翌朝は土曜日。
ひさびさに兄妹三人が家に揃う、ゆっくりした朝だった。
一番に起きたカナは、まだ半分寝ぼけたまま、リビングのソファに腰を落ち着けてスマホをいじっていた。
窓からさし込む朝の光は澄んでいて、静かな空気をふんわり照らしている。
そこへ、顔を洗ったばかりのアラタがやってきた。
首にかけたタオルでごしごし顔を拭きながら、リビングの扉を押し開ける。
「……おはよう」
「うん、おはようさん」
アラタは欠伸を噛み殺したままキッチンへ向かう。
「朝飯、もう食ったんか?」
「食べたで。パンにした。でも、もうすぐバター切れると思うわ」
「そっか。卵とかも切れとったし、あとで買い出し行くわ。カナも来るか?」
「うーん……買い出しって、どこ行くん? 商店街?」
「駅前のほうや」
「車出すん?」
「出すで。今日まとめていろいろ買わなあかんしな」
「……なら行く」
「さよか。ユウマも連れてくか?」
「……どうせまだ寝とるからええやろ」
「まあ、せやな」
そう言いつつ、アラタは手早く朝食の準備に取り掛かった。
やかんに火をかけ、豆を計り、慣れた手つきでドリッパーにセットする。
ぽた、ぽた、と垂れ落ちる雫の音とともに、深い香りがリビングに広がっていく。
ふと、じーっとした視線を感じた。
「……カナも飲むか?」
「コーヒーって、おいしいん?」
「いやお前……飲んだことあるやろ」
「あるけど……なんか、いまだにおいしさわからんねん」
「わからんなら無理に飲まんでええって」
「じゃあなんで兄ちゃんは飲むん?」
「……なんやろな。味も嫌いやないけど、単純におもろいからやと思うで」
「どのへんがおもろいん?」
「豆とか淹れ方で味がくっきり変わんねん。せやから、いろいろ試すのが楽しいんよ」
アラタは淹れたてのコーヒーをマグに注ぎ、テーブルへ置いた。
「紅茶も好きやけどな、俺がバカ舌なだけかもしれんけど、紅茶はよっぽど下手ちゃう限りそこそこの味にはなる。高い茶葉でも安い茶葉でも、香りの違いくらいや。味の差って案外ひらいてへん」
「へぇ……」
「ほいでコーヒーは違う。豆の品質で結構ちゃうし、味の軸が苦味と酸味って二本あるから好みも分かれやすい。さらに淹れ方でどっち寄りにも調整できる。正解の味ってもんがないんよ。せやから自分の好きな味は、自分で探すしかあらへん。俺にとって最高の一杯が、カナには苦すぎて飲めへんかもしれんしな」
「……めんどくさくないん?」
「めんどくさいで?」
「え、ならなんでするん」
「うーん……カナはまだ学生やろ。自分のために時間使えるやん。けどな、大人になったらその時間、めっちゃ減んねん」
アラタはマグを軽く揺らしながら、すこし目を細めた。
「せやから、その減った時間の中で自分のためにちょっとした贅沢するっていうんが、ご褒美なんよ。5分とか10分でも、自分のために考えて、自分が喜ぶもんを作る……それが案外、楽しいんや」
カナはむぅ、と唇を尖らせる。
「なんか、あんま効果なくてもエステ行く人がおるんは、行ってる時間自体が楽しいから……みたいな?」
「……まあ、そうやな。でも、それそんな他所で言っちゃあかんで」
「ようわからんわ」
「まあカナの年でそれ分かったら、逆に怖いわ」
アラタは苦笑した。
リビングには、立ちのぼるコーヒーの香りと、穏やかな休日が静かに満ちていた。
***
駅前のショッピングモールに着くと、アラタとカナはまっすぐ本屋へ向かった。
「寄りたい」と言い出したのはカナだ。お気に入り漫画の新刊や、新聞部で使えそうな本をチェックしたいらしい。
休日の人混みの中でも、カナは慣れた足取りで本屋を目指す。
エスカレーターを上りながら、アラタがふと思い出したように話を振った。
「なあ、最近どういうんが流行っとんや?」
「え、何が?」
「漫画とか小説とか、そのへん」
「兄ちゃん、ずっと忙しかったもんなぁ……あ、呪術廻戦終わったで」
アラタは足を止めかけた。
「……嘘やろ! もう終わってもうたん?」
「せや。てか兄貴って、どこまで追えてたん?」
「……あれや、五条先生が……あれや……ポケモンみたいにゲットされたとこ」
「……めっちゃ盛り上がるとこで止まるやん。まあ、社会人やと追えへんのか」
カナが笑いながら肩をすくめると、アラタは逆にしゅんと肩を落とした。
「せやねん。ほんま追えんのよ……なんかおすすめあるか?」
「……何系?」
「何系でもええで」
「そういうのが一番困るんやけど」
「ほな、カナが今年読んで一番おもろかったやつでええわ」
「……ほんまになんでもええん?」
「ええよ。任せるわ」
「わかった。ほな探してくる。無かったらごめんやで」
ひらりと手を挙げたカナは、そのまま本棚の迷路へ吸い込まれていった。
待ち合わせは30分後。アラタはぽつんと取り残される。
(……偶然やけど、チャンスかもしれん。カナがどんなの好きか、ちょっと見えてくるやろ。瀬戸くん、これからどうなってまうんや……)
アラタも店内をゆっくり回り始めた。
人気ランキング棚には、表紙がやたら派手で、帯にアニメ化の文字が躍るライトノベルたち。
かつてはオタクが買うものみたいな扱いやったのに、今ではすっかり一般コーナーの顔をしている。
(……時代変わったなぁ)
そうぼんやり思いながらも、アラタが手に取るのは結局、新書とか生活系の雑誌だった。
晩飯のレシピ特集をぱらぱら眺めて、
(あー、これうまそうやな……でも作るん面倒くさいな……)
と真剣に悩む。
やがて、待ち合わせの時間が近づき、アラタはレジの方へ向かった。
そこには、両手にいくつかの本を抱えたカナがすでに立っていた。
「お、はええな。ええの見つかったんか?」
カナは胸の前の本をぎゅっと抱え直して、少し得意げにうなずいた。
「では、カナ先生が選ぶ今年一番おもろかった本をどうぞ」
「……いろいろ考えたけど、一番記憶に残っとったん、これやった」
——差し出されたのは文庫本。
江戸川乱歩傑作選。
「……カナ、これ読んだん?」
「読んだで。図書室にあったし」
「せやな、図書室におりそうな顔しとるわ」
「……なんその顔。江戸川乱歩おもろいって言っとったん、お兄ちゃんやん」
「俺、そんなん言うたっけ」
「言ったで。中学んとき何読んどったって聞いたら、乱歩とか夢野久作とか言うてたもん」
(……せやな。あん頃は金なかったし、図書室の本ばっか読んどったわ)
「そういや言うたな。おもろかったか?」
「うん、今まで読んだことない感じで、びっくりした」
「そらそうやろな。で、一番おもろかったのは?」
「『芋虫』」
(……瀬戸くん、もうダメかもしれんな……)
「……そうか。少年探偵シリーズとかも読みやすいで」
「わかった、読んでみる」
「おう、少年探偵シリーズがええ」
***
本屋を出て、ドラッグストアや服屋を回っているうちに、気づけば昼時になっていた。
今から食材を買って帰ると、家に着くころには少し遅くなりそうだ。
アラタは七分袖の手首に巻いた腕時計をちらりと見て、言った。
「カナ、先にどっかで昼食べよか」
「ええん?」
「何心配しとんねん。余裕や余裕。何食べたい?」
「……ほんなら、パスタ屋がいい」
「任せとき」
チェーンのパスタ屋は昼でも混みすぎず、ふたりはすぐ席に案内された。
注文を済ませると、ぽつりと静けさが落ちる。
「最近、学校どうなん?」
アラタが切り出すと、カナはくすっと笑う。
「……なんかそれ、ドラマに出てくるお父さんの言い方やで」
「しゃあないやろ。最近仕事ばっかで、カナと話す時間なかったしな」
「まあ、そらそうやけど。ていうか今、夏休みやし」
「そういやそうやった。新聞部って夏休みの活動あるん?」
「あるで。来週からやけど」
「何すんの?」
「うちらの班は校外の取材かな。まだ企画中やけど」
「校外はええな」
「せやねん、そういうのしたくて新聞部入ったし」
「楽しいならええ」
アラタはお冷をひと口飲んで、少し息をついた。
「そういうお兄ちゃんこそ、最近どうなん?」
「どうって何が?」
「……彼女とか作らんの?」
「……めっちゃぶっこんでくるやん」
「だって、お兄ちゃんの彼女とか、大学卒業して別れて以来やん」
「なんでそんな俺の恋愛事情に詳しいねん」
「ユウマに聞いたらなんでも教えてくれるで」
「なんでユウマは俺の恋愛事情把握しとんねん」
「……え、お兄ちゃんが教えたんちゃうん?」
「正気か?」
「……確かに。で、どうなん?」
「なんや、中学生みたいなノリやな」
「いや、中学生やし」
「せやったな」
「彼女できた?」
「できとらん」
「合コンは?」
「あんま行かんな」
「アプリは?」
「めんどい」
「なんか、ユウマとは違う方向でダメそう」
ちょうど料理が運ばれてきて、会話は一旦そっちへ流れた。
湯気の立つ皿を前に、二人は他愛のない会話をしながら、静かにパスタを食べ進める。
店内のざわつきは心地よく遠く、淡々とした時間が流れていく。
八割ほど食べ終えた頃、カナがぽつりとつぶやいた。
「なあ」
「どうした?」
「恋愛するって……どんな感じなん?」
「……漠然としすぎやろ」
「なら、彼女おるって……どんな感じ?」
アラタのフォークが止まった。
いつもより静かな昼下がりの空気が、その問いに水を張ったように広がる。
遠くのテーブルから響く笑い声が、妙にぼんやり聞こえた。
「……どんな感じ、かぁ」
アラタは小さく息を吐き、眉間に軽く皺を寄せる。
すぐに軽口で流すこともできた。けれど、目の前のカナが、ふざける気配なくじっとこちらを見ているのが分かって、適当な答えを投げる気にはなれなかった。
「正直、むずかしい質問やな」
眉間に少し皺を寄せながら、ゆっくりと言葉を探す。
その横顔を、カナはじっと待つように見つめていた。
小さい頃から変わらない、相手の返事を急かさず待つあの癖だ。
アラタはそれに気づくと、ほんの少しだけ表情を柔らかくした。
「人ってな、自分ひとりのままやと、どんどん狭なってまうやろ」
「狭く?」
「そう。自分の価値観だけで完結するし、正しさも楽さも、全部自分基準や。せやけど恋愛したら、その誰かのせいで、嫌でも領域が広がるねん」
「広がるって、どんなふうに?」
カナが首をかしげる。
アラタは、残りのパスタをフォークで軽くつつきながら続けた。
「その人が怒ったり、泣いたり、笑ったりするやろ。それ見てるうちにな、自分の中の世界が少し広がる感じなんよ」
「世界?」
「ああ。自分だけやったら絶対たどり着かへん場所に、ひとつ道ができる。『ああ、こういう時こう感じる人もおるんやな』っていう場所まで、地図が伸びていくというか。まあ逆に、そういうんがめんどくなる時も多いんやけどな」
カナは思わず顔を上げる。
「ほいでな……誰かの中に、自分がおるってのも、また不思議でええねん」
「自分がおる?」
「そう。相手の世界のどっかにも、自分のこと考えてる時間があるってことやろ。それがしんどい時もあるけど、でも嬉しい時もある。自分が生きてる世界が、ちょっとだけ他の誰かの世界にも影響するんやなあって、思えるからな」
カナはフォークの先を見つめたまま、しばらく考え込んでいたが、やがてぽつりと言った。
「……それ、友達とかではアカンの?」
「いや、全然ええと思うで」
「え、でも友達と恋人はちゃうやん!」
「なんでや?」
「……なんでって……」
言葉に詰まって、カナは水のグラスに逃げるように口をつける。
氷がカランと鳴った。
アラタは軽く喉を鳴らし、水をひと口飲んでから、また口を開いた。
「ほな想像してみい。恋人って言葉、何のためにあるんやろな」
「……なんか、誰かと誰かの関係を、定義するため?」
「せやな。そうやって、人間関係を区切るための言葉や。でも、なんで区切るんや?」
「……そっちの方が、わかりやすいから?」
「せやな。特に他人から見たときやな。『あの人とあの人、どんな関係?』って聞かれて——高校の頃は互いにそんな意識せんかったけど、大学のゼミでたまたま再会して、その後の飲み会でちょっとええ感じになってうんぬんかんぬんな関係——って説明されるより、『恋人』の一言の方が早いやろ?」
「……まあ、せやなぁ」
カナは苦笑する。
妙に具体的な例えが、逆に想像しやすかった。
「でもな、そういう説明のための便利な言葉も、使い続けとったら、だんだん実体を持ち始めるんよ」
「実体?」
「『俺はあいつと恋人ちゃうから、こんなに近寄ったらアカン』とか、反対に『恋人なんやから、こういう時は慰めてあげなあかん』とか。言葉に引っ張られて、行動まで決まりだす」
カナは「うーん」と低く唸った。
「う〜ん……なんやろ、演劇の役みたいやな。この役の人はこういうことできて、こういうことはできん、みたいなんが決まってる感じ」
「まあ、そうとってくれてもかまへんで。月並みやけど、『恋人になってください』って告白あるやろ。あれなんか、まさに演劇の役みたいやな。恋人がどんな役なんかは、だいたい社会が勝手に決めてる」
「……ほんなら、やっぱ友達と恋人はちがうんちゃうの?」
カナが改めて問うと、アラタは少し肩をすくめた。
「せやな。役で分けるなら、確かにちゃうな。ちょっと説明の仕方が悪かったかもしれん」
「ふむ」
「でもな、お兄ちゃんはそういう役どころで関係縛るん自体、ちょっと窮屈やと思うねん。友達やからこうしてくれ、とか。恋人やから、こうせなアカン、とか。だんだんめんどくさなってくる」
「……そうなん?」
カナはストローを指でつまんで、くるくる回した。
「まあ、こっちが『この役から抜けて、もっとフラットな関係でいたい』思うても、相手から勝手にそういう別の新しい役をつけられたりもするんやけどな」
アラタは苦笑しつつ、残った水を飲み干した。
「いろいろ言うたけど、お兄ちゃん目線やと、恋人も友達も、根っこはそんな変わらんよ。ただ、そこに相手が——あるいは自分が——なんかの役を当てはめようとするかどうかの違いやな」
そこまで言って、ふっと息を抜く。
「せやから、『恋人おるってどんな感じ?』って聞かれても、結局さっきみたいな感想になってまうわ。友達といっしょやんって思われるかもしれんけど、役どころ抜きで見たら、そう変わらんやろ」
カナは少し黙り込み、ふと目を細めた。
「……でも、お兄ちゃんやって、友達にはキスとかせんやろ?」
「……急に生々しいな」
アラタは思わず咳払いした。
「まあ、せんやろな。でも、それは友達やからちゃうで」
「ほな、なんでなん?」
「キスしたいって思わんから、友達なんや。キスとかそういうんも含めて、『こいつともっと仲良うなりたい』『もっと知りたい』とか思うようになったら、そっから先は、勝手に深まっていくもんや。ほんで気づいたら、他の人の目線からしたらあのふたり、恋人やなって扱われるようになるんやと思うで」
カナはしばらく黙り、ゆっくり息を吐いた。
「……なんか、お兄ちゃんの恋愛って大変そうやな」
「うん、大変や。でも、誰かと付き合っていくって、だいたいそういうことやろ」
カナはその言葉を、しばらく咀嚼するみたいに胸の中で転がし、残り少ないパスタを一口つまんだ。
ソースの味はさっきと同じはずなのに、少しだけ違うものに感じられた。
ちょうどその時だった。
──ぶぶっ。ぶぶぶっ……。
机の上に置いてあったアラタのスマホが、急に不規則な震え方をし始めた。
アラタが眉をひそめる。
「……電話か?」
カナが目をぱちぱちさせて覗き込む。
「兄ちゃん、出なあかんのちゃう?」
「ちょい待ってな」
アラタはカナに一言断り、スマホを手に取って画面を開いた。
そこには——
(…………彼女やん………)
そのまま通知をスッとオフにして、スマホを机に戻した。
「兄ちゃん、スマホ……ええん?」
カナが少し心配そうに尋ねる。
アラタは苦笑して首を振った。
「——や、迷惑電話やったわ」