騒の中でも、冷たい水のように澄んで聞こえた。 振り返ると、フリーレンがふわりと宙に浮いていた。 重力から解き放たれたその姿は、月を背負って、幻想的なまでに美しい。 だが、その瞳は、底冷えするほどに冷徹だった。
「指示が矛盾してる。無力化しろと言いながら、敵は死ぬ気で向かってくる。……効率が悪い」
彼女は杖を横に薙いだ。 それだけで、襲いかかろうとしていた教徒数人が、突風に煽られて吹き飛んだ。
「でも、ヒンメルがそうしたいなら、そうする」
フリーレンが、空中で杖を高く掲げた。 膨大なマナが、彼女を中心に渦を巻く。 この世界の大気中のマナとは異なる、彼女自身が練り上げた、高純度で洗練された魔力。
「面倒くさい。全部、縛るよ」
彼女が杖を振り下ろした瞬間、森が光に包まれた。
――広範囲拘束魔法(アゼリューゼ)。
地面から、黄金色の光の鎖が無数に噴出した。 それは蛇のようにうねり、的確に教徒たちの手足を絡め取っていく。 物理的な鎖ではない。魔力によって編まれた、概念的な拘束具だ。 教徒たちが藻掻くが、動けば動くほど、鎖は食い込み、彼らの自由を奪っていく。 見えざる手さえも、その光の檻の中に封じ込められたようだった。 魔法というよりも、それは強制的なルールの書き換えに近い。 「この空間では、誰も暴力を振るえない」という理を、彼女が一方的に押し付けたのだ。
一瞬にして訪れた静寂。 森に展開していた二十人近い「指先」たちが、一網打尽にされ、木の幹や地面に縫い留められていた。
「バ……馬鹿な……ッ!」
指先の一人――現在ペテルギウスが憑依している男――が、愕然として空を見上げた。 彼は必死に身をよじるが、光の鎖はピクリとも動かない。 マナの干渉を受け付けないはずの権能さえも、物理的に封じられ発動できない。
「これは……魔法? いいえ、ありえません! これほどの規模、これほどの精度! 精霊の加護もなく、たった一人でこれだけの術式を構築するなど……!」
ペテルギウスの目が見開かれ、血走った眼球がフリーレンを凝視する。
「アナタ……何者デスか!? その力、その異質な魔力! アナタもまた、魔女の寵愛を受けた……いや、それにしては臭わない! アナタは何だ! 神の真似事でもするつもりですか! 傲慢ですかァ!?」
狂人の絶叫が森に木霊する。 フリーレンは、ゆっくりとヒンメルの隣に降り立った。 音もなく、重さを感じさせず。 彼女は杖を下ろし、無表情のままペテルギウスを見据えた。
「ただの魔法使い」
淡々とした声。 だが、彼女はそこで言葉を切り、ちらりと横にいるヒンメルを見た。 その瞳に、一瞬だけ、柔らかな光が宿る。 彼女は再びペテルギウスに向き直り、言い直した。
「……違うな。私は、勇者ヒンメルの魔法使い、フリーレンだ」
その言葉は、どんな詠唱よりも力強く、ヒンメルの胸を打った。 彼女は自分を「勇者一行の一員」として定義したのだ。 千年を生きるエルフにとって、人間の一生など瞬きのようなものかもしれない。 けれど彼女は今、その瞬きの中に、自分の居場所を見つけている。
(ああ……まったく)
ヒンメルは、こみ上げてくる熱いものを感じながら、精一杯のキザな笑みを浮かべた。
「聞いたかい、狂信者くん。彼女は僕の自慢の仲間でね。少々手厳しいところもあるが、腕は確かだ。君のような独りよがりな連中には、少々荷が重かったようだね」
勝負はついた。 そう思った。 だが、彼らは「言葉の通じる相手」ではなかった。
「フ……フフフ」
拘束されたペテルギウスの口から、低く粘着質な笑い声が漏れた。
「勇者……魔法使い……。ええ、ええ、素晴らしい絆デスね。愛デスね。ですが!」
バキリ。
嫌な音がした。 ペテルギウスが憑依した男の腕が、ありえない方向に曲がったのだ。
「なっ……!?」
ヒンメルが息を呑む。 男は、光の鎖に拘束された腕を、自らの筋力だけでねじ切ろうとしていた。 骨が砕け、肉が裂ける音が、静まり返った森に響く。 痛みなど感じていないかのように、男の顔は恍惚に歪んでいる。
「この程度! この程度の戒めで、我が勤勉なる愛が止まるとでもォォ!!」
ブチリッ!!
鮮血が噴き出した。 ペテルギウスは、自らの左腕を肩口から引きちぎり、拘束から抜け出したのだ。 狂気。 純度百パーセントの狂気が、そこにあった。 フリーレンの目が見開かれる。彼女の論理的な思考回路では、この行動は予測できなかっただろう。自分の体を破壊してまで脱出するなど、生物としての生存本能に反している。
「愛! 愛愛愛愛愛!!」
片腕を失い、血を撒き散らしながら、ペテルギウスは森の奥へと駆け出した。 その速度は、手負いとは思えないほどに速い。
「逃がすものか!」
誰よりも早く反応したのは、ヒンメルだった。 彼は地面を蹴り、ペテルギウスを追った。 体は悲鳴を上げている。 先ほどの戦闘の疲労、死の記憶による精神的な摩耗。 走るたびに、内臓が揺れ、吐き気がこみ上げる。
だが、彼の足は止まらない。 ここで彼を逃せば、必ずエミリアの元へ行く。 村の人々を、屋敷の住人を、虐殺しに行く。
「待てぇぇぇッ!」
ヒンメルは、死に物狂いで加速した。 勇者ヒンメルは、諦めない。 勇者ヒンメルは、誰も見捨てない。 それが、ただの虚勢であっても、演じ続ける限り、それは真実になる。 真実にする。
フリーレンが背後で何か魔法を放とうとする気配がした。 だが、木々が射線を遮っている。 追いつけるのは、僕だけだ。
ペテルギウスの背中が見える。 男は狂ったように笑いながら、屋敷の方角へ走っている。 ヒンメルは、最後の力を振り絞り、跳躍した。
流れるような剣閃。 彼の剣は、ペテルギウスの両足を、膝の裏から綺麗に薙ぎ払った。
「アギィッ!?」
ペテルギウスが前のめりに倒れ込む。 足の腱を断たれ、もはや立つことはできない。 男は地面を這いずり、泥にまみれながら、それでも前に進もうとした。
「まだだ……まだ、試練は……愛は……」
ヒンメルは、荒い息を整えながら、男の前に回り込んだ。 剣先を、男の喉元に向ける。 手は震えていた。 恐怖ではない。怒りと、哀れみで、震えていた。
「……終わりだ」
ヒンメルは静かに告げた。 月光が、二人の影を長く伸ばしている。 血に濡れ、泥にまみれ、手足を失った狂人。 そして、煌びやかなマントを纏いながらも、その仮面の下でボロボロに傷ついている勇者。
「答えてくれ。……何のために、こんなことをする?」
素朴な疑問だった。 魔王軍には、彼らなりの理屈があった。 人類を支配するという目的があった。 だが、こいつらは何だ? 破壊と殺戮の果てに、何を求めているんだ?
ペテルギウスは、充血した目でヒンメルを見上げた。 その顔には、苦痛の色はない。 あるのは、どこまでも澄んだ、狂気の悦楽だけ。
「愛!」
彼は叫んだ。 血泡を吹きながら、この世で最も尊い言葉を、最も汚らわしい響きで叫んだ。
「愛のためデス! すべては魔女への! サテラ様への! 勤勉なる愛の証明のために! 私は! 私たちは! 愛に報いるために存在するのデスゥゥ!!」
森の空気が、凍りついたようだった。 会話が成立していない。 言葉は同じなのに、意味が決定的に乖離している。
ヒンメルは、ゆっくりと目を伏せた。 怒りは消えていた。 代わりに胸を満たしたのは、底なしの虚無感と、哀れみだった。
「……それが、君の愛か」
ヒンメルは呟いた。 彼にとっての愛とは、もっと静かで、温かいものだ。 フリーレンが魔法を研究する横顔を見守ること。 レムが淹れてくれた紅茶を飲むこと。 誰かの幸せのために、自分の命を削ること。 相手に見返りを求めず、ただ相手が笑ってくれることを願うこと。
だが、この男の愛は違う。 一方的で、暴力的で、相手のことなど何一つ見ていない。 それは、愛という名の呪いだ。
「……独りよがりで、寂しい愛だね」
ヒンメルの言葉に、ペテルギウスの動きが止まった。 理解できなかったのか、あるいは、その言葉の奥にある真実が、彼の狂気の核に触れたのか。
「哀れだ」
ヒンメルは剣を振り上げた。 これ以上、この男に言葉を費やす必要はない。 それは、勇者としての慈悲だった。 狂った愛に囚われ、永遠に満たされることのない地獄を彷徨う魂を、終わらせてやること。
「眠りたまえ。……その歪んだ愛と共に」
銀閃が走る。 それは、狂人への葬送の光となって、闇を切り裂いた。