世界がゾンビまみれだが、それはそうと記憶がない   作:九条空

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like a bat out of hell

 バリケードは壊され、今いるビルの屋上は当座をしのぐこともできなくなった。

 私とレオナルド、それからレオナルドの頭の上に乗ったままのチェインは、ゾンビを振り払うように走っていた。

 チェインの案内する方に向かってはいるが、私にはその先に何があるのかもわからない。

 しかし自分のことがなにもわからない私は、いちいちそれを気にすることもなかった。

 

「わ」

 

 膝ががくんと曲がり、私は転倒した。

 振り向けば、右足をゾンビに掴まれている。

 ゾンビは私の足をクリスマスチキンのように掴んだまま嚙りつこうとした。

 

 辞世の句の五の方を詠みかけたところで、ゾンビはどこぞから飛んできた銃弾に頭を射抜かれた。

 ゾンビの腐った手を引きちぎりながら立ち上がると、向かいの建物にスナイパーライフルを構えた女性が一人見える。

 

「こっちよ、レオ!」

「ッしゃー! ゾンビパニックでスナイパーより頼りになるものはない!」

「無駄弾撃たせないでくれるかしらー!? この調子だと私、一日で役立たずになっちゃうわよ!」

 

 スナイパーによる心強い援護を受けながら、我々はゾンビの群れから逃げ切って、建物の中に入った。

 扉を閉めると、なぜか外に大量に群れていたゾンビたちからの追撃はなく、扉がドンドンと叩かれることもなかった。

 

 そこは病院で、たくさんの人々が身を寄せ合っていた。

 待合室のベンチはベッドになって患者が横たわり、まだ上半身を起こしていられる人たちは床に座り込んでいる。

 病院としての機能は生きているようで、白衣の人々が走り回っているのが見えた。

 我々を迎え入れたのは、顔に傷のあるスーツの男であった。

 

「レオ、助かった。目当てのワクチンは見つかったが、化学と魔術による厳重なセキュリティで保護されていて、パスワードがなければ手出しができない。このワクチンを作った科学者だけが頼りだったんだ」

 

 男が見せてきたのは、手のひらに乗るほどの小型の金庫であった。

 パスワードは数字ではなく、タッチパネル式のキーボード。

 入力言語は英語どころか、日本語からロシア語まで選択できるようだ。

 組み合わせの数は数えられないだろう。

 

 思わずレオと顔を見合わせた。

 私はゆっくりと首を横に振り、レオはですよねーという顔で首を縦に振った。

 

「ゾンビどもとこれでおさらばだ、ははは」

 

 笑いには隠しきれない疲労がにじみ出ていた。そこに悲壮感を覚えた我々は、思わずうなる。

 

「……パーシヴァルさんがスティーブンさんに言ってくださいよ」

「なんだと? 彼は君の同僚なんだろう。初対面の私が口を出すのはなあ」

「アンタ今誰とでも初対面でしょうが」

「おお。言うようになったな、レオナルド」

 

 彼の鋭いジョークに感心すると、レオナルドは観念したように「わかりましたよ……!」と言い、死地に赴く戦士の顔で、同僚のもとに話をしに行った。

 

「というわけなんだが、これは科学や魔術でなんとかなりそうな範囲の問題なのかな」

 

 結局、私もレオナルドと共に彼らと話をした。

 記憶喪失であることを説明すると、頬に傷のある男は空を仰ぎ、赤毛の紳士は痛ましそうな顔をしてこちらを気遣った。

 

「記憶喪失の()()()については詳しくないな」

「どちらにせよ後遺症のリスクがある。推奨される行為ではない」

 

 ふむ。この一大事に、後遺症の心配をしてくれるとは随分人道的だ。

 律儀に名乗ってくれたが、彼らの企業名はライブラ、代表の彼はクラウス・V・ラインヘルツで、顔に傷のある彼の方はスティーブン・A・スターフェイズというらしい。

 レオナルドは良い職場で働いているようである。

 

「申し訳ないな。私がちゃんとそのパスワードを覚えていれば、簡単に解決する問題だったのだろう?」

 

 目の前に、こうしてすべてを解決できるワクチンがあるのだ。

 だがそれにはとんでもないプロテクトがかかっており、この場の誰にも開けることができない。

 こういう状況を表す慣用句がありそうだが、パッと思い出せないな。

 とらぬたぬきの……いや、この場合もうとってる。喉から手が出る……それはそうなんだが……。

 

「頭部に受けた衝撃が記憶喪失の原因ならば、大抵時間経過でなんとかなるのがセオリーだが、悠長に待ってもいられない。医者に診てもらおう。幸いここは病院だ」

 

 スティーブンに言われるまでうっかり忘れかけていたが、そういえば私は頭を打っていたのだった。

 いかに軽傷に見えても、周りがゾンビまみれでも、傷を受けた場所が場所なので医者に診てもらう必要があるだろう。

 

 担当医はルシアナ・エステヴェスと名乗った。

 というより、この病院での医療行為の多くは彼女が担当しているようである。

 医者と呼ぶには少女すぎる気もするが、なぜか彼女を医者かどうか疑う気持ちは湧いてこなかった。

 

 同じ姿をした少女が何人も病院中を走り回っているからかもしれない。

 かもしれないではなくたぶんそれが理由だ。

 ゾンビもいるし、分裂する人間がいても不思議ではない。

 優秀な医者が分裂してくれたら嬉しいし、そういうことなのだろう。

 

 医者に精密検査を行ってもらった診断結果はこうだ。

 

「時間経過を待つしかないね」

「セオリーは崩せなかったか」

 

 スティーブンは落胆した風でもなく言った。ルシアナ医師が補足する。

 

「脳、特に記憶領域というのはとても繊細なの。無理に取り戻そうとした結果、今ある人格が崩壊するなんてこともあり得る」

「今ある人格が私自身とも限らないが」

「それを二度と確かめられなくなるよ」

「なるほど。それは困るな」

 

 目下私が気にしていることは、このゾンビパニックをどうにかすること。

 その次に己の記憶喪失をなんとかすることである。

 

「頼みの綱は切れた。次の綱を探そう。もう一度パホモフホールディングスの製薬工場を見に行ってくるよ」

「抗生物質があったらお願いね」

 

 スティーブンはジャケットを脱ぎながら外につながる病院のドアに向かい、ルシアナ医師はその背中に依頼した。さすがにこの状況で、私ものんびりしていわけにはいかないだろう。

 

「私もできる限りのことをやろう。記憶がないのであんまりわからないが、たぶん、ゾンビっていない方がいいんじゃないかな」

 

 私のあやふやな意見に、皆があやふやに頷いた。

 

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