一夜にして、世界は嘘のように静まり返っていた。
アーラム村を包み込んでいた死と狂気の気配は、朝霧とともに彼方へと消え失せている。東の空から差し込む陽光は、昨晩撒き散らされた魔獣の血や、焼け焦げた大地の傷跡さえも、平等に黄金色に染め上げていた。
鳥のさえずりが聞こえる。
本来ならば、そこにあるはずのない日常の音が、逆説的に昨晩の出来事が悪夢ではなく現実であったことを強調しているようだった。
ロズワール邸の玄関ホール。
豪奢なシャンデリアの下、数人の人影が動いていた。
「――それで、村の者たちの避難状況はどうなっているのかしら」
淡々とした、しかし有無を言わせぬ威厳を含んだ声が響く。
桃色の髪を揺らし、メイド服に身を包んだ少女――ラムが、腕を組んで村の代表者を見下ろしていた。その瞳には、昨晩の激闘の疲労など微塵も感じさせない、冷徹な理性が宿っている。
「は、はい。半数の者は、ロズワール様のご指示通り、既に『聖域』へと向かわれました。残りの者は屋敷への避難を完了し、現在は怪我人の手当てと、村の復旧作業に当たっております」
「そう。ロズワール様も、随分と手回しがいいことね。……あるいは、こうなることを予見していたかのように」
ラムは意味深長に呟くと、視線を屋敷の外、遥か彼方に広がる森の方角へと向けた。
『聖域』。
そこは、メイザース領の人間であっても容易には立ち入れない、特殊な結界に守られた場所だ。ロズワールが村人の半数を引き連れてそこへ避難したという事実は、単なる緊急避難以上の政治的、あるいは魔術的な意図を感じさせる。
「姉様」
背後から、控えめな声がかかった。
瓜二つの容姿をした、青い髪のメイド――レムだ。
昨晩の鬼気迫る形相はなりを潜め、今は穏やかな、しかしどこか憂いを帯びた表情で姉を見つめている。
「レム。……ヒンメルの様子は?」
「……深く、眠っておられます。外傷は塞がっていますが、魔力の枯渇と、精神的な摩耗が激しくて……。おそらく、今日いっぱいは目を覚まさないかと」
「そう。……あれだけの死線を潜り抜けたのだもの。当然ね」
ラムは鼻を鳴らした。
その口調は素っ気ないが、言葉の端々にはヒンメルに対する一定の評価と、奇妙な敬意が滲んでいる。
毒舌家の彼女が、他者を――それも部外者をここまで認めるのは稀なことだ。
「あの男は、有能すぎるわ。剣の腕もさることながら、あの異常なまでの指揮能力と、場を支配するカリスマ性。……ロズワール様とはまた違った種類の、底知れない『何か』を感じる」
「はい。ヒンメル様は……本物の、英雄です」
レムが胸の前で手を組み、祈るように呟く。その頬がわずかに紅潮しているのを、ラムは見逃さなかった。
ラムは小さくため息をつき、妹の頭をポンと撫でる。
「入れ込みすぎるんじゃないわよ、レム。あの男は、危うい。見ているだけで、硝子の上を歩いているような危うさがあるわ。……それに、あの男の隣には、規格外の怪物がいる」
「怪物、ですか……?」
「ええ。千年以上を生きるエルフ、フリーレン。彼女の魔力は、ロズワール様と対等か、あるいはそれ以上よ。あの二人の関係性は、傍目には理解しがたいわ」
ラムは窓の外、中庭の方へ視線をやった。
そこには、朝露に濡れた花々を、無表情で見つめる小柄なエルフの姿があった。
「私はロズワール様と合流するために『聖域』へ向かうわ。村の復興と、屋敷の警備は貴女たちに任せる。……エミリア様のことも、頼んだわよ」
「はい、姉様。お気をつけて」
ラムは短く頷くと、竜車の方へと歩き出した。
その背中を見送りながら、レムは一度だけ深く頭を下げた。
嵐は去った。しかし、空気中にはまだ、湿った火薬のような不穏な匂いが残っている。
『聖域』という言葉の響きに、レムは得体の知れない胸騒ぎを覚えていた。
***
屋敷の二階、客室。
重厚なカーテンの隙間から、細い光の束が差し込み、宙を舞う塵を照らし出している。
天蓋付きのベッドの上で、ヒンメルは死んだように眠っていた。
規則正しい寝息。
穏やかな表情。
昨晩、血と泥にまみれて戦っていた姿が嘘のように、その寝顔はあどけなく、どこか神聖ですらあった。
蒼い髪が枕に散らばり、長い睫毛が白い頬に影を落としている。
その枕元に、椅子を引き寄せて座っている人物がいた。
フリーレンだ。
彼女は分厚い魔導書を膝の上で広げているが、その視線は文字を追ってはいない。
ただじっと、眠り続けるヒンメルの顔を見つめていた。
(……人間の睡眠時間は、非効率だね)
心の中で、いつものように毒づく。
エルフである彼女にとって、人間の生理機能はあまりにも脆弱で、不便なものに映る。
すぐに腹が減り、すぐに眠くなり、すぐに体温が変わる。
そして何より、すぐに死ぬ。
(……傷は、治ってる)
フリーレンは魔力を帯びた瞳で、ヒンメルの体を透視(スキャン)する。
昨晩、ペテルギウスとの戦闘で負った肋骨の骨折、筋肉の断裂、内臓への衝撃。それらは全て、ヒンメル自身の異常な回復力によって、驚くべき速度で修復されていた。
異常な回復性の原因はわからない。だが、それ以上にわからないのは――。
「……変なの」
彼女は小さく呟き、ヒンメルの額にかかった前髪を指先で払った。
彼の体を取り巻くマナの流れは、奇妙なほどに歪んでいた。
まるで、時間がそこだけ澱んでいるような。
あるいは、壊れたレコードのように、同じ時間を何度も繰り返しているような、不自然な「重複」の痕跡。
フリーレンは、ペテルギウスの憑依を防いだ時のことを思い出す。
あの時、ヒンメルの魂は「満員」だった。
何者かの強烈な執着によって、彼の魂は「ヒンメルであること」を固定されていた。
(誰が、こんなことを?)
フリーレンは杖を握りしめる。
この世界には、「嫉妬の魔女」と呼ばれる存在がいると聞いた。
時空を操り、死を冒涜する権能を持つという最悪の魔女。
彼女がヒンメルに干渉しているのだろうか。
「……もし、そうなら」
フリーレンの瞳から、感情の色が消え失せた。
その双眸は、深海のように冷たく、底知れない暗さを湛えている。
「ぶっ殺すか」
普段の彼女からは想像もつかないほど物騒な言葉が、何気ない独り言のように漏れた。
もし、ヒンメルを苦しめる元凶がいるのなら、それが魔女であろうが神であろうが、魔法で消し飛ばす。
彼女にとっての行動原理は、それほどまでに単純だった。
その時、ヒンメルが小さく呻き声を上げた。
悪夢でも見ているのだろうか。眉間に深い皺が刻まれ、シーツを握りしめる指関節が白くなっている。
「……ぅ、……あ……」
苦しげな吐息。
フリーレンは瞬時に殺気を霧散させ、慌てて彼の手を握った。
「ヒンメル? 大丈夫、ここにいるよ」
彼女の手のひらから、精神を安定させる微弱な魔力を流し込む。
その温もりに反応したのか、ヒンメルの呼吸は次第に落ち着きを取り戻していった。
握りしめられた指の力が抜け、再び安らかな寝息へと変わる。
フリーレンは、繋いだ手を離そうとした。
だが、ヒンメルの手は、無意識のうちに彼女の指をしっかりと掴んで離さなかった。
「……子供みたい」
フリーレンは困ったように眉を下げたが、その手を振りほどくことはしなかった。
代わりに、もう片方の手でページをめくる。
静かな部屋に、紙のこすれる音だけが響く。
***
正午過ぎ。
ロズワール邸の中庭にある東屋(ガゼボ)では、優雅な茶会が開かれていた。
白いアイアンのテーブルには、レースのクロスが敷かれ、レムの手による焼き菓子と、湯気を立てる紅茶が並べられている。
スコーン、クッキー、色とりどりのフルーツタルト。
それらの甘い香りは、昨晩の血生臭さを上書きするように、平和の象徴としてそこに在った。
「はい、フリーレン様。紅茶のおかわりはいかがですか?」
「ん。もらう」
フリーレンは口の端にクッキーの食べかすをつけたまま、カップを差し出した。
彼女の目の前には、すでに空になった皿が数枚積み上げられている。
「……フリーレン、すごーくたくさん食べるのね。お腹壊さない?」
向かいの席に座ったエミリアが、目を丸くして尋ねる。
彼女は清楚な白と紫のドレスに身を包み、その銀髪は丁寧に編み込まれていた。
昨晩の涙はどこへやら、今の彼女の表情は晴れやかで、年相応の少女らしい輝きに満ちている。
「エルフは燃費が悪いんだよ。それに、この世界の甘味は構造が複雑で興味深い。……特にこの、芋を練り込んだ焼き菓子。素朴な味だけど、魔力回復効率がいい」
「ふふ、それはレムの特製『ふかし芋のガレット』です。ヒンメル様もお好きだと言ってくださいました」
給仕をするレムが、誇らしげに胸を張る。
彼女の表情もまた、憑き物が落ちたように穏やかだった。
ヒンメルが守り抜いた日常が、ここにある。
「ヒンメル……まだ起きないかなあ」
エミリアが、二階の窓を見上げながら呟いた。
その声には、心配と、そして少しの寂しさが混じっている。
「放っておけばいいよ。あいつは一度寝ると、冬眠前の熊みたいに起きないから」
フリーレンは無愛想に言い放ち、新しいタルトにフォークを突き立てた。
「でも、心配だよ。すごーく怪我してたし……。私、ちゃんとお礼も言えてないし」
「お礼なんて、あいつは期待してないよ。むしろ、君が笑ってケーキ食べてる方が、あいつにとっては報酬なんじゃない?」
「……そうなのかな」
エミリアは頬を染め、手元のティーカップを見つめた。
紅茶の水面に、自分の顔が映っている。
以前の自分なら、そこには不安げで、自信のない顔が映っていただろう。
でも今は、少しだけ強くなった自分がいる気がした。
「ねえ、フリーレン」
エミリアは意を決したように顔を上げた。
その紫紺の瞳が、真っ直ぐにフリーレンを射抜く。
「フリーレンは、ヒンメルとずっと一緒に旅をしてたんだよね?」
「ずっとってほどじゃないよ。たかだか十年だ」
「十年……。人間にとっては、長い、長―い時間ね」
エミリアは噛み締めるように言った。
ハーフエルフである彼女にとっても、十年は決して短い時間ではないが、人間にとっての十年は、人生の大きな割合を占める。
「フリーレンから見て、ヒンメルって……どんな人?」
その問いかけに、フリーレンは食べる手を止めた。
フォークを皿に置き、首を傾げる。
「どんな人、って……。ただのナルシストだよ。隙あらば鏡を見るし、自分語りが多いし、銅像を建てたがるし。……あと、子供みたいに無鉄砲だ」
散々な言い草だった。
だが、それを聞いているレムとエミリアは、なぜか顔を見合わせてクスクスと笑った。
「なんで笑うの」
「いえ……フリーレン様のその言葉、全然悪口に聞こえないんですもの」
レムがポットを抱えながら微笑む。
「そうですか? 私は事実を言っただけだけど」
「ふふ。でも、信頼してるんだなって、伝わってくるの」
エミリアが身を乗り出した。
彼女の瞳はキラキラと輝いている。
「私ね、ヒンメルのこと、すごいと思うの。……最初は、ちょっと変わった人だなって思ったけど」
「ちょっとじゃないよ。だいぶ変わってる」
「ううん、でもね。……ヒンメルは、私に『王になれ』って言わなかったの」
エミリアの声が、少しだけ熱を帯びる。
「周りの人はみんな、私が王選候補者だから、王になるべきだ、立派に振る舞えって言うわ。パックでさえ、私の安全や立場を一番に考える。……でも、ヒンメルは違った」
エミリアは、記憶の中のヒンメルの言葉を反芻する。
――君が笑っていてくれないと、僕が目覚めの悪い朝を迎えるからさ。
「彼は、私を『王』としてじゃなく、『エミリア』として見てくれた。私が魔女の容姿をしていても、ハーフエルフでも、関係ないって。……ただ、私が笑っていることが大事なんだって、そう言ってくれたの」
エミリアの手が、胸元の結晶石に触れる。
「私、自分のことがずっと嫌いだった。生まれてきたことが間違いなんじゃないかって、ずっと思ってた。でも、ヒンメルが……私の命には意味があるって、行動で示してくれた。彼が命がけで守ってくれたこの命を、私が否定しちゃいけないって、そう思えたの」
彼女の言葉は、純粋な感謝と、淡い思慕に彩られていた。
それは恋愛感情というよりは、雛鳥が最初に見た親鳥に対する信頼に近いかもしれない。
だが、そこには確かな「救済」があった。
「だから、私はヒンメルみたいになりたい。誰かを守って、誰かに希望を与えられるような……そんな、すごーくカッコいい人に」
エミリアは照れくさそうに笑った。
フリーレンは、まじまじとエミリアを見る。
(……ヒンメル、君の影響力はすごいな)
たかが一ヶ月足らず。
この異世界に来て、ほんの少しの時間を共有しただけで、彼はこの少女の世界を大きく変えてしまった。
かつて、魔王を倒す旅の中で、多くの人々の心に火を灯したように。
彼はここでも、人々の心を耕している。
「……そっか。よかったね、エミリア」
フリーレンは短く答え、再び紅茶を啜った。
だが、その心の中には、微かな波紋が広がっていた。
自分が知らないヒンメルの顔を、この少女は知っている。
導き手としてのヒンメル。
「レムは、どうなの?」
エミリアが、話を振った。
レムは驚いたように目を瞬かせたが、すぐに慈愛に満ちた表情で東屋の柱に寄りかかった。
「私は……そうですね。エミリア様とは、少し違うかもしれません」
レムは視線を下げる。
脳裏に浮かぶのは、英雄としての輝かしい姿ではなく、その陰にある姿だ。
「ヒンメル様は、強くて、優しくて、完璧な英雄に見えます。……でも、私は知っています。彼が、本当はとても……脆い人だということを」
「脆い?」
フリーレンが反応した。
意外な単語だったからだ。ヒンメルはいつだって自信満々で、弱音など吐かない。
「はい。……昨晩、森の中で戦っている時。ヒンメル様の手は、震えていました」
レムの告白に、場が静まり返る。
「誰も見ていない一瞬。剣を鞘に納める時。鏡を見ているふりをして前髪を触る時。……彼の指先は、いつも微かに震えています。それは、武者震いなんかじゃありません。……恐怖です」
レムの声は、悲痛なほどに優しかった。
嗅覚の鋭い彼女には、彼から漂う匂いの変化も分かっていた。
戦いのたびに増していく、鉄錆と死臭。そして、恐怖が発する酸っぱい汗の匂い。
それらを、彼は香水のようなキザな言葉と、笑顔の仮面で必死に隠している。
「彼は、怖がりなんです。誰よりも死を恐れて、痛みを恐れて……それでも、誰かのために一歩前に出る。震える足で、地面を踏みしめる。……私は、そんな彼の『弱さ』こそが、何よりも尊い強さだと思うんです」
レムは胸の前で手を組み合わせた。
「何も恐れない無敵の超人なら、英雄になるのは簡単です。でも、ヒンメル様は違う。傷つきながら、血を流しながら、恐怖を飲み込んで笑ってみせる。……その嘘のない優しさに、私は救われました」
レムの瞳には、熱い涙が滲んでいた。
彼女にとって、ヒンメルは崇拝の対象であり、同時に「守ってあげたい」と願う庇護の対象でもあった。
彼の孤独を、恐怖を、分かち合いたい。
その重荷を半分でも背負いたい。
それが、レムの愛の形だった。
「……震えてた、か」
フリーレンはポツリと呟いた。
彼女の脳裏に、昔の記憶が蘇る。
――『フリーレン、僕はね、君に褒めてほしいんだ』
――『僕が死んだら、君は一人になってしまう。だから僕は、君の記憶の中で、いつまでも格好いい勇者でありたいんだ』
あの時の彼は、笑っていた。
でも、本当はどうだったのだろう。
魔王と対峙した時。仲間の死に直面しそうになった時。
彼は、自分の見ていないところで、震えていたのだろうか。
フリーレンは、自分の胸の奥がチクリと痛むのを感じた。
それは、未知の感覚だった。
エミリアやレムのように、ヒンメルを「人間」として深く理解している彼女たちが、少しだけ羨ましかったのかもしれない。
自分は、彼の「隣」に一番長くいたはずなのに。
彼が抱えていた恐怖に、気づいてあげられていただろうか。
「……フリーレン?」
エミリアが心配そうに顔を覗き込む。
「ん? 何でもない」
フリーレンは首を振り、残っていた紅茶を一気に飲み干した。
苦い味が、喉を通り過ぎていく。
「……あいつは、そういう奴だよ。格好つけで、見栄っ張りで。……でも、そういうところが、勇者ヒンメルなんだと思う」
フリーレンなりの、精一杯の肯定だった。
彼女は空を見上げる。
蒼い空は、あの男の髪の色と同じだ。
「……さて。甘いものも食べたし、私は部屋に戻るよ。魔導書の解読の続きがあるから」
フリーレンは椅子から立ち上がった。
これ以上、この場にいると、自分の中の整理できない感情が溢れてしまいそうだったからだ。
「あ、待ってくださいフリーレン様。お茶菓子、少しお持ちになりますか? ヒンメル様が起きた時に、召し上がるかもしれませんし」
レムが気を利かせて、バスケットにお菓子を詰め始める。
「……うん。ありがと。あいつ、起きたら絶対『腹が減った』って言うから」
フリーレンはバスケットを受け取ると、ひらひらと手を振って屋敷へと戻っていった。
その後ろ姿は、どこか逃げるようにも見えた。
***
客室に戻ったフリーレンは、バスケットをテーブルに置くと、再びヒンメルのベッドの脇に座った。
彼はまだ、泥のように眠っている。
部屋の中は静かだった。
外からは、エミリアとレムの笑い声が微かに聞こえてくる。
平和だ。
この平和を守るために、彼はどれだけの血を流したのだろう。
「……ねえ、ヒンメル」
フリーレンは、眠る彼に話しかける。
返事がないことは分かっている。だからこそ、言える言葉があった。
「エミリアとレム、君のことベタ褒めだったよ。……モテモテだね」
指先で、彼の手の甲を突く。
反応はない。
「……君が震えてたなんて、知らなかった。私は、君の背中ばかり見てたから」
彼女は膝を抱えた。
千年生きるエルフにとって、人間の感情は複雑すぎて、理解が追いつかないことが多い。
「好き」とか「愛」とか、そういう定義の曖昧な概念は、魔法の術式のように解析できない。
でも。
今、この胸にある「ざわつき」は。
彼が傷つくのを見たくないという衝動は。
他の誰かが彼を理解していることへの、僅かな嫉妬は。
これは、何という名前の魔法なのだろう。
「……早く起きなよ。お菓子、冷めちゃうから」
フリーレンは呟き、そっと彼の頭に手を置いた。
その時。
彼女の手から、無意識のうちに淡い光が溢れた。
ヒンメルの寝顔が、一瞬だけ苦しげに歪み、そしてまた安らかなものへと戻った。
彼の魂は、まだ悪夢の中を彷徨っているのかもしれない。
だが、その手はしっかりと、フリーレンの服の裾を掴んでいた。
窓の外では、風が吹き抜けていく。
蒼い花びらが一枚、部屋の中に舞い込み、二人の間に落ちた。
「久遠の葬送」を生きるエルフと、「刹那」を繰り返す英雄。
二人の時間は、矛盾を抱えたまま、優しく、残酷に交錯し続けている。
目覚めの時は、まだ来ない。
次の絶望が、扉の向こうで待ち構えているとしても。
今はただ、この穏やかな午後の光の中で、二人はまどろみの中にいた。