織田の天主は揺るがず   作:戦国大好き侍

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堺の狸

6月2日 早朝 堺 松井友閑屋敷

 

徳川家康、普段通り夜明けと共に起床し、小姓に茶を点てさせていた。屋敷の庭先に残る朝霧の中、家康の鋭敏な感覚は、遠い京の方向から漂う異様な焦げた匂いを捉えていた。

 

「忠勝。京の様子に変わりはないか」

 

本多忠勝が首を振った。「目立った動きはございませぬ。ですが…この匂いはただ事ではございませぬ」

 

その時屋敷の主人である松井友閑が、血相を変えて障子を押し開けて飛び込んできた。

 

「家康殿! 京が…京が騒乱にございます! 明智光秀が本能寺を囲み、火を放ったとの報せ!」

 

家康は即座に立ち上がった。「光秀が…謀反か!」その声には動揺はなく、長年の疑念が現実となったことへの、冷徹な反応が滲んでいた。彼の頭の中では光秀の謀反と自分が今いる危険な状況の分析が瞬時に行われた。

 

家康が直ちに側近に帰国ルートの検討を命じた、その矢先であった。

 

午前7時頃

 

もう一人の密使が、警戒を突破し松井友閑の制止を振り切って部屋に飛び込んできた。

 

「徳川様に…申し上げます! 上様は…上様はご健在にございます!影武者を用い昨夜のうちに本能寺を脱出! 既に堺からほど近い摂津大坂にて、信孝様と丹羽長秀様らが率いる四国遠征軍、数万の兵力と合流されております!」

 

この報せは、家康の頭の中で回転していたすべてのシナリオを根底から覆した。信長が生きている。そして、既に数万の兵力とともにある。

 

家康は冷静に密偵から詳細を聞き出した。

 

「信長殿が生きておられる以上、光秀討伐は信長殿の本隊が行う。ここで我らが三河へ逃げ帰っては、信長殿への忠義を疑われることになる」

 

家康は立ち上がり、南の海上へと目を向けた。

 

「三河ではない。大坂だ。光秀めは、我らが内陸を通って三河へ逃げ帰ると読むはず。しかし、ここは堺。海の道が最も速い」

 

家康は松井友閑に顔を向けた。

 

「友閑殿。直ちに船の手配を! 船は最も速いものを。光秀軍の包囲網は陸路と京周辺に集中している。海路を使えば、大坂までは半日で着く。光秀討伐の功を挙げるには、誰よりも早く信長殿の元へ馳せ参じねばならぬ!」

 

家康の決断に、酒井忠次、本多忠勝らは即座に動いた。穴山梅雪はなおも不安を訴えたが、家康の確固たる意思と、信長生存という事実に、口を閉ざすしかなかった。

 

「大坂へ参るのが、最も安全で、最も速く、そして最も益が大きい」

 

松井友閑は自らも動き堺の豪商たちに協力を仰ぎ迅速に船団を手配した。その出立は謀反の報が広まり、京や堺の混乱が本格化する前の午前中のうちに行われた。

 

家康一行を乗せた小型の船団は、人目を避けるように堺港を出航した。船は帆を張り、漕ぎ手たちが力強く櫓を漕ぎ、大阪湾の海原を北上した。

 

船上には徳川家の精鋭たちが、鉄砲や弓を手に海上からの不意打ちに備えて警戒の眼差しを放っていた。忠勝の厳命により船団は音を立てることを許されなかった。波の音と、風の音、船頭が櫓を漕ぐ軋み音だけが、海に響く。

 

光秀軍は、まさか家康が堺から海路で大坂へ向かうとは想定していない。しかし、陸地には明智軍の斥候がひそんでいるかもしれないという極度の緊張感が、船団全体を覆っていた。

 

家康は船倉に座りながら、北東の方向を見やった。京から立ち上る黒煙は、既に消えかかっていたが、その炎が残したものは、光秀の不完全な勝利と、信長の生存という恐るべき真実であった。

 

(信長様。貴公の策は常人には思いつかぬ非情さ。だが、この策こそ光秀を破る唯一の道である)

 

家康は、信長からの「生存の報」を、「光秀討伐競争への招待状」として受け取っていた。海の道は、その招待状に応じ、徳川家の未来を賭けた、最速の道であった。彼には、誰よりも早く信長の元へたどり着く必要があった。




扶桑先生の作品みたいなの構想してたんやけど全く違う歴史物になりつつある今日この頃
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