ゼロから始める葬送のフリーレン   作:西方物理

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眠らない夜

王都の夜は、どこまでも深く、そして残酷なほどに静かだった。

貧民街(スラム)の、あの鼻をつくような汚水の臭いも、腐った板きれが軋む音も、ここではもう聞こえない。アストレア家の別邸に用意された客室は、文句のつけようがないほど快適だった。分厚い絨毯は足音を完全に吸い込み、磨き上げられた窓ガラスは外気を遮断し、天蓋付きのベッドは王侯貴族が身を預けるにふさわしい柔らかさを誇っている。

だが、その静寂こそが、今のヒンメルにとっては拷問に等しかった。

音がなさすぎる。平和すぎる。

そのせいで、耳の奥にこびりついた「あの音」が、いつまでも消えてくれない。

肉が裂ける、湿った音。骨が砕ける、乾いた音。そして、自分の喉から漏れたはずの、情けない空気が抜けるような、最後の呼吸音。

「……ふう」

ヒンメルは、豪奢な椅子に深く腰掛けたまま、天井を見上げてため息をついた。眠れない。目を閉じようとすると、瞼の裏に鮮血の赤が焼き付く。

数時間前、あの盗品蔵で起きた出来事は、記憶と呼ぶにはあまりにも鮮明で、現実と呼ぶにはあまりにも理不尽だった。

彼は右手を腹部に当てた。シャツの上から、自分の腹を確かめる。

ある。ちゃんと、繋がっている。

温かい。柔らかい。臓器がこぼれ落ちることなく、皮膚と筋肉によって守られている。

だが、指先の感覚とは裏腹に、脳髄は別の信号を送り続けていた。そこには、巨大な刃物によって横一文字に切り裂かれた断層があるはずだ、と。熱い鉄の塊をねじ込まれたような焼ける痛みと、そこから急速に熱が失われていく寒気が、幻覚として彼を苛んでいた。

(僕は、斬られた)

それは確信だった。腸狩りのエルザ。あの妖艶な殺人鬼の凶刃は、確かにヒンメルの胴体を薙ぎ払った。勇者として鍛え上げた反射神経も、幾多の魔族を葬ってきた剣技も、あの理外の速さの前には意味をなさなかった。

世界が回転し、視界が赤く染まり、そして暗転した。

**死んだ。**間違いなく、僕は一度死んだのだ。

だというのに、次の瞬間、僕は無傷で立っていた。

まるで、書き損じた手紙を丸めて捨て、新しい便箋を取り出したかのように。あるいは、壊れた玩具をこっそりと新品にすり替えたかのように。

過程も理屈も無視して、結果だけが「生存」へと書き換えられていた。

「……趣味が悪いな、神様というのは」

ヒンメルは独りごちる。誰もいない部屋に、彼の低く魅力的な声だけが響く。

彼は立ち上がり、洗面台へと向かった。そこに備え付けられた大きな鏡。銀の水銀で裏打ちされた、曇りひとつない鏡面。そこに映るのは、世界を救うに足る、類稀なる美貌を持った青年の姿だ。

蒼い髪は月光を吸い込んで艶やかに輝き、涼やかな目元には知性と慈愛が宿っている。左目の下の泣きぼくろが、彼の完璧な容姿に人間味という名の愛嬌を添えていた。

**勇者ヒンメル。**誰もが憧れ、誰もが頼りとする、希望の象徴。

「うん。やはり僕は、寝不足でさえも絵になってしまうな」

彼は鏡の中の自分に向かって、にやりと笑いかけた。完璧な角度。完璧な口角の上がり方。指先で前髪を払い、顎を少し上げて見せる仕草。それは、長年の旅の中で培われた、呼吸をするのと同じくらい自然な「勇者の所作」だった。

だが。

(……顔色が、悪いな)

内心の独白だけは、正直だった。鏡の中の勇者は笑っている。けれど、その肌は白磁のように蒼白で、まるで血が通っていないかのように見えた。血管が透けて見えそうなほどに白い肌は、美しさというよりも、ある種の不気味さを孕んでいる。それはまるで、精巧に作られた蝋人形か、あるいは棺桶の中で眠る死者の装いのようだった。

ヒンメルは、鏡に手を伸ばした。冷たいガラスの感触。鏡の中の自分もまた、こちらに手を伸ばしてくる。その瞳の奥に、隠しきれない恐怖が揺らめいているのを、ヒンメルだけが見て取った。

怖い。死ぬのが怖いのではない。「死ねない」ことが、怖いのだ。

死という絶対的な結末を拒絶し、何度でもこの肉体を現世に縛り付ける「何か」が、自分の中に巣食っている。その正体不明の力が、自分の意思とは無関係に作動していることが、たまらなく恐ろしかった。

もし、次もまた斬られたら? 首を落とされたら? ミンチにされたら?

それでも僕は、また何食わぬ顔で、この鏡の前に立っているのだろうか。その時、僕の心はまだ「人間」のままでいられるのだろうか。痛みだけが蓄積され、魂だけが磨り減り、最後にはただ笑うだけの美しい肉塊になってしまうのではないか。

「……っ、ぅ」

吐き気が込み上げた。胃液が食道を逆流する、酸っぱい感覚。

ヒンメルは洗面台の縁を両手で強く握りしめ、必死に嘔吐感を堪えた。指の関節が白くなるほど力を込める。ガタガタと、洗面台の水差しが微かに音を立てる。それは、彼の体の震えが伝播した音だった。

(止まれ。止まれ、止まれ)

震えを止めろ。恐怖を押し殺せ。

お前は勇者ヒンメルだ。仲間を、民を、そしてあの銀髪の少女を導くべき光だ。

光が震えてどうする。光が陰ってどうする。

フリーレンが見ているかもしれない。もしかしたら今までどこかに隠れていたハイターが、アイゼンが、壁の向こうで耳を澄ませているかもしれない。彼らに、この無様な姿を見せるわけにはいかない。彼らの記憶に残る僕は、いつだって余裕綽々で、強くて、美しい勇者でなければならないのだ。

ヒンメルは大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。腹の底に溜まった恐怖の澱を、無理やり外へ押し出すように。

そして、もう一度鏡を見た。口角を上げる。眉を整える。瞳に力を込める。

「……大丈夫。僕は、強い」

それは自己暗示であり、祈りだった。

________________________________________

その時。

何の前触れもなく、客室の扉が開いた。ノックの音はなかった。ドアノブが回る音さえしなかった。ただ、空気がふわりと動いた気配だけがあった。

「……ヒンメル」

その声は、鈴を転がすように澄んでいて、しかし感情の抑揚に乏しい、平坦な響きを持っていた。

ヒンメルは弾かれたように振り返った。そこに立っていたのは、小柄なエルフの少女だった。

フリーレン。長い旅の仲間。そして、ヒンメルが誰よりも大切に想い、誰よりも真実を知られたくない相手。

彼女は寝間着代わりの簡素なシャツを纏い、豊かな銀髪を無造作に背中に流していた。その緑色の瞳が、じっとヒンメルを見つめている。まるで、顕微鏡で未知の鉱物を観察するかのような、冷徹で、しかしどこか無垢な視線。

「……やあ、フリーレン。どうしたんだい? 僕の美しさが夜闇を通して君を呼んでしまったかな?」

ヒンメルは瞬時に「勇者」の仮面を被った。声のトーンを下げ、優雅に片手を広げて見せる。心臓は早鐘を打っていたが、表情筋は完璧に制御されていた。いつもの軽口。いつものナルシシズム。これで彼女は呆れ、いつものように「気持ち悪い」と言って去っていくはずだ。

だが、フリーレンは帰らなかった。

彼女は無表情のまま、ペタペタと裸足で部屋に入ってきた。そして、ヒンメルの目の前まで歩み寄ると、じっと彼の顔を見上げた。

「魔力の流れが、乱れてる」

彼女の言葉は、的確に核心を突いていた。

「……え?」

「部屋の外まで漏れてたよ。ヒンメルの魔力、すごくうるさい。あれじゃあ、熟睡できない」

フリーレンは眉をひそめ、迷惑そうに言った。

魔力。ヒンメル自身は魔法使いではないため、自分の魔力を知覚することはできない。だが、フリーレンのような高位の魔法使いにとって、感情の乱れは魔力の波長となって現れることがあるという。今のヒンメルの内にある混沌――恐怖、混乱、焦燥、そして死への拒絶――が、無意識のうちに周囲の大気へ干渉していたのかもしれない。

「そ、そうか。それはすまないことをしたね。……少し、興奮していたのかもしれない。何せ、今日は色々なことがありすぎたから」

「そうだね。王都の観光も、盗品蔵での戦いも、全部面倒くさかった」

フリーレンは淡々と言い放つと、ヒンメルの横を通り過ぎ、部屋の中央にあるソファへと向かった。そして、当然のようにそこに座り込み、隣をポンポンと手のひらで叩いた。

「座って」

「……え?」

「座って、ヒンメル。鎮めるから」

拒否権はないようだった。ヒンメルは戸惑いながらも、言われるがままに彼女の隣に腰を下ろした。ソファが沈み込む。隣に座る彼女の体温が、微かに伝わってくる。

ほんのりとした、花のようないい匂いがした。それは、血と錆の臭いに支配されていたヒンメルの嗅覚を、優しく洗い流してくれるような香りだった。

フリーレンは、隣に座ったヒンメルの方へ体を向けると、躊躇いなく手を伸ばした。その小さくて白い手が、ヒンメルの頭に触れる。

「……フリーレン?」

「じっとしてて」

彼女は、ヒンメルの蒼い髪を、ゆっくりと撫で始めた。手櫛を通すように。絡まった糸をほぐすように。一定のリズムで、優しく、丁寧に。

「よしよし」

無機質な声で、彼女は言った。

「よしよし」

「……あの、フリーレン。僕は子供じゃないんだが」

「うるさい。魔力が逆流してる。こうすると落ち着くって、ハイターが言ってた」

それは嘘ではないかもしれないが、真実でもないだろう。ハイターが二日酔いで苦しんでいる時に、誰かが頭を撫でている光景など見たことがない。

だが、今のヒンメルには、その拙い言い訳を追及する気力はなかった。

不思議な感覚だった。彼女の手のひらは、少しひんやりとしていて、でも芯の部分は温かい。その手が頭を撫でるたびに、ささくれ立っていた神経が、一枚ずつ薄皮を剥ぐように鎮まっていく。頭の中を暴れ回っていた「死の記憶」が、彼女の指先によって絡め取られ、遠い彼方へと追いやられていくようだった。

「……怖い夢でも、見た?」

髪を撫でながら、フリーレンが唐突に尋ねた。彼女の視線は、ヒンメルの顔ではなく、彼のアホ毛のあたりに向けられている。あえて目を合わせないようにしているのか、単に興味がないのか。

「……まさか。勇者ヒンメルに怖いものなんてないよ」

ヒンメルは反射的に強がった。だが、その声は自分でも驚くほど弱々しく、震えていた。

フリーレンの手が、ぴたりと止まる。そして、またゆっくりと動き出した。

「そっか」

彼女はそれ以上、何も聞かなかった。「嘘つき」とも言わず、「情けない」とも言わず。ただ、肯定も否定もせず、事実として受け止めた。

「よしよし」

彼女は繰り返す。それは、彼女自身もまだ知らない、未来の記憶。遥か遠い未来、彼女が弟子となる人間の少女を育てる時に見せるであろう、母性にも似た慈愛の萌芽だった。悠久の時を生きるエルフの中に眠る、命を慈しむ本能。それが今、無自覚のうちに、目の前の傷ついた英雄へと注がれていた。

ヒンメルの目から、力が抜けていく。張り詰めていた糸が緩み、重い疲労感が津波のように押し寄せてくる。それは、心地よい疲労感だった。安全な場所で、守られているという絶対的な安心感。

「……フリーレン」

「ん」

「ありがとう」

「……お礼を言われるようなことはしてない」

フリーレンは少し不満げに唇を尖らせたが、その手は止めなかった。次第に、ヒンメルの頭が重くなっていく。彼は抗うことをやめ、そのまま彼女の肩に頭を預けた。フリーレンの細い肩は、頼りないほど華奢だったが、今はどんな城壁よりも強固に感じられた。

「……君は、本当に……不器用で……優しいな……」

その言葉を最後に、ヒンメルの意識は深い闇へと落ちていった。今度の闇は、死の恐怖ではなく、穏やかな安息に満ちていた。規則正しい寝息が、静かな部屋に響き始める。

________________________________________

ヒンメルが完全に眠りに落ちたことを確認して、フリーレンは手を止めた。肩に掛かる彼の重み。人間の頭というのは、意外と重い。そして、熱い。生きている人間の体温が、薄い布越しに伝わってくる。

「……世話が焼ける勇者様だね」

フリーレンは小さく呟き、指先でヒンメルの頬を突いた。反応はない。泥のように眠っている。

彼女は少し体をずらし、ヒンメルの頭をソファの背もたれへと移動させた。そして、じっと彼の寝顔を観察した。

月光が、ヒンメルの顔を照らし出している。長い睫毛が頬に影を落とし、整った鼻筋が光を受けて白く輝いている。起きている時の、あの少し鬱陶しいほどの自信に満ちた表情は消え、今はただのあどけない少年のようにも見えた。

美しい。フリーレンは、率直にそう思った。エルフの美的感覚から見ても、ヒンメルの造形は整っている。

だが、今の彼の美しさは、どこか異質だった。

あまりにも、静かすぎるのだ。

眠っている人間には、特有の「揺らぎ」がある。呼吸に合わせて胸が上下し、眼球が瞼の下で動き、時折表情筋がピクリと震える。生命活動に伴う、微細なノイズ。だが、今のヒンメルには、それらが極端に欠落しているように見えた。

まるで、時間が止まっているかのような。あるいは、精巧な彫像がそこに置かれているだけのような。完璧すぎて、生気を感じさせない美しさ。

(……魔力の乱れは、収まった)

フリーレンは解析の目を向ける。先ほどまで嵐のように吹き荒れていたヒンメルの内面的な魔力放射は、今は凪いだ湖のように静まり返っている。だが、その静けさが、逆に不気味だった。静かすぎる。生命の灯火が、あまりにも安定しすぎていて、揺らぐことすら許されていないような拘束感を感じる。

ふと、フリーレンの視線が彼の胸元に釘付けになった。

動いていない。

胸が、上下していない。

「……!」

フリーレンの瞳孔が開いた。まさか。

彼女は反射的に手を伸ばし、ヒンメルの首筋に指を当てた。冷たい。皮膚の温度が、先ほど触れた時よりも急速に下がっている気がした。

脈は?

……ドクン。

あった。指先に、微かな、しかし確かな拍動が伝わってくる。

その瞬間、ヒンメルの胸が小さく膨らみ、また沈んだ。呼吸が再開された。

「……なんだ、今の」

フリーレンは、自分の心臓が奇妙なリズムで跳ねるのを感じた。見間違い? いや、私の知覚が間違うことはない。確かに今、数秒間、ヒンメルの呼吸は止まっていた。無呼吸症候群のような生理的なものではない。

もっと根源的な、彼の肉体の「時間」そのものが、一瞬だけ凍結したような感覚。

まるで、世界そのものが、彼の肉体の損耗を防ぐために、生命活動を一時停止させたかのような。

フリーレンは、ヒンメルの首筋から手を離せなかった。脈打つ血管。そこを流れる血液。それが、本当に彼自身の力で動いているものなのか、それとも別の強大な力によって「動かされている」だけなのか。

彼女の脳裏に、先ほど庭園で感じた、ヒンメルの右腕に巻き付いていた謎の魔力の残滓が蘇る。あれは、守護魔法ではないのかもしれない。もっと別の、もっと歪で、もっと悲しい「呪い」。

ヒンメルは、本当に「生きている」のだろうか? それとも、死ぬことを許されずに、「生かされている」のだろうか?

「……ヒンメル」

呼びかけても、返事はない。彼は深い眠りの中にいる。その安らかな寝顔は、何も語らない。ただ、月光だけが冷ややかに彼を照らし続け、その美しさを永遠のものとして世界に刻み込もうとしているかのようだった。

フリーレンは、しばらくの間、その場を動くことができなかった。部屋の空気は冷たく、静まり返っている。時計の針の音すら聞こえない、完全な静寂。

それはまるで、葬送の列が通り過ぎた後のような、厳かで、取り返しのつかない静けさだった。

眠れない夜は、まだ始まったばかりだ。そして、この夜が明けたとしても、彼を縛る「何か」が消えることはないのだと、フリーレンの本能が告げていた。

 

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