ゼロから始める葬送のフリーレン   作:西方物理

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優しい嘘

指先に触れるリンガの表面は、記憶にあるよりもずっと硬く、冷たかった。

王都ルグニカの喧騒が、鼓膜を震わせる。

行商人の売り声。

馬車の車輪が石畳を噛む音。

遠くで聞こえる竜車の地鳴り。

それら全ての音が、一塊の圧力となってヒンメルに襲いかかってくる。

世界は鮮やかだった。

空は憎らしいほどに青く、雲は悠然と流れ、平和そのものの昼下がりが広がっている。

だが、ヒンメルはその光景を、曇ったガラス越しに見ているような感覚で眺めていた。

(……首が、ある。)

ヒンメルは、無意識のうちに自分の首筋へと手を伸ばしていた。

指先が皮膚に触れる。温かい。脈打っている。

ほんの数秒前――否、数時間後というべきか――彼が感じた最後の感覚は、焼けつくような熱と、視界が天地逆さまに回転する浮遊感だった。

骨が断たれる硬質な音。

肉が裂ける湿った音。

そして、自分が崩れ落ちる様を、転がった自分の視点から見上げるという、冒涜的な体験。

喉の奥から、酸っぱいものがせり上がってくる。

ヒンメルは口元を片手で覆い、必死に嗚咽を飲み込んだ。

胃袋が裏返るような強烈な拒絶反応。四肢の末端が冷え切り、心臓だけが早鐘を打って暴れている。

怖い。

怖い、怖い、怖い。

死ぬのは、これで二度目だ。

一度目の、腹を裂かれる灼熱の痛みも地獄だったが、二度目の、首を刎ねられる瞬間の冷たい絶望は、魂の深淵に氷の楔を打ち込まれたようだった。

何よりも、最期に見た光景が脳裏に焼き付いて離れない。

――フリーレン。

いつも冷静沈着で、感情の起伏など無縁に見える彼女が、目を見開き、呆然と立ち尽くしていた。

あんな顔をさせてしまった。

あんな絶望を、彼女に味あわせてしまった。

「……ッ、ふぅ、ふぅ。」

ヒンメルは短く呼吸を繰り返し、乱れる精神を強制的に鎮圧する。

ダメだ。ここで崩れてはいけない。

隣には、彼女がいるのだから。

ヒンメルはゆっくりと顔を上げ、隣を歩くエルフの少女を見た。

フリーレンは、珍しそうに大通りの屋台を眺めている。

その横顔は、二度目の死の直前に見た絶望の表情とは異なり、いつもの淡々とした、どこか眠たげなものだった。

彼女は何も知らない。

ヒンメルが二度死んだことも、彼女自身がエルザという殺人鬼に狙われたことも、何もかもが「無かったこと」になっている。

それが、どれほどの救いか。

そして、どれほどの孤独か。

「……ヒンメル? どうしたの、顔色が悪いよ。」

フリーレンが足を止め、不思議そうにこちらを覗き込んでくる。

その緑色の瞳。

澄んだ湖面のような、美しく冷ややかな色。

ヒンメルは反射的に、口角を吊り上げた。

筋肉が強張り、引きつりそうになるのを意思の力でねじ伏せ、いつもの「勇者ヒンメル」の仮面を被る。

「やれやれ、君には隠し事ができないな、フリーレン。」

声が震えなかったことに、ヒンメル自身が安堵した。

前髪をかき上げ、あえてキザな仕草で空を仰ぐ。

「この世界のあまりの眩しさに、僕の美貌も少しばかり嫉妬してしまったのかもしれないね。鏡がないのが残念だ。今の僕の憂いを帯びた表情は、きっと叙事詩の一節になるほど美しいはずなのに。」

「……はいはい。また始まった。」

フリーレンは呆れたように溜息をついた。

その反応に、ヒンメルの胸の奥が痛むと同時に、張り詰めていた糸がわずかに緩む。

――この日常だ。

――この、取るに足らない、平和で退屈なやり取り。

これを守るためなら、僕は何度だって化け物に腹を割かれよう。

何度だって首を差し出そう。

だが、同じことを繰り返しては意味がない。

一度目は無知ゆえに死んだ。

二度目は、情報を過信し、個人の武力を過信して死んだ。

エルザ・グランヒルテ。

あの女は、ただの暗殺者ではない。

異常な再生能力。人間離れした身体能力。そして何より、魔法使い殺しに特化した戦術眼を持っている。

正面から挑めば、今のヒンメルの実力では、勝率は限りなくゼロに近い。

そして、フリーレンを連れて行けば、彼女が標的になる。

彼女の魔法は強力だが、発動までのコンマ数秒の隙を、あの女は見逃さないだろう。

だから、嘘をつく。

彼女を遠ざけ、かつ、僕が単独で動くための、優しい嘘を。

「フリーレン。実はね、少し困ったことになった。」

ヒンメルは真剣な表情を作り、声を潜めた。

「困ったこと? お金ならまだあるよ。ヒンメルが無駄遣いしなければ。」

「いや、そうじゃない。……僕の『直感』の話だ。」

「直感?」

「ああ。勇者の勘、とでも言うべきかな。この世界に来てから、どうも不思議な感覚があるんだ。……少し先の未来が、断片的に見えるような気がする。」

それは、半分は真実で、半分は大嘘だった。

未来が見えるのではない。過去を見てきたのだ。

だが、そんなことを言えば、論理的な彼女は混乱するか、あるいはヒンメルの頭がおかしくなったと判断して、治療魔法をかけようとするだろう。

あるいは、ヒンメルが「死んだ」という事実を悟り、責任を感じてしまうかもしれない。

それだけは避けたかった。

「未来予知? そんな魔法、人間の体系にはないはずだけど。」

案の定、フリーレンは首を傾げた。

彼女にとって魔法とは理論と解析の対象であり、不確定なオカルトではない。

「魔法じゃないのかもしれない。この世界特有の……加護のようなものかな。とにかく、嫌な予感がするんだ。」

ヒンメルは彼女の目を見つめ、言葉に力を込めた。

「僕たちは、少し動き方を変えるべきだと思う。具体的には、この街の地理と、魔力の分布をもっと詳細に把握しておきたい。」

「それは、さっき魔導書を探しに行くって話した時に言えばよかったんじゃない?」

「いや、もっと広範囲だ。フリーレン、君にはこの王都の上空、結界のようなものがないか、あるいは魔力の澱みがないか、外周を回って調べてきてほしいんだ。」

それは、彼女を貧民街から、そして盗品蔵から物理的に最も遠い場所へ追いやるための口実だった。

王都の外周を回るとなれば、半日はかかる。

その間に、決着をつける。

「……ヒンメルが一人で、街中を?」

フリーレンの目が、すうっと細められた。

射抜くような視線。

彼女は、ヒンメルの嘘に気づいているのだろうか。

ヒンメルは心臓が跳ね上がるのを感じながらも、表情筋を微動だにさせず、微笑みを保ち続けた。

「僕は情報の裏を取りに行く。衛兵の詰め所や、商工会あたりで話を聞いてくるよ。君のような目立つ美女を連れていては、本音を聞き出せない相手もいるからね。」

「……ふーん。」

フリーレンは数秒間、じっとヒンメルの顔を見つめた。

その沈黙が、ヒンメルには永遠のように感じられた。

彼女の洞察力は侮れない。ヒンメルの些細な強がりや、隠し事を、彼女はいつだって見抜いてきた。

だが、今回だけは。

今回だけは、騙されてくれ。

「わかった。」

不意に、フリーレンは視線を外した。

「ヒンメルがそう言うなら、そうなんでしょう。勇者の勘は、馬鹿にできないからね。」

あっさりとした、拍子抜けするほどの承諾だった。

だが、その言葉の裏にある信頼の重さに、ヒンメルは胸が詰まる思いがした。

彼女は理由を聞かない。

ヒンメルが「必要だ」と言えば、それがどれほど非合理的でも、彼女は信じてくれる。

――その信頼を、僕は利用している。

「ありがとう、フリーレン。……日が暮れる頃に、中央広場の時計塔の下で落ち合おう。」

「うん。……死なないでね、ヒンメル。」

ドキリとした。

何気ない一言。冒険者同士が別れ際に交わす、常套句。

だが今のヒンメルには、それが呪いの言葉のように、あるいは全てを見透かした警告のように響いた。

「……ああ。もちろんさ。僕は勇者だからね。」

ヒンメルは、震える手をマントの下に隠し、背中を向けた。

振り返ってはいけない。

彼女の姿を見れば、きっと縋りつきたくなる。

「怖いよ、行きたくないよ、助けてよフリーレン」と、子供のように泣き叫びたくなる衝動を、鋼の理性で封じ込める。

フリーレンの足音が遠ざかっていく。

その音が雑踏に紛れて聞こえなくなった瞬間、ヒンメルは大きく息を吐き出し、近くの建物の壁に肩を預けた。

「……はは、情けないな。」

冷や汗がどっと噴き出してくる。

足が震えて、立っているのがやっとだった。

だが、立ち止まっている時間はない。

太陽は動き続けている。運命の歯車は回り続けている。

ヒンメルは顔を上げ、貧民街の方角――ではなく、貴族街の方角を睨みつけた。

「さて……方針転換だ。」

二度の死で学んだことがある。

個人の武力には限界があるということ。

そして、この世界には「魔王」や「勇者」という枠組みとは異なる、理不尽な力が存在しているということだ。

エルザ・グランヒルテ。

彼女を倒すには、僕の剣では足りない。魔法を使おうにも、フリーレンを巻き込むわけにはいかない。僕自身の魔法への適性も高くない。

――ならば、どうする?

盤面を変えるのだ。

プレイヤーを増やすのだ。

あの怪物を殺し切れるだけの、圧倒的な「暴力」を、味方につけるしかない。

ヒンメルは歩き出した。

足取りは重いが、その瞳には決意の光が宿っていた。

目指すは、この国の中枢に近い場所。あるいは、強者が集う場所。

人波をかき分けて進む。

ふと、路地の向こうから少女の走る姿が見えた。

金色の髪。風のように速い足取り。

――フェルトだ。

彼女が懐に抱えているのは、間違いなくサテラの徽章だろう。

そして、その後ろから――

「待ってー! お願い、返して!」

銀鈴のような声が響く。

銀髪のハーフエルフ。サテラ。

ヒンメルの足が止まる。

心臓が痛いほどに脈打つ。

一度目のループで、彼女はヒンメルに優しくしてくれた。傷を治してくれた。

二度目のループで、ヒンメルは彼女を罵倒し、遠ざけた。

今、ここで声をかければ、また彼女と関わることになる。

彼女は困っている。大事なものを盗まれて、必死に走っている。

助けるべきだ。

それが勇者だ。

困っている人を前にして、損得勘定で動くなど、ヒンメルの美学に反する。

(……だけど。)

ヒンメルは、物陰に身を隠した。

唇を噛み締め、拳を握りしめる。爪が掌に食い込み、血が滲む。

もし今、僕が彼女に関われば、必然的にフリーレンも巻き込まれるリスクが高まる。

運命の修正力とでも言うべきものが、僕たちをあの盗品蔵へと導いてしまう気がする。

サテラを助けたい。その気持ちは嘘じゃない。

けれど天秤にかけたとき、僕の世界の全てであるフリーレンの命よりも重いものなど、この世には存在しないのだ。

「……すまない。」

ヒンメルは、走り去るサテラの背中に向かって、音にならない声で謝罪した。

――見捨てる。

勇者が、弱きを見捨てる。

その事実に、自己嫌悪で胸が張り裂けそうになる。

僕はなんて矮小で、卑怯な男なんだろう。

歴史に名を残す英雄? 笑わせる。僕はただの、臆病な子供じゃないか。

それでも、ヒンメルは踵を返した。

今は、泥を啜ってでも、プライドをドブに捨ててでも、最善の手を打たなければならない。

感情ではなく、理屈で動くんだ。

冷徹になれ。

目的のためなら手段を選ばない、魔族のような思考をしろ。

ヒンメルは、大通りのさらに奥、王城に近い区画へと足を向けた。

衛兵たちの姿が増える。

行き交う人々の身なりが良くなる。

ここで、探すのだ。

エルザという異常に対抗できる、更なる異常を。

あてもなく歩き回ること数十分。

ヒンメルの肌が、チリチリと粟立つ感覚を覚えた。

殺気ではない。魔力でもない。

もっと純粋で、根源的な――「存在の圧」のようなもの。

人混みが、自然と割れていくのが見えた。

海がモーゼのために割れるように、雑踏が左右に開き、一本の道ができる。

その道を、一人の青年が歩いてくる。

燃えるような赤髪。

澄み渡る青空のような瞳。

身に纏う白の騎士服は一点の汚れもなく、その腰には装飾過多にも見える立派な騎士剣が帯びられていた。

ヒンメルは、呼吸を忘れた。

本能が警鐘を鳴らしている。

あれは、なんだ?

人間か?

いや、あれは――災害だ。

台風や地震と同じ、人の形をした自然現象だ。

ヒンメルはかつて、魔王と対峙したことがある。

あの時感じた、絶対的な死の予感。

南の勇者と呼ばれる男に会った時に感じた、底知れなさ。

目の前の青年から漂う気配は、それらと同質か、あるいはそれ以上の「理不尽」を孕んでいた。

青年は、道端で転んだ子供に手を差し伸べ、優しく微笑んでいた。

その笑顔の、なんと清らかなことか。

一点の曇りもない、正義の具現化。

彼がそこにいるだけで、周囲の空気が浄化され、世界が彼を祝福しているようにすら見える。

「……見つけた。」

ヒンメルの乾いた唇から、言葉が漏れた。

彼だ。

彼なら、あのエルザを、赤子の手をひねるように屠れるだろう。

彼こそが、この物語の「本物の主人公」なのかもしれない。

僕のような、虚勢と嘘で塗り固められた偽物とは違う、真の英雄。

名前も知らない。

所属も知らない。

だが、ヒンメルの「勇者の勘」が叫んでいる。

――この男を逃してはならない。

――この男を、あの盗品蔵へ誘導することができれば、全てが解決する。

青年――ラインハルト・ヴァン・アストレアは、子供の頭を撫でると、再び優雅な足取りで歩き出した。

ヒンメルは、群衆に紛れてその後を追う。

距離を取る。

近づきすぎれば、彼のような手合いにはすぐに感づかれるだろう。

だが、見失うことはない。

彼の存在感は、闇夜の灯台のように強烈だ。

(どうやって接触する? 助けを求めるか?)

いや、それは悪手だ。

衛兵でもない僕が、突然「貧民街で殺人が起きる」と言ったところで、信じてもらえる保証はない。

それに、下手に事情を話せば、僕自身が怪しまれる。

――自然な形で。

――あくまで偶然を装い、彼をあの場所へ導かなければならない。

ヒンメルは思考を加速させる。

脳内で、幾通りものシミュレーションを重ねる。

一度目と二度目の死の記憶が、ノイズのように思考を邪魔する。

首の断面が熱い。腹が熱い。

けれど、今のヒンメルには希望があった。

圧倒的な強者という、確かな希望が。

(待っていてくれ、フリーレン。)

ヒンメルは、前を行く赤髪の背中を見据えながら、心の中で最愛の人の名を呼んだ。

(君の手を汚させはしない。君に、僕の死体を見せたりはしない。そのために、僕は道化にでも悪魔にでもなろう。)

英雄の矜持など、犬に食わせればいい。

見栄もプライドも、鏡の前だけで十分だ。

今の僕は、ただの一人の、恋する男だ。

それだけで、命を賭ける理由としては十分すぎる。

ヒンメルは、雑踏の影に身を潜めながら、赤髪の剣聖の後を追跡し始めた。

その背中は、かつて魔王城へ向かった時のような華々しさはなく、どこまでも泥臭く、必死で、そして人間臭いものだった。

空には、まだ蒼い月は見えていない。

だが、ヒンメルにはわかっていた。

夜は必ず来る。

そして、その夜こそが、運命の分水嶺となるのだと。

――勇者ヒンメルの、三度目の挑戦が、静かに幕を開けていた。

 

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