ゼロから始める葬送のフリーレン   作:西方物理

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勇者であるということ

 

 夜の闇に沈む森は、死と暴力の残り香でむせ返るようだった。  

腐葉土の湿った匂い、折れた木々の樹液の青臭さ、そして辺り一面に撒き散らされた鉄錆のような血の臭気。それらが混然一体となって、リーファウス街道沿いの大気を重く淀ませている。  狂気的な喧騒は、唐突に断ち切られた糸のように途絶えていた。  雲の切れ間から覗いた月光が、静寂を取り戻した凄惨な戦場を青白く照らし出す。  勇者ヒンメルが振り抜いた愛剣の切っ先から、一雫、どす黒く粘ついた血が滴り落ち、地面の草葉を汚した。

 ヒンメルの足元には、もはや原形を留めぬほどに破壊された肉塊が転がっている。  四肢を失い、腹部を切り裂かれ、それでもなお何かを掴もうとするかのように指を痙攣させていた男――魔女教大罪司教『怠惰』担当、ペテルギウス・ロマネコンティ。  正確には、彼が憑依していた「指先」と呼ばれる教徒の成れの果てだ。  その口元には、最期まで浮かべていた恍惚とした、見る者の生理的嫌悪を催させる歪んだ笑みが張り付いたまま硬直している。  終わった。  物理的な肉体を巡る攻防は、確かにここで幕を下ろしたはずだった。

「……ふぅ」

 ヒンメルは短く、熱い息を吐き出した。  

剣についた血糊を無造作に振るい、鞘に納める動作をする。手が震えて鯉口に一度で納まらず、カチャリと金属音が鳴ったが、彼は強引にそれを押し込んだ。  月明かりの下、彼は乱れた蒼い髪をかき上げ、自分を見つめる仲間たちに向けて口角を上げる。精一杯の、勇者らしい不敵な笑みを作るために。

「やれやれ。手こずらせてくれたね。だが、最後に立っているのが僕である以上、この結末は必然だ。どんなに狂気に満ちた相手でも、勇者ヒンメルの輝きを曇らせることはできないからね」

 その声は朗々としており、夜の森に凛と響いた。

微塵の揺らぎもない、完璧な英雄の声色だ。  

しかし、その仮面の内側で、ヒンメルの肉体は悲鳴を上げていた。いや、悲鳴すら上げられないほどに摩耗しきっていた。  わき腹には打撲の鈍痛が走り、呼吸をするたびに折れたあばら骨が肺を突き刺すような痛みが走る。全身の筋肉は過度な緊張の反動で痙攣しそうになり、それを意思の力だけで無理やり抑え込んでいる状態だ。立っているだけで、意識が飛びそうになる。  だが、肉体的な苦痛など、今の彼にとっては些末な問題に過ぎなかった。  何より、精神が焼き切れそうだ。  脳髄の奥底にこびりついた、直前の「死」の記憶が、幻覚となって視界を明滅させている。それらの記憶が、フラッシュバックとして絶え間なく襲いかかってくる。  

勝ったのではない。  

負け続けて、死に続けて、間違った選択肢を一つずつ潰して、ようやくたどり着いた「正解」という名の薄氷の上に立っているだけだ。  

この勝利は、積み上げられた僕の死体の上に成り立っている。  吐き気がした。胃の中身をすべてぶちまけてしまいたい衝動に駆られる。  だが、それを表に出すわけにはいかない。  

僕は勇者だからだ。皆の希望でなくてはならない。恐怖に震える民衆を、そして何より、仲間たちを安心させるための灯火でなければならないのだ。

「ヒンメル様……」

 悲痛な声とともに、レムが駆け寄ってくる。  

彼女の蒼い髪は乱れ、メイド服のあちこちが破れ、泥と返り血で汚れていた。  その瞳は潤んでおり、先ほどまでの鬼気迫る戦いぶりとは裏腹な、年相応の少女の顔を覗かせていた。  彼女には分かってしまうのだろう。  

彼女の鋭敏な嗅覚は、ヒンメルが纏う「魔女の残り香」が、死ぬたびに濃くなっていることを知っている。  そして、その笑顔が、今にも崩れ落ちそうな硝子細工であることを、彼女だけが察している。

「怪我はありませんか? 顔色が……血の気がありません」

「心配ないよ、レム。少し運動が過ぎただけさ。君の可憐な顔を曇らせるほどの傷なんて、僕には似合わないだろう? それに、君が守ってくれたおかげで、致命傷は避けられた」

 ヒンメルは強がって、レムの頭に手を置こうとした。  その時だった。  足元に転がる男の死体から、異質な、ねっとりとした気配が立ち上った。

『愛……愛愛愛愛愛……!』

 物理的な音波ではない。脳内に直接響いてくる、怨念と執着が凝縮された、魂の絶叫。  死体から滲み出るようにして、赤黒い靄のようなものが浮かび上がった。  それは形を持たない不定形のエネルギー体でありながら、明確な悪意を持ってヒンメルを見据えていた。

『まだデス……! まだ終わりではありません! 私の肉体は滅びても、勤勉なる愛は滅びない! ならば、アナタの体を! その傲慢なる勇者の器を、新たな指先として使い潰して差し上げましょう!!』

 ペテルギウスの魂が、ヒンメルに向かって殺到する。  実体のない精神体。剣では斬れない。物理攻撃は通用しない。  ヒンメルの背筋に、かつてない悪寒が走った。  

――乗っ取られる。  

死に戻りの苦痛とは違う、自我そのものを蹂躙され、内側から食い破られる根源的な恐怖。  避けられない。反応速度の問題ではない。精神の領域への侵略だ。  ヒンメルが歯を食いしばり、その侵入を精神力だけで拒絶しようと身構えた、その瞬間だった。

「……無駄だよ」

 冷徹で、どこか呆れたような声とともに、ヒンメルの目の前に幾何学的な翠緑の障壁が展開された。  

フリーレンだ。  

彼女はいつの間にかヒンメルとペテルギウスの魂の間に割って入り、杖を突き出していた。  その瞳は、顕微鏡で珍しい微生物を観察するかのように冷たく、解析的だ。

『な、何デスかァ!? これは……邪魔をするなァ! 私は、その男の体を……!』

 ペテルギウスの魂が、見えない壁に衝突し、霧散しかける。  だが、フリーレンが彼を消したのではなかった。  彼女は、ただ「解析」しただけだ。  そして、淡々と事実を告げる。

「入る隙間なんて、ない」

『……何、を……?』

「お前のその精神転移魔法、構造自体は興味深いよ。対象の魂の防壁をこじ開けて、自我を上書きする術式だね。この世界のマナの理に則った、原始的だけど強力な呪いだ」

 フリーレンは杖の先で、空中に浮かぶペテルギウスの魂の靄を指し示した。  彼女の口調は、魔法の講義をする老練な教師のそれだった。

「でも、ヒンメルの体には、お前なんかよりずっと巨大で、ずっと根深い『何か』が既に満ちている」

 フリーレンの瞳が、一瞬だけ鋭く細められた。  彼女はヒンメルの背中越しに、彼を取り巻く目に見えない力の奔流を視ていた。  それは、常人には知覚できない、だが魔力を知覚できる者にとってはあまりにも異質な「固定化」の呪い。

「ヒンメルの魂と肉体は、何者かの途方もない魔力によって、『ヒンメルという存在であり続けること』を強制されているのさ」

 ドキリ、とヒンメルの心臓が早鐘を打つ。  フリーレンは、気づいているのか。  自分が「死に戻り」をしている事実に。  

いや、違う。

彼女は「魔力の作用」を解析しているだけだ。  ヒンメルを縛り付けている、正体不明の力の正体を。

「これは呪いというより、もっと純粋で質(タチ)の悪い……『執着』の塊だね。なんにせよ……お前のちっぽけな魂が入り込む余地なんて、ミジンコ一匹分も残されていないよ」

『バ、馬鹿な……! ありえない! 私の勤勉さが、愛が、弾かれるだとォ!? この男は……この器は一体何なんデスかァァ!!』

 ペテルギウスが絶叫する。  彼の魂は、ヒンメルという堅牢な要塞の前で、行き場を失い彷徨っていた。

「飽和状態の器に水を注げば、溢れるのは当然。……そして、溢れた魂(マナ)は、霧散するだけ」

 フリーレンが、コトンと杖で空気を叩く動作をした。  瞬間、ペテルギウスの魂を包囲していた空間に、無数の光のラインが走る。  魔力による強制的な分解コード。

「消えなよ。ここに、お前の居場所はない」

『や、やめろォ! 私は! 私は魔女に愛を! サテラ様にィィ!!』

 断末魔の叫びは、光の中に飲み込まれて消えた。  赤黒い靄は粒子となって四散し、夜の闇に溶けて完全に消滅する。  後に残ったのは、ただ静寂と、森を渡る風の音だけ。  ペテルギウス・ロマネコンティという存在が、この世界から完全に消え去った瞬間だった。

「……ふうん。やっぱり、この世界の魔法は少し大味だね」

 フリーレンは何事もなかったかのように呟くと、くるりと振り返った。  その表情はいつもの無愛想なままだ。

「ヒンメル。……大丈夫?」

 そう問いかける彼女の声色にだけは、わずかな揺らぎがあった。  彼女は、ヒンメルを凝視する。  その「固定された魂」の異様さを、彼女は本能的に感じ取っている。  

「ああ、助かったよフリーレン。君の魔法解説はいつ聞いても勉強になるね。僕の体がそんなに『満員御礼』だとは知らなかったよ」

 ヒンメルは軽口を叩いて、精一杯のウィンクを投げかける。  冷や汗が背中を伝うのを悟られないように。

「……茶化さないで。ヒンメルの体、マナの流れが滅茶苦茶だよ。外側は綺麗に治ってるように見えるけど、内側では何かが複雑に絡まってるようだ」

 フリーレンは不満げに唇を尖らせながらも、ヒンメルのそばに歩み寄った。  そして、その小さな手をヒンメルの背中にそっと当てる。  じんわりと、温かい魔力が流れ込んでくる。  それは、乱れたヒンメルの生体電流を整え、痛みを麻痺させる優しい魔法だった。

(……皮肉だな)

 ヒンメルは心の中で苦笑する。この無限の地獄(ループ)をだれよりも深く解き明かせるはずの君に、その事実を告げることはできない。  知れば、君は傷つく。  自分の見えないところで僕が苦しんでいると知れば、動揺し、この呪いを何とかしようとするだろう。  でも、この呪いは、僕の武器なのだ。この愛しい不器用な魔法使いを異世界で守るために、僕だけが使える勇者の剣なのだ。

「ありがとう、フリーレン。君の手は、いつだって温かいな」

「……真面目に聞いてるの?」

 フリーレンは少しむっとした顔をして、その手を離した。そして、負傷者を治療するために踵を返す。

ああ、よかった。そう思ったときに、景色がぐらっと揺れた。

「ヒンメル様!」

 レムが体を寄せてくる。  彼女はヒンメルの脇の下に自分の体を滑り込ませ、ぐらつく体を一身に支えようとした。  小柄な彼女のどこにそんな力があるのかと思うほど、その支えは力強く、そして献身的だった。

「もう、限界ですよね。……足が、笑っています」

 レムが小声で囁く。  彼女にだけは、隠し通せない。  緊張の糸が切れ、ヒンメルの膝はガクガクと震えていた。立っているのがやっとの状態だ。

「……すまない、レム。少しだけ、肩を借りてもいいかい? 勇者らしくない姿を見せてしまうけど」

「謝らないでください。……貴方がどれだけ傷ついて、どれだけ無理をして立っているか、レムにはわかっています。だから、今は……レムに甘えてください」

 レムの声は震えていた。  彼女の鼻先を掠める甘い香りが、死臭の漂う戦場で唯一の救いのように感じられた。  彼女は、ヒンメルが抱える「死」の重さを、感覚的に共有している唯一の理解者だ。  彼女のぬくもりが、凍りついたヒンメルの心を少しだけ現世に引き戻してくれる。

「さあ、行こうか。……帰ろう」

 ヒンメルはレムに支えられ、フリーレンに見守られながら、重い一歩を踏み出した。  闇の向こうに、かすかに屋敷の灯りが見えるはずだ。  そこには、彼が守りたかったもう一人の少女が待っている。

          ***

 ロズワール邸への帰路は、奇妙なほど静寂に包まれていた。  森の木々は鬱蒼と茂り、先ほどの戦闘の余韻を残すように、時折ざわざわと葉を揺らしている。  ヒンメルは一歩歩くたびに、全身に走る激痛と戦っていた。  精神的な摩耗は限界を超えている。  ふと気を抜けば、意識が暗転しそうだ。だが、ここで倒れるわけにはいかない。  エミリアに、安心した顔を見せるまでは。

 ふと、隣を歩くレムが、遠慮がちに口を開く。

「ヒンメル様。……あの、先ほどの狂人たちが言っていたことですが」

「魔女教のことかい?」

「はい。彼らは、魔女の寵愛を……その、匂いを頼りに標的を定めていると言っていました」

 レムは言い淀む。  彼女にとって、その「匂い」はかつてヒンメルに向けた殺意の理由であり、今は最大の自責の種となっていた。  彼女は知っているのだ。ヒンメルから漂う匂いが、ただ事ではないことを。

「気にすることはないよ。僕が魅力的すぎて、魔女とやらも放っておけないんだろう。有名税というやつさ」

「……茶化さないでください。私は、怖かったのです。ヒンメル様が、彼らの標的になって、傷ついて……もし、取り返しのつかないことになったらと。……私の姉様のように、何かを奪われてしまったらと」

 レムの声が湿り気を帯びる。  ヒンメルは立ち止まり、彼女の肩に置いた手に少しだけ力を込めた。  彼女の震えが伝わってくる。  彼女もまた、失う恐怖と戦っていたのだ。

「レム。僕はここにいる。君が守ってくれたおかげで、こうして五体満足だ」

(……五体満足、か。皮肉なものだね)

 心の中で自嘲する。  本当は、何度も首を落とされ、体を裂かれ、凍らされ、焼かれている。  僕の体は、ツギハギだらけの時間の集積だ。  だが、今の「ここ」にいる僕は、生き延びた。 この世界において、僕は君に守られた。 それは紛れもない真実だ。

「ありがとう、レム。君がいてくれてよかった。君がいなければ、僕はとっくに心が折れていたかもしれない」

 ストレートな感謝の言葉に、レムは耳まで赤くして俯いた。  彼女の瞳に、涙が溜まる。

「……ヒンメル様はずるいです。そんな風に言われては、レムは……レムは一生、貴方にお仕えするしかなくなってしまいます」

「それは光栄だね。世界一のメイドに仕えてもらえるなんて、勇者冥利に尽きるよ」

「……ヒンメルのそういうところ、本当に変わらないね」

 後ろを歩いていたフリーレンが、呆れたような、それでいてどこか安心したような声を出した。  彼女は周囲を警戒しつつ、時折ヒンメルの方を気遣うように視線を投げている。  その表情は読み取れないが、彼女が離れずにいてくれること、それが何よりの答えだった。

 やがて、木々の向こうに屋敷の明かりが見えてきた。  その暖かなオレンジ色の光を見た瞬間、ヒンメルは大きく息を吐いた。  帰ってきた。  あの地獄のループを抜けて、誰も死なない、誰も泣かない結末へ。

 屋敷の正門前には、すでに避難を終えたアーラム村の村人たちが集まっていた。  不安そうな顔をした彼らは、森から現れたヒンメルたちの姿を認めると、一様に安堵の声を上げた。  そして、その先頭に立つ人物が、こちらに気づいて駆け寄ってくる。  桃色の髪のメイド、ラムだ。

「レム! それに、ヒンメル様!」

 ラムは普段の冷静さをかなぐり捨てたような早口でまくし立てた。  彼女の淡紅色の瞳が、レムの無事を確認して安堵に揺れ、次にボロボロのヒンメルを見て鋭く細められる。

「姉様……!」

「無事ね、レム。……まったく、共感覚で酷い気配ばかり伝わってくるから、気が気じゃなかったわ。それに、ヒンメル。なんて顔をしているの。いつもにもましてボロ雑巾みたいよ」

 ラムは腕組みをして毒づくが、その声には隠しきれない安堵と感謝が滲んでいた。  彼女はすぐに村人たちの方へ指示を飛ばし、負傷者の手当てと安息の確保をテキパキと進めていく。  その鮮やかな手腕。彼女もまた、守るべきもののために戦っていたのだ。

 ヒンメルは、安堵する村人たちの輪を抜け、屋敷の玄関へと視線を移す。  そこに、彼女がいた。  銀色の髪を月光に輝かせ、紫紺の瞳を大きく見開いて立ち尽くしている少女。  エミリア。  彼女は、レムに支えられ、血と泥にまみれたヒンメルの姿を認めると、口元を手で覆い、言葉を失ったように立ち尽くしていた。  彼女の白磁の肌は、不安でさらに蒼白になっていた。

「……エミリア」

 ヒンメルはレムの肩から離れ、彼女の元へ歩み寄る。  足取りは重い。一歩進むたびに、世界の重力が倍になったように感じる。  それでも、背筋を伸ばした。  彼女の前では、ただの傷ついた男ではなく、彼女を守り抜いた勇者として立たなければならない。  彼女が自分を責めないように。彼女が笑顔でいられるように。

「ヒンメル……」

 エミリアの声は、小刻みに震えていた。  彼女の視線は、ヒンメルの血に濡れたマント、包帯の巻かれた腕、頬についた切り傷、そして極度の疲労が滲む顔を彷徨う。  自分が安全な屋敷で守られている間に、彼がどれほどの死線を潜り抜けてきたのか。  彼がどれほどのものを犠牲にして、この「平穏」を持ち帰ったのか。  想像力が豊かな彼女には、痛いほど伝わってしまったのだろう。

「どうして……」

 絞り出すような、か細い声だった。  その響きには、感謝よりも深い、困惑と畏れが混じっていた。

「どうして、ここまでしてくれるの? 私は……あなたに何も返せていないのに。ただ守られて、助けられて……」

「……エミリア」

「どうして、私のためにそこまで傷つくの?」

 エミリアは一歩、後ずさるようにした。  彼女の紫紺の瞳が揺れる。

「私は、ハーフエルフなの。みんなに怖がられていて……。私の髪の色も、この目も、すべてが誰かを不幸にするの。そんな私に……命を懸ける価値なんて、あるはずがないのに……っ」

 それは、彼女が幼い頃からずっと抱え、凍らせてきた劣等感と自己否定の吐露だった。  世界から拒絶されてきた孤独な少女の悲鳴。  自分に関わる人は不幸になるという呪縛。  ヒンメルが傷つき、血を流しているその姿は、彼女にとって「自分のせいで誰かが傷つく」という、繰り返された悪夢の再来に他ならなかった。  彼女は、愛されることに慣れていない。  無償の献身など、おとぎ話の中にしかないと信じ込まされていたのだ。

 ヒンメルは、彼女の目の前まで歩み寄ると、優しく足を止めた。  そして、いつものように、少しだけ芝居がかった仕草で、血と泥にまみれた手で前髪を払う。  月明かりの下、傷だらけのその顔で、彼は世界で一番安心できる笑みを浮かべた。  ナルシストを装った、けれど誰よりも温かく、透き通るような眼差しで。

「君が笑っていてくれないと、僕が目覚めの悪い朝を迎えるからさ」

 その言葉は、あまりにも単純で、それゆえに痛いほど真実だった。  世界のためとか、王選のためとか、そんな大それた理由じゃない。  魔女教を倒して名を上げたいわけでもない。  ただ、君が悲しむ顔を見たくない。  朝起きて、君の冷たくなった死体を見る世界になんて、一秒だって息をしていたくない。    

――君がいない世界は、僕にとって彩度のない灰色の牢獄と同じなんだ。

 ただそれだけのために、僕は何度でも死に、何度でも地獄の底から這い上がってきたんだ。  その動機は、もしかしたらペテルギウスの狂気と紙一重なのかもしれない。  けれど、僕は君の笑顔が見たい。それだけは、誰にも譲れない僕だけのエゴだ。

「……え?」

 エミリアは虚を突かれたように目を丸くした。  もっと高尚な理由が返ってくると思っていたのかもしれない。  あるいは、「君は王になるべき器だから」といった、役割に対する義務的な言葉を期待していたのかもしれない。  だが、ヒンメルの瞳には、王候補としての彼女など映っていなかった。  そこに映っているのは、ただ一人の、守りたいと願った少女の姿だけ。

 かつて、幼い彼が森の中で迷子になったエルフを導いた時のような。  打算も、見返りも求めない、愚かしいほどに純粋な善意。

「それだけ……なの?」

「それだけさ。勇者の行動原理なんて、案外そんなものだよ」

 ヒンメルは肩をすくめる。  その拍子に、脇腹に激痛が走り、一瞬顔を歪めそうになるのを必死で堪える。  彼は、震える指先を隠すように、そっと言葉を継いだ。

「世界が君をどう呼ぼうと関係ない。僕の世界では、君は魔女なんかじゃない。ただの、笑うと少しあどけなくなる、素敵な女の子だ。……君の笑顔は、そう、僕の武勇伝の最後の挿絵にこそふさわしい」

 その言葉が、エミリアの心に突き刺さっていた氷の楔(くさび)を、音を立てて砕いた。  価値がないと否定し続けてきた自分の存在を、彼は「必要だ」と笑い飛ばしてくれた。  世界中が敵に回っても、彼だけは味方でいてくれるという、圧倒的な事実。

 エミリアの大きな瞳から、大粒の涙が溢れ出した。  それは、悲しみの涙ではなかった。  孤独と不安に凍えていた心が、春の陽だまりのような温かな光に触れて溶け出したような、安堵と信頼の涙。

「……っ、うぅ……!」

 エミリアは一歩踏み出し、ヒンメルの胸に顔を埋めた。  泥と血に汚れた彼の胸に、躊躇なく飛び込んだ。  彼女の華奢な肩が震え、嗚咽が漏れる。

「ありがとう……っ、ありがとう、ヒンメル……!」

 ヒンメルは少し驚いたが、すぐに優しく彼女の背中に手を回した。  彼女の銀髪からは、微かに柑橘系の香りがした。  温かい。  生きている。  互いの心臓の音が、重なって聞こえる。  トクトクと脈打つ命の鼓動。  これだ。  死に戻りの冷たく無機質な感触ではない、熱を持った生身の体温がそこにあった。  血の通った人間同士が触れ合う、確かな実感。  この温もりを守るために、僕は死んだのだ。 そして、生き返ったのだ。  彼女の涙が、僕のマントに染み込み、僕の傷口に触れる。  その痛みさえも、今は愛おしかった。

「いいんだよ、エミリア。泣きたいときは、泣けばいい」

 ヒンメルは彼女の頭を、子供をあやすように優しく撫でた。  その指先は、剣を握り敵を斬るためのものではなく、ただ目の前の少女の涙を拭うためにあるかのように、不器用で、優しかった。

 少し離れた場所で、レムが静かに微笑みながらその光景を見守っている。  彼女の瞳にも涙が光っていた。 そこには、ただ敬愛する英雄が報われたことへの震えるような喜びがあった。  そして、さらにその後ろで。  フリーレンが、無表情のまま、しかしどこか寂しげな瞳で二人を見つめていた。  夜風が彼女の白い髪を揺らし、長いエルフの耳を掠める。

「……ヒンメルは、変わらないね」

 彼女の心の中の声は、誰にも届かない。  彼女は杖を握りしめ、自分の胸の奥に芽生えた名前のない感情を持て余すように、ふいっと視線を逸らして夜空を見上げた。  満月が、痛いほどに綺麗だった その感情の正体を、彼女はまだ知らない。 知るには、彼女の時間はあまりにも長く、人の時間はあまりにも短い。

 月は高く、静かに輝いている。  勇者の凱旋にしては、あまりにも静かで、個人的な幕切れ。  だが、ヒンメルにとっては、これこそが求めていた報酬だった。  エミリアの涙が彼のマントを濡らす。  その湿り気と重みを感じながら、ヒンメルは心の中で、もう一人の自分――恐怖に震える小さな自分に言い聞かせた。

(……見ているかい。これを見るためなら、死ぬことくらい、どうってことないだろう?)

 それはただの強がりで、どこまでも嘘で、そして紛れもない真実だった。  

 

 

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