俯いたまま、アラタはテーブルの縁を指でなぞり、小さく息を吐いた。
考えをまとめるように間を置いてから、ぽつりと呟く。
「……ごめん。なんかカナちゃんの小説、読んどった気はすんねんけどな。ショックがでかすぎたんか、内容がぜんぜん頭に入ってこんかったわ。なんやろ、一瞬で一ヶ月くらい時間すっ飛んだみたいな感覚で、話がまるっと抜け落ちとる」
向かいに座るユウマも、同じように虚ろな目をして、力なくうなずいた。
「せやな……俺もや。なんか急に一ヶ月くらい過ぎたような気ぃするわ。あれや、この感じ……一ヶ月と十日くらい、丸ごとぶっ飛んだ感覚やな」
「ああ、多分そんくらいやわ。で、どんな話やったか、覚えとる?」
「えーっと……確かやな。急に文音ちゃんと瀬戸くんが、同棲し始めた感じやった」
「嘘やん。それは階段二、三段どころちゃうやろ。飛ばしすぎや」
「いや、ほんまやって」
「マジで言うてる? あれ、文音ちゃんっていくつやったっけ。大学生やったか?」
「いや、中二やな」
「……犯罪やん」
「え、でも瀬戸くんも中二やろ? ほなセーフなんちゃう?」
「あ、瀬戸くんも中二か。ならセーフか……ってなるわけあるかい。てか文音ちゃん、実家住みちゃうかったっけ?」
「せやな。確か普通におかんおったわ」
「それ同棲ちゃうやろ」
「……確かに」
「せやけど、そうか。おかん出てきたんか……」
「ああ、出てきたはずや。なんや、カナちゃんも自分がおかんおらんくて、寂しいんかな」
「まあ、カナちゃんまだ中二やしな。あの年でおかんおらんのは……やっぱ寂しいんちゃうか……」
その言葉を最後に、二人の間に静かな空気が落ちる。
さっきまでの軽口が嘘みたいに、二人の間の空気がしんとした。
アラタは気まずさを振り払うように、わざとらしく話題を切り替えた。
「なあ……おかんがいなくなって、もう二年にもなるんやな」
「せやな。ほんまあっという間やったわ」
「……あの頃、カナはまだ小六やったもんな」
「せやな。あんなちっこい頃に、おかんおらんようなってもうて……」
また沈黙。
しばらくして、アラタが苦笑混じりに口を開く。
「……なんか自分で言うてて思うけど、この会話やと、おかん死んだみたいやな」
「せやな。俺も思ったわ。普通におとんの海外赴任についてっただけやのにな」
「なあ、お前、カナの小説のこと、おかんに言うた?」
「いや。兄貴が誰にも言うなって言うたやろ。せやから、おかんにも言うてへん」
「ああ、それで正解や。おかんに言うたら、絶対ややこしなる」
「わかる。カナちゃん、絶対拗ねるで」
「ほな、とりあえずこれは秘密のままやな」
「せやな」
二人は短くうなずき合い、その話題にそっと蓋をした。
「……で、何の話やったっけ」
沈黙に耐えきれなくなったように、ユウマがぽつりと聞く。
「カナちゃんの小説や」
「あ、せやったわ」
アラタは軽く頭を振り、気持ちを切り替えるように背もたれに寄りかかった。
「おかんのことは一旦ええねん。いや、どうでもええわけちゃうけど、今は置いとこ。それよりカナちゃんの小説や。なんやかんや言うてるうちに、ちょっとずつ思い出してきたわ」
「おん、俺もや」
アラタは眉をひそめ、溜め込んでいた不満を吐き出すように続ける。
「いやな、言いたいことは山ほどあるんや。ほんまに色々。でもな、これだけは言わせてほしい。なんで俺、文音ちゃんの家族から完全に省られとんねん。俺、いらん子なん?」
「いや兄貴はまだマシやろ。俺なんか小学生扱いやで!! なんなん、カナちゃん目線やと俺は永遠の小学生なん?」
「お前はまだ登場しとるだけええやん!! 俺なんかもう出番ゼロやで。意味わからんTシャツだけ残して消えた兄や。こんなん、家に瀬戸くん用の部屋作るためのギミックやん!!」
「あ……」
言葉に詰まったユウマが、思わず気まずそうな顔を向ける。
「……いや、そんな可哀想なもんを見る目で見るなや」
「……なんか、ごめん。せやな。俺はまだ出とるだけマシかもしれんわ。……いや待てよ。実は弟くん、まだ俺やない可能性もあるやん」
「いや、弟の名前、悠真(ゆうま)やったやろ」
「……せやったな。え、ほんなら俺、テレビアニメ真似して踊ってるようなキャラなん?」
「まんまやん」
「……せやったな」
短い沈黙のあと、アラタが自嘲気味に笑う。
「……いやほんま、お前はまだ出番あるだけマシや。俺なんて、謎のTシャツと部屋だけ残して存在抹消されとるんやで。代われや」
「それ、カナちゃんに言うてや。てか、その謎のTシャツってなんなん。あれ、ほんまに持っとるん?」
「……ずっと前に、梅田の古着屋で買ったやつや。たぶん、俺の部屋のどっかにある」
「あ、ほんまにあるんか。あれ何なん? We’re The Titsって、ほんまに俺たちはタイツですって意味なん?」
「なわけあるかい」
「ほな何なん」
「……自分で調べろ」
「えー、焦らさんと教えてーな」
「お前が今手に持っとる機械は何や。飾りか」
「ほんま兄貴、ケチくさいわ」
ユウマはぶつぶつ文句を言いながらもスマホを取り出し、検索欄に文字を打ち込む。
数秒後――画面を見た瞬間、堪えきれんといった様子で噴き出した。
「っ……ははっ……!」
「え、兄貴、なんでこんなTシャツ買ったん? Titsっておっぱいやん。これどんな顔して着るん? あ、胸元にWe're The Titsって書いてあるってことは、あれなん、おっぱいが自己紹介してるってノリなん? やばいな、それ聞くとおもろいやん。あれやろ、外国人が漢字の入ったTシャツ見てカッコいいって思って買うけど、実はめちゃくちゃダサいみたいなパターンの英語版ってことやろ? めっちゃええやん」
「なわけないやろが。We're the Titsで一つのイディオムなんや。俺たちは最高だっていう意味の」
「え、ああ、なるほど? 俺たちはおっぱいだっていうのと、最高のおっぱいだっていうのがかかってるってことやな。やばいな、めっちゃおもろいやん。いやでも、なんで買ったん?」
「死ね」
「いや、急にマジにならんといてって。ってか、そんなイディオムとか誰も知らんやろ普通。あ、あれか、こんなイディオムがわかる俺かっけーみたいな。お前らはおっぱいだと思ってるだろうけど、違う。俺にはわかっとる、みたいな感じなん? あれ、でも結局最高のおっぱいやん。まんまやん」
「……死ね」
「……悪かったって。そんな怒らんといてやもう。いやでもこれ、カナちゃんは意味わかっとるん?」
「……どうやろな。いや多分、わかっとらんのちゃう。わかっとったら小説に出さんやろ」
「ほんならカナちゃんはほんまにタイツやって思っとんのか」
「やろうな」
「……ここは触れんといてあげよか」
「ああ」
「……で、内容や」
アラタが唐突に言い切る。
「おう、急に本題入るやん」
「まあ、あれやな」
「あれ?」
「ああ、なんて言うか……めっちゃこってこての王道で来たな」
「ああ、まあ確かに。アオのハコとかでもあったわ」
「なんやそれ」
「え、知らんの? 最近ジャンプでやっとる漫画や」
「いや、さすがにジャンプはもう追えへんて」
「ああ、まあそうやろな」
アラタは少し考える素振りをしてから、首をかしげた。
「で、どんな内容なん?」
「うーん……俺も毎週ちゃんと追えてるわけちゃうから、うろ覚えやけどな」
ユウマは指を折りながら、思い出すように語り始める。
「まずな、バト部の男の子がおんねん。大喜くんって言うてな。で、その大喜くんには好きな子がおんねん。千夏ちゃんっていうんやけど」
「ほう」
「でもな、もう一人おんねん。新体操やっとる雛ちゃんって子が」
「……不穏やな」
「でな、雛ちゃんはな、最初はそんな意識してへん感じやってんけど、実は大喜くんのこと好きやねん」
「もうあかんやん」
「あ、これネタバレやからな。秘密やで」
「今さらやろ」
「ほんでな、あと大喜くんの親友ポジに笠原くんってやつがおってな。こいつがまたええやつでな。そんで――」
「ごめん、ちょっと待って」
アラタが手を挙げて遮る。
「ぜんぜんわからん。結局なんなん? 三角関係なん? 二股なん?」
「いや、二股とかちゃうやろ。そこはわかるやん」
「ほな、大喜くんが好きなんは千夏ちゃんだけなん?」
「まあ、どうやろな」
「で、大喜くんは千夏ちゃんとくっつくん?」
「いや、それ言うたらネタバレやろ」
「いや、そういうのはええねん。どうせくっつくんやろ」
「そうとは限らんやろ!!」
「知らんて。てか、それとカナちゃんの小説、何が一緒なん?」
ユウマは少し身を乗り出し、強調するように言った。
「……あれやな。千夏ちゃんもな、親の海外転勤で、大喜くんの家に住むことになるんや」
「それ最初に言えや!!」
「え」
「今までの情報、ほぼ全部いらんかったやろ!!」
「いやいや、そんなんしたらこの話の魅力が伝わらんやん」
「お前の説明でも全然伝わってへんわ」
アラタは腕を組み、眉を寄せる。
「で、なんで一緒に住むん? 親戚なん?」
「なんやったかな……確か、親同士が仲良いとか、そんな感じやった気がする」
「え、普通に他人やん」
「……まあ、せやな」
「いや、その理由で、娘を同い年の男の子がおる家に預けるか普通? 親御さん、心配ならへんの?」
「大丈夫や。同い年ちゃうで。千夏ちゃんの方がちょっと先輩のはず」
「いや、なんも大丈夫ちゃうやろ。お姉さんやで。むしろその方が色々えっちやん」
「……確かに……!」
ユウマはそこで言葉に詰まり、少し間を置いてから、小さくうなずいた。
「……いや、何の話やこれ」
アラタが我に返ったように、ぽつりと呟く。
「同じ家に住むって話やな」
「ああ、せやったな」
アラタは腕を組み、天井を見上げる。
「まあ王道やわな。理由はようわからんけど、とりあえず同じ屋根の下に住ませるやつや。思春期の男女をあんな距離に置いたら、そら話も動くやろ」
「わかるで。ありがちな展開やろ。お風呂上がりで裸見ちゃったりして、きゃーってなって叩かれるやつやろ。そんで、ほっぺたに手形がつくんや」
「……なんか、その例え、古ない?」
「ほな、寝ぼけて部屋間違えて、いっしょのベッドで寝てまうとか」
「それも古い」
「いや、でも王道ってそういうもんちゃう?」
「まあ……確かに。……いや、待てよ」
アラタがふと真顔になる。
「どしたん?」
「これ、少女漫画やんな」
「……多分な」
「お前が想像しとるの、少年誌のラブコメやろ。でも少女漫画やったら、視点が逆になるんちゃうか」
「……え」
ユウマは一瞬考え込み、嫌な想像に行き着いたように顔をしかめる。
「俺ら、これから瀬戸くんのお色気シーンを読まされるん?」
「……可能性はあるな」
「風呂上がりの瀬戸くんのおっぱいがチラリとか」
「ああ」
「寝起きの瀬戸くんのパンチラとか」
「ああ」
「朝になって固くなった瀬戸くんの瀬戸くんとか」
「……いや、それ以上はさすがにR-18ちゃうか」
「え、朝立ちくらいで?」
「……確かに。それくらいはセーフなんか? いや、わからん。男女変えただけでようわからんくなるな」
「……さすがに出してなかったらセーフなんちゃう?」
「え、そこ基準なん? 生々し過ぎん?」
「確かに、需要なさそうやな。……いや逆に、そこがええって読者もおるんか?」
少しの沈黙。
「……え、俺ら、これからそういうシーンにコメントしていくん?」
「……覚悟は、要るな」
「……やな」
二人は同時にため息をつき、椅子の背にもたれた。
これから始まるであろう展開の重みを、ようやく実感し始めたところだった。
「てかさ」
ユウマがふと思い出したように眉をひそめる。
「千里の道がなんとかって言うてたやん。あれ、結局なんやったん?」
「……わからん」
アラタは即答した。
「いや、なんでわからんねん」
「たぶんやけどな」
「たぶん?」
「一ヶ月前やったら、ちゃんとわかっとったんやと思うで」
「おう」
「……で、そのセリフ、たぶんお前が言うたやつや」
「いや雑!!」
ユウマが思わず声を張り上げる。
「俺の扱い、雑すぎん? 俺かて、そんな意味わからんこと急に言わんて」
「いや、テンション的にお前やろ」
「偏見やん。てか、兄貴も似たようなもんやろ」
アラタは少し考え込むように顎に手を当てる。
「ほな聞くけど、お前、千里の道ってどんくらいかわかっとるん?」
「あー……えっとな……」
ユウマは視線を宙に泳がせ、記憶を掘り起こそうとする。
「千里の道って……うーん……東京——」