天井の梁の上。
夜闇と化した盗品蔵の、最も高い場所に――
死が、身を潜めていた。
闇夜に溶ける、黒いボンデージのような衣装。
艶やかな長い黒髪を一本に編み込み、手には歪曲したククリ刀。
エルザ・グランヒルテ。
ヒンメルはその姿を見上げたまま、
口の中で乾いた唾を飲み込んだ。
喉がひきつる音が、自分自身の耳の中だけで――
雷鳴のように響く。
(怖い。だが、僕の恐怖は、彼女の武器にはならない)
ヒンメルは、震えそうになる右手を、
腰のマントの下で強く握りしめた。
爪が掌に食い込み、血が滲む。
その痛みを意識の錨にして、彼は顔を上げた。
そして、
春の日差しのような、穏やかで不敵な笑みを浮かべる。
「やあ。
随分と高いところがお好きなようだね。
だが、レディの振る舞いとしては――
少々お転婆が過ぎるんじゃないかな?」
梁の上のエルザが、妖艶に目を細めた。
「あら……。
死に急ぎたいのかしら?
それとも、私と踊りたいの?」
「ダンスのパートナーに指名されるのは光栄だが、
君のステップは少々激しすぎる」
ヒンメルは剣を抜き放った。
月光を浴びて、刀身が青白く輝く。
「僕のパートナーは、そっちの無愛想なエルフだけで手一杯でね」
「……ヒンメル、無駄口が多い」
隣に立つフリーレンが、杖を構えたまま淡々と言った。
彼女の視線は――
エルザを人間として見ていない。
排除すべき害虫、あるいは分析すべき魔法現象として捉えている目だ。
「来るよ」
フリーレンの警告と同時に、空気が弾けた。
梁の上から、黒い影が重力を無視したような加速で、
落下しながら襲いかかってくる。
速い。
わかっていても、目が追いつかない。
ヒンメルは反射的に剣を振り上げた。
金属音。
火花が散り、手首に痺れが走る。
ククリ刀の一撃を受け止めたのではない。
軌道を逸らしたのだ。
まともに受ければ、安物の剣などバターのように切断されていただろう。
「あら、いい反応」
エルザが目の前で微笑んだ。
至近距離。
甘い香水と、鉄錆のような血の匂いが鼻孔を突く。
――死の匂いだ。
「君ほどじゃないさ!」
ヒンメルは剣を返し、エルザの胴を薙ぐ。
だが、刃が届くよりも早く、彼女はバックステップで距離を取っていた。
「ゾルトラーク」
間髪入れず、フリーレンの魔法が放たれる。
漆黒の閃光。
人を殺す魔法。
だが、エルザはその殺意の塊を、紙一重で回避した。
背後の木箱が消滅し、粉塵が舞い上がる。
「魔法使い様も、なかなか激しいのね」
エルザは床に着地するやいなや、再び地面を蹴った。
今度はジグザグに動き、的を絞らせない。
狙いは――ヒンメルだ。
(痛い、怖い、吐きそうだ)
脳内で警鐘が鳴り響く。
だが、ヒンメルは笑っていた。
冷や汗で顔を濡らしながら、
蒼い瞳だけは力強く輝かせて。
「そっちこそ、随分と熱烈なアプローチだね!
僕のファンの女の子たちも、もう少し慎み深いよ!」
軽口を叩きながら、ヒンメルは剣を振るう。
防戦一方。
一秒持ちこたえるごとに、寿命が一年縮まるような感覚。
それでも、彼は前に立つ。
「フリーレン!」
「わかってる」
ヒンメルが大きくバックステップを踏んで距離を取った瞬間、
その空間を埋めるように魔法の光弾が殺到した。
フリーレンによる飽和攻撃。
逃げ場のない弾幕。
だが、エルザは北風に舞う黒い羽のように、
その弾幕の隙間を縫って接近してくる。
「厄介だね」
フリーレンが小さく呟く。
「きゃはッ!」
エルザが笑い声をあげながら、ククリ刀を投擲した。
回転する刃が、ヒンメルの喉元を狙う。
ヒンメルは剣で弾き飛ばすが、
その衝撃で体勢を崩した。
――隙ができた。
「素敵なお腹を見せてちょうだい!」
エルザが懐に飛び込んでくる。
その手に握られたもう一本のククリ刀が、
ヒンメルの腹部を切り裂こうと迫る。
死の感触が、肌に触れる寸前――
――ズドン!!
轟音と共に、エルザの体が横に吹き飛ばされた。
フリーレンの魔法だ。
ヒンメルの脇をすり抜けるような精密射撃。
貫通力ではなく、衝撃力を高めた質量弾。
「……ヒンメルに触るな」
フリーレンの声が、氷点下まで下がっていた。
彼女の周囲の空気が凍てつき、ピキピキと音を立てている。
吹き飛ばされたエルザは、壁を蹴って体勢を立て直し、床に着地した。
その口元から血が流れ、左腕が不自然な方向に曲がっている。
だが、その瞳の狂気は消えていない。
「……痛い。痛いわ。でも、素晴らしい。
魔法使い様、貴方の内臓はきっと、最高に美しい色をしているのでしょうね」
エルザの殺気が、ヒンメルから――
サテラへと移った。
一番奥で、精霊と共に身構えている銀髪の少女。
(まずい)
ヒンメルは直感した。
この怪物は、手っ取り早く依頼を達成し、自分たちを無視するつもりだ。
「君の相手は僕だと言ったはずだ!」
ヒンメルが叫び、前に出る。
だが、エルザは彼を無視した。
脱兎の如き速さで、壁を駆け上がり、
ヒンメルとフリーレンの頭上を飛び越え、
サテラのもとへ。
「邪魔よ、精霊!」
氷の礫を粉砕しながら突っ込む。
速い。本気だ。
サテラが目を見開き、恐怖に硬直している。
――ダメだ。
ヒンメルは全力で地面を蹴った。
間に合わない距離。
それでも、彼は自分の身を投げ出して、
人間の盾になろうとした。
背中に刃を受ける覚悟で。
(フリーレン。
君には、僕の無様な死に顔を見せたくない)
エルザの刃が振り下ろされる。
サテラの喉元へ。
ヒンメルの剣は届かない。
――ズドン!!
轟音と共に、黒い影が真横に弾き飛ばされた。
再び、フリーレンの不可視の衝撃波だ。
ヒンメルは、自分がまだ生きていることに呆然としながら、
勢い余って床に転がった。
「遅いよ、ヒンメル」
フリーレンは、こともなげに言った。
彼女は杖を突き出し、倒れたヒンメルではなく、
壁に激突したエルザを見据えている。
「私が援護するって言ったでしょ。
ヒンメルが盾になる必要なんてない」
彼女の精度は、ヒンメルの動きの予測を、完全に上回っていた。
ヒンメルが飛び出すのと同時のタイミングで、
エルザだけに命中させるという――
神業に近い魔力制御。
ヒンメルは安堵と、少しの驚きに息を飲んだ。
彼女は、常に僕を信じている。
僕の行動パターンを、誰よりも理解している。
「……はは。
信頼されているね、僕は」
ヒンメルは起き上がり、埃を払った。
死ぬところだった。だが、生きている。
壁の瓦礫の中から、エルザがゆらりと立ち上がる。
血を流し、腕は曲がっているが、その狂気は衰えていない。
「まだ踊り足りないのかい?
君の体力には脱帽だよ」
ヒンメルは剣を構え直す。
もう、腕の感覚がない。
それでも、彼は前に立つ。
「ええ、アンコールよ。
今度こそ、全員の腸を――」
エルザが再び構えようとした、その時だった。
天井が、爆ぜた。
いや、天井どころではない。
盗品蔵の壁一面が、まるで紙細工のように吹き飛び、
夜空が丸見えになったのだ。
舞い落ちる瓦礫。
巻き上がる砂煙。
そのすべてが、ある一点の存在を中心にして、
恭しく道を譲るように静止した。
月光を背負って、その青年は降り立った。
燃えるような赤髪。
澄み渡る青空の瞳。
ラインハルト・ヴァン・アストレア。
剣聖。
「――待たせたね、ヒンメル」
その声は、戦場には似つかわしくないほど穏やかで、優しかった。
ヒンメルは、体中の力が抜けていくのを感じた。
間に合った。
「……遅いよ、ヒーロー。
主役は遅れてやってくるものだとは知っていたが、
もう少し早めに来てくれないと、
僕の見せ場がなくなってしまうところだった」
ラインハルトは申し訳なさそうに苦笑し、
それからゆっくりとエルザの方へ向き直った。
その瞬間、エルザの顔から笑みが消えた。
本能的な恐怖。
「……剣聖」
エルザが呻くように言った。
「噂には聞いていたけれど、これほどの怪物だとはね」
「怪物とは心外ですね。
僕はただの騎士ですよ」
ラインハルトは、腰の剣には手をかけず、
ただそこに立っているだけだった。
それだけで、勝負は決していた。
エルザもそれを理解したのだろう。
「今日のところは、退かせてもらうわ。
腸の色を確認するのは、またの機会に」
エルザは魔石を床に叩きつけ、
黒い煙が爆発的に広がる。
ラインハルトが突風で煙を一瞬で晴らしたが、
そこにはもう、エルザの姿はなかった。
静寂が戻る。
「……逃げられたか」
ヒンメルは、ようやく剣を鞘に納めた。
立っているのがやっとだ。
だが、彼は崩れ落ちたりはしない。
優雅に振り返った。
「やれやれ。
美しい月夜の晩餐にしては、
少々スパイスが効きすぎていたね」
「ヒンメル」
フリーレンが近づいてくる。
彼女はヒンメルの体をペタペタと触り、怪我がないか確認し始めた。
「痛くない? 血は出てない?」
「大丈夫さ。
僕の華麗な身のこなしを見ただろう?
かすり傷一つないよ」
――嘘である。
それでも、彼は笑った。
血は流していない。生きている。
その事実だけで、ヒンメルは安堵した。
「……よかった」
フリーレンが、小さく息を吐いた。
「あの……」
恐る恐る、声をかけてきたのは、銀髪の少女だった。
彼女は隣に浮かぶ猫の精霊と一緒に、ヒンメルたちの前に進み出た。
その紫紺の瞳が、涙で潤んでいる。
「助けてくれて、本当にありがとう。
貴方たちが居なかったら、私……」
「礼には及ばないよ、お嬢さん」
ヒンメルは、最高の勇者スマイルを向けた。
「困っている人を助けるのは、冒険者の務めだからね。
それに、君のような美しい女性が悲しむ顔は見たくない」
少女は、ヒンメルの言葉をじっと聞いた後、深呼吸をした。
そして、これまで名乗っていた名ではない――
真の名を口にした。
「あの、私……」
一度、言葉を区切る。
ラインハルトの鋭い視線が、彼女に注がれている。
その視線から逃げず、少女ははっきりと前を向いた。
「私の名前は、エミリア。
……ずっと、人から嫌われないように、別の名前を名乗っていたけれど。
貴方たちに助けられたのに、嘘をついているのは、もう嫌だから」
エミリア。
その名を口にした時、彼女の顔には、
一筋の強い意志が宿っていた。
ヒンメルは満足そうに頷いた。
「エミリア。
とても美しい名前だ」
「……ありがとう」
エミリアは少し照れたように微笑んだ。
「申し遅れました」
ラインハルトが、二人の間に割って入るように歩み寄ってきた。
彼は深く頭を下げた。
「私の到着が遅れたばかりに、皆様を危険な目に遭わせてしまいました。
騎士として、深くお詫び申し上げます」
「いや、君が来てくれなければ、今頃僕らはミンチになっていたよ。
感謝する、ラインハルト」
ヒンメルが手を差し出すと、
ラインハルトはその手を強く握り返した。
「……ところで、エミリア様。
貴方がずっと名乗られていた『サテラ』という名は……」
「ラインハルト」
ヒンメルは、彼の言葉を遮った。
「彼女は、自分の勇気で真の名を明かしたばかりだ。
過去の過ちを蒸し返すのは、野暮というものだよ。
重要なのは、彼女が今、ここで生きているということ。
そして、僕たちが彼女をエミリアとして、受け入れるということさ」
フリーレンが欠伸をした。
「ヒンメルがそう言うなら、そうなんじゃない?
私は名前なんてどうでもいいよ。
……エミリア、覚えた」
その気の抜けたコメントに、張り詰めた空気が一気に緩んだ。
ラインハルトは、毒気を抜かれたように苦笑した。
「……そうですね。
貴方方の前では、私の常識も意味をなさないようだ」
ラインハルトは再び頭を下げた。
「怪我の手当が必要でしょう。
治療院まで案内します」
「ああ、頼むよ。
……それと、お腹が空いたな。
この街で一番美味しい店も教えてくれるかい?」
ヒンメルが歩き出す。
フリーレンは小走りで彼に追いつき、その手を握った。
ヒンメルが驚いてこちらを見る。
(フリーレン?)
フリーレンは何も言わず、ただ前を向いて歩き続けた。
その手を握る力が、少しだけ強い。
(ああ、そうか。
僕が怖がっているのを、隠そうとしているんだな)
ヒンメルは、彼女の不器用な愛情表現に、
胸が締め付けられるような愛おしさを覚えた。
彼の内側の恐怖は、
彼女の温かい手によって、少しだけ溶けていった。
月が、静かに二人を見守っていた。
――終わりのない死の螺旋が、
ほんの一時の休息を迎えた夜だった。