「……まあ、読むか」
アラタは腕を組みながら、覚悟を決めたかのように言う。
「せやな。こんなん、話し合うてても答え出ぇへんしな」
ユウマもまた椅子にずるっと沈み込み、スマホを構えた。
「瀬戸くん、五体満足やったらええな……」
「どんな展開想像しとんねん。急にバトル漫画なるんか?」
軽口を叩きながらも、ふたりの指先は妙にそわそわ落ちつかない。
画面の明かりがふたりの顔を照らす。
まるで禁断の動画でも再生するかのような、妙な緊張感が漂っていた。
「……よし。ほな読むで」
「おう、せーの」
アラタとユウマはタイミングを合わせ、
同時に第3話のページをタップした。
第3話 いや待って、そんなん、あかんて……
がらららら、という急な音とともに、教室の扉が開く。
気まずい空気を残したままの教室に入ってきたのは、英語のミエちゃん先生だった。
「……え、なんこの空気」
ミエちゃん先生は教室に足を一歩踏み入れた瞬間、異様な雰囲気に気づき、あからさまに眉をひそめた。
「山下先生、HRまだ終わってへんかったんですか? あ、今日転校してきた子おったんですね。挨拶とか説明とか残っとんのやったら、私、外で待っときますけど?」
「……いえ、瀬戸はやり遂げました。立派な挨拶でした」
「……はあ。ほんなら授業、もう始めても大丈——」
「……あと3分だけ、待っとってもらえますか」
「もうどっちなんですか」
ミエちゃん先生は心底めんどくさそうにため息をつくと、扉を閉めて去っていった。
扉が閉まると同時に、教室は再びしん……と静まり返る。
山下先生がくるっと振り返り、瀬戸くんを真剣な目で見た。
「瀬戸。先生もな……カレーうどん好きやねん。今度一緒に食べに行こな」
「……いえ、だからその……チキン南蛮です」
「——というわけで瀬戸の席は、窓際の一番後ろや。新しい机、用意してあるやろ? よかったな。あそこ、アニメとかやったら絶対主人公の席やで」
教室に、微妙に笑いを堪えた空気がふわっと流れる。
瀬戸くんは少し困った顔で、控えめに会釈した。
「……ありがとうございます」
山下先生は腕を組み、やけに満足げにうなずく。
「教科書ももう届いとるな? よっしゃ。相田! 川上! お前ら席近いし、瀬戸になんやかんや教えたれ。そこ、主人公の相方ポジの席やからな!」
「は〜い」「あ〜い」
「よし。大丈夫やな? 瀬戸、なんかあったら相田か川上に相談せえ。どっちもアホやけど、なんとかしてくれるやろ、知らんけど」
瀬戸くんは「えっ」と小さくつぶやくが、山下先生は聞いていない。
「ほな先生はいくわ。あ、瀬戸。次から好きな食べ物聞かれたら、ちゃんとカレーうどんって言うんやで。ボケには基本があるんや。まずは基本から押さえてけばええ。ほな」
言いたいことだけ全部言い終えると、山下先生は颯爽と扉を開け、
ミエちゃん先生に全力でペコペコしながら廊下へ消えていった。
キョトンとして固まっていた瀬戸くんも、ようやく我に返ったようで、ぴくっと肩を震わせた。
耳までほんのり赤くして、そろそろ……と小走りで席に向かう。
その先では、前の席の相田くんと、隣の川上くんが——
「こっちこっち」
「まあ、気にすんなって」
と、ゆるゆると手を振っていた。
二人とも笑っているような、同情しているような、なんとも言えない表情だ。
(……優しいなぁ。でも、この二人が相方ポジって大丈夫なんやろか)
瀬戸くんはおずおずと会釈すると、椅子をそっと引いて腰を下ろした。
座った瞬間、ほんの小さな「ふぅ……」が漏れたのを、文音は聞き逃さなかった。
——そのタイミングで。
「もうええです? ほんまにええんですね? 始めますよ?」
ぼやき声を伴って、ミエちゃん先生が再び教室へ入ってきた。
扉を閉め、教卓に教科書を置く仕草は、いつもよりちょっと雑だ。
でも、その雑さすら妙に懐かしく感じられた。
教室のざわつきが、すっといつものリズムに戻っていく。
椅子の軋む音、誰かの小さな咳、ページをめくる紙の音——
全部が「日常」の証拠みたいに胸に戻ってくる。
文音は自分の席でそっと姿勢を正した。
***
休み時間、瀬戸くんの周りにはわらわらと男子が群がっていた。
(なんか……大型犬に囲まれたチワワみたいや……)
不謹慎やとは思いつつ、文音は肩を震わせた。
瀬戸くんが困った笑顔でうろうろ視線泳がせてるせいで、余計に保護対象感が増している。
男子たちの声は耳をすませずとも丸聞こえだ。
ふと周りを見渡すと——
(ひえっ)
クラス中の女子が、一斉に聞き耳を立てていた。
みんなカバンを漁ったりノート見とるふりしたりしとるけど、意識の先は完全に瀬戸くん一択。
隣の席の子が友だちと話してるように見えて、
実は会話のテンションが上の空なのも丸わかりだった。
(まあ……気になるよなぁ)
文音は心の中でゆっくり頷いた。
「なあ瀬戸!……いや、瀬戸やん? いや、瀬戸やんはちゃうな。呼び方、瀬戸ちゃんでええ?」
「あ、うん。なんでもいいよ。えっと、君は……」
「俺、相田。よろしくな。席的には多分、授業シーンでさっと顔が映るポジやと思う。ほら、光の入り方とか画角的に——」
「いや絶妙に映りそうで見切れる位置やろ。後頭部だけ映るタイプのやつや」
「逆にお前の顔ドアップで映ったら、『誰やあの坊主』ってクレームくるで」
「いやゆうても最近のトレンドは坊主やから! 駅前の美容院でも需要あるゆうとったから」
「いやないって。切るより剃る方が楽やから言われただけやて、それ」
「いや嘘やん!? 小島さんがそんなこと言うはずない! 結局坊主が似合う男が一番かっこええって言うとったもん!」
(いやお前ら、ちょっとは瀬戸くんに話振ったれや……!)
しかし男子たちは一周まわって、完全に自分たちの世界へ突入していた。
「え、その小島さんがほんまにそんなこと言うとったん?」
「まじやで。てかお前も小島さん知っとるん? なんか、ええよな。ちょっとおばちゃんぽいけど、愛嬌ある顔っていうか」
「いや、知らんけど」
「ならなんで聞いたねん」
「いやそうやなくて、俺の姉ちゃんもあの美容院で働いとるんよ」
「え、お前の姉ちゃんが小島さんやったん? けっこう姉ちゃんと歳離れとる感じ?」
「いや、俺、川上やん」
「……せやったな。で、なんなん? お前も小島さん狙っとんの?」
「や、ちょい聞いて。前にな、姉ちゃんから職場の話とかちょこちょこ聞いとって——」
「え、なんなんお前姉ちゃん経由でいくタイプなん? それズルない? ほな俺もセットでどう?ハッピーセットで〜す、って」
「いやどう見てもその頭はセットのポテトやろ。……ちゃうねん、そこやなくて。小島さんの話や。姉ちゃんに聞いた限り——」
川上は真顔で言い切った。
「……あの店、小島さんなんておらんで」
沈黙。
「……え? ほな俺のこと坊主にしたん誰なん?」
「いや、それ聞きたいのは俺の方やねん」
「え」
「え」
(いや小島さん誰!?……やなくて、瀬戸くんにも話振ったれや!!!)
瀬戸くんが気圧されてないか心配になって、文音はそっと視線を向けた。
すると——
(すご……瀬戸くん、むしろめっちゃ聞き入っとる!!)
その時だった。
瀬戸くんを囲んでいた男子たちが、なぜか示し合わせたように一斉に顔を向ける。
「瀬戸ちゃん、どう思う?」
「え」
(雑なフリしたんなや!! 瀬戸くん、めっちゃフリーズしとるやん!!)
「えっと……何が?」
「小島さん、誰やと思う?」
「幽霊やんな?」
「いや幽霊、バリカン持たれへんやろ」
「いやいや、持てるタイプのもおるやん」
「せやけど幽霊やとして、何の幽霊なん?」
「ハゲの幽霊やろ」
「ハゲやない、坊主や!」
「桂やん」
「ヅラじゃない、坊主だ!!」
「潔いタイプのハゲやな」
「ハゲやない、桂や!」
「それはもう一緒や」
(会話が地獄みたいに脱線していく!!
ていうか瀬戸くん、完全に置いてかれてるやん!!)
そこへ、
《キーン・コーン・カーン・コーン》
予鈴が鳴り、男子たちは解散モードに切り替わった。
「ほな瀬戸ちゃん、また話そうな」
「これから1年よろしくー」
「後でサッカーしよな!」
「次の理科の内藤先生、めっちゃ当ててくるから気ぃつけぇよ」
「なんであんな神経質なおっさんに彼女おんねん」
「ハゲてへんからや」
わちゃわちゃ言いながら男子たちが散っていき、
教室には拍子抜けするほどの静けさが戻る。
(待って……結局……瀬戸くんの情報、1ミリも増えてへんかったやん……!)
文音は思わず机に突っ伏しそうになる。
(髪ツヤツヤで、声やわらかくて、礼儀正しい……いや、それは見たらわかる!
そういうんちゃうねん! 好きなマンガとか、趣味とか、好きな給食メニューとか……
そんなん知りたいねんこっちは!)
しかし瀬戸くんは、まだぽけっとした顔のまま席に座り、
さっきの騒ぎについていけなかったのか
「……え、カツラ……?」
と、小声で首をかしげていた。
(あかん……守りたい、この困惑……)
文音の心臓は、またしても忙しく跳ねてしまうのだった。
***
結局、その日は男子がゴミ捨て場にたかるカラスみたいに瀬戸くんを囲ってしまい、
肝心の瀬戸くん本人の情報はほとんどわからずじまいだった。
(今日の瀬戸くんの発言、「あ」と「うん」と「えっと」で八割いってたで……)
文音は机に教科書をしまいながら、心の中でそっと突っ込む。
「文音〜、帰ろ〜〜」
放課後。
新聞部の活動がない日は、りんと一緒に帰るのが恒例だ。
りんとは小学校のころからの腐れ縁で、
考えてることもだいたいバレバレである。
二人で下駄箱を出て、周りに人がいないのを確認してから——
今日の大事件について語り始めた。
「瀬戸くん、めっちゃイケメンやったな!」
「せやな〜。なんか少女漫画の王子様に出てくる王子様やった」
「やな。てか亜希ちゃんとか萌ちゃん絶対狙っとったで」
「わかる。授業中もめっちゃチラ見しとったもんな」
りんがニヤニヤして文音の顔を覗く。
「で、文音はどうなん?」
「ん〜……最初はちょっとええなって思ったけど……」
「けど?」
「だんだんチワワみたいに見えてきた」
「なんでやねん。でも……ちょっとわかるかも」
りんが吹き出す。
文音もつられて笑ってしまう。
「りんは?」
「うーん、まあ……もうちょい観察したいかな」
「わかる。瀬戸くんのこと結局1ミリもわからんかったしな」
「ほんまそれ。男子、あれで歓迎のつもりなん?」
「瀬戸くん、全然喋れてへんかったやん。振り方も雑すぎるし」
「……まあ、アホなんやろな」
二人は顔を見合わせ、また笑う。
ふと、りんが思い出したように声をあげる。
「……てか小島さんって誰やったんやろな」
「ちょ、やめてや! 私今日ずっとそれ気になっとんねん!」
「私も! なんなんあれ。幽霊なん? 幽霊やとして何の幽霊なん? 坊主フェチ? 川上の髪だけ剃って去る幽霊? 誰得なんそれ?」
「りんちゃん、坊主なんは相田くんや」
「え、そやっけ? まだ新学期やし顔覚えられへんねん」
「せやんな〜」
そんなくだらないことを話しながら、
踏切の前に差しかかる。
「ほな、また明日な〜!」
「おつかれ〜!」
小さく手を振り合い、
二人はそれぞれの帰り道へと歩き出した。
***
家に着いて、「ただいま〜」とドアを開けると、
キッチンの方から「おかえり〜」と明るい声が返ってきた。ママや。
それから少しして、「遅いでー!」という声も響く。弟の悠真。小3、アホかわいい。
玄関には、なぜか大きな段ボールがドーンと積まれていた。
(……え、福引でも当たったん?)
通り道を塞ぐみたいに置いてある段ボールたちを、細い隙間をぬってどうにか通り抜ける。
そのまま階段をトコトコ上がり、自分の部屋に飛び込んだ。
制服を脱いで、楽な部屋着に着替える。
大学に言ったお兄ちゃんのお古のTシャツは、胸元に意味不明な英語のロゴがデカデカと印刷されててダサいけど、着心地だけはやたらいい。下は気に入ってるショートパンツ。
ふわっと肩の力が抜けたところで、リビングへ戻る。
キッチンでは、ママが手際よく晩御飯を作っていた。
悠真はというと、テレビの前でアニメのキャラのマネをして、独特すぎる踊りを披露している。……アホかわいい(2回目)。
「ママ〜、この段ボール何? 福引でも当たったん?」
そう聞くと、ママはフライパンを揺らしながら、ちょっと呆れた顔で言った。
「もう、この間ちゃんと言うたやろ。いとこのアオちゃん、うち来るって。引っ越しやがな。ちょうど颯太が大学で家出たし、部屋空いたやろ? あそこ使ってもらうんよ」
「あー……叔父さん叔母さん、急に海外転勤なったんやっけ」
「そうそう。ほんま、あんた人の話ちゃんと聞かへんよなぁ」
「いや、最近ずっと新聞部の締切近くて徹夜気味やってん……」
「ほらまた言い訳。アオちゃん来るん、ちっちゃい頃以来やろ? 一人で引っ越しなんて心細いに決まっとるんやから、ちゃんと助けてあげなあかんで?」
「は〜い」
(……アオちゃん。どんな子やったっけ。ちっちゃい頃は仲良かった気ぃするけど、顔がもう思い出せへん……)
「アオちゃんって、私と同い年やったよな?」
「そうやで。せやからカナと同じ中学校になるわ」
「……最近、転校とか引っ越し流行っとるん?」
「あんた何言うてんの。すぐ来はるんやから、来たらちゃんと出迎えしなさいよ。あ、それから晩御飯の準備も終わらせたいから、野菜切るの手伝って」
「わかった〜」
(アオちゃん、かわいかった気はするんやけど……どんなんやったかなぁ……)
考えつつ、ママの横で野菜を切っていたら——
ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。
「今手ぇ離せへんから、カナ、鍵開けてきてー!」
「はーい!」
包丁を置いて玄関まで走り、ドアを開ける。
ドアの外に立っていたのは——
「あ、お邪魔します……」
制服のままの瀬戸くんだった。
少し戸惑ったような目をしていて、その表情すらやたら整っている。
(……ちょ、待って。なんで? なんで瀬戸くん?
え、瀬戸くんやんな? いや瀬戸くん以外に見えへんけど!
なんで!?)
文音が驚きでフリーズしたまま固まっていると、瀬戸くんもまた気まずそうに足元を見つめた。
ふたりの間に、変に静かな空気が流れる。
沈黙を破ったのは、瀬戸くんの方だった。
「あの……春野さん? クラスにいたよね。
朝はありがとう。
えっと……今日、ほんとは学校で話そうと思ってたんだけど……」
「え……あ、うん。え? 私? な、なんで?」
「いや、なんかさ……クラスの人らに囲まれすぎて、話すタイミング全然なくて。
関西人は何でもネタにするとか聞くと余計にビビっちゃって……」
(いや誰が言うてんねんそれ……)
「だから……誰にも聞かれない方がいいのかなって。
二人きりになれそうなときに話せたらって……」
「いやいやいや、ちょっと待って。
なんで私なん? てかなんの話なん??」
(てか待って。私いま、スーパー部屋着やん。
お兄ちゃんのお古の謎ロゴTシャツやん。
We’re The Tits って書いてるけど、今更やけど何これ!? もしかしてタイツ?
俺たちはタイツ、ってこと? え、恥ずかしすぎん?
いや、死ねるんだが。それやと普通に死ねるんだが!?)
パニックで短い呼吸を繰り返す文音。
瀬戸くんは眉を下げながら、ぽつりと言った。
「え、聞いてないの?」
「聞いてへんって……何を?」
「いや、俺——」
ちょうどそのタイミングで、キッチンから痺れを切らしたママが顔を出した。
「もう文音、いつまでアオちゃん玄関で待たせとるん?
アオちゃんこっち来たばっかなんやから、ちゃんと出迎えてあげなさいって、あんだけ言うたやろ」
「……え、ママ、瀬戸くんのこと知っとるん?」
文音は完全に状況についていけず、声がワントーン上ずってしまう。
「当たり前やんか。アオちゃん来るって何度も言うたやん」
「…………え、アオちゃんってまさか、瀬戸くんのことなん???」
「何言ってるんあんたはほんまに。
瀬戸・葵(あおい)やからアオちゃんやろ。
ちっちゃいころ何度も遊んでもらったやん。覚えてへんの?」
ママは腕を組んで呆れながらも、じーんとしたように瀬戸くんを見つめる。
「は〜……アオちゃんほんまに大きなったなぁ。
しかもこんなイケメンになってもうて……おばちゃんちょっとときめいてもうたわ。
ママに似てよかったな。パパの方に似とったら——」
「ちょ、待って待って!まだ理解追いついてへん!
アオちゃんって女の子やなかったん!?」
文音は軽くパニック状態だ。
瀬戸くんは少しだけ気まずそうに、でもきちんと答える。
「……一応、男です」
「当たり前やろ。ほんま文音はしっかりしとるようで、いつもどっか抜けてるんやから」
ママはため息をつきつつ、瀬戸くんを手招きする。
「さ、アオちゃんもはよ入り。
朝に新幹線でこっち来て、そのまま学校行ったんやってな?
もう大変やったやろ。おばちゃんそれ聞いてびっくりしたで」
「ありがとうございます。
始発から乗り継いで、なんとか間に合いました。
あ、学校入った時ちょっと迷ったんですけど……たまたま春野さんに会って、案内してもらえて。
あの、すごく助かりました」
「まあ〜文音がそんなことしたん?
この子、自分ではしっかり者のつもりやけど、なんやかんや抜けとるさかい。
迷惑かけてへんかったらええけど」
「いや、そんな……ちゃんと案内してもらえましたよ。
春野さん、すごい優しかったです」
「も〜お世辞やないのん?
……ていうか、春野さん言うたらおばちゃんも春野さんやで?」
ママは急にニコッと笑い、文音を指でつつく。
「文音のことはアヤちゃんでもアヤ太郎でもええんやけど……
むしろおばちゃんの方はどう?
うち春野由紀って言うんやけどな。
アオちゃん、おばちゃんのことユキちゃんって呼んでくれてもええで? どない?」
「い、いや……それはさすがに……」
「いや、さすがにってなんや。何がさすがなん」
「……えっと、ちょっと失礼かなって」
「ほんなら1回だけ!
1回だけでええから、おばちゃんのことユキちゃんって呼んで〜な」
「……え、ほんとにいいんですか?」
「ばっちこいやで」
瀬戸くんは観念したように、息を整える。
「え、じゃあ……
ユキちゃん」
「きゃーーーーー!!!
文音、聞いた!? 今、アオちゃんがユキちゃんて!
ユキちゃんやで!!
こんなイケメンにユキちゃん言われたら、ママもうユキちゃんとして生きてくわ!!」
ママは完全に爆発してしまった。
「もう1回! もう1回言うて!
録音するから!」
「え、えっ……?」
「…………はい、準備できた。
今からほなスタートって言うから、そのタイミングでユキちゃんやで」
「はい……!」
「ほないくで、はい——」
「ユキちゃん」
「いや、ちょっと早い!!
ほないくでは確かにスタートの意味でもあるけど、いまはちゃうかった!
ちゃんとスタートって言うから、次はそのタイミングにな?」
「わ、わかりました……」
ママが「ほないくで——」と再びスマホを構えた、その瞬間。
「いや、瀬戸くんに何やらせとんねん! ホストちゃうで!」
文音が慌てて割り込む。
「もう文音、ここからいいところになるんに邪魔したらあかんで」
「いや、いいところって何やねん。むしろなったらあかんやつやろ!」
ママはケロッと笑いながら文音を指さした。
「なんなんあんたは〜。あ、わかった、嫉妬しとるんやろ?
しゃあないなあ。ほんならアオちゃん、ごめんけど文音にも一発お願いできる?
アヤちゃんでもアヤ太郎でもええで。
ほんま文音がわがままでごめんなぁ」
「………………なら、アヤ太郎の方で」
「しばくで」
「え」
瀬戸くんの素直すぎる返答に、文音の手刀が飛びかけた。
「あ、ごめん。でも……なんでその二択でアヤ太郎の方選んだん?」
瀬戸くんは耳を赤くして、視線をそっとそらす。
「いや……さすがに同い年の女の子をちゃん付けは……ちょっと…………恥ずかしいじゃん」
(…………かわいいかよ!!!!!!???)
文音の心臓が、瀬戸くんの一言で全速力を始めた。
「いやそうやなくて! てか家に来るアオちゃんって、瀬戸くんのことやったん?」
もう何度同じ話題をループしているのかわからない。
「さっきから言うてるやん。
颯太の部屋空いたやろ? あそこにアオちゃん入ってもらうんよ」
「え、あそこ……私の部屋の隣やん!!」
「だから何よ。もうアオちゃん玄関でずっと待たせとったらあかんやろ。
ほらアオちゃん、靴脱いで上がり。
今夜はアオちゃん来るってことで、おばちゃん張り切って準備したんやから。期待してええで」
「ありがとうございます! それじゃあ、よろしくお願いします」
ふたりは段ボールの山をひょいひょいとくぐり抜け、
文音を置いてけぼりにしたまま、先にリビングへ進んでいく。
取り残された文音は、ようやく膝から力が抜け、壁にもたれた。
(……え? 瀬戸くん……ほんまにうちに住むん?
それもよりによって……お兄ちゃんの部屋って……
私の部屋の隣、やん……?
え、無理無理無理無理無理無理!!!
あそこ壁ペラペラやで!?
ちょっとくしゃみしたら絶対聞こえるやつやん!
もし私、寝相悪くて変な声出してたらどうしよ……
いや、私イビキとかかかへんよな? かかんよな……?
いやでもでもでも……
同い年の男の子が隣に住むって……
これ何? 少女漫画? 少女漫画のやつやん!!
いや、いやいやいやいや、アカンて。
絶対アカンやつやて!!)
廊下の奥をそっとのぞくと、瀬戸くんがママと悠真に囲まれて話しているのが見えた。
ママはいつものテンションで何かまくしたてていて、
悠真は悠真で、妙に距離が近い。
まるで新しいゲーム機を前にしたときみたいに、
キラッキラした顔で話しかけている。
瀬戸くんは、そんなふたりに丁寧に返事をしながら、
少しかがんで相槌を打っていた。
その横顔は——
やっぱり、どこまでも透明で、
光が通るみたいにきれいで。
でも同時に、笑った時の口元や、
話すたびにちょっとだけ揺れる黒髪が、
年相応の幼さを残していて。
(いや待って、そんなん、あかんて……)
胸の奥で、なにかがきゅうっと縮んだかと思えば、
次の瞬間には跳ねるように広がる。
不安と、驚きと、名前のつけられへん感情が、
ぐるぐるとかき混ぜられて、
胸の真ん中で柔らかく暴れていた。
文音の心は、この春いちばん忙しい音を立てていた。
「「カナちゃーーーーーーん!」」