翌日、カナはまた一人、リビングのテーブルにノートパソコンを置いた。
クリック音だけが、静かな部屋にカチカチと響く。
第1話は、勢いで書けた。
「転校生」「朝の光」「廊下」「手首」。
自分の好きな少女漫画のキラキラを、思いつくまま手のひらに拾い集めて、そのまま画面の上に落としただけ。
(……あれは、あれでよかったんやと思うけど)
指先が、キーボードの上でふわっと止まる。
(でも……このまま王道だけ並べても、絶対うちの手には余るやろな)
「……第2話、どうしよ」
ぽつりとつぶやいて、椅子の背にもたれる。
少女漫画みたいな話が書きたい気持ちは変わっていない。
キラキラした青春、ドキッとする瞬間、心臓の奥が熱くなるあの感じ。
でも——ただの少女漫画みたいな話を書くつもりもなかった。
(普通の少女漫画は……プロが書くんやしな。うちが書けるんは、うちだけの少女漫画や)
心の中で言葉にしてみると、少しだけ息が軽くなった気がした。
感想をくれた人をがっかりさせるかもしれない。
期待とちゃうと思われるかもしれない。
「方向性違うな」とそっぽ向かれるかもしれない。
でも、それはきっと、どんな話を書いたって同じだ。
(そんなん考え始めたら、一生書かれへんやろ)
だったら——。
(やっぱり、自分の書きたいほうに行ってみよ)
カナは背筋を伸ばし、ゆっくりと指をキーボードへ置いた。
小さく深呼吸して、ひとつ目の文字を打つ。
——そこから、カナだけの第2話が始まった。
***
「おつかれさーん」
玄関のドアを閉めた瞬間、アラタは思わず眉をひそめた。
出迎えるように、ユウマがぬっと顔を出してきたからだ。
「……出たな」
「出たな」
ユウマがひそひそ声で言う。
アラタも、ニヤッと同じ温度で返す。
そう——ついに更新されたのだ。
どんぐり饅頭先生の、第2話が。
アラタはその通知を見てからというもの、仕事がほぼ手につかなかった。
帰りの電車でも、何度もスマホを取り出しては閉じ、取り出しては閉じ……
自分でも笑えるくらい落ち着いていなかった。
(……でも、ようやくや)
二人はカナを起こさないように、気配を殺してアラタの部屋へ向かった。
金曜の夜だ。
アラタは帰り際に、いつもなら買わないカップの日本酒を買っておいた。
カナの小説を肴に酒が飲める——
そんな兄冥利に尽きることがあるか。
隣でユウマが「俺には?」みたいな顔で見てくるが、アラタは視線すら向けない。
(アホな大学生を、さらにアホにするための酒ちゃうねん……)
おちょこを机に置き、とくとくと日本酒を注ぐ。
ユウマには、マグカップに白湯を用意した。
「なんで俺だけ白湯なん……」
ユウマは不満げに唇を尖らせたが、知ったことではない。
一通り準備が整ったところで、アラタが真面目な顔で切り出した。
「さて……まずはタイトルやな」
「……せやな」
二人は示し合わせたように神妙な顔になる。
理由はひとつ。
第2話のタイトルが、あまりにも異質だったからだ。
瀬戸くんは、春風でできている。
オリジナル:現代/恋愛
タグ:青春 恋
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春野文音、中学二年。
地味で、真面目で、新聞部で。
いつもクラスの片隅から世界を眺めることに慣れていた。
そんなある日、風といっしょに瀬戸くんが転校してくる。
朝の廊下、光の中で笑った彼の横顔が、文音の心臓を忙しくした。
記事には書けない胸の音。
新聞部のペン先が追いかけるのは、いつの間にか、彼の笑顔になっていく──。
これは、恋なんて知らん中学生の、最初のきらめきの物語。
第1話 転校生が風邪と一緒にやってきた日
第2話 いや、そうはならんやろ!
先に口を開いたのはアラタだった。
「……わたし、気になります!」
「そうよな! なんなん、『いや、そうはならんやろ!』って」
「いや、スルーすんなや……まあ、そら気になるわ。2話でこんなタイトル出されたらな」
ユウマが腕を組みながら唸る。
「なんなんかな……やっぱ瀬戸くん、ロボットとか宇宙人なんちゃう?」
「いや、それなら2話でもう出すか? 普通そういうんは8話くらいまでに伏線ちょいちょい貼っとって、20話くらいで正体バーン!やろ」
「いやでも、他に思いつかんやん! あの第1話から続いてこれやぞ」
「……まあな。俺も少女漫画はそんな詳しないし、あんまわからん。せやけどロボとか宇宙人やったら、さすがにタグは増やすやろ。増えてへんってことは、そんな追加設定ではないはずや」
「……忘れてただけちゃう? 瀬戸ウイルスも治ってへんし」
「……いや、忘れるか普通? これで、これまでタグがゼロやってんならともかく、『青春』に『恋』やで。ハーメルンでこんなド直球なタグよう見んで。絶対タグにこだわってるやろ」
そんなやり取りをしながら、二人とも本気で悩んでいた。
「せやかて、瀬戸ウイルスは治ってへんやん」
「しつけえな……まあ、そこ突かれると……若干不安にはなる」
「ほんなら絶対ロボか宇宙人やって!」
「いや、そうやとして、ほんならそっからどうやって少女漫画に着地させんねん?」
「そらいろいろあるやろ」
「たとえば?」
「たとえば……瀬戸くんが、実はロボットでしたって自己紹介すんねん。こう、頭とかカポっと外して」
「まあ、ありがちな導入やな。ギャグ漫画の世界でやけど。で?」
「でな……うん、そんでな……予備の頭とかあんねん」
「で?」
「でな……頭が壊れた時は、その新しい頭つけんねん」
「完全にアンパンマンやんけ。瀬戸パンマンか? 新しい顔よってか? どない少女漫画やねん」
「いやでも、俺にはそれくらいしか考えられへん!」
ユウマがむきになって言い返す。
アラタは酒をちびちび飲みながら、ゆっくり言葉を継いだ。
「まあ言うて、俺にもようわからんわ。少女漫画でよくあるんはさ……最初は印象悪いイケメンが、ふとしたギャップで落としてくるやつやん? 下げて上げるんや」
「不良が猫に餌やるやつ?」
「まあ、せや。そんなコテコテは今あんま見んけどな。でも瀬戸くんは、最初から爽やか好青年やん? これやと落差がないねん。こっから上げてもうたら、もう成層圏突破すんで」
「ほんなら逆に、最初から好印象なやつにはどんな定石があるん?」
「こっちのパターンやと、実は裏があるみたいな極端な設定やない限り、イケメンの方であんま個性が出せへんやん? 極論、イケメンやな、で終わってまう。だから逆に、主人公の方で個性出すんよ」
「へ〜、みんなよう考えとるな。個性って、どんな感じなん?」
「せやな、たとえば、地味だけどめっちゃ独特の感性しとるとか、ど田舎もんの天然とか。そういうんが逆に主人公を際立たせる個性になって、イケメンを惹きつけんねん」
ユウマが素直に感心する。
「へ〜、おもろいな」
「それや」
「え?」
「だから、『おもしれー女』っていうジャンルなんや。たまに聞かんか?」
「嘘やろ!?」
「ああ、嘘や」
「信じてもうたやんけ!」
ユウマは頭を抱える。
「……でも、まだ第1話やけど、文音ちゃんにそんな個性ないんちゃう? むしろ、どこにでもおる感じの子やん」
「せやな。だから俺も迷ってんねん。文音ちゃん、実はめっちゃ変な子なんかもしれん。でも、このタイプやと普通、文音ちゃん、最初はクラスで浮いとるはずなんよ。そこをイケメンがおもしれー女して、文音ちゃんの魅力が他の人にも伝わって、みたいなんが定番やから。でも、文音ちゃん普通に友達おったよな」
「せやな。りんちゃんやろ。あらすじにも、『地味で、真面目で、新聞部で。』って書いとるで。これは普通の子やろ」
アラタはそこで、ふと眉を寄せた。
「……いや、待てよ。このあらすじ、一人称視点で書かれとるやろ。ってことは、『地味で、真面目で、新聞部で。』ってのも、文音ちゃんの自己認識ってことや。なら、叙述トリックの可能性もあるんか……?」
「なんなん、そのなんちゃらトリックって?」
「読者をええ感じに騙すテクニックや。たとえば、一人称が『俺』のやつがおったら、普通男やと思うやろ? でも実はそういう喋り方する女やった、とかな。作者は嘘ついてへんけど、情報の出し方でミスリードさせるんや。推理小説とかでよくあるやつ」
ユウマを目を丸くして、しきりに頷く。
「はえ〜。ほんなら文音ちゃん、実は男やったってことか?」
「……なあ、俺お前には白湯しか飲ませてへんよな? 俺の酒、飲んでないよな?」
「おん、飲んでないで。なんでや?」
「……」
(……ツッコんだら負け、ツッコんだら負けやで。)
アラタは小さく咳払いをして、話を戻した。
「まあええ、とにかく、文音ちゃん側にも、まだ見えてへん何かがあるかもしれんって話や」
「はえ〜」
アラタは画面を見つめたまま、ぽつりと続ける。
「せやけど一番気になるんは、この『いや、そうはならんやろ!』が誰のセリフかってことや。あらすじから第1話まで考えたら、これは文音ちゃんのツッコミっぽいんよな。そうなると、変な子なのは瀬戸くんの方になる。ほんなら、やっぱり裏の顔ある系なんか? ……実はサドとか? いやでも、いきなり第2話でバレるんか? それに、中二でサドとか、ニッチすぎひん? いや、ギャップとしては強いし……でも薄すぎる化けの皮ってのも……むしろ、にわかサドってのが需要あんのか……?」
ぶつぶつと一人で沼にハマっていく兄を見ながら、ユウマがとうとう口を挟んだ。
「……なあ兄貴」
「なんや」
「……なんで俺ら、小説読まんとこんな推理ゲームしてんの? 2話読めば一発やろ」
アラタはしばらく黙り込んだ。
「……わかるやろ」
「は?」
「カナちゃんが書いたもんは、ちゃんと味わいたいやろ。なんでこのタイトルなんか、どう転がしてくんのか……そういうの、読む前にあれこれ妄想するんが楽しいんや。わかるやろ! 俺、映画パンフだけ見てこんな話かなって想像するの好きやねん。実際観に行ったらたぶん『思てたんと違う……』てなるんやろうけど、だからその前の時間がええねん。わかるやろ! いや、わかれや!!」
ユウマは白湯をすすりながら、ひくひく笑う。
「いや、気持ちはわかるけどな? 兄貴は酒あって楽しいかもしれんけど、俺、白湯やで。しかも2杯目やで。シラフでこの推理つきあうん、そろそろ限界なんよ……!」
アラタはふっと息をこぼし、小さく笑った。
「……まあ、せやな。悪かった」
そしてふたりは、揃ってゆっくり画面に視線を向けた。
「――ほな、読むか」
ちいさな呼吸が、部屋の空気を揺らした。
「せーの」の掛け声とともに、物語の幕が、ようやく上がる。
第2話 いや、そうはならんやろ!
「ほんなら瀬戸、簡単に自己紹介せえや」
担任の山下先生が、いつもの気だるそうな声でそう言った。
ただ、その目だけはどこか心配そうで、妙に落ち着かない。
(……瀬戸くん、急な転校らしいし、なんか事情あるんかな)
教室の空気がふっと静まる。
視線が前へ集まり、瀬戸くんは少しだけ緊張したように姿勢を正した。
「親の仕事の都合で、東京の方から来ました。
趣味は音楽聴いたり、サッカーするのが好きです。部活は入ってなかったんですけど……。
ずっと関東育ちで、方言とかも全然わからないので、いろいろ教えてくれると助かります」
語尾のやわらかさも、姿勢の正しさも、丁寧な人柄をそのまま写したようだった。
時々つまるところもあったけれど、それすらも誠実さの一部みたいに見えた。
(やっぱ……優しい人なんやろうな)
教室の空気がほぐれていく。
春の風がそっと吹き抜けたみたいに、みんなの表情がやわらぐ。
——だが、そのときだった。
唐突に、山下先生が口を開く。
「瀬戸。将来の夢は?」
(……は?)
文音だけじゃない。
みんなが同じタイミングで顔を上げる。
(将来の夢? 今それ? 山下先生そんなキャラやったっけ……?)
普段の山下先生は、自己紹介にそんな無茶ぶりはしない。
クラス内でも無言の視線が交わされる。
りんを見ると、案の定「え、どしたん先生……」という顔をしていた。
(瀬戸くん、大丈夫やろか?)
ざわ……と小さく揺れた空気の中で、瀬戸くんは何かを決意するように息を飲み、大きく口を開けた。
そして——
「将来の夢は、カレーうどんになることです!
……コシのある人生を送りたいと思います!!」
——シン。
あれ、学校って、こんなに静かになれるんや……?
って思うほど、教室が凍りついた。
誰も言葉を発せず、時計の秒針すら聞こえそうな静寂。
(……あ、これ、脳が処理落ちするっていう、五条先生のやつや……)
文音の脳には、唐突に全く関係のないネタが浮かんでしまう。
教室内では、誰も一言も発さない。
瀬戸くんはなぜか天井を向いてフリーズし、山下先生は何か面白いものでも見つけたかのように、じっと窓の外を見つめている。
時が止まったかのような沈黙の中、最初に動いたのは窓際の席の子だった。
「なあ、相田くん……まだちょい肌寒いし、窓閉めてくれへん?」
「……あ、おう。せやな……」
カラカラ、と窓が閉まる音だけがやたら大きく響く。
それでも誰も喋らない。
やがて山下先生が、何かを覚悟したように瀬戸くんへ向き直る。
「……ほんなら、好きな食べもんは?」
ずっと天井を見ていた瀬戸くんは、びくっと肩を跳ねさせ、勢いよく前を向いた。
「あ、えっと、その……チキン南蛮です」
「そこはカレーうどん言わんかい!!」
山下先生の渾身のツッコミで、ようやくクラスの空気に少しだけ人間味が戻った。
「あはは……」「いや、頑張ったな……」
そんな小さな作り笑いと、気まずさをほどく優しい声が広がる。
瀬戸くんはというと——
「いや……ほんとにすみません……!」
と、みるみる耳まで真っ赤になった。
「俺、小さいころこの辺住んでたらしいんですけど、あんま記憶なくて。で、また戻ってくるってなったとき、正直……馴染めなかったらどうしようって思ってて……。関西って、なんか面白くないとイジメられたりするってネットで見て……。それで……自己紹介のネタ……めっちゃ調べたんです……。山下先生にも、将来の夢を聞いてくださいって事前に相談して……。いや、正直、カレーうどんって何が面白いんだろうって自分でも思ってたんですけど、ネットで調べたら関西では鉄板ネタだって言ってたから……。でもなんか……その……あの……ほんとすみません……」
声がだんだん小さくなり、最後は蚊の鳴くような音になった。
山下先生が、目を細めて尋ねる。
「ほんなら瀬戸……ネットで相談したって、どこ使うたんや?」
「…………Yahoo!……知恵袋です」
「…………そら……災難やったな。でもまあ、人生っちゅうのは——」
山下先生が何かを語りかけようとした瞬間、
《キーン・コーン・カーン・コーン》
計ったかのように予鈴のチャイムが鳴り響き、山下先生のフォローは秒で掻き消されていった。
教室中が、なんとも言えない表情で沈黙する。
山下先生は下を向いて沈黙し、瀬戸くんは口を半開きでパクパクさせていた。
クラスメイトの大半は、せめて山下くんを見ないであげようと、視線を彷徨わせている。
誰も何も言わないが、思ったことは、みんな一緒だろう。
(……いや、そうはならんやろ!)
こうして、文音の忙しない春は、思わぬ展開に向かうのだった。
「「いや、そうはならんやろ!」」