ロズワール邸を包む空気は、日を追うごとに重苦しいものへと変わっていた。
魔女教の襲撃を退け、アーラム村に平和が戻ってから三日。
本来であれば、勝利の余韻に浸り、村の復興を祝うべき時期であるはずだった。しかし、この屋敷には、あるべきはずの主の姿と、その側近の姿が欠けていた。
ロズワール・L・メイザース。
そして、ラム。
村人の半数を率いて避難した彼らは、三日が経過してもなお、戻ってくる気配がない。
食堂の長テーブルには、豪勢な朝食が並べられているが、そこに箸をつける者の手は重い。
カチャリ、と銀食器が皿に当たる音だけが、不自然なほど大きく響く。
「……遅いね」
沈黙を破ったのは、ヒンメルだった。
彼は優雅な動作でティーカップを傾け、窓の外の景色に視線を投げる。
その横顔は、彫刻のように整っており、憂いすらも絵になる美しさだ。しかし、その蒼い瞳の奥には、周囲には悟らせない鋭い警戒色が宿っている。
(三日。……長すぎる)
ヒンメルの脳内で、警鐘が鳴り響いている。
魔女教との激戦の直後だ。何らかのトラブルに巻き込まれた可能性は高い。あるいは、この「空白」そのものが、次なる悲劇への助走期間なのかもしれない。
彼は無意識のうちに、自分の首筋に触れた。
そこにはかつて――別の時間軸で――刃によって断ち切られた感触の記憶が、幻痛となってへばりついている。
「ロズワール、迷子になってないかな。あの人、意外と方向音痴そうだし」
隣でパンを齧りながら、フリーレンが呑気な声を上げた。
彼女は分厚い魔導書を読みながら、器用に食事を進めている。このエルフにとって、数日の遅延など、まばたきするほどの誤差でしかないのだろう。
その変わらないマイペースさが、今のヒンメルには救いだった。
「そうだといいんだけどね。……でも、ラムも一緒だ。彼女がいれば、道に迷うなんてことはないはずだよ」
ヒンメルがそう返すと、向かいに座っていたエミリアが不安げに眉を寄せた。
「あの、私……やっぱりすごーく心配。村のみんなも一緒なんでしょう? もし、森の中で魔獣に襲われたりしていたら……」
「大丈夫だよ、エミリア。ロズワールはああ見えて宮廷筆頭魔導士だ。それにラムもいる。そう簡単に遅れをとることはないさ」
ヒンメルは笑顔を作って彼女を励ます。
その言葉に嘘はない。だが、彼の経験則(ループの記憶)が告げている。この世界において、「強者だから安全」という理屈は通用しない、と。
どんな強者であっても、理不尽な悪意の前では容易く命を落とす。それを、彼は嫌というほど見てきた。
その時だった。
食堂の扉が、静かに、しかし確かな意思を持って開かれた。
「――皆様、朝のお食事中、失礼いたします」
現れたのは、凛とした立ち姿の女性だった。
金色の髪を後ろでまとめ、整ったメイド服に身を包んでいる。その所作は洗練されており、一見すれば完璧な淑女だ。
ただし、口元から覗く鋭い牙を除けば。
フレデリカ・バウマン。
この屋敷に新しく――いや、戻ってきたメイドだ。
レム一人では屋敷の維持と村の対応に手が回らないと判断し、急遽呼び戻されたのだと聞いている。
「フレデリカ。……何か、知らせかい?」
ヒンメルが問う。
フレデリカは深く一礼し、翠色の瞳を真っ直ぐにヒンメルに向けた。
「はい。先ほど、ロズワール様からの使いが到着いたしましたわ」
「使い? 本人が戻ったわけではないのか」
「左様でございます。……使いの者によれば、ロズワール様とラム、そして避難したアーラム村の村人たちは現在、『聖域』と呼ばれる場所に留め置かれているとのこと」
『聖域』。
その単語が出た瞬間、食堂の空気が一段階冷えたように感じられた。
それは単なる地名ではない。何か、禁忌めいた響きを含んでいる。
「留め置かれている、というのは穏やかじゃないね。……軟禁されている、ということかい?」
「近い状況かと存じます。……『聖域』には特殊な結界が張られており、一度入った混血の者は、特定の条件を満たさぬ限り出ることが叶いません。アーラム村の半数の者たちも、その巻き添えとなっているようで……」
フレデリカの説明は淡々としていたが、事態は深刻だった。
村人たちが人質になっているに等しい状況。
そして、ロズワール自身もまた、何らかの理由でそこから動けないでいる。
「……なるほどね。状況は把握したよ」
ヒンメルはナプキンで口元を拭い、静かに立ち上がった。
その動作には、一切の迷いがない。
マントを翻し、腰の剣に手を添える。その姿は、絵画から抜け出してきた勇者そのものだった。
「ヒンメル?」
エミリアが顔を上げる。
「行くよ、エミリア。迎えに行こう。……迷子の迷子のロズワール君をね」
冗談めかして言ったが、その瞳は笑っていなかった。
村人が帰れない。
その事実だけで、ヒンメルが動く理由は十分だった。
彼らが不安に震えながら夜を明かしているのなら、それを救い出すのが勇者の仕事だ。
たとえそれが、どれほどの危険を伴う場所であろうとも。
「レム。君は屋敷に残ってくれ。ここの守りを疎かにはできない。フレデリカと共に、残った村人たちのケアを頼む」
「……っ、はい。承知いたしました」
傍らに控えていたレムが、一瞬だけ寂しげな表情を見せたが、すぐに気丈に頷いた。
彼女は知っている。ヒンメルが、自分を危険から遠ざけようとしていることを。そして、この屋敷を守ることが、今の自分にできる最大の貢献であることを。
「準備ができ次第、出発する。……フリーレン、少し付き合ってくれるかい?」
ヒンメルは、まだパンを齧っているエルフに声をかけた。
フリーレンは、もぐもぐと口を動かしたまま、億劫そうに顔を上げた。
「……ん」
短い返事。
だが、彼女はすぐに魔導書を閉じ、立ち上がった。
彼女には分かっているのだ。ヒンメルが自分を呼ぶときは、重要な話があるときか、あるいは――ただ、背中を押してほしいときだということを。
***
屋敷の渡り廊下。
窓からは、初夏の日差しが降り注いでいる。
ヒンメルは手すりに寄りかかり、中庭を眺めていた。
フリーレンは、その少し後ろに立っている。
「……また、厄介ごとに巻き込まれるかもしれない」
ヒンメルがポツリと言った。
その声は、食堂で見せていた自信に満ちた声色とは違う。低く、疲れが滲んだ、等身大の青年の声だった。
「聖域、か。名前からしてろくな場所じゃないね。……僕の勘が言ってる。あそこには、ペテルギウスとはまた違った種類の『悪意』がある」
ヒンメルは自分の手を握りしめる。
死の予感。
この世界に来てから、彼はその予感に敏感になりすぎていた。
一歩間違えれば、首が飛ぶ。内臓が撒き散らされる。
その恐怖は、何度繰り返しても慣れることはない。
「フリーレン。……君は、残ってもいいんだよ」
彼は振り返らずに言った。
「これは僕が勝手に背負い込んだ使命だ。エミリアのため、村人のため……。君を、これ以上僕の思い付きに付き合わせるわけにはいかない」
それは、本心からの言葉だった。
ヒンメルは恐れていた。
自分の死を見せることを。
そして何より、自分のせいでフリーレンが傷つくことを。
彼女は長寿のエルフだ。この一瞬の冒険など、彼女の長い人生においては瞬きのようなもの。
ここで彼女を危険に晒し、失うようなことがあれば、それこそがヒンメルにとって最大の絶望だ。
沈黙が流れる。
風が、中庭の木々を揺らす音だけが聞こえる。
「……馬鹿なの?」
返ってきたのは、呆れを含んだ、しかしどこか温かい声だった。
ヒンメルが驚いて振り返ると、フリーレンはジト目で彼を見上げていた。
「ヒンメルが行くなら、どこでも同じだよ」
彼女は、まるで「今日の天気は晴れだ」と言うような気軽さで、でも異論も反論も認めない口調で、そういった。
「それに、魔導書の解読も飽きてきたところだし。新しい魔法が見つかるかもしれないしね」
彼女は杖をくるりと回し、ヒンメルの隣に並んだ。
「君一人で行かせたら、どうせまた無茶するでしょ。……見てないと、危なっかしくて仕方ない」
フリーレンはそういうと、ヒンメルをじっと見つめた。
ヒンメルにはその言葉が、どんな回復魔法よりも深く心に染み渡った。
どこでも同じ。
彼女にとって、場所など重要ではない。
「ヒンメルがいる場所」こそが、彼女の居場所なのだと。
その事実は、彼にとっての救いであり、同時に逃れられない鎖でもあった。
(……ああ、やっぱり僕は、君には敵わないな)
ヒンメルは苦笑し、前髪をかき上げた。
恐怖が消えたわけではない。
けれど、震えは止まった。
彼女が見ている。それだけで、彼は「勇者ヒンメル」という虚構を、現実のものとして演じ切る覚悟が決まる。
「やれやれ。僕の魅力が、千年の時を生きるエルフをも虜にしてしまうとはね。罪作りな男だよ、僕は」
「……置いてくよ」
「待ってくれ。 冗談だ、冗談だって!」
歩き出したフリーレンを、ヒンメルが慌てて追いかける。
その背中は、いつもの喜劇のような明るさを取り戻していた。
だが、二人の影は、光の中でどこか儚く揺れていた。
***
その日の夜。
出発の準備を終えたヒンメルは、自室の洗面台の前に立っていた。
真鍮で縁取られた鏡に、自分の顔が映っている。
整った顔立ち。
一点の曇りもない肌。
蒼い瞳は澄んでおり、どこにも疲労の色は見えない。
「……綺麗すぎる」
ヒンメルは呟き、鏡の中の自分に触れた。
三日前、彼はあばら骨を折り、全身打撲を負い、内臓を損傷したはずだった。
だというのに、彼の体には、傷跡一つ残っていない。
古傷さえもない。
まるで、生まれたばかりの赤子のように、無垢で、完璧な状態。
それは「治癒」ではない。
「リセット」だ。
ヒンメルは懐から、護身用の小型ナイフを取り出した。
銀色の刃が、魔石の灯りに反射して冷たく光る。
彼は迷うことなく、その刃を左手の人差し指に当てた。
スパッ。
鋭い痛みが走る。
赤い血が球となって浮き上がり、指先を伝って滴り落ちる。
洗面台の白磁に、赤い染みが広がる。
「……痛い」
痛みはある。
彼は生きている。血も流れる。
だが。
ヒンメルが瞬きをした、次の瞬間だった。
傷口から、金色の光などは出ない。
代わりに、空間が「歪む」ような奇妙な感覚が指先を襲う。
こぼれ落ちたはずの血が、ビデオテープを巻き戻すように、物理法則を無視して指先へと戻っていく。
切り裂かれた皮膚が、勝手にくっつき、融合する。
それは一瞬の出来事だった。
数秒後、そこには傷一つない、綺麗な指先があった。
洗面台に落ちた血痕さえも、蒸発するように消滅していた。
「なかったこと」にされたのだ。
彼の傷も、痛みも、流した血も。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
ヒンメルは鏡の中の自分を睨みつけた。
お前は誰だ。
お前は本当にヒンメルなのか。
それとも、ヒンメルの形をした、死ねない怪物なのか。
傷が残らないということは、戦いの証が刻まれないということだ。
どんなに死線を潜り抜けても、彼の体は経験を蓄積しない。
ただ精神だけが摩耗し、老成し、腐っていく。
その乖離が、彼を狂気へと誘う。
「……それでも」
ヒンメルはナイフを折り畳み、ポケットにねじ込んだ。
鏡に向かって、ニヤリと笑ってみせる。
練習した、完璧な勇者の笑顔。
「それでも僕は、ヒンメルだ。フリーレンが信じる、勇者ヒンメルだ」
怪物でもいい。
この身が呪い(まほう)でできているのなら、その呪いを使い潰して、彼女たちを守る盾になろう。
傷が治るなら好都合だ。何度でも盾になれる。
彼は冷水を顔に浴びせ、己の弱さを洗い流した。
***
翌朝。
空は高く晴れ渡り、絶好の旅日和となっていた。
屋敷の正門前には、一台の地竜車が用意されている。
御者台に座るのは、行商人のオットーだ。彼は巻き込まれる形で今回の旅に同行することになったが、その人の良さそうな顔には不安と諦めが同居している。
「本当に……僕も行くんですか? いや、行きますけど! 行きますけどね!?」
「頼りにしているよ、オットー君。君の地竜の扱いは天下一品だからね」
ヒンメルが爽やかに肩を叩くと、オットーは「そ、そうですか?」と満更でもない顔になった。扱いやすい男だ。
「ヒンメル様、エミリア様、フリーレン様。……どうか、ご無事で」
見送りに出たレムが、深く頭を下げる。
彼女の視線は、ヒンメルに釘付けになっている。
昨晩の「匂い」が、また濃くなっていることに気づいているのだろう。彼女の鼻は誤魔化せない。
ヒンメルは彼女に近づき、小声で囁いた。
「行ってくるよ、レム。……帰ってきたら、また君の淹れた紅茶が飲みたいな」
「……はい。必ず、最高の一杯を用意してお待ちしています」
レムは涙を堪えるように微笑んだ。
これが今生の別れにならないことを祈って。
竜車が動き出す。
車輪が砂利を噛み、ゴトゴトという音と共に景色が流れ始める。
屋敷が遠ざかり、街道へと入っていく。
車内には、ヒンメル、エミリア、フリーレンの三人が座っていた。
エミリアは緊張した面持ちで、膝の上で手を握りしめている。
「……ロズワール、怒らないかな。勝手に迎えに行ったりして」
「怒られる筋合いはないよ。むしろ、連絡を寄越さないことを叱ってやるくらいで丁度いい」
ヒンメルは足を組み、リラックスした様子を装う。
フリーレンは窓の外を流れる森の景色を、興味なさそうに眺めていた。
「……この辺りのマナ、少し変だね」
フリーレンが唐突に言った。
「変?」
「うん。自然な流れじゃない。誰かが意図的にねじ曲げてる。……結界の予兆かな」
彼女の言葉通り、竜車が進むにつれて、周囲の森の様相が変わってきた。
木々は鬱蒼と茂り、日差しを遮っている。空気はひんやりと冷たく、肌にまとわりつくような湿気を帯び始めた。
『クレマルディの迷い森』。
かつて魔女が住んでいたとされる、禁断の森。
やがて、竜車の前方に、奇妙な「境界線」が見えてきた。
目に見える壁があるわけではない。
だが、そこから先は明らかに「世界が違う」と感じさせる、圧倒的な威圧感が漂っている。
空間が微かに揺らぎ、青白い燐光が時折走る。
首元にある結晶石が、微かに明滅した。
結界を抜けるための鍵だ。フレデリカから渡されたそれが、資格ある者を通すための認証を行っている。
ガタン、と車体が大きく揺れた。
竜車が、結界の膜を突き抜ける。
その瞬間。
フリーレンの目が、カッ、と見開かれた。
彼女の全身から、防御のための魔力が反射的に溢れ出す。
「――っ!」
「フリーレン!?」
ヒンメルが驚いて彼女を見る。
フリーレンはすぐに魔力を収束させたが、その表情は険しかった。
彼女は窓ガラスに手を当て、通過したばかりの「見えない壁」を睨みつけた。
「……強力な術式だね」
彼女の声には、警戒と、そして隠しきれない好奇心が混じっていた。
「解析拒絶、認識阻害、それに……魂の選別。複数の術式が、複雑怪奇なパズルみたいに組み合わさってる。現代の魔法体系じゃない。もっと古くて、独善的な……」
フリーレンは指先で空中に幾何学模様を描き、何かの計算をするように呟いた。
「この結界を作った奴は、相当性格が悪いよ。……でも、腕は確かだ」
彼女の翠緑の瞳が、妖しく輝く。
魔法使いとしての本能が刺激されているのだ。
未知の魔法。失われた技術。
それらは彼女にとって、宝箱のようなものだ。たとえそれが、罠(ミミック)だとしても。
「……きっと、面白そうな魔法使いがいるんだね」
フリーレンは口元を緩めた。
それは無邪気な笑みであり、同時に捕食者のような冷徹さを孕んだ笑みでもあった。
ヒンメルは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
フリーレンが「面白い」と言う魔法使い。
それはつまり、人知を超えた化け物だということだ。
竜車は、深い森の奥へと進んでいく。
木々の隙間から、古びた石造りの建物が見え隠れする。
「……さあ、鬼が出るか蛇が出るか」
ヒンメルは剣の柄を握りしめた。
その手は、もう震えてはいなかった。
ただ、覚悟だけが、冷たく鎮座していた。
運命の歯車が、再び軋みながら回り始める。
「死」と「再生」の螺旋階段が、彼らを歓迎するように口を開けていた。