織田の天主は揺るがず 作:戦国大好き侍
6月2日 夕刻 摂津国 兵庫城
摂津の有力武将池田恒興は、大坂に近い兵庫城にいた。信長からの急使が到着し、「信長公ご生存! 信忠様総大将、明日未明に大坂から出陣!」の報せを受けた恒興は、即座に立ち上がった。
「さすがは上様! 死んではおられぬと思った!」
恒興は即断し、自らの軍を大坂の主軸軍と合流させ京へ向かうための先導役となることを選んだ。
「直ちに兵を整えよ! 我らが総大将の信忠様の進軍を援護する! 京へ向かう街道沿いの光秀の斥候を全て払いのけよ!」
同じく摂津国、京に近い茨木城の中川清秀と、高槻城の高山右近は、光秀の勢力圏に最も近く去就が注目されていた。両名とも光秀とは親しい間柄であったが、熱心なキリシタンでもある右近は特に、光秀が起こした大逆の行動に嫌悪感を抱いていた。
不安な時を過ごす彼らのもとに、大坂からの急使が到着した。
「信長公はご生存! 明智光秀は朝敵に! 両名とも、直ちに手勢を率いて大坂の主軸軍に合流せよ!」
中川清秀は、その報に迷いを断ち切った。「信長公が生きておられたか! もはや明智につく大義も利もない!」
高山右近は、神に感謝するように十字を切り、即座に決断した。「光秀殿には申し訳ないが、我らは信長公に従う。直ちに大坂へ向かうぞ!」
彼らは、光秀から再三送られてきた協力を求める使者を完全に無視し、手勢をまとめて南下。大坂の討伐軍に合流した。
6月3日 早暁 近江国・安土城
安土城の留守居役を務める蒲生賢秀とその子氏郷は、城の防衛に忙殺されていた。三法師と前田玄以 織田長益が到着し、信長生存の可能性と信忠からの指示を得ていた彼らは、大坂からの急使による討伐軍の即時出陣の報に、徹底抗戦の士気を高めた。
氏郷は獰猛な笑みを浮かべた。「総大将は信忠様。しかも、家康殿まで合流されたか。光秀の天下は、二日で終わる」
蒲生父子は、安土城周辺に織田の旗を高らかに掲げさせた。安土城が堅く守られ、しかも信長生存の報が広がることで、近江国内の動揺は一気に収束。彼らは、光秀が最も頼りとする近江方面への退路を塞ぐ、生きた防波堤となった。
6月3日 早朝 大和国郡山城
大和の筒井順慶も、織田からの急使を受け、安堵を覚えた。
「信長公ご生存! 信忠様総大将の討伐軍が本日出陣! そして、明智光秀は朝敵に!」
順慶は、座っていた畳の上で崩れ落ちるほどの安堵を覚えた。「道が開けた!」
「直ちに兵を出せ! 大和の主要街道を固め、光秀が南へ逃げようとする道を完全に塞ぐのだ!」筒井順慶の迅速な行動により、光秀が敗走した際の最後の逃走経路の一つであった大和方面も完全に封鎖された。
6月3日 午前9時頃 丹後国・宮津城
丹後を治める細川藤孝は、光秀からの協力を求める使者を前に沈黙していた。大坂からの密使が届けた「信長公ご生存! 光秀は朝敵!」の報を受け藤孝は即座に決断した。
幽斎は光秀の使者に静かに告げた。「上様はご健在であり、光秀殿は既に朝敵の綸旨を受けた。もはや、大義は光秀殿にはない」
藤孝は直ちに出家し、藤孝から幽斎と名乗ることで、光秀との縁切りを世に示す。そして息子 忠興は光秀の娘 玉を隠し、光秀討伐軍に馳せ参じるために将兵を集めだした。光秀が最も期待していた親族の支援は、この瞬間、完全に崩壊した。
6月3日 昼 伊勢国 松島城
伊勢・伊賀を治める織田信雄は、光秀の謀反の報に接し、緊張した面持ちで長島城の防衛を固めていた。京に近い兄・信忠や父・信長とは異なり、彼の主たる役割は、東国からの後方を守ることであった。
大坂からの密使が、信長生存と信忠総大将による即時出陣の命を伝えた。信雄は、光秀討伐の功が弟 信孝に握られたことに複雑な思いを抱きつつも、その決定の迅速性を理解した。
信長からの命は、「安土城の防衛」と「伊勢・伊賀の兵を動かさず、後方からの光秀に呼応する勢力の警戒にあたれ」というものであった。
「父上は、この戦の主軸を完全に大坂に置かれたか」信雄は呟いた。「よし。我が任務は、後顧の憂いを絶つこと。直ちに安土へ増援を派遣し東海道方面の警戒を強化せよ。この大戦の最中に一兵たりとも無駄にはできぬ、伊賀の信包叔父上、紀伊の堀内氏善、志摩の九鬼嘉隆に要請して兵を出動させよ」
信雄の迅速な対応により、織田家にとって最も重要な拠点の一つである安土城の後方防衛と、東海道方面の安定が確保された。
ここに、信長の生存と「朝敵」の綸旨、そして大坂からの信忠総大将による3万を超える討伐軍の即時出陣という「力」が揃ったことで、光秀の謀反は、畿内諸将による完全な包囲網の中に閉じ込められた。
摂津の池田恒興、中川清秀、高山右近が討伐軍に合流したことで、主軸軍の勢いは増し、出撃の準備は万全となった。光秀は、自分が殺したはずであったの信長と、四方八方から迫りくるかつての与力たちの刃に、孤立無援の状態に陥りつつあった。
秀吉と勝家と一益も書かんとならんのだが如何せん思いつかん。
どうも史実だと秀吉は6月4日勝家は6月6日一益は6月7日に本能寺の変の急報が入ったみたいですね