王都ルグニカの目抜き通りは、昼下がりの陽光を浴びて白く輝いていた。
行き交う人々の喧騒。
馬車の車輪が石畳を叩く音。
風に乗って運ばれてくる、香辛料と果実の甘い匂い。
そのすべてが、今のヒンメルには遠い世界の出来事のように感じられた。
彼の視界の中心には、ただ一点、鮮烈な「赤」が存在していた。
ラインハルト・ヴァン・アストレア。
雑踏の中を歩くその青年の周囲だけ、まるで神話の再現のように空間が浄化されている。
彼が歩けば人が道を譲り、
彼が微笑めば泣いていた子供が泣き止む。
それは魔法などという小手先の技術ではない。
世界そのものが、彼という存在を愛し、祝福しているのだという事実を、ヒンメルは肌で感じ取っていた。
(……これが、剣聖)
ヒンメルは群衆に紛れ、一定の距離を保ちながら彼を追っていた。
心臓が早鐘を打っている。
それは憧れによる高揚感などではない。
食物連鎖の最下層にいる小動物が、頂点捕食者を前にした時に抱く、根源的な畏怖だった。
魔王を倒した勇者である自分が、異世界の剣士一人にこれほど気圧されている。
その事実に、ヒンメルは乾いた笑いを噛み殺した。
(僕の世界の魔王とも違う。南の勇者とも違う。これは……そう、災害だ)
理不尽なほどの強さの塊。
しかし、その「理不尽」こそが、今のヒンメルが喉から手が出るほど欲しているものだった。
エルザ・グランヒルテという、死の螺旋をもたらす腸狩り。
あの女の凶刃から、フリーレンを守り、を救い、そして自分自身が生きて明日を迎えるためには、この規格外の英雄を盤面に引きずり込むしかない。
ヒンメルは深く息を吸い込み、肺の中の空気をすべて入れ替えた。
震える指先を強く握り込み、掌に爪を食い込ませる。
痛みが、恐怖で麻痺しかけていた思考を現実に引き戻す。
行くぞ。
ヒンメルは群衆の影から、一歩、光の中へと踏み出した。
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「おや、少し道を間違えてしまったかな」
ヒンメルは、あたかも独り言のように呟きながら、ラインハルトの進行方向のやや前方、絶妙な位置に足を止めた。
そして、何気なく空を仰ぎ、前髪を指で梳く。
その動作は、これまでの旅路で何千回と繰り返してきた、勇者ヒンメルの「型」だ。
どんなに内臓が恐怖で裏返っていても、このポーズをとれば、彼は「勇者」になれる。
「この美しい都の構造は、僕の冒険心ほどに複雑怪奇だ。あるいは、僕という存在を留めておきたくて、道そのものが迷路に姿を変えたのかもしれないね」
周囲の通行人が、奇異の目でヒンメルを見た。
だが、その視線こそが狙いだった。
雑踏の中で異彩を放つ言動。
それは、あまねく人々の救済を使命とする「正義の味方」の注意を引くには十分すぎる釣り針だ。
案の定、燃えるような赤髪の青年が足を止めた。
その澄み渡る空色の瞳が、まっすぐにヒンメルを捉える。
ヒンメルは背筋に冷や水を浴びせられたような錯覚を覚えた。
見られている。
いや、見透かされている。
自分の身体の構造、筋肉の動き、あるいは魂の色までもが、その瞳の前では丸裸にされているようだった。
「……何か、お困りですか?」
ラインハルトの声は、春の日差しのように穏やかで、礼儀正しかった。
ヒンメルはゆっくりと視線を彼に向け、そして驚いたふりをして目を丸くした。
演技ではない。
至近距離で対峙した彼から放たれる「圧」に、本能が悲鳴を上げた反応を、演技にすり替えただけだ。
「これは失礼。独り言を聞かれてしまうとは、勇者として少々脇が甘かったようだ」
「勇者……?」
ラインハルトがわずかに眉を動かした。
ヒンメルは不敵な笑みを崩さず、大仰にマントを翻した。
「いかにも。僕はヒンメル。しがない冒険者であり、勇者だ。……君からは、不思議な風格を感じるね。まるで、研ぎ澄まされた名剣そのものが人の形をして歩いているようだ」
それは半分がお世辞で、半分が本心だった。
ラインハルトは謙遜するように苦笑し、軽く頭を下げた。
「過分な評価です。僕はラインハルト。ラインハルト・ヴァン・アストレア。しがない騎士ですよ」
「アストレア……」
ヒンメルはその名を口の中で転がした。
知らない名だ。
だが、この世界においてその名がどれほどの重みを持つかは、周囲の空気の変化で察せられた。
ヒンメルは一歩、彼に近づいた。
その一歩が、断崖絶壁の縁を歩くような緊張感を伴う。
「ラインハルト。君のような高潔な騎士に出会えたのは、きっと運命の導きだろう。実は、君のその清廉な正義感を見込んで、耳に入れておきたい『悪い予感』があるんだ」
「悪い予感、ですか」
ラインハルトの瞳から、笑みの色が消えた。
代わりに宿ったのは、真剣な剣士の眼差しだ。
「ああ。僕の勘はよく当たるんでね。……貧民街の方角から、血と鉄の匂いがする。それも、ただの喧嘩沙汰じゃない。もっとドス黒い、悪意の塊のような何かが、動き出そうとしている気配だ」
嘘ではない。
ヒンメルは知っているのだ。
数時間後、あの場所で何が起きるかを。
自分の腹が裂かれ、首が飛び、フリーレンが絶望の表情で立ち尽くす未来を。
その記憶がフラッシュバックし、ヒンメルの右手が小刻みに震えそうになる。
それを悟られまいと、彼は腰の剣の柄に手を添え、強く握りしめた。
ラインハルトは、じっとヒンメルの目を見ていた。
嘘を見抜こうとしているのか。
それとも、ヒンメルという人間の本質を探ろうとしているのか。
数秒の沈黙が、永遠のように感じられた。
ヒンメルの額に、じわりと冷たい汗が滲む。
もし、ここで彼に「狂人の戯言」と切り捨てられれば、万策が尽きる。
「……わかります」
不意に、ラインハルトが言った。
「え?」
「貴方の言葉には、嘘の響きがない。それに、貴方ご自身からも……不思議な気配を感じます。世界の外側から来た風のような、掴みどころのない、けれど確かな信念の在り処を」
ラインハルトの言葉に、ヒンメルは息を飲んだ。
彼は気づいているのか。ヒンメルがこの世界の住人ではないことを。
「君ほどじゃないさ」
ヒンメルは自嘲気味に笑った。
それは、この会話の中で初めて見せた、彼の素顔に近い表情だったかもしれない。
「僕はただの人間だ。少しばかり運が良くて、少しばかり仲間に恵まれていただけの、ただの男だよ」
そう、君のような「完成された怪物」とは違う。
死ねば終わりの、脆く弱い、紛い物の勇者だ。
ラインハルトは首を横に振った。
「いいえ。貴方のその瞳は、多くのものを背負ってきた人の目だ。……わかりました。ヒンメル様。その予感、無視するにはあまりに具体的だ」
「信じてくれるのかい?」
「騎士として、民の危機を見過ごすわけにはいきませんから。ただ……」
ラインハルトは申し訳なさそうに視線を落とした。
「今すぐに同行することはできないのです。実は、非番の日ではあるのですが、急ぎ確認しなければならない案件がありまして」
断りか。
ヒンメルの心臓が凍りついた。
ダメだ。彼がいなければ、勝てない。
「……そうか。それは残念だ」
平静を装う声が、わずかに上ずりそうになる。
「ですが」
ラインハルトは顔を上げ、力強く言った。
「用事が済み次第、すぐにその場所へ向かいます。貧民街の、どのあたりでしょうか」
「……一番奥まった場所にある、盗品蔵だ。巨人の老人が番をしている」
「把握しました。日没までには、必ず」
必ず。
その言葉の響きに、ヒンメルは救われる思いがした。
剣聖の約束。それは、王の勅命よりも重く、確実なもののように感じられた。
「感謝するよ、ラインハルト。君が来てくれるなら、百人力だ」
「いえ、礼を言うのはこちらです。貴方の警告がなければ、手遅れになっていたかもしれない」
ラインハルトは美しい所作で敬礼した。
「では、後ほど。……ヒンメル様、どうかご無事で」
赤髪の英雄は、颯爽と背を向け、人混みの中へと消えていった。
その背中が見えなくなった瞬間、ヒンメルはその場に崩れ落ちそうになる膝を、気力だけで支えた。
「……はは。寿命が縮んだよ」
壁に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。
成功した。
最強のカードを、盤上に置くことができた。
あとは、彼が来るまで持ちこたえるだけだ。
……持ちこたえる?
誰が?
僕がだ。
僕と、フリーレンが。
あの化け物を相手に。
「……行くか」
ヒンメルは自分の頬を両手で叩き、無理やり口角を吊り上げた。
鏡がなくてもわかる。今の自分は、最高にいい顔をしているはずだ。
恐怖に打ち勝つために笑う。
それは、勇者ヒンメルが勇者であるための、唯一にして最大の魔法なのだから。
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王都の煌びやかな街並みは、貧民街に入った途端、汚泥と腐敗のそれに変わった。
崩れかけたレンガの壁。
異臭を放つ水路。
生気のない目をした住人たち。
その薄暗い路地の片隅で、ヒンメルはフリーレンと合流していた。
「遅いよ、ヒンメル」
フリーレンは、瓦礫の上に腰掛け、手元の魔導書をパタンと閉じた。
その表情には焦りも不安もなく、ただ日常の延長のような気怠さが漂っている。
「すまないね。少しばかり、運命の女神とダンスを踊っていたものでね。ステップを踏むのに手間取ってしまった」
ヒンメルは軽口を叩きながら、彼女の隣に立った。
フリーレン。
彼女の銀色の髪が、夕暮れの薄明かりを吸って鈍く光っている。
その姿を見るだけで、胸が締め付けられるような愛おしさと、強烈な罪悪感が湧き上がる。
彼女を、またこの死地に連れてきてしまった。
遠ざけるべきだったのかもしれない。
だが、エルザの襲撃地点が「盗品蔵」である以上、サテラを救うには、そこへ行くしかない。
そして、フリーレンを一人で王都に残せば、もし自分が死んだ後、彼女がどうなるかわからない。
結局、僕は彼女を盾にしているだけではないのか。
自己嫌悪が泥のように思考を埋め尽くしそうになる。
「……ヒンメル、すごく汗臭い」
フリーレンが鼻をひくつかせ、率直な感想を述べた。
「失礼な。これは男の勲章、芳しい努力の香りと言ってくれたまえ」
「はいはい。で、わかったの? 悪い予感の正体」
「ああ。……やはり、この先の盗品蔵だ。そこで、あまりよろしくない取引が行われるらしい」
ヒンメルは盗品蔵の方角を指差した。
巨大な石造りの倉庫。
今はまだ静まり返っているが、間もなくあそこは鮮血の舞台となる。
「ふーん。じゃあ、行こうか」
フリーレンが立ち上がろうとするのを、ヒンメルは手で制した。
「いや、まだだ。主役の到着を待とう」
「主役?」
「強力な助っ人を呼んである。彼が来るまでは、様子見だ。……無駄な戦闘は避ける。それが賢い冒険者のやり方だろう?」
「ヒンメルがそれを言うなんて珍しいね。いつもなら、困っている人がいれば一番に飛び込んでいくのに」
フリーレンの何気ない指摘が、鋭い棘となって心臓に刺さる。
そうだ。かつての僕なら、そうしていただろう。
だが、今の僕は知っているのだ。
飛び込んだ先に待っているのが、理不尽な死であることを。
勇気と無謀は違う。
そして、恐怖を知らない勇気など、ただの傲慢だ。
「……時には、慎重にもなるさ。僕も大人になったということだよ」
ヒンメルは寂しげに微笑んだ。
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時間が過ぎていく。
空が茜色から群青色へ、そして漆黒へと染まっていく。
盗品蔵の周辺に、夜の帳が下りる。
ヒンメルたちは、蔵が見渡せる廃ビルの陰に身を潜めていた。
その間、人の出入りがあった。
大柄な老人、ロム爺。
金髪の少女、フェルト。
そして、銀髪の少女、サテラ。
役者は揃った。
だが、肝心の「切り札」が来ない。
「……遅いな」
ヒンメルは焦燥に駆られ、貧民街の入り口の方角を何度も確認した。
ラインハルトは来ない。
何かトラブルがあったのか。それとも、場所を間違えたのか。
掌の汗が止まらない。
心臓の音がうるさすぎて、耳鳴りがする。
視界の端で、フリーレンが欠伸をした。
「ねえヒンメル、もう夜だよ。お腹空いた」
「もう少しだ。もう少しだけ待ってくれ」
その時だった。
闇夜に溶け込むような、黒い影が現れたのは。
派手な露出の黒衣。
長い黒髪。
そして、手にはククリ刀のような異形の刃物。
エルザ・グランヒルテ。
ヒンメルの呼吸が止まった。
彼女が歩くたびに、死の匂いが濃厚に漂う。
腹の傷が熱を持った。
首の断面が疼いた。
脳裏に、あの時の音が蘇る。
肉が裂ける音。フリーレンの叫び声。
(う、ぷ……)
嘔吐感がこみ上げ、ヒンメルは口元を押さえた。
ガタガタと歯が鳴るのを、必死に食い縛って止める。
怖い。逃げたい。今すぐここから走り去って、宿の布団に潜り込みたい。
あいつは人間じゃない。戦ってはいけない相手だ。
エルザが、盗品蔵の扉の前に立った。
コンコン、と扉を叩く音が、死神のノックのように響く。
中にはサテラがいる。フェルトがいる。ロム爺がいる。
このまま放っておけば、全員殺される。
前回のループと同じ結末だ。
「……ヒンメル?」
フリーレンが、怪訝そうにヒンメルの顔を覗き込んだ。
彼女には見えているのだろうか。ヒンメルの蒼白な顔色が。脂汗に濡れた額が。
「……震えてるの?」
その問いかけに、ヒンメルはハッとした。
震えている。情けないほどに、全身が。
フリーレンに見られた。僕の弱さを。僕の恐怖を。
いやだ。
彼女にだけは、格好悪いところを見せたくない。
彼女の記憶の中の「勇者ヒンメル」は、いつだって余裕で、強くて、輝いていなければならないんだ。
ヒンメルは大きく息を吸い込み、震える膝を手のひらで引っぱたいた。
パァン、という乾いた音が、夜気に響く。
それは、自分自身への叱咤であり、恐怖をねじ伏せるための儀式だった。
「……武者震いさ、フリーレン」
ヒンメルは立ち上がった。
マントを翻し、いつものように胸を張る。
胃液が逆流しそうなのを飲み込み、顔面蒼白のまま、それでも彼は最高にキザな笑みを浮かべた。
「寒気がするほどの悪党の気配に、僕の正義の血が騒いで止まらないんだ」
嘘だ。
全部嘘だ。
けれど、嘘をつき通せば、それは真実になる。
ラインハルトはまだ来ない。
待っていては間に合わない。
なら、やることは一つだ。
彼が来るまでの時間を、僕が稼ぐ。
命をチップにして、時間を買うんだ。
「フリーレン」
ヒンメルは剣を抜き放ち、その切っ先を月明かりにかざした。
そして、隣に立つ最強の魔法使いに、真剣な眼差しを向ける。
「これから突入する。……一つだけ、約束してほしい」
「なに?」
フリーレンが杖を構える。
その瞳には、戦闘態勢に入った魔導士特有の冷徹な光が宿っている。
ヒンメルは、彼女の耳元に顔を寄せ、静かに、しかし断固たる口調で告げた。
「もし戦闘が始まったら、防御魔法を使わないでくれ」
フリーレンの目が、わずかに見開かれた。
「……どういうこと? 防御魔法なしで、前衛を務めるヒンメルを援護しろってこと?」
「そうだ」
「非合理的だよ。ヒンメルが死ぬ確率が上がる」
彼女の言う通りだ。
通常のセオリーなら、魔法使いは防御魔法で前衛を守りつつ、攻撃魔法を放つ。
だが、相手はエルザだ。
彼女の攻撃は、通常の防御魔法など紙切れのように切り裂く。
そして何より、防御魔法を展開した瞬間、フリーレンの足が止まる。視界が遮られる。
あの女のスピードに対して、「守る」という選択肢を選んだ時点で、死ぬのだ。
それに。
もしフリーレンが防御に徹すれば、エルザの興味は「硬い殻に閉じこもった魔法使い」に移るかもしれない。
あの女は、腸を引きずり出すことに快楽を覚える異常者だ。
魔法使いの腹の中身に興味を持たれたら、おしまいだ。
だから、僕が囮になる。
僕が動き回り、斬り結び、注意を一身に引き受ける。
フリーレンには、攻撃に専念してもらう。
彼女の圧倒的な火力で、エルザを牽制し続けるしかない。
「僕を信じてくれ、フリーレン」
ヒンメルは彼女の肩に手を置いた。
「君の魔法は最強だ。守りなんて必要ない。攻撃こそが最大の防御だ。……それに」
ヒンメルは、震えを隠した手で、自分の胸を叩いた。
「僕は勇者ヒンメルだぞ? そう簡単に死んだりしないさ」
三度目の死を覚悟しながら、彼はそう言った。
フリーレンは数秒間、ヒンメルの瞳をじっと見つめた。
その瞳の奥にある、恐怖や決意を読み取ろうとするように。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「……わかった。ヒンメルの指示に従う」
「ありがとう」
ヒンメルは安堵の息を漏らす間もなく、盗品蔵へと視線を戻した。
扉が開かれ、エルザが中へと消えていく。
中から、微かな悲鳴が聞こえた気がした。
「行くぞ、フリーレン!」
ヒンメルは地面を蹴った。
勇者の足取りで。英雄の背中で。
心の中では「助けてくれ」と泣き叫びながら、彼は死地へと飛び込んでいった。
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盗品蔵の中は、重苦しい沈黙と、殺意の予感に満ちていた。
扉を蹴破り、ヒンメルが飛び込んだ瞬間、室内の全員の視線が彼に集中した。
交渉が決裂し、まさに戦闘が始まろうとしていた最中だったのだろう。
中央には、氷の魔法で威嚇するサテラと、それを守るように立つ精霊パック。
床には、傷ついたロム爺と、震えるフェルト。
そして、それらを見下ろす位置に、妖艶な笑みを浮かべたエルザが立っていた。
「おや? お客さんが増えたようね」
エルザが、恍惚とした声で呟く。
その視線が、ヒンメルを舐めるように這う。
肌が粟立つ。
蛇に睨まれた蛙のような、生理的な拒絶反応。
「誰だか知らないけど、関係ないなら出て行ってくれないかしら」
「そうはいかないな」
ヒンメルは、サテラとエルザの間に割って入った。
背中でサテラを庇う。
その背中が、恐怖で汗ばんでいることを、後ろの少女に気づかれないように。
「僕は勇者ヒンメル。……通りすがりの、美しき少女たちの味方さ」
剣を構える。
切っ先が、わずかに揺れた。
それを誤魔化すように、ヒンメルは言葉を紡ぐ。
「女性をいじめるのは感心しないな。特に、そんな物騒な刃物で、可憐な内臓を傷つけようとするのは、レディの嗜みとしてはいかがなものかな?」
「あら、いい男」
エルザが目を細めた。
その瞳が、獲物を見つけた喜びに歪む。
「貴方のそのお腹の中身……どんな色をしているのかしら。温かいのかしら。鮮やかなのかしら」
彼女が一歩、足を踏み出す。
床板が軋む音すらしない。
速い。
記憶にあるよりも、ずっと速い。
死のイメージが、現実を侵食してくる。
「フリーレン!」
ヒンメルが叫ぶと同時だった。
後方から、閃光が走った。
フリーレンの放つ『魔族を殺す魔法(ゾルトラーク)』。
漆黒の奔流が、エルザに向かって一直線に突き進む。
「──ッ!」
エルザが反応し、人間離れした跳躍でそれを回避した。
魔法は壁に着弾し、盗品蔵の壁をごっそりと消滅させた。
「……すごい威力。魔法使い様も一緒なのね」
エルザが天井の梁の上に着地し、楽しそうに笑う。
ヒンメルは剣を強く握り直した。
冷や汗が目に入る。
だが、口元だけは笑う。
さあ、ショーの始まりだ。
ラインハルトが来るまで、この命、どこまで持つか。