月野アラタが玄関を開けたころには、外はすっかり暗くなっていた。
ネクタイだけをゆるめ、靴下を脱いだまま自室へと向かう。
ドアを閉めて深く息を吐き、椅子に腰を下ろす。
ノートパソコンの電源ボタンを押すと、起動音が静かな部屋に響いた。
(……疲れたな。今日も長かったわ)
癖になった動きでブラウザを開く。
だが、表示された検索履歴にアラタは眉をひそめた。
「……?」
スクロールしながら目で追う。
――「小説投稿サイト おすすめ」
――「ハーメルン 評判」
――「ハーメルン 個人情報 安全?」
――「ハーメルン 身バレしない?」
――「ネット 小説 書き方」
――「小説 おもしろい 設定」
――「ヒロイン 対義語」
――「主人公 魅力」
スクロールしながら目で追い、思わず小さく笑い声が漏れた。
「……これ、どう考えてもカナやろ」
この部屋のパソコンに触るのは、自分か、弟のユウマか、妹のカナだけだ。だが、ユウマは大学入学を機に自分のパソコンを買っている。となれば、残るのはひとりしかいない。
アラタは履歴をもう少し遡ってみた。
ハーメルンのトップページ。
アカウント作成画面。
「新規作品を投稿する」のヘルプ。
「……ガチやん」
間違いない。カナは本気で、小説を書こうとしている。
「……やばいな。おもろすぎるやろ、これ」
ふっと胸の奥が熱くなった。
あの、いつも黙って俺たちの後をついてくるばかりだった妹が。
いつもノートの端っこに、よくわからない紋章みたいな落書きをしていた妹が。
「ふふっ……あかん、笑たらあかんやろ……」
必死で口元を押さえていると、ノックもなくドアが開いた。
「兄貴ー、お湯沸くまでヒマやねん。……って、何笑てんの?」
さっと画面を隠して振り向くと、カップ麺を片手に入ってきたのは、弟のユウマだった。
アラタは一度、真顔になって問いかける。
「ユウマ。お前、秘密守れるか?」
「え、何いきなりシリアスなってんの? やばいサイトでも見てたん?」
「ええから答えろ。お前、秘密守れるか?」
「……まあ、兄貴にそこまで言われたら守るで。なんか重要な話ってことやろ?」
「ああ。俺、今、今年入っていちばん真剣や」
「それ、あんま真剣ちゃう気するんやけどな……。まあええわ。そんなヤバいサイトなん?」
「……ええか。今から、お前が秘密守れるやつやって信じて、この情報渡す。何見ても大声出すな。ええな?」
俺の真剣さが伝わったのだろうか、ユウマはゴクっと唾を飲み込んだ。
どうでもいいが、片足重心なのが妙にイラッとする。
まあいい、とアラタは満を持して、パソコンの画面を見せた。
「え、何これ……ハーメルンってあれやんな、確か小説投稿サイトの。え、兄貴、小説始めるん? てかこれ、そんな重要な話か?」
アラタは黙ってユウマの目を見て、もっとよく見ろと顎で促した。
「んー、見るんは履歴か。はいはい、なんかアホな中学生みたいな検索履歴やな……」
そこまで言ったところで、ユウマの動きが止まる。
瞬時にアラタの顔を見る。その目は、信じられないものを見るかのように大きく見開かれていた。
アラタは、ただ黙ってうなずいた。
そうするしかなかった。
ふたが開いたままのカップ麺が、スローモーションのように宙を舞う。
次の瞬間、ユウマは、
「ブフォォッ!」
変な音を立てて笑い転げた。
***
何度かの蹴りをお見舞いしたあと、ようやく笑いが落ち着いたらしいユウマが、床に転がったまま口を開いた。
「ムリやって兄貴……。俺、明日から普通に過ごされへんで。カナの顔見て、どうしたらええねん?」
「お前、絶対黙っとけよ。俺、今、今年一番ワクワクしてんねんからな。秘密は守れ」
「いや、でもさ兄貴――」
「黙れや。これカナにバレたら、絶対書かんようになってまうやろ。正直、カナって昔から、内向的っちゅうか、引っ込み思案っちゅうか、とにかく『これやりたい』って言い出すタイプちゃうかったやん。だから、俺はずっと心配やってん」
アラタは、一度言葉を区切って、少しだけ笑う。
「で、これや。あいつが自分から何か始めようとしてんねん。兄としては、応援するしかないやろ」
「……ええ話にまとめようとしてんのはわかるんやけど、その笑い堪えてる顔で言われても説得力ゼロやで」
「ええから黙れ。俺らは兄として、あいつを支えるんや」
ユウマも、この案件の面白さと重大さに気づいたらしい。
笑いを堪えつつも、妙に真面目な顔でうなずいた。
「で、兄貴。支えるって……具体的に、どうすんの?」
「お前、ハーメルンのアカウント持ってるか?」
「いや、持ってへんけど」
「ほな、まず作れ。このサイトな、感想欄あるやろ。小説にコメント付けられるんや。せやから、俺らでカナの小説に感想書く」
「それってサイトの規約的にセーフなん? グレーちゃう?」
「別に、複アカで評価操作するとかやないから問題ないやろ。俺らはカナには言わん。あくまで一読者としてコメントする。初心者の小説って、基本的に読者少ないやろ? そこに最初から感想付いとったら、それだけででかい。……そういう話や」
「なるほどな。で、このサイトどんなもんなん?」
「うーん、オリジナルもあるけど、二次創作多いイメージやな」
「二次創作ってあれやろ、なんかの漫画とかアニメ元にして書くやつ」
「そうそう。せやからカナも、なんかの二次やるんちゃうかなって思うんやけどな。もし俺らが知らん作品の二次やったら、そのときは予習すんぞ」
「マジかよ……。まあええけど。で、コメントのキャラ設定は?」
「俺は真面目な読者キャラでいく。昔作ったアカあるはずやから、それ使うわ」
「オッケー。ほんなら俺は、ちょいテンション高めで、色々提案する系読者でいこかな」
「なんでもええわ。とにかく最初は固定ファンなんてつかへんやろうし、カナのファン一号と二号は、俺らで取る」
「了解。ほな俺もアカウント作ってくるわ。ちなみに兄貴のアカ名なんなん?」
「剣聖ペンギンや」
「毎回思うけど、兄貴ってほんまネーミングセンスないよな」
「うるさいわ。さっさとアカウント作ってこんかい」
「あーい」
生意気な返事を残して、ユウマは自室へ戻っていった。
アラタは再びパソコン画面へ向き直り、自分のアカウントを確認する。
懐かしいユーザーネームの横に、昔お気に入り登録した作品名が並んでいた。
(大学の頃、こんなん読んでたな……)
そう思うと、少しだけ歳を取った気がした。
職場の人間関係や締切やら、考えることは山ほどある。
けれど今だけは、少しこの懐かしい作品たちに浸っていたかった。
だがその前に、
「おいユウマ! ひっくり返したラーメン、さっさと片付けていかんかい!!」
***
リビングには、夏休みらしい明るい日差しが差し込んでいた。
中学二年のカナは、その空気の端っこに紛れるようにソファに座り、兄のノートパソコンを膝にそっと載せた。画面の明かりだけが、静かな顔を照らす。
(兄ちゃんらは仕事と大学か……。今日は誰もおらん。
……今日こそ、ちゃんと書こ)
胸の奥が、すこしだけ騒がしい。
そのくせ、手足は不自然なくらい静かだった。
初めて書く小説で、すごいものが書けるはずなんてない。
でも、自分の頭の中の物語を画面に映すことを考えると、
何か大きなものの入り口に立っているような気がする。
そんな気持ちは、もちろん誰にも言わない。
ノートの端には、授業中にメモしたアイデアや、なんとなく書いた紋章の落書きが覗いている。自分でも意味はよくわからない。ただ、何か印を残しておきたくなったのだ。
ハーメルンにログインし、「小説を執筆する」のページを開く。
このサイトでは、まず本文を一話分書いてから、タイトルページやあらすじを設定する仕様らしい。
昨日はそれがわからず、調べているうちに時間切れになってしまった。
(ストーリー……どうしよ)
しばらく悩んでから、カナはキーボードを叩き始めた。
昨日読んだ「小説の書き方」のサイトには、まず設定やプロットを考えるといい、と書いてあった。
言い回しに何度も悩み、書いては消し、また打ち込む。
気づけば、それっぽい設定メモだけは、ページいっぱいに並んでいた。
(……とりあえず、こんなもん、かな)
読み返してみると、特別なところは何ひとつない。
けれど、その「何ひとつないもの」を、自分の手でゼロから書き上げた、という事実が、カナの胸を少しだけ誇らしくさせた。
震える指で、「保存して編集終了」ボタンをクリックする。
画面が数秒固まり、
自分の作品のタイトル編集ページが表示された。
(……保存、できた)
ごく当たり前の動作のはずなのに、
大きなことをしてしまったような気がする。
誰も見ていないのに、部屋の空気を確かめるように振り返ってしまった。
当然、そこには誰もいない。
カナはもう一度画面に向き直り、
今考えた設定をどう物語に膨らませるか、ゆっくりと考え始めた。
***
夕方。
大学から帰ってきたユウマが、キッチンで夕食の支度をしていた。
エプロン姿で玉ねぎを刻む姿は、一応「慣れている人」のそれだ。
カナも、その隣で皿を出したり、野菜を洗ったりと手伝っていた。
しばらく、包丁と水音だけが続く。
その沈黙を破ったのは、カナのぽつりとした声だった。
「なあ、例えばの話やねんけど……ユウマが小説書くとしてさ。登場人物の名前って、どうやって決めるん?」
一瞬、時間が止まる。
次の瞬間、ユウマは盛大に吹きかけて、そこから咳き込み始めた。
「げほっ、げほっ、げほっ……!」
「大丈夫? ちょ、包丁持ったまま咳き込むんやめて。危ないって」
カナが眉をひそめると、ユウマは慌てて包丁をまな板に置き、手を振った。
「ごめんごめん。玉ねぎのせいや、玉ねぎ。で、何やっけ。キャラの名前?」
「そう。適当でええって聞くけど、その適当がどうやるんかって質問やで。作者さんらって、どうやって決めてはるんかなって思って」
「なるほどね。そんなんやったら、キャラの名前ランダムで決めてくれるサイトとかあるらしいで」
「そんな便利なんあるん?」
「あるある。俺の友だちに昔、小説書いてたやつおってな。それで聞いたことあんねん」
「え、ユウマにそんな友だちおるん? 意外」
「おるわ! めっちゃおるわ! 普通におるわ! 高校のときの話や!」
「へえ。ほな、その人はそのサイトで名前決めてたん?」
「んー、こだわりたいキャラは自分で考えるけど、サブキャラとかモブ増えてきたら、だんだんどうでもよくなってランダムで決める、言うてたな」
「なるほどね」
話しているうちに、カレーの具材が鍋の中でぐつぐつと音を立て始めた。
あとはしばらく煮込んでからルーを入れるだけだ。
ユウマは火を弱め、タイマーをセットしながらぼそりとつぶやいた。
「なあ、カナ——」
カナは、流しでまな板を洗いながら、その言葉の続きを待つ。
しかし、なかなか出てこない。
「何? はっきり言うてや」
促すと、ユウマは少し困ったように笑い、それから真顔で言った。
「いや……なんでもない。ただな。大きなったなあって思て」
「……何それ。キモ」
「キモないわ! 全然キモないわ! ただ、よかったなーって」
「意味わからんし」
ユウマは、いつにも増して挙動不審だった。
ニヤニヤしながら鍋をいじっている姿は、客観的に見ればそこそこ気持ち悪い。
(こんなんがモテる世の中、絶対どっかおかしいわ……)
カナは、そんなことを思いながら、黙々と食器を洗い続けた。
***
夜。
カナが自室に引っ込んだのを見計らって、アラタはユウマを部屋に呼び出した。
「で、まだカナの小説は上がってきてへんみたいやけど……あいつ、結局書かへんのか?」
「いや、書くと思うで。さっきも、登場人物の名前付けるん悩んでたし」
「え、あいつって二次創作やるんちゃうんか? ああ、オリ主とか?」
「知らんて。……まあ軽く調べてみたけどさ、わざわざハーメルンで書くぐらいやし、二次の可能性は高いんちゃう?」
「オリ主かぁ。オリ主ねぇ。……うーん、オリ主……」
アラタは白湯のマグカップを手にしながら、むうっと唸る。
「何やねん。なんかマズいん?」
「いや、別にアカンわけちゃうで? たださ……うん」
「おう」
「これでカナがさ、登場人物とオリ主のBLもんとか書き出したら、俺、あいつの顔まともに見られる自信ないなって」
「げほっ、げほっ!!」
ユウマがまた変な方向で咳き込み、笑い転げる。
相変わらず沸点が低い。
(いや、そんなことより今いちばん大事なんはカナやろ……)
アラタはぬるくなった白湯をひと口飲み、話を続けた。
「まあ、ハーメルンやしな。Pixivやないんやから、さすがにそれはない……と思いたい。あ、でも逆にGLならハーメルンにもまあまああるか? あるな。……いやでも、それだけのためにハーメルン選ぶか、普通?」
「知らんて。てか、オリ主出るからって即BLになるわけちゃうやろ」
やはりこいつは色々足りないな、とアラタは心の中でため息をつく。
「じゃあ逆に聞くぞ。何のためにオリ主出すねん」
「いやそれは……作品の中でなんか活躍させて……」
「で?」
「えっと……登場人物たちと絡ませて……」
「で?」
「いや、でぇ言われても困るんやけど」
「絡んだ先、どうなんねん」
「絡んだ先で……もっと仲良くなる?」
「女子小学生かおどれは」
「なんやねんそれ! 仲良くなるのええことやろが!」
「男と女が仲良うなったら、どうなんねん」
「え、ああ……なるほどな。うん、恋愛になる……か」
「せやろ。ほな、男と男が仲良うなったら?」
「……ああ、恋愛に、なる……いや、ならへんやろ!」
「なるんやって!! それが腐女子の発想なんや!!(偏見)」
「いや、どうやってなるんや。凸と凸やろ」
「はー、ほんまアホやな。大学で何学んでんねん。恋愛するのに凸凹の合体、必須なんか? テトリスできんと恋愛ちゃうんか?」
「いや……そら、そうとは限らん、か。確かに。……ほな、男と男も、仲良うなったら、恋愛になる……んか。ああ、そっか。せやからカナがオリ主もん書いたら、BLになるんやな!」
「……」
アラタは、もう一度ぬるくなった白湯を飲み干した。
(やっぱりこいつ、致命的に知能足りてへんな)
思わず、心の中で二度目の同じ感想を繰り返してしまった。
「でもさあ兄貴。もしほんまにBL書いてきたら、どうするん? コメント欄で何て言うん?」
「そんなん決まっとるやろ」
アラタは即答した。
「『キャラ同士の感情の流れが丁寧で良かったです』や」
「肯定する気満々やんけ!」
「当たり前や。兄としては、どんなジャンルでも全力で褒めるのが仕事やろ」
「妹バカの鑑やな……」
ユウマは感心したように、そしてちょっと呆れたように笑った。
「まあ、BLはさておきや」
「さておかれた」
「ジャンルが何であれ、あいつが自分で考えて、自分で選んだもんやったら、それでええと思うねん。俺らは口出さん。ただ——」
そこで言葉を切り、アラタはニヤリと笑う。
「読者としては全力で口出しする」
「結局口出すんかい」
「読者のコメントは自由やろ」
「なるほどな。せやから剣聖ペンギンとしてはガチ講評、俺はテンション高めの感想、ってわけやな」
「そういうことや」
ふたりの間で、自然と拳がこつんとぶつかった。
「……にしてもさ」
ユウマがベッドに倒れ込み、天井を見つめたままぼそっと言う。
「カナ、よう自分から書こう思たよな。あいつ、なんかやりたいって言うタイプちゃうかったんに」
「……せやな」
アラタも、同じ天井を見上げる。
「だから余計に、おもろいんやけどな」
天井の白さが、少しだけ眩しかった。