昼のピークを少し過ぎた柴崎ラーメン屋。鍋のぐつぐつとした音と、風鈴の軽い響きが混じり合い、屋台の空気はどこかのどかで、ゆるやかな時間が流れている。
そんな中、暖簾がふっと揺れた。風ではない。黒い影が一つ、静かに入ってくる。
漆黒のスーツに手袋、無駄のない歩き方。だがそこに威圧も緊張もなく、あるのはただの「礼儀正しい人間」の気配。
柴大将は、包丁を置いて振り向いた。
「へい、いらっしゃい。兄さん、仕事帰りかい? そりゃ暑かったろうよ。その格好じゃ汗も出るだろうに」
黒服は軽く頭を下げ、落ち着いた声で返す。
「失礼いたします。本日は……柴崎ラーメンを一杯、いただきに参りました」
「おうともよ! ありがとさん。兄さん、初めてかい? まあゆっくりしていきな」
黒服は端の席に腰を下ろす。その動作ひとつひとつが整然としていて、ラーメン屋の客というより“礼法の授業のモデル”のようだ。
しかし彼自身は、ただ静かに食事を待つだけのつもり。
大将は鍋に火を入れ、麺を泳がせはじめた。
「兄さん、スーツのまま来るなんて珍しいねぇ。外回りかい? おれぁこう見えて、昔は営業だったからね。スーツの暑苦しさはわかるよ」
「……いえ。本日は休暇です。
こちらの店の噂を耳にし、ぜひ伺いたいと思いまして」
「ほう、噂……誰だろねぇ。大した店じゃないが、味だけは自慢よ」
黒服は静かに頷く。その横顔は真剣そのもの。だがその目に浮かぶのは任務の鋭さではなく、純粋な期待だ。
湯切りの音が小気味よく響き、香りが辺りに満ちていく。
やがて、大将は湯気の立つ一杯をそっと目の前に置いた。
「はいよ、柴崎ラーメンだ。熱々だから気をつけてな」
黒服は箸を揃えて置き、丁寧な作法で手を合わせる。
「いただきます」
まずはスープを一口。
黒服の表情が、ほんのわずかに揺れた。
静かな空気の中でさえわかるほど、その目の奥がゆっくりと柔らかくほどけていく。
「……香り深く、雑味がありません。
醤油の輪郭がはっきりしていて……油の量も絶妙です」
「おおっ、ありがとよ! いやあ、兄さんみたいに味わって食べる客は嬉しいもんだねぇ!」
黒服は淡々としていながら、どこか幸せそうだ。麺を啜るたびに、わずかに目を閉じて息を整えている。
普段は任務の合間で栄養補給のような食事が多いのかもしれない。だからこそ、この一杯を大切に味わうように食べる。
その姿に、大将は思わず笑う。
「兄さん、食い方がすごく丁寧だねぇ。礼儀正しいっていうか……なんだか見てて落ち着くよ」
「……飲食においても、無駄なく、静かに。そう努めているだけです」
「ははっ、なんだいその理由。真面目だねぇ!」
黒服は返さない。ただ麺をすすり、スープを口に運ぶ。その表情は、どこか誇らしげでさえある。
どんぶりが空になると、黒服は深々と頭を下げた。
「大変……美味でした。もしご迷惑でなければ、また日を改めて伺いいたいですね」
「迷惑だなんてとんでもない! 客は大歓迎さ! いつでも来ておくれ」
黒服は料金を支払い、直角に近い角度で礼をし、暖簾へ向かう。
暖簾の外には誰もいない。護衛も、仲間も、緊急連絡もない。
ただ、静かに午後の街を歩くひとりの大人がいるだけだ。
大将はその背中を見送って、ぼそりとつぶやく。
「……いやぁ、本当に良いお客さんだねぇ。スーツでラーメンってのはちょっと大変そうだけど……ま、ああいう律儀な若い人もまだいるんだね」
湯気がゆらゆらと立ちのぼる。今日ものどかで、平和な昼下がり。
大将だけが知らない。
あの黒服が、生徒たちを研究対象として使い潰す理外の存在だなんて。
彼にとっては──
「礼儀正しい、静かな食い方をする良い若者」
それだけだった。
なんか短編集がキヴォトスの食レポ集になりつつある