頭が割れるように痛い。
目を開けると視界は非常に霞んでいたが、アスファルトが見えた。
妙に全身が痛むのは、地面に転がっていたからか。
体を起こすと、誰かが駆け寄って来て私の体を支えた。
「大丈夫ですか!?」
「ああ、うん」
「いやめっちゃ血ィ出てますけど!?」
「ああ、うん?」
そう言われた途端、視界の半分が真っ赤になった。それと同時、顔にぬるりとした感覚。
反射的に頭に手をやると、手にもぬるっとした感触があった。
手のひらを目の前に持ってくれば、真っ赤である。たぶん、いや、確実に、己の血だった。
視界が赤くなったのは目に血が入ったからだったし、頭が割れるように痛いと思ったのは、実際割れていたからだったらしい。非常に単純な事実であった。
私は血まみれになった自分の手を見ながら、己に声をかけてきた青年に文句を言った。
「なんだ。出血に気づいていたのなら、大丈夫じゃないことくらい聞かなくてもわかるだろ?」
「そうだけど! でもこういう時は誰でも大丈夫かって声かけません!?」
「そうなのかな。目の前に頭の割れたヤツがいたことなくて」
……本当にそうだっただろうか?
私の人生の中で一度も、頭の割れたヤツは目の前に現れなかったのか?
そんな、改めて考えなくともわかりそうな疑問が私の頭によぎる。
なぜそんなことを不思議に思ったのだろう。
不思議に思ったこと自体を不思議に思っていると、声をかけてくれた青年が慌てたように言う。
「とにかく呑気にしてる暇はないんですよ! 立てますか!?」
「やってみよう」
幸い、傷の最も深いのは頭部だったようだ。
体の節々も痛むが、腕も足も動かせないほどではない。
青年が肩を貸してくれようとするのを断って、自力で立ち上がる。
「さて、それでどこに行くんだい?」
「とにかくここじゃないところにですよ! 目の前のゾンビの軍団見えないんスか!?」
「ああ、見えてなかった。血で視界が霞んでいてね。あれがゾンビというやつなのか。初めて見たな」
「動物園じゃないんだから感想はいらないっす!」
アー、とかウー、とかの意味をなさないうめき声をあげながら、のろのろとした動きでこちらに向かってくる集団。
人型やそうでないものも混じっているが、皆血色が悪く、手足が欠損しているものも見て取れた。
動く死体、つまりゾンビというのが最もしっくりくる表現である。
青年に急かされ、私は走り出した。
ややおぼつかない足取りではあったが、走ることも自力で可能だった。
走りながら青年に尋ねる。
「なんだってこんなことに?」
「見たまんまですよ。アングラ製薬会社が秘密裏に開発してたゾンビウイルスが流出してバイオハザード」
「ゾンビウイルスなんて開発してなんの得があるんだろうね……」
「どの口で言ってんですか?」
はて、と首を傾げる。
そんな私を無視して、青年は話を続けた。
「先行して製薬会社に踏み込んだ同僚が言うには、ワクチンが同時並行で開発されていた形跡があって、それが持ち出されてるんです」
「へえ。じゃあそのワクチンを開発、あるいは持ち出した人間がいたら全部解決するんじゃないのか?」
「その開発した科学者が言うセリフですかそれ」
私は青年の言葉が意味するところについて、しばし考えた。
ということは、そうなって、つまりは、こうなわけだ。
「とても聞きにくいことを聞いてもいいかい?」
改めて己の体をよく確認すれば、私は白衣を着ている。
眼鏡もかけていたようだが、頭を打った際に眼鏡も割れて変形してしまい、意味をなさなくなった。
眼鏡の残骸は、走り出す前にポケットにしまった。
首からはIDが下がっていた形跡があるが、何らかの衝撃によって引きちぎれ、己の名前や身分を確認することはできない。
以上のことから、次に私が口に出すべき質問は、これだ。
「私の名前はなんだ?」
「記憶喪失ッッッッッッッ!!!!!!!」
青年が絶望したように頭を抱えた。
「解決しないじゃんッ! 問題増えてんじゃんッッ!」
「いや、問題は増えていない。私が記憶喪失であるということは、私にとって問題、というだけだ。このゾンビパニックの解決には関係がない。記憶のない私は問題解決に寄与することができず、しかして君は別の策を見つけるべきというだけだからだ。あるいは脳から直接情報を抜く技術を持っているか? それが可能であっても、記憶喪失である場合の成功率は保証できないか?」
「この人冷静だな! 流石記憶喪失でも科学者ってことすか!?」
「記憶喪失でも科学者、腐っても鯛、腐ってるのはゾンビだな、ははは」
「何笑ってんすか」
笑うしかないからだ。
走っている最中、ビルの壁に上に登れるハシゴをみつけ2人で登った。
屋上まで階段で逃げたあと、屋上への入口にバリケードを作った。
今のところゾンビが屋上に押し寄せてくる気配はなく、しかしビルから見下ろせばうじゃうじゃと歩く死体がひしめきあっているのがわかる。
一旦命の安全の確保をして安堵する気持ちと、一旦以上の命の安全が確保されていない絶望に、青年と二人してへたりこんだ。
「記憶を取り戻したらゾンビパニックの責任を取らなければならないと思うとやる気が出ないな」
「頑張ってください死ぬよりマシだろ!」
それもそうか。それもそうか?
ようやく少しばかり腰を落着けて会話ができそうなので、青年に質問する。
「ワクチンの開発者が私だとして、ワクチンを持って行ったのも私なのか?」
「開発者はアンタ1人だし、記録データを見るにはワクチン開発自体がアンタの独断らしいので他に内容を知ってる人はいないでしょう。ワクチン持ち出しに関してはご丁寧に監視カメラが破壊されてて不明です。ただし映像で見るに、ワクチンは現物が存在してて、それを最後に触ったのはアンタっす」
結構絶望的な状況だった。なるほど頼りは私しかおらず、その上で私は記憶喪失。
「私が気絶していた地点は製薬会社からどの程度離れた位置だ?」
「数km」
「ちょっとした爆発に巻き込まれたからといって吹っ飛ぶような距離ではない?」
「それはどこまでを『ちょっとした』と呼称できるかの非日常への慣れ具合によるんじゃないですか?」
……なるほど?
「聞きたくないことだが聞いておくか。ゾンビウイルスを撒き散らしたのも私か?」
「映像がないのでなんとも。僕はぜひともあなたが正義の科学者であってほしいんすけど……」
「うーむ。自分だけにワクチンを打ち、自分以外をゾンビにしようとしていた悪の科学者路線も十分に考えられるな」
「そうしたい欲求に心当たりが?」
「まるでないよ。だが世界を守らねばという欲求の方にも心当たりがないし」
記憶がないので善も悪もまっさらだ。
「そういえば自己紹介がまだだったな。青年、君の名は? あいにく私は名乗り返すことができないが」
「科学者としてのあなたの名前はパーシヴァル・マーコリー。僕はレオナルド・ウォッチっす」
「おっと。ふふ、1人がどちらも紹介する自己紹介とは面白い」
全然面白くない、という顔をしたレオナルドだったが、彼は素直な上に良い奴であるらしく、口にはしなかった。
私はレオナルドに白衣を渡して、ワクチンを捜してもらっている間に、自分でも他の場所を探した。
靴の中、靴下の中、直腸の中にはなにもない。
静脈注射を打ちやすい太い血管付近や、ペン型注射を刺すのに適した腹部・臀部・大腿部に、注射痕は存在しない。
皮下注射ならと上腕部も確認したがはんこ注射の跡もなく、その他触れる限り皮膚を触って固いものを探したが、マイクロチップ等も埋められていないようだ。
最後に自分の首筋にデータチップの取り出し口でもついていないかと確認したが、私はサイボーグではなさそうだった。
レオナルドは白衣を白旗のごとく振っている。これ以上はお手上げだ。
「飲んでいた場合は排便まで不明だ。まだ胃の可能性を考慮して、嘔吐なら試せるが」
そういった途端、私の腹の中からぐうと音が鳴る。
腹の虫は胃の中にワクチンがないことを確認したようだった。お腹空いた。
「経口タイプのワクチンだった場合、吸収されてんじゃないっすか?」
「試してみるか? 彼らに噛まれてみようか」
「勘弁してください」
彼にしてみれば私が唯一のワクチンへの手がかりであるので、そんな迂闊なことはできないのだろう。
「一旦この方向で考えよう――私の持ち物にそれらしいものはない。この場合考えられる最悪はなんだ?」
「ワクチンが一生見つけられなくて世界はゾンビが支配する?」
「……では支配する側に回っておいた方が気は楽か?」
「……ちょっと考えてもいいです?」
お互い、ビル下で蠢くゾンビたちを眺めながら、もう仲間になっちまおうかな、と考えるくらいには疲れていた。