ゼロから始める葬送のフリーレン   作:西方物理

8 / 38
凍りついた傷

破壊の嵐が過ぎ去った後の静寂は、いつだって耳が痛くなるほどに重苦しい。

王都の貧民街——その一角にある盗品蔵は、

もはや建物としての機能を半分以上喪失していた。

天井は吹き飛び、

壁は拉げ、

月明かりが遠慮なく、瓦礫の山を照らし出している。

粉塵が舞う空気の中には――

鉄錆のような血の匂い、

魔法が炸裂した後に残るオゾン臭、

そしてあの腸狩りの女が残していった甘ったるい香水の残り香が、

不快なカクテルのように混ざり合っていた。

ヒンメルは、瓦礫の一つに腰を下ろし、

ゆっくりと、長く息を吐き出した。

肺の中の空気をすべて入れ替えるように。

体の中に溜まった熱と恐怖を、夜風に溶かしてしまうように。

心臓の鼓動は、まだ早鐘を打っている。

指先の震えは、まだ止まらない。

だが、顔を上げる時には――

彼はそのすべてを「勇者」という仮面の下に押し込めていた。

「やれやれ。

王都観光の締めくくりとしては、

少々刺激が強すぎるアトラクションだったね」

ヒンメルは前髪をかき上げながら、軽口を叩いた。

その声に震えがないことを、彼自身が一番安堵しながら確認する。

視線の先では、

ラインハルト・ヴァン・アストレアという規格外の英雄が、

周囲の安全を確認しているところだった。

赤い髪の青年は、瓦礫の山をまるで平地のように歩き、

崩れかけた壁を片手で支え、逃げ遅れた者がいないか確かめている。

その所作の一つ一つに無駄がなく、

それでいて、どこまでも優雅だった。

――本物の英雄だ、とヒンメルは思った。

剣の腕前だけではない。

その精神のあり方、他者への配慮、

纏っている空気の清廉さ。

どれをとっても、

物語の中から飛び出してきたような「騎士」そのものだった。

(僕とは大違いだ)

心の中で、自嘲が漏れる。

ヒンメルは自分の膝の上で握りしめられた拳を見た。

さっきまで、死の恐怖に怯え、

吐き気を堪えていた自分の弱さ。

あの黒い服の女――エルザ・グランヒルテの刃が迫った時、

走馬灯のように脳裏をよぎったのは、

かっこいい最期などではなく、

ただ「死にたくない」という、原始的な叫びだった。

もし、ラインハルトの到着が数秒でも遅れていたら。

もし、フリーレンの援護が一瞬でもズレていたら――

今頃、この美しい青髪の勇者は、

無惨な肉塊となって床に転がっていただろう。

想像するだけで、胃の腑が冷たくなる。

「……ヒンメル」

ふいに、隣から声をかけられた。

フリーレンだ。

彼女はいつの間にかヒンメルのすぐそばに立って、

じっと彼の顔を覗き込んでいた。

その淡い緑色の瞳は、相変わらず感情の色が薄い。

だが、長い付き合いであるヒンメルにはわかる。

彼女の瞳の奥にある、微かな揺らぎ――

それは心配であり、焦燥であり、

あるいは安堵でもある。

「ああ、フリーレン。どうしたんだい?

僕の整った顔立ちに見惚れてしまったのかな?」

ヒンメルはニカっと笑って見せた。

いつもの冗談。

いつものナルシシズム。

それが、フリーレンを安心させるための合図だ。

「……ううん。顔色が悪いから」

フリーレンは、ヒンメルの軽口をスルーして、

淡々と事実を指摘した。

「魔力切れでもないのに、汗がすごい。

どこか痛むの?」

彼女の手が伸びてくる。

ひんやりとした小さな掌が、ヒンメルの額に触れた。

その冷たさが心地よくて、

ヒンメルは思わず目を細めそうになる。

「ただの運動不足さ。

最近、馬車での移動が多かったからね。

これくらい激しい運動をすると、すぐに息が上がってしまう」

「……そう」

フリーレンは納得していない様子だったが、

それ以上追求することはしなかった。

彼女は手を引っ込めると、今度は杖を振って、

ヒンメルの服についた埃を魔法で払い落とし始めた。

シュッ、シュッ――

小さな風が起こり、瓦礫の灰が舞い散る。

「綺麗好きだね、君は」

「服が汚れると、洗濯が面倒だから」

フリーレンは素っ気なく答える。

その合理的な理由付けが、いかにも彼女らしくて、

ヒンメルは少しだけ心が軽くなった。

この異世界において、

彼女の変わらないドライさは――

ヒンメルにとって唯一の「日常」であり、救いだった。

________________________________________

「お怪我はありませんか、皆様」

瓦礫の確認を終えたラインハルトが、

こちらに戻ってきた。

その隣には、

銀髪の少女――エミリアと、

猫の精霊パック、

そして薄汚れた服を着た大男と小柄な少女が並んでいる。

盗品蔵の主・ロム爺と、盗人フェルトだ。

彼らもまた、ラインハルトの手によって無事に保護されたらしい。

「僕たちはピンピンしているよ、ラインハルト。

見ての通り、かすり傷一つない」

ヒンメルは立ち上がり、両手を広げてアピールした。

ラインハルトは、その澄んだ青い瞳でヒンメルを上から下まで観察し、

ほっとしたように微笑んだ。

「それは何よりです。

ところで、ヒンメルはあのエルザと互角に渡り合っていた。

並大抵の剣技ではありません。

正直、私が到着しなくても、いずれ撃退されていたのではないですか?」

「買いかぶりすぎだよ。

僕はただ、必死に逃げ回っていただけさ。

君のような一撃必殺の技なんて持っていないからね」

――謙遜ではなく、事実だ。

だが、ラインハルトは首を横に振った。

「いいえ。

あの状況で、誰も死なせずに時間を稼ぐというのは、

敵を倒すことよりも難しい。

貴方の勇気と判断力に、敬意を表します」

まっすぐな賞賛。

眩しい。

あまりにも眩しすぎて、ヒンメルは少し目を逸らしたくなった。

自分が、本当はただ震えていただけの男であることを、

この剣聖に見透かされているような気がして。

「……あの、ヒンメルさん、フリーレンさん」

エミリアが一歩、前に進み出てきた。

彼女の手には、取り返したばかりの徽章が握りしめられている。

その瞳はまだ少し潤んでいたが、

先ほどの怯えの色は消え、

代わりに強い意志の光が宿っていた。

「改めて、お礼を言わせてください。

本当に、ありがとうございました。

貴方たちが居なかったら、私――

大切なものを取り戻せなかったし、命も……」

「エミリア」

ヒンメルは、彼女の名前を呼んだ。

サテラという偽名ではなく、

彼女が勇気を出して告げた本名を。

「君が無事でよかった。

それが何よりの報酬だよ。

それに、君の大切なものが戻ってきたのなら、

僕たちの苦労も報われるというものさ」

「……はい」

エミリアは、花が咲くように破顔した。

その笑顔の美しさに、

周囲の空気が一瞬明るくなったような錯覚を覚える。

やはり彼女は、

ただ守られるだけの少女ではない。

芯の強さと、他者を思いやる優しさを持った、

気高い魂の持ち主だ。

ヒンメルはそう確信した。

「さて、感動の再会も済んだことだし、

場所を変えようか。

ここは少し風通しが良すぎる」

ヒンメルが提案すると、全員が頷いた。

空にはまだ、白い月が浮かんでいる。

夜はまだ、終わっていなかった。

________________________________________

盗品蔵を離れ、大通りへ向かって歩き出した一行。

ラインハルトはフェルトとロム爺を――

連行というよりは保護する形で先導し、

エミリアとパックはそのすぐ後ろを歩いている。

ヒンメルとフリーレンは、少し遅れて最後尾を歩いていた。

貧民街の道は悪く、

石畳は剥がれ、

汚水が溜まった水たまりがあちこちにある。

ヒンメルは足元に気をつけながら、

ふと、自分の右腕に違和感を覚えた。

(……あれ?)

鈍い痛み――

いや、痛みというよりは、痺れに近い感覚。

先ほどの戦闘中、エルザのククリ刀を受け流した時の衝撃が残っているのだろうか。

そういえば、確か一度、それなりに深く一度切られたはずだ。

フリーレンに心配させないように、

ヒンメルはさりげなくマントの下で右腕の袖を捲り上げた。

街灯の薄暗い光の下で、自分の腕を確認する。

そこには――

何もなかった。

傷一つない。

あざも、切り傷も、打撲の痕跡すらもない。

白く、滑らかな肌が、そこにあるだけだった。

(おかしいな)

ヒンメルは眉をひそめた。

記憶が確かならば、二度目の打ち合いの時――

エルザの変則的な斬撃を避けきれず、

右の前腕を浅く切り裂かれたはずだ。

熱い痛みが走り、

血が袖を濡らした感触があった。

実際、今着ているシャツの袖は、

刃物で切られたように鋭く裂けている。

繊維がほつれ、そこから覗く肌。

――服は破れているのに、

その下の皮膚は無傷。

まるで、新品の人形のように。

「……なんだ、これ」

ヒンメルは思わず足を止めた。

違和感の正体は、ただ「傷がない」ことだけではなかった。

治癒魔法をかけられた後のような、

細胞が活性化する温かさがない。

ポーションを使った時のような、

痒みや熱もない。

ただ、冷たい。

右腕だけが、まるで氷水に浸けた後のように冷え切っていて、

そこだけ時間が止まっているような――

あるいは、そこだけ時間が「巻き戻された」ような、

奇妙な感覚。

指先で肌をなぞってみる。

感覚はある。

だが、触れているのに、触れていないような――

薄い膜が一枚隔たっているような疎外感。

自分の体なのに、自分のものではないような不気味さが、

背筋を這い上がってくる。

(切られたはずだ。

絶対に、切られた)

脳裏に、鮮明な映像がフラッシュバックする。

刃が肉を裂く感触。

噴き出す血の赤さ。

焼けるような痛み。

それらは幻覚だったのか?

いや、そんなはずはない。

僕は勇者だ。

戦いの中で、自分が受けたダメージを見誤るほど、

未熟ではないつもりだ。

では、なぜ?

「ヒンメル?」

立ち止まったヒンメルに気づいて、

フリーレンが振り返った。

彼女の視線が、

ヒンメルが捲り上げていた右腕に注がれる。

ヒンメルは反射的に、袖を戻してマントで隠した。

「ああ、ごめん。

石につまずいてしまってね。

暗い夜道は、僕のような輝く男にとっても危険がいっぱいだ」

咄嗟に出た嘘。

しかし、フリーレンの目は誤魔化せなかった。

彼女は無言でヒンメルに近づくと、

強引にマントをめくり、右腕を掴んだ。

「……冷たい」

フリーレンが呟く。

彼女の指先が、破れた袖の隙間から、ヒンメルの肌に触れる。

「ヒンメル、怪我は?」

「ないよ。見ての通りさ」

ヒンメルは努めて明るく答えた。

「服は切られてしまったけれどね。

お気に入りのシャツだったから残念だ。

でも、中身が無事なら安いものさ」

「……変だね」

フリーレンは、ヒンメルの腕を離そうとしなかった。

彼女は目を細め、

まるで未知の魔法陣を解析するかのような、

鋭く、冷徹な眼差しでヒンメルの腕を見つめている。

「さっき、戦ってる時……切れてなかった?」

――ドキリと、心臓が跳ねた。

やはり、彼女も見ていたのだ。

エルザの刃が、ヒンメルの腕を捉えた瞬間を。

血が飛沫を上げた瞬間を。

「……あれは、血じゃなくて、レンガの粉だよ。

夕焼けのせいで赤く見えたんじゃないかな?」

「今は夜だよ」

「街灯の光とか、いろいろあるだろう?

とにかく、僕は無傷だ。

かすり傷一つない。

勇者だからね、肌も丈夫にできているんだよ」

ヒンメルは強引に腕を引き抜き、

フリーレンの頭をポンと撫でた。

「心配してくれてありがとう、フリーレン。

でも、本当に大丈夫だから」

フリーレンは、撫でられた頭をそのままに、

じっとヒンメルを見上げていた。

――納得していない。

彼女の直感が、何かの異常を感知している。

魔力感知に優れた彼女には、

ヒンメルの腕に起きている「現象」が、

微かなノイズとして見えているのかもしれない。

だが、彼女はそれを言語化できないようだった。

それが「治癒」でも「再生」でもない、

もっと異質で、根源的な何かの改変であることを、

彼女の知識体系では説明がつかないのだ。

「……わかった」

しばらくの沈黙の後、

フリーレンは小さく頷いた。

「ヒンメルがそう言うなら、そうなんでしょう。

でも、無理はしないで。

……死なないでよ」

最後の言葉は、とても小さく、

風にかき消されそうなほど儚かった。

「ああ、約束するよ」

ヒンメルは微笑んだ。

その笑顔は、完璧だったはずだ。

鏡の前で何千回も練習した、

人々を安心させるための、勇者の笑顔。

だが、その内側で――

ヒンメルは悲鳴を上げていた。

(なんだ、これは)

フリーレンに背を向け、再び歩き出したヒンメルの背中を、

冷たい汗が伝う。

腕の感覚がおかしい。

傷が消えた場所を中心に、

まるで異物が埋め込まれたような――

あるいはそこだけ空間が切り取られたような空虚感がある。

治ったのではない。

これは――「無かったこと」にされたのだ。

誰が?

どうやって?

わからない。

ただ一つ確かなのは、

この現象が、自然の摂理に反する極めて歪なものであるということだ。

僧侶のハイターが使う女神様の魔法のような、

神聖な光ではない。

もっと――

ドロドロとした、執着にも似た重い鎖のような何かが、

僕の体を現世に縫い止めているような感覚。

(痛い、怖い、気持ち悪い)

思考の連鎖が恐怖を増幅する。

それから逃れようと、独り言のように、心の中で繰り返す。

さっきの戦闘の恐怖が、形を変えて蘇ってくる。

死ぬことへの恐怖ではない。

「死ねないかもしれない」ことへの――

根源的な恐怖。

もし、また首を刎ねられても、

こうやって「無かったこと」になるのだろうか?

例えば跡形もなく体をバラバラにされたら?

その時、痛みはどうなる?

記憶はどうなる?

回数制限はあるのか?

もしかして無限なのか?

――僕という存在は、

人間として死ぬことを許されるのだろうか?

吐き気がこみ上げてくる。

胃液が食道を逆流しそうになるのを、

ヒンメルは奥歯を噛み締めて無理やり飲み込んだ。

隣を歩くフリーレンには、

絶対に悟られてはいけない。

彼女は鋭い。

そして、僕のことを大切に思ってくれている。

だからこそ、

僕が「化け物」になりつつあるかもしれないなんてこと――

知られたくない。

彼女の中の「ヒンメル」は、

いつだってかっこよくて、少しナルシストで、

でも頼りになる人間の勇者でなければならないのだ。

________________________________________

「ヒンメル様、フリーレン様、こちらです」

前方から、ラインハルトの声がした。

彼は大通りの辻に停めてあった竜車の方を示している。

「フェルトとロム爺は衛兵の詰所へ連れて行きますが、

エミリア様と貴方方は、一度休まれた方がいい。

私の家の別邸が近くにあります。

そこで傷の手当と、休息を取るのが良いでしょう」

「それは助かる。

正直、もう一歩も動きたくない気分だったんだ」

ヒンメルは顔を上げ、快活に答えた。

恐怖も、吐き気も、右腕の違和感も――

すべてを、笑顔の仮面の下に隠して。

「フリーレン、行こうか。

温かいお風呂と、美味しい食事が待っているかもしれないよ」

「……ん。お腹すいた」

フリーレンは、まだ少し不審そうな顔をしていたが、

それでもヒンメルの隣に並んだ。

二人の影が、月明かりに照らされて路地に伸びる。

(……フリーレン)

隣でウトウトと船を漕ぎ始めた彼女の寝顔を見つめる。

無防備で、あどけない寝顔。

数千年の時を生きるエルフにとって、

人間の寿命など瞬きのようなものだ。

だからこそ、

彼女との一瞬一瞬を大切にしたいと思っていた。

美しく老いて、

彼女に見守られながら、

静かに眠るように死にたいと思っていた。

だが、この世界は――

僕にそんな当たり前の最期すら許してくれないのだろうか。

竜車が動き出す。

ガタゴトという車輪の音が、

ヒンメルの不安を打ち消すように響く。

王都の夜景が窓の外を流れていく。

その光の一つ一つが、

ヒンメルには遠い世界の出来事のように見えた。

彼は、自分の震える右手を、

左手で強く握りしめた。

――凍りついた傷は、まだ溶けない。

________________________________________

竜車の中は、奇妙な沈黙に包まれていた。

向かいの席には、エミリアとパックが座っている。

エミリアは膝の上で手を組み、

時折チラチラとヒンメルの方を見ては、

何か言いたげに唇を動かし、また俯く――

という動作を繰り返していた。

「……あの」

意を決したように、彼女が口を開いた。

「どうしたんだい、エミリア。

そんなに僕の顔を見つめられると、

穴が空いてしまいそうだ」

ヒンメルは、窓の外から視線を戻し、柔らかく微笑んだ。

「いえ、その……

改めて、自己紹介をさせてほしくて」

エミリアは居住まいを正した。

「私はエミリア。……ただのエミリア。

ハーフエルフで、精霊使い。

……それと、王選候補者の一人、らしいの」

王選候補者。

その言葉に、ヒンメルは眉を上げた。

この国の王を決める選挙に出るということか。

「へえ、それはすごい。

未来の女王陛下と一緒に馬車に乗れるなんて、光栄だね」

「……そんな、陛下だなんて」

エミリアはぶんぶんと手を振った。

「それに、私は……その、

ハーフエルフだから。

銀髪で、ハーフエルフだから、

みんなから怖がられていて……」

言葉尻が尻すぼみになる。

彼女の抱えるコンプレックス。

差別と偏見。

この世界における「魔女」の影が、

彼女に付きまとっていることを、

ヒンメルはこれまでの会話の端々から察していた。

「関係ないよ」

ヒンメルは即答した。

「え?」

「君がハーフエルフだろうが、未来の王様だろうが、

僕にとっては関係ない。

君は、困っている時に助けを求め、

助けられたらきちんとお礼が言える、

心の綺麗な女の子だ。

それだけで十分じゃないか」

ヒンメルの言葉に、エミリアは目を丸くした。

そして、隣で眠るフリーレンに視線を移す。

「……フリーレンさんも、エルフ、なのよね?」

「ああ。

彼女は僕よりずっと長生きで、ずっと強い。

まあ、性格には少々難があるけれど」

ヒンメルが言うと、

眠っているはずのフリーレンが、

こくりと頷いた気がした。

「私、エルフの方に会うのは初めてで……。

その、フリーレンさんは、私のこと、どう思うのかなって……」

ハーフエルフは、

エルフからも人間からも疎まれる存在。

エミリアはそれを気にしているのだろう。

ヒンメルは苦笑した。

「彼女はね、他人の種族や生まれなんて、

これっぽっちも気にしていないよ。

彼女が気にするのは、新しい魔法と、魔導書の在り処と、

美味しいスイーツのことくらいさ」

「……むにゃ。スイーツ……」

フリーレンが寝言を漏らす。

そのあまりのタイミングの良さに、

エミリアは「ふふっ」と吹き出した。

先ほどまでの緊張した表情が解け、

年相応の少女らしい笑顔が戻る。

「ふふ、面白い方ね、フリーレンさんは」

「だろう?

退屈しない旅の道連れさ」

ヒンメルも笑った。

エミリアの笑顔を見て、少し救われた気がした。

自分の言葉で、誰かが笑顔になる。

その事実が、

ヒンメルが「勇者」であることを繋ぎ止めてくれる。

たとえ、右腕の感覚がなくとも。

たとえ、得体の知れない運命に巻き込まれていようとも。

――目の前の誰かを救うことはできる。

「……リア、そろそろ着くよ」

エミリアの肩に乗っていたパックが、

窓の外を見て言った。

竜車は、貴族街の静かな通りに入っていた。

石畳は綺麗に整備され、街灯の数も多い。

大きな鉄柵の門の前で、竜車が止まる。

「着きましたよ」

御者台からラインハルトの声がした。

――アストレア家の別邸。

今夜の休息の地。

ヒンメルは深呼吸をして、

フリーレンの肩を揺すった。

「起きるんだ、フリーレン。着いたよ」

「……んん……。もう朝?」

「まだ夜だよ。でも、ベッドで寝られるぞ」

「……ベッド……」

フリーレンは目をこすりながら、

ふらふらと立ち上がった。

ヒンメルは彼女の手を引いて、竜車を降りる。

地面に降り立った瞬間――

右腕にピリッとした痛みが走った気がした。

幻痛。

あるいは、凍りついた時間が、

融解しようとしているのか。

ヒンメルは痛みを無視して、

エミリアに手を差し伸べた。

「さあ、行こう。エミリア」

エミリアはその手を取り、竜車を降りた。

その手は温かかった。

生きた人間の温もり。

それに比べて、自分の右手は――

やはりどこか冷たい気がした。

(大丈夫だ、僕は生きている)

ヒンメルは自分に言い聞かせる。

ラインハルトが門を開け、彼らを招き入れる。

その背中を見ながら――

ヒンメルはもう一度、マントの下で右腕を強く握りしめた。

凍りついた傷は、何も語らない。

ただ、静かに、そこにあった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。