ゼロから始める葬送のフリーレン   作:西方物理

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英雄の焦燥

熱かった。

焼けた鉄柱を、生きたまま腹の中に突き刺されたような熱だった。

肉が裂けるというよりは、熱量によって組織が蒸発していくような感覚。

骨が砕ける音は、自分の体内から響く不快な振動として脳髄に直接伝わってきた。

視界が赤い。

朱色ではない。鮮烈で、残酷なほどに混じりけのない深紅。

それが視界の全てを覆い尽くしていた。

息ができない。

喉の奥から溢れ出してくるのは空気ではなく、生温かい液体と、ごぼりという不快な泡の音だけだ。

痛い。

痛い痛い痛い痛い痛い痛い。

勇者として数多の戦場を潜り抜けてきた。

魔族の放つ腐食魔法を受けたこともある。

ドラゴンの爪にかすり傷を負わされたこともある。

だが、これは違う。

これは、「死」そのものだ。

生命活動を強制的に停止させるための、圧倒的な暴力による破壊。

意識が遠のく。

指先の感覚が消える。

地面の冷たさが頬に触れているはずなのに、それすら感じない。

ただ、最後に見た光景だけが網膜に焼き付いている。

――涙で顔をぐしゃぐしゃにして、僕の名前を叫ぶフリーレンの顔。

ああ、泣かないでくれ。

君のその顔を見るのが、この耐え難い激痛の中で唯一、僕の心を抉る痛みだ。

ごめん、フリーレン。

約束した冒険の終わりまで、連れて行ってあげられなくて。

君に、あの言葉を伝えられなくて。

暗闇が落ちてくる。

思考が断絶する。

僕は、勇者ヒンメルは、ここで終わ――

________________________________________

「――らっしゃい! 赤いのと青いの、どっちにするんだい?」

唐突に、光が炸裂した。

網膜を焼くような白い光。

鼓膜を叩く、野太い男の声。

そして、鼻腔をくすぐる甘酸っぱい果実の香り。

「……は?」

ヒンメルの口から、掠れた声が漏れた。

世界が反転していた。

先ほどまでそこにあったはずの、薄暗く埃っぽい盗品蔵の天井はない。

鼻をつく血と臓物の腐臭もない。

冷たい石床の感触も、腹を食い破られるような灼熱の痛みも、消え失せていた。

代わりに目の前に広がっていたのは、活気に満ちた往来と、昼下がりの眩しい太陽。

そして、木箱に山積みにされた大量の果物だった。

「どうした兄ちゃん、鳩が豆鉄砲を食らったような顔して。リンガを買うのか、買わないのか。はっきりしてくれよ。」

目の前に立つのは、顔に大きな傷のある強面の店主だ。

見覚えがある。

いや、知っている。

この男には、つい数時間前に会ったはずだ。この世界――王都ルグニカに到着してすぐ、情報収集のために立ち寄った果物屋の店主。

「……夢?」

ヒンメルは呆然と呟き、自分の腹部を見下ろした。

白いマント。青い衣服。

そこには、一滴の血も付着していなかった。

破れた痕跡すらない。

清潔で、仕立ての良い生地が、昼の光を浴びて白く輝いている。

「……」

ヒンメルは震える手で、自分の腹に触れた。

柔らかい感触。

肋骨の下、筋肉の弾力。

その奥にある内臓の、規則正しい収縮。

傷はない。

どこにも、傷ひとつない。

「あ……、ぅ……」

だが、脳は覚えている。

刃が皮膚を切り裂き、脂肪層を断ち、腹膜を突き破って腸を引きずり出した、あのぬるりとした感触を。

幻痛(ファントム・ペイン)。

存在しないはずの傷口が、記憶の中で熱を持ち、脈打っている。

ヒンメルは反射的に口元を押さえた。

胃の腑から、強烈な酸味がせり上がってくる。

――嘔吐感。

血の味だ。口の中に、鉄錆のような血の味が残っている気がする。

「おいおい、大丈夫か? 顔色が真っ青だぞ。貧血か?」

店主が怪訝そうに顔を覗き込んでくる。

ヒンメルは大きく息を吸い込み、肺を満たそうとした。

だが、空気は肺に入ってこない気がした。まるで、横隔膜が機能していないかのように、呼吸が浅い。

(落ち着け。落ち着くんだ、ヒンメル。)

彼は心の中で、自分自身に命令を下した。

(これは、なんだ? 走馬灯か? それとも、あの死の間際に見ている願望夢か? 僕はまだ、あの薄暗い倉庫の床で血を流して倒れていて、これは死にゆく脳が見せている都合のいい幻覚なのか?)

そうだ、きっとそうに違いない。

だって、あんなに鮮明だったのだ。

エルザと名乗った女の、愉悦に歪んだ笑顔。

フリーレンの悲鳴。

自分の命が指の隙間から零れ落ちていく感覚。

あれが現実でなくて、何だというのか。

「ヒンメル、どうしたの? 買うの? 買わないの?」

不意に、横から平坦な声がかけられた。

鈴を転がすような、けれど温度のない、聞き慣れた声。

ヒンメルは、弾かれたように横を向いた。

「……フリーレン。」

そこに、彼女はいた。

白いエルフの少女。

長い耳。透き通るような銀髪。そして、感情の読めない緑色の瞳。

彼女は、店先に並べられた赤い果実――リンガを興味なさそうに眺めながら、片手には分厚い魔導書を開いていた。

いつもの姿だ。

あまりにも日常的な、旅の途中の一コマ。

その頬には涙の跡などなく、服も汚れていない。

「……フリーレン、君は……無事、なのか?」

ヒンメルの問いかけに、フリーレンは魔導書から視線を上げ、小首を傾げた。

「無事? 何が? 転んでもいないし、魔物に襲われてもいないけど。」

「いや、でも、さっき……あの女に……」

「あの女?」

フリーレンの瞳には、純粋な疑問だけが浮かんでいた。

演技ではない。

彼女は、本当に知らないのだ。

黒いドレスの殺し屋のことも。

ヒンメルが腹を割かれて死んだことも。

彼女自身が、その死に顔を見て絶叫したことも。

――全て、彼女の記憶には存在しない。

(認識の……断絶。)

ヒンメルは戦慄した。

孤独だ。

これほどまでにフリーレンが近くにいるのに、彼女と僕の間には、決定的な世界のズレがある。

僕だけが、あの地獄を知っている。

僕だけが、死の淵を見て戻ってきた。

「……は、はは。」

乾いた笑いが漏れた。

膝が震えているのがわかる。

立っているのがやっとだ。

世界の解像度が高すぎる。

太陽の光が眩しすぎて、影の黒さが濃すぎる。

道行く人々の話し声、馬車の車輪が石畳を削る音、風が運んでくる様々な匂い。

それら全てが、暴力的なまでの情報量を持ってヒンメルの脳を圧迫する。

生(せい)が、あまりにも鮮やかすぎる。

死の無機質な冷たさを知ってしまった身には、この世界の生命力は毒のように強すぎた。

「ヒンメル?」

フリーレンが、怪訝そうに眉をひそめて近づいてくる。

彼女の視線が、ヒンメルの顔に向けられる。

まずい。

こんな、怯えた子供のような顔を見せてはいけない。

僕は勇者だ。

彼女を導く、余裕と自信に満ちた英雄でなければならない。

ヒンメルは、必死に表情筋に力を込めた。

奥歯を噛み締め、胃からせり上がる吐き気をねじ伏せる。

震える指先を隠すように、前髪をかき上げた。

「……やれやれ。少し、目眩がしただけだよ。この世界の太陽は、僕の美貌に嫉妬して少し張り切りすぎているみたいだね。」

口をついて出たのは、いつもの軽口だった。

だが、その声は上擦り、喉の奥で微かに震えていた。

鏡がなくともわかる。

今の僕の笑顔は、ひきつって、酷く滑稽なものになっているだろう。

けれど、フリーレンはそんなヒンメルの微細な変化を、別の意味で解釈したようだった。

「……お腹、すいたの?」

「え?」

「人間って、お腹がすくと力が入らなくなるんでしょ。さっきから震えてるし。」

フリーレンは、懐から無造作に何かを取り出した。

硬く焼き締められた、黒パンの欠片だ。

「はい。これあげる。」

彼女はそれを、まるで野良犬に餌をやるような手つきで差し出した。

ヒンメルは、そのパンを見つめた。

ただのパンだ。

旅の保存食。味気なくて、硬くて、噛みしめると少し酸っぱい、いつものパン。

だが、それが今は、この世界と自分を繋ぎ止める唯一の現実的な物体のように思えた。

「……ありがとう。」

ヒンメルは、右手を伸ばした。

その手は、やはり震えていた。止めようとしても止まらない。

指先がパンに触れる。

その瞬間、フリーレンの指先にも触れた。

「っ!」

フリーレンが、ビクリと手を引っ込めた。

彼女は驚いたように目を見開き、自分の指先をさすりながら、ヒンメルを見た。

「ヒンメル……手、すごく冷たい。」

「あ……」

「氷の魔法でも触ったの? まるで、死人みたいに冷たいよ。」

死人。

その言葉が、ヒンメルの胸を鋭く刺した。

そうだ。

僕は一度、死んだのだ。

心臓は止まり、血流は途絶え、体温は失われた。

これは、その名残なのだろうか。

肉体は再生しても、魂に刻まれた「死の温度」までは戻らなかったということなのか。

ヒンメルは、自分の掌を見つめた。

血色は良い。健康的な肌色をしている。

だが、感覚がない。

自分の手が、他人の肉片のように思える。

「……ごめん。少し、体が冷えてしまったみたいだ。」

ヒンメルは、努めて穏やかに微笑んだ。

その笑顔を作るために、どれだけの精神力を摩耗させたか、フリーレンは知らない。

「変なの。気温は高いのに。」

フリーレンは不思議そうに首を傾げたが、それ以上深く追求することはしなかった。

彼女にとって、ヒンメルの不調は一時的なものであり、解決すべき深刻な問題ではないと判断したのだろう。

彼女は再び魔導書に視線を落とし、ページをめくった。

「早く食べて。あの子――サテラだっけ。探しに行かないと。」

サテラ。

その名前を聞いた瞬間、ヒンメルの脳裏に、次の記憶がフラッシュバックした。

盗品蔵。

エルザ。

惨劇。

あそこに行けば、また殺される。

確実に、殺される。

あの女の強さは異常だった。

フリーレンの魔法すら防ぎきる、理不尽な加護。

そして、視認すら困難な速度。

今の僕たちでは、勝てない。

「……フリーレン。」

ヒンメルは、受け取ったパンを握りしめたまま、声を絞り出した。

「ん?」

「もし……もしも、僕たちがこれから行く場所に、とてつもなく強い敵が待ち構えているとしたら、どうする?」

「強い敵?」

フリーレンは顔を上げずに答えた。

「倒すだけだよ。魔王より強いなら別だけど。」

淡々とした答え。

そこには、恐怖も迷いもない。

彼女は、自分が負けることなど想像もしていないのだ。

数千年の時を生きてきたエルフの、絶対的な自信。

だが、ヒンメルは知っている。

その自信が、あの薄暗い倉庫の中で、無惨に砕け散ったことを。

彼女の魔法が通じず、彼女の目の前で僕が殺され、彼女が絶望の叫びを上げたことを。

(言えない。)

ヒンメルは唇を噛んだ。

(僕が未来を見てきたなんて言っても、彼女は信じないだろう。

いや、信じたとしても……僕があんな無様な死に方をしたと知ったら、彼女は傷つく。)

彼女の記憶に、僕の死に顔を残したくない。

あの、泣き崩れるフリーレンの顔を、二度と見たくない。

そのためには。

僕が、一人で背負うしかない。

この恐怖も、痛みも、冷たさも。

全てを笑顔の下に隠して、何事もなかったかのように振る舞うしかない。

それが、勇者の役目だ。

「……そうだね。君なら、倒せるさ。」

ヒンメルは、パンを口に運んだ。

味はしなかった。

まるで、砂を噛んでいるようだった。

飲み込むたびに、喉が引きつり、胃が拒絶反応を示す。

それでも、彼は無理やり咀嚼し、嚥下した。

生きていくために。

そして、再び訪れるであろう死の運命に抗うために。

「おい、兄ちゃん。結局買うのかい?」

店主の呆れたような声が、現実への楔となる。

ヒンメルは、懐から硬貨を取り出した。

この世界の通貨はまだよくわからないが、フリーレンが「適当に作った金貨」で通用するのは確認済みだ。

「ああ、もらうよ。一番赤くて、綺麗なやつを一つ。」

ヒンメルは店主に金貨を弾き、真っ赤なリンガを受け取った。

その赤色は、やはり血の色に似ていた。

だが、ヒンメルはそれを直視し、強く握りしめた。

逃げない。

この赤色は、死の色ではない。生命の色だ。

そう言い聞かせるように。

「行こうか、フリーレン。僕たちの冒険は、まだ始まったばかりだ。」

マントを翻し、ヒンメルは歩き出した。

その背中は、いつものように堂々としていた。

少なくとも、後ろを歩くフリーレンには、そう見えたはずだ。

すれ違う人々の影が、夕暮れのように長く伸びているような錯覚を覚える。

本当は、足がすくんでいる。

本当は、今すぐにでも逃げ出して、布団の中に潜り込んで震えていたい。

けれど、隣にはフリーレンがいる。

彼女が平然としている限り、僕も平然としていなければならない。

たとえ、この体が内側から壊れ始めていたとしても。

「ねえ、ヒンメル。」

不意に、フリーレンが背後から声をかけてきた。

心臓が跳ねる。

――バレたか?

「……なんだい?」

振り返らずに答える。

「さっきのパン、私の食べかけだったかも。」

「……え?」

ヒンメルは足を止め、振り返った。

フリーレンは、悪びれもせず、少しだけ申し訳なさそうに――いや、ほとんど気にしていない様子で言った。

「お腹いっぱいだったから、あげるの忘れててポケットに入れてたやつ。ちょっと古かったかも。」

「…………」

ヒンメルは、呆気にとられた。

死の恐怖、孤独、決意。

それらが渦巻く張り詰めた心が、彼女のあまりにも緊張感のない言葉で、プツンと音を立てて緩んだ。

「……はは。」

自然と、笑いがこみ上げてきた。

それは虚勢でも、自嘲でもない、心からの苦笑だった。

「君は……本当に、変わらないね。」

「? 褒めてるの?」

「ああ、褒めているよ。君が君でいてくれて、本当に良かった。」

ヒンメルは、目尻に浮かんだ涙をさりげなく指で拭った。

この日常を守りたい。

この、どうしようもなくマイペースで、平和ボケしたエルフの少女が、血に塗れることなく、ただ退屈そうにあくびをしていられる世界を守りたい。

そのためなら。

僕は何度でも、あの地獄に戻れる気がした。

「行くよ、日が暮れてしまう。」

「はいはい。」

二人は歩き出す。

王都の雑踏の中へ。

死の運命が待ち受ける、その中心へ。

ヒンメル・ザ・ヒーロー。

彼だけが、繰り返される時間の牢獄の中で、孤独な戦いを開始していた。

その手は、まだ氷のように冷たかったが、握りしめた剣の柄の温もりだけが、彼を現世に繋ぎ止めていた。

空を見上げると、どこまでも蒼く、高い空が広がっていた。

まるで、何も知らぬ顔で。

「綺麗だね。」

フリーレンが空を見上げて呟く。

「ああ、そうだね。」

ヒンメルは同意した。

だが、彼の目に見えているのは、その蒼穹の向こうに透けて見える、あの粘着質な深紅の絶望だった。

それでも、勇者は笑った。

それが、彼の魔法だったからだ。

「でも、僕の瞳の方が綺麗だろう?」

「……はいはい。」

呆れたようなフリーレンの溜息が、雑踏の騒音に溶けていく。

二度目の「最初の日」が、静かに動き出していた。

 

 

 

Ⅳ. 第4話:英雄の焦燥

 

 手のひらに残るリンガの硬質な感触だけが、今のヒンメルを現世に繋ぎ止める錨(いかり)だった。

王都ルグニカの大通りは、昼下がりの喧騒に包まれていた。

馬車の車輪が石畳を削る乾いた音。

商人たちの威勢のいい掛け声。

すれ違う亜人たちの独特な体臭と、香辛料の匂いが混ざり合った都市の空気。

それら全てが、ヒンメルの五感を暴力的に刺激する。

一度目の「生」では、これら全てが輝いて見えた。

未知の世界、新しい冒険、そして隣にいるフリーレン。

だが、今のヒンメルにとって、この極彩色の光景は、薄氷の上に描かれた絵画でしかない。

一歩踏み抜けば、その下には、あの粘着質で温かい、鮮血の闇が広がっていることを知ってしまったからだ。

(……吐きそうだ。)

ヒンメルは心の中で毒づきながら、前髪をかき上げる仕草で額の冷や汗を拭った。

胃の腑が、存在しないはずの傷口を中心に痙攣している。

腸を引きずり出された時の熱さと、生命が急速に冷却されていくあの感覚。

脳が、神経が、細胞の一つ一つが、「死」を記憶していた。

それでも、ヒンメルは笑みを形作る。

口角を上げ、目を細め、自信に満ち溢れた英雄の仮面を、必死に顔面に貼り付ける。

「さて、フリーレン。まずは情報収集といきたいところだけれど――」

ヒンメルは足を止めず、背後のフリーレンに声をかけた。

努めて明るく。軽やかに。

「僕は少し、野暮用を思い出してね。ここで二手に分かれようと思うんだ。」

「野暮用?」

フリーレンが足を止め、無表情な顔を向けてくる。

その緑色の瞳に見つめられるだけで、ヒンメルの心臓は早鐘を打った。

彼女を巻き込んではいけない。

あの惨劇を、二度と繰り返させてはいけない。

――彼女の絶叫が、今も耳の奥にこびりついている。

「ああ。少しばかり、男の身だしなみに関する買い物でね。君には退屈な時間になってしまうだろうから。」

「……ふーん。変なの。」

フリーレンは興味なさそうに呟くと、すぐに視線を路地の奥へと向けた。

彼女にとって、ヒンメルの行動などその程度の関心事でしかない。

それが今は、救いであり、同時に胸を抉るような孤独でもあった。

「じゃあ、私は魔導書でも探してくる。適当に宿で落ち合おう。」

「ああ、そうしてくれ。……ああ、それと――」

ヒンメルは背を向けたまま、声を絞り出した。

「あまり、人通りの少ない場所には行かないように。この街の治安は、見た目ほど良くないかもしれない。」

「ヒンメルこそ。すぐ迷子になるくせに。」

フリーレンの淡々とした返答を聞き届け、ヒンメルは歩き出した。

振り返ることはしなかった。

振り返れば、彼女の平穏な姿を見て、決意が鈍ってしまう気がしたからだ。

彼女を遠ざけること――

それが、この二度目の世界でヒンメルが最初に成すべき、最重要ミッションだった。

________________________________________

人波をかき分け、ヒンメルは貧民街へと続く路地を目指した。

目指す場所は、盗品蔵。

あの「腸狩り」の女、エルザが現れる場所だ。

恐怖で足がすくむ。

指先が震える。

だが、行かねばならない。

あそこで奪われた徽章を取り戻さなければ、物語は悪い方向へ進む予感がする。

何より、あの場所にフリーレンを近づけてはならない。

そのためには、僕が一人で先回りし、あの怪物を処理する必要がある。

「……ッ!」

路地を曲がろうとした瞬間、ヒンメルは何かにぶつかりそうになった。

反射的に身をかわす。

風を切って走り抜けてきたのは、金髪の少女だった。

――フェルトだ。

彼女は一瞬だけヒンメルと目を合わせ、悪戯っぽい笑みを浮かべると、風のように雑踏の中へ消えていった。

一度目の記憶と同じだ。

ということは、次は――

「待ってー! 待ちなさい、こらー!」

銀鈴のような声と共に、銀髪のハーフエルフが走ってくる。

――サテラ。

この世界で最初に、ヒンメルたちに優しくしてくれた少女。

そして、その優しさ故に、あの蔵で腹を割かれて死んだ少女。

ヒンメルは、わざと彼女の進路を塞ぐように立ちふさがった。

「きゃっ!?」

サテラは急停止し、ヒンメルの胸元でたたらを踏んだ。

「ご、ごめんなさい! 急いでいて……」

「おやおや、随分と慌てているね、お嬢さん。」

ヒンメルは、震えそうになる声を必死に抑え込み、キザな仕草で彼女の手を取った。

彼女の手は温かかった。

生きている。

その事実に安堵し、同時に、この温もりがあっけなく冷たい肉塊に変わる未来を想起して、吐き気がせり上がった。

「あ、あの……離してくれない? 私、大事なものを盗まれちゃって。」

サテラは困惑したように眉を下げた。

一度目と同じだ。

ここで僕が「手伝おう」と言えば、彼女は喜び、共に盗品蔵へ向かい、そして死ぬ。

だから、言わなければならない。

彼女を、突き放す言葉を。

「盗まれた? それは災難だね。」

ヒンメルは冷ややかな笑みを浮かべ、彼女の手を放り出すように離した。

「だが、それは君の不注意が招いた結果だろう? 自分の持ち物一つ管理できない人間に、王都を歩く資格はないんじゃないかな。」

「え……?」

サテラが、信じられないものを見るように目を見開いた。

紫紺の瞳が揺れる。

当然だ。

初対面の相手に、これほど理不尽な暴言を吐かれるなど、予想もしていなかっただろう。

「な、なに……いきなり。私、あなたに何かした?」

「何も? いや、君のその存在自体が、周囲に迷惑をかけていると言っているんだ。」

ヒンメルは言葉のナイフを重ねる。

心臓が痛い。

罪悪感が胸を締め付ける。

だが、ここで彼女に嫌われなければ、彼女は僕についてきてしまうかもしれない。

「君の名前は?」

「……サテラ。サテラよ。」

彼女は警戒心を露わにし、その名を口にした。

一度目と同じ、「嫉妬の魔女」の名。

それを聞いた瞬間、ヒンメルは演技ではなく、本心からの恐怖と嫌悪を表情に乗せることができた。

その名前こそが、死への招待状だったのだから。

「サテラ……ッ!」

ヒンメルは大袈裟に顔をしかめ、一歩後ずさった。

「なんて不吉な名前だ。君は、自分のその名がどれほど人々に忌避されているか自覚していないのか? その銀髪、その姿、そしてその名前。君がそこにいるだけで、この街の空気が淀んでいくようだ。」

「……っ!」

サテラの顔から血の気が引いた。

それは、彼女が最も恐れ、言われ慣れ、けれど決して慣れることのない差別の言葉だった。

彼女の瞳に、涙の膜が張る。

「ひどい……私、ただ……」

「ここから立ち去りたまえ。君のような人間が、僕の視界に入らないでほしい。」

ヒンメルは、背を向けた。

これ以上、彼女の傷ついた顔を見ていられなかった。

背後で、小さな嗚咽が聞こえた気がした。

やがて、タッタッタッという足音が遠ざかっていく。

(……これでいい。)

ヒンメルは、路地の壁に手をついた。

指が白くなるほど強く、レンガの凹凸を握りしめる。

(これで、彼女は盗品蔵には来ない。少なくとも、すぐには来ないはずだ。)

最低だ。

困っている女の子を罵倒し、傷つけ、泣かせて追い払った。

これが勇者のすることか。

これが、ヒンメルのやることか。

「……ああ、格好悪いな、僕は。」

誰もいない路地裏で、ヒンメルの自嘲だけが吸い込まれていく。

だが、後悔している暇はない。

太陽は傾き始めている。

死の刻限は迫っている。

ヒンメルは乱れた呼吸を整えると、再び歩き出した。

その背中は、一度目の能天気な冒険者のものではなく、死地へ向かう兵士のように強張っていた。

________________________________________

貧民街の空気は、王都のそれとは明らかに異質だった。

腐敗臭。汚水と排泄物の匂い。そして、そこかしこに漂う、煮詰まったような絶望の気配。

建物は傾き、窓は割れ、道端には痩せこけた住人たちが死んだような目で座り込んでいる。

だが、ヒンメルにとって、この陰鬱な空気の方が、あの眩しすぎる大通りよりも幾分かマシだった。

――ここは、死に近い。

今の自分の精神状態に馴染む。

(この先に、盗品蔵がある。)

ヒンメルの記憶にある地図に従い、廃墟のような路地を進む。

腰の剣に手を添える。

勇者の剣(レプリカ)。

かつて魔王を倒した(とされている)相棒。

だが、今のヒンメルは知っている。

この剣技が、あの「腸狩り」の異常な身体能力の前では、あまりにも頼りないものであることを。

(勝てるか? いや、勝つしかない。)

一度目は、不意打ちに近い形でやられた。

相手の能力も、武器も、性格も知らなかった。

だが、今は違う。

彼女がククリナイフを使うこと。

驚異的な再生能力を持っていること(あの時、フリーレンの魔法を受けても平然としていた)。

そして、腹部を執拗に狙ってくること。

――情報は武器だ。

目の前に、古びた巨大な蔵が現れた。

夕暮れの光が、蔵のシルエットを黒く浮かび上がらせている。

静かだ。

まだ、エルザは来ていないのか。それとも、もう中にいるのか。

ヒンメルは大きく深呼吸をした。

肺に入ってくる空気すら、鉄錆のような味がする。

恐怖で足が重い。

帰りたい。フリーレンの元へ逃げ帰りたい。

だが、ここで逃げれば、フリーレンが死ぬ。

それだけは、絶対に許容できない。

「……行くぞ、ヒンメル。君ならできる。君は勇者だ。」

自分自身に暗示をかけるように呟き、ヒンメルは蔵の扉に手をかけた。

ギイィ、と錆びついた蝶番が悲鳴を上げる。

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中は薄暗かった。

埃の匂いと、カビの匂い。

乱雑に積み上げられた木箱や家具の山。

その奥、カウンターの向こうに、巨漢の老人が座っていた。

――ロム爺だ。

そして、その近くにはフェルトの姿もあった。

「誰だ、お前は。客か?」

ロム爺が怪訝そうに声を上げる。

ヒンメルは、努めて冷静に、そして傲岸に振る舞いながら歩み寄った。

「客だとも。少し、厄介な品物を買い取りに来た。」

「厄介な品物だと? ウチにあるのは全部厄介なシロモノだがな。」

ロム爺が笑う。

フェルトが警戒したようにこちらを睨んでいる。

「アンタ、さっき路地裏でぶつかりそうになった奴じゃん。何の用?」

「君が持っている徽章だ。それを買い取りたい。」

「はあ? アタシはこれから交渉相手と待ち合わせなんだよ。横取りしようってのかい?」

「その通りだ。その待ち合わせ相手よりも、高い値をつけよう。」

ヒンメルは懐から、金貨の入った袋を取り出し、カウンターに叩きつけた。

ジャラリ、と重い音が響く。

交渉などどうでもいい。

とにかく、エルザが来る前にフェルトから徽章を奪い、彼女たちを逃がさなければならない。

「……本気みたいだね。」

フェルトが金貨の袋に手を伸ばそうとした、その時だった。

コン、コン。

扉が、軽やかにノックされた。

ヒンメルの全身が総毛立った。

心臓が、握り潰されたように収縮する。

来た。

あの音が。

あの、死神の足音が。

「あーら、随分と賑やかね。」

扉が開き、甘ったるい声が室内に滑り込んできた。

黒いドレス。

豊満な肢体。

そして、長い黒髪を編み込んだ、妖艶な美女。

エルザ・グランヒルテ。

「……!」

ヒンメルは反射的に剣の柄を握りしめ、彼女の方へ向き直った。

呼吸が浅くなる。

視界が明滅する。

彼女の腰にある、あの凶悪なククリナイフの形状を見ただけで、腹部に幻痛が走る。

「おや? 予定よりお客さんが多いのね。」

エルザは、ヒンメルを見て微笑んだ。

その笑顔は、獲物を前にした肉食獣のそれだった。

「あなたは?」

「……ただの通りすがりさ。美しいお嬢さん。」

ヒンメルは口元を歪めて笑った。

その笑顔が引きつっていることを悟られないように。

「だが、残念ながらここは貸切でね。君には帰ってもらいたい。」

「あら残念。でも、私、諦めが悪いの。」

エルザの目が、すうっと細められた。

――殺気。

肌が粟立つほどの、濃密な殺意が空間を満たす。

「交渉決裂、ということかしら?」

「逃げろ! ロム、フェルト!」

ヒンメルは叫ぶと同時に、床を蹴った。

抜剣。

神速の一撃。

ヒンメルの剣技は、一介の冒険者のレベルを遥かに超えている。

銀閃がエルザの首を狙って走る。

キンッ!

硬質な金属音が響き、火花が散った。

エルザは、スカートの下から取り出したククリナイフで、ヒンメルの剣を受け止めていた。

――余裕の表情で。

「いい太刀筋ね。ゾクゾクしちゃう。」

「……ッ!」

重い。

細腕のどこにこれほどの力があるのか。

ヒンメルは鍔迫り合いから瞬時にバックステップを踏み、距離を取った。

「腸、見せてくれる?」

エルザが地を這うような低空姿勢から突っ込んでくる。

速い。

一度目の記憶よりも、さらに速く感じる。

ヒンメルは剣を振るい、彼女の連撃を弾く。

右、左、下、上。

あらゆる角度から飛んでくる凶刃。

一撃でも受ければ致命傷になる。

皮膚一枚向こう側に「死」がある感覚。

(怖い、怖い、怖い、怖い!)

脳内では絶叫が響き渡っている。

だが、身体は訓練された動きで反応していた。

恐怖が感覚を鋭敏にしているのか、エルザの動きがスローモーションのように見える瞬間がある。

――いける。

――防げる。

――これなら、時間を稼げる。

「ふふ、素敵。あなた、思ったよりも頑張るじゃない。」

エルザが楽しそうに笑う。

彼女のマントが、黒い翼のように舞う。

ヒンメルは必死に剣を振るい続けた。

汗が目に入る。

筋肉が悲鳴を上げる。

それでも、彼は立っていた。

背後にいる(はずの)フリーレンを守るために。

いや、今は彼女はいない。

だからこそ、戦える。

彼女に、僕の無様な姿を見せずに済む。

「はあッ!」

ヒンメルの剣が、エルザの頬を浅く切り裂いた。

赤い血が流れる。

「あら……顔に傷なんて、お嫁に行けなくなっちゃう。」

エルザが舌なめずりをして、さらに踏み込んでこようとした、その時だった。

「ヒンメル。」

その声は、戦場の空気を凍りつかせた。

平坦で、感情のない、聞き慣れた声。

ヒンメルの動きが、一瞬止まった。

――嘘だ。

――どうして。

入口の方へ視線を向けると、そこにはフリーレンが立っていた。

いつもの杖を手に、無表情でこちらを見ている。

「遅いから、探しに来たよ。……何してるの?」

「フ、フリーレン……!?」

ヒンメルの思考が真っ白になった。

来るなと言ったはずだ。

どうしてここにいる。

魔力探知か。

僕の魔力を辿ってきたのか。

「よそ見は、ダメよ。」

死神の囁きが、耳元で聞こえた。

エルザの標的が、一瞬の隙を見せたヒンメルから、入口のフリーレンへと切り替わる。

「エルフ? 珍しいわね。きっと、綺麗な腸をしてるんでしょうね。」

エルザが跳んだ。

ヒンメルを無視し、一直線にフリーレンへ向かう。

「やめろぉぉぉッ!!」

ヒンメルは叫んだ。

その瞬間、彼の脳裏に、鮮烈なフラッシュバックが起きた。

――赤い視界。

――腹を割かれる熱さ。

――フリーレンの悲鳴。

――彼女の足元に広がる、自分の血の海。

一度目の死の記憶が、現実の視界にオーバーラップする。

目の前の光景が歪む。

エルザの黒い背中が、あの時の恐怖そのものに見える。

(動け、動け、動け!)

ヒンメルは、無理やり身体を動かした。

フリーレンを殺させるわけにはいかない。

彼女の前に割り込み、あの刃を受け止めなければ。

だが、恐怖で強張った筋肉は、彼の意思よりもコンマ数秒遅れて反応した。

――その僅かな遅れが、致命的だった。

ヒンメルは、エルザの背後から斬りかかろうとした。

しかし、エルザは背中に目があるかのような動きで、空中で身をひねった。

黒いスカートが翻り、その下から伸びた脚が、ヒンメルの剣を持つ手を蹴り上げた。

「ぐっ!?」

剣が手から離れる。

丸腰。

無防備。

エルザの顔が、目の前にあった。

愉悦に歪んだ、美しい笑顔。

「さようなら、英雄さん。」

銀色の軌跡が見えた。

それは美しく、冷たく、そして絶対的な死の宣告だった。

熱。

首筋に、焼きごてを当てられたような熱さが走った。

直後、視界がぐるりと回転した。

天と地が逆転する。

天井の梁が見え、埃っぽい床が見え、そして――

首から鮮血を噴き上げて崩れ落ちる、青い服を着た男の胴体が見えた。

(ああ……あれは、僕だ。)

ヒンメルは、他人事のように理解した。

――僕は、斬られたのか。

――首を。

ゴト、という鈍い音と共に、視界が床に固定される。

痛みはない。

ただ、寒い。

急速に、世界から色が失われていく。

視界の端に、フリーレンの姿が見えた。

彼女は目を見開き、杖を取り落としていた。

その口が、「あ」の形で固まっている。

いつも冷静な彼女の顔が、絶望に染まっていく。

(見せて、しまった……)

ヒンメルは、動かないはずの指先を、彼女の方へ伸ばそうとした。

もちろん、手は動かない。

胴体とはもう、繋がっていないのだから。

ごめん、フリーレン。

君を守りたかったのに。

君に、こんな顔をさせたくなかったのに。

僕は、また……。

「ヒンメル……?」

震える声が、遠くから聞こえた。

それは、水底で聞く音のように歪んで、遠い。

暗闇が、視界の四隅から侵食してくる。

意識が溶けていく。

最後に残ったのは、窓から差し込む一筋の月光だけだった。

――蒼い、蒼い光。

彼女の瞳と同じ色。

それが、ヒンメルの二度目の死の、最後の景色だった。

 

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