玉輿-消えにし後は澄み渡る空 作:ミズアメ
―――――殺した。
喰い殺した。噛み殺した。裂き殺した。斬り殺した。突き殺した。刺し殺した。打ち殺した。圧し殺した。縊り殺した。叩き殺した。潰し殺した。焼き殺した。毒で殺した。溶かし殺した。生きたまま内臓を引き抜いて殺した。
とにかく殺した。
思い付く限り、出来得る限り。ありとあらゆる方法で、ありとあらゆる責苦を与えて。殺して、殺して、殺して、殺して、皆殺しにしてやった。
千年間――溜まりに溜まった鬱憤を晴らすべく、人間共を殺し尽くした。
辺りは凄惨たる有り様で、死屍累々の地獄絵図と化している。大時代物ながらも立派な造りをしていた門脇家の屋敷は、見るも無惨な廃墟へとその身を果てさせていた。
瓦礫の山の中央――血の河が流れる、屍の山の頂。
そこに、屋敷にいた百余名を鏖殺した呪霊がいる。彼は積み上げた死体の上にどっかりと腰を下ろし、空を見上げていた。
手には漆が塗られた瓢箪。戯れに揺らす度、中の酒精がちゃぷちゃぷと音を立てる。
暗黒の夜天に映える玉桂を肴に、月見酒と洒落込んでいた。
呪霊とは即ち異形の怪物だ。
そのほとんどが化け物と称して相違ない、おどろおどろしく醜悪な姿をしている。対して、彼は幾分か人に近い容姿をしていた。
端的に言えば、大柄な体躯の狼男。
頭があり、胴体があり、手足がある。輪郭だけ見れば人間と大差ない。しかしその頭部は犬であり、全身が分厚い毛皮に覆われている。臀部と腰部の付け根の部分からは、芒を束ねたような形状の長い尻尾が生えていた。
体毛は下顎や喉元周りなどの一部が茶色い赤毛で、それ以外は黒い。また黒い部分には、
更に彼は衣服を着ていた。
暗い色の袴姿。その上から黒い西洋式の外套を羽織り、首には焦茶色のマフラーを巻いた和洋折衷の装いだ。
彼の名は、
呪具・犬神から成り上がった、特級に相当する強力な呪霊である。
嗣狼は瓢箪を傾け、勢い良く中身を呷る。
深い緑色の双眸が、愉快気に細められた。
実に清々しい気分だった。
人間に殺され、それから千年もの間ずっと呪いとして使役され続けた。辛酸を舐める、などという表現では到底足りない。まさしく地獄の日々だった。
それが終わった。
己の手で終わらせた。
⦅……見ゆーか、
誰にともなく告げて、嗣狼は瓢箪を傾けた。
人間は嫌いだが、人間の造るものは嫌いではない。特に酒と博打が好きだった。
嗣狼は月を眺めながら、酒を飲む。
少しばかり中秋の名月を過ぎてしまっているが、全く惜しいとは思わない。何故なら、今の彼は自由だからだ。好きなだけ生き、好きなだけ殺し、好きなだけ飲み食いできる。
綺麗な月が見たいのなら、また来年まで待てばいい。
もしもその時天気が悪かったのなら、更に来年、再来年と。未来を楽しみながら待てばいい。何せ、時間は幾らでもあるのだ。
今の嗣狼は機嫌が良かった。
月見の邪魔をする、不躾な闖入者の来訪を許容できる程度には。
《―――で。なんじゃぁ、
門脇家の敷地を悠々と歩き、嗣狼の許までやってくる三つの影。ソレは嗣狼と同じ、人に近い姿をした異形の化け物だった。
三体の呪霊。
それも嗣狼と同様に、特級に分類される程の膨大な呪力を持っている。
三体の内――単眼と火山を思わせる形状の頭部が特徴的な、杖を突いた老人風の出で立ちの呪霊が口を開いた。
⦅封印が解けてから二日と経たずこの有り様か。中々どうして、凄まじいものだな。犬神⦆
《嗣狼じゃ。儂んことはそう呼べ》
《ほう……かなり訛ってはいるが、我々と同様、意思の疎通もはっきりと出来ておるな。重畳なことだ。―――儂の名は漏瑚。後ろの此奴は陀艮という。そして此奴は―――》
《―――
眼孔から樹を生やした白い巨躯の呪霊――花御が喋った瞬間、嗣狼と漏瑚が揃って首を竦め、嫌そうに眼を細めた。
《なんじゃあ? 言っちょることは丸っきり意味が分からんきに、なんでか頭ん中でははっきり言葉になっちゅう聞こえるが。気色の悪い奴じゃのう》
《言葉は悪いが、それに関しては儂も概ね同意見だ。花御。お前は少しの間黙っておれ》
⦅…………⦆
窘められた花御は、怒るでもなく、素直に口を噤む。
些か、不服そうではあったが。
⦅ぶふぅー⦆
花御を気遣っているのか、陀艮と呼ばれた呪霊が寄り添った。
蛸の頭に芋虫の身体、腕は人間に似ているが指は四本の異形。まだ幼い呪胎だ。不出来なその身を隠す意図があるのか、頭から布を被っている。
そんな彼等の
《フン。……で?
《ああ、その通りだ。―――単刀直入に言おう。嗣狼。貴様、儂らと手を組む気はないか?》
漏瑚の言葉に、嗣狼は訝し気に目を細めた。
呪いは人間と同じように、弱いものほどよく群れる性質がある。その裏返しとして、高い知性を持つ呪霊は徒党を組むことを嫌う傾向があった。
己は強い。
その自負と矜持があるが故に。
《手を組むじゃと? どうして儂が、そがんなことをせんとならん?》
《人間に勝つ為だ》
《あぁ?》
一体何を言っているのかと、碧い眼を眇める。
嗣狼の反応をある程度予測していたのだろう、漏瑚は先を続けた。
《この場にいる呪霊は貴様を含め、皆が人間共が言うところの特級に分類される程の実力を持っておる。人間など敵ではない。だが――今のままでは、儂らに勝ちの目がないことも事実だ。全く以って忌々しい話だがな》
《なんじゃ、情けなか。
《……フン。千年間、呪物として使われてきた貴様は知らんのだ。“最強”をな》
両者の間に、剣呑な空気が流れる。
《……なんじゃと?》
《気を悪くするな。儂はただ、事実を言っているだけに過ぎん。
五条悟――奴が生まれてからというもの、呪霊・術師を問わず、目に見えて呪い全体の強度が上がった。“最強”に引っ張り上げられた結果だ。それ程の影響力を持った人間がいる。恐らく、近年になって貴様の力が増大し、封印を破ることができたこととも無関係ではあるまい》
《…………》
黙する嗣狼。
それが意味するのは肯定か、否定か。判別は出来ない。
漏瑚の言葉には歯抜けの情報が含まれている。
彼が言っていることは正しい。五条悟は間違いなく最強だ。彼を筆頭とする呪術師達が相手では、呪霊には万に一つの勝ち目はない。特級に数えられる呪霊が束になろうと勝てはしない。
ただ、漏瑚は――漏瑚だけでなく、花御と陀艮も、未だ実物の五条悟を知らない。
伝聞で『強い』ということを知っているだけ。実際のところ、漏瑚の認識は正しくない。かなり甘く見積もって考えている。それどころか彼の傲慢な自尊心は、むしろ「自分ならば五条悟に勝てる」と考えている節すらあった。
にも関わらず五条悟を“最強”と持ち上げ、あまつさえ自分達では勝てないと嘯くのは、偏に嗣狼を手元に引き込みたいがための方便である。
《だが――偽物に過ぎん人間共が、儂らの頭の上にいつまでも胡坐を掻いて居座っているのを我慢することなど不可能だ。呪いとして生まれ持ち、獲得した理性が! 矜持が! 力が! この事実を到底捨て置けん。許してはおけん!
貴様には分かるはずだ。何故なら、貴様は儂らと同じ
“最強”を倒し、儂ら呪いが『真の人間』としてこの大地に立つ。その為に貴様の力が欲しい。どうだ、嗣狼――儂らと共に、人間共を皆殺しにしようではないか!》
大層な口説き文句を吐き、漏瑚は嗣狼に手を差し伸べた。
漏瑚は嗣狼を見下していない。侮りなど欠片もなく、その力を真に認めている。対等の
自らを生んだ人間に対する、憎悪と嫌悪。
即ち――呪い。
どす黒い負の感情の渦。それに、嗣狼は共感する。同じ呪霊であることもあって、仲間意識のようなものもある。
だが―――
《―――断る》
嗣狼は、差し出された手を払い除けた。
《儂は自由じゃ。誰ともつるむつもりはないきに。指図も受けん。群れるなんざ真っ平御免じゃ。“最強”じゃと? そんなもんは知らん。人間なんざ葦ぜよ。殺したい時に殺す。犯したい時に犯す。命も尊厳も好きなように奪う。誰にも縛ることはできん―――それが“呪い”っちゅうもんじゃろうがや》
酒を呷り、諸手を広げて説く。
嗣狼の言い分が分からない漏瑚ではない。むしろ呪いらしい考えだと感心すらしている。
故に、この場は退くことにした。
《そうか。まあ、いいだろう。ならば同胞として、貴様が手にした自由が一秒でも長く続くよう祈っておこう。―――行くぞ、花御、陀艮》
踵を返し、元来た道へ引き返していく。
直ぐに後に続く花御。一方で陀艮は、その場に立ったまま戸惑いがちに仲間と嗣狼とを何度も見やった。暫くそうしていたが、最後に名残惜し気な視線を嗣狼に向けると、仲間の後を追う。
《
《構わん。奴の言うことも一理ある。それに、直に顔を合わせて確信した。奴は儂らと同じく、心底から『呪い』なのだ。呪術師に祓われて終わるようなタマではない。次に会った時――奴と儂らは、肩を並べて人間共と戦っておることだろう》
《ぶふぅー》
去って行く三体の呪霊の背中を見送る嗣狼の眼は、呆れと憐れみの色に満ちていた。
―――――貴様は知らんのだ。“最強”をな。
《その言葉、そっくりそのまま返すぜよ。
鼻で笑い、酒を掻っ食らう。
嗣狼は知っている。真の“最強”を。
術師や呪霊などの分類は関係ない。強者としての地平すら超越する、圧倒的な自己を持った怪物。他者はおろか森羅万象の一切を顧みない、誰一人として比肩することのなかった天災の化身。
千年前――呪術全盛期の時代、平安の世に君臨した『呪いの王』。
アレこそが“呪い”。アレこそが“最強”。
現代の最強とやらがどれほどのものかは知らないが、アレを上回る存在でないことは自信を持って断言できる。
《まあ、その宿儺様も老いには勝てんかったようじゃきのう。アレがおらん今、最強の呪いはこの儂ぜよ! そういう意味じゃ、さっきの連中は見る目はあったちゅうことか! ガッハッハッハッハ!》
ゲラゲラと大笑して、瓢箪の中の酒を飲む。
自由を手に入れた感触が心地良い。幾らでも余韻に浸っていられる。不躾で無礼な闖入者の来訪すら笑って許せるほど。
酒がなくなるまではここにいよう。酒がなくなったら、山を降りて人間を殺しに行こう。好みの女がいれば、抱いて孕ませるのも良い。気ままに取り憑き、破滅させ、人間の体と魂を徹底的に貪り、しゃぶり尽くすのだ。
それこそが、犬神という呪いであるが故に。
嗣狼は、自由だった。