夜の九時半を過ぎた頃、「椛」の暖簾がそっと揺れた。
「こんばんは……まだ営業中でしょうか?」
入ってきたのは、黒のワンピースに薄手のダークグレーのコートを羽織った少女。髪は低めの位置でゆるくまとめ、普段はかけない銀縁の眼鏡をしていた。声は低めで、しかしどこまでも丁寧。
店主の老人が、鍋の火を見ながら答える。
「お嬢さん、ギリギリだよ。でも、一人ならまだ大丈夫。どうぞ」
「ありがとうございます。では、カウンターの端でお願いできますでしょうか」
ナギサは一番奥の席に腰を下ろし、静かにコートを脱いだ。店内はたった八席。今日は他に客がいない。彼女はそれを見越して来たのだ。
「お茶、温かいのでよろしいですか?」
「はい、お願いいたします」
急須が運ばれてくるまでのわずかな沈黙。ナギサはそっと息を吐き、指先でテーブルの木目をなぞった。今日はティーパーティーの公式行事も、補習授業も、何もない。完全に空白の一日。それを埋めるために、彼女はここに来た。
「まずはお通しからね」
最初に出されたのは、三種。
・鰯の酢締め 柚子卸し
・菊花と酢蓮根の和え物
・占地茸の炊き寄せ
ナギサはまず鰯を口に運んだ。
「……」
一瞬、言葉を失う。
「酢は米酢ですか? それとも赤酢でしょうか……いえ、両方少しずつでしょうか。鰯の脂が溶けていく瞬間に、酢の酸味がぴたりと寄り添って……でも決して主張しすぎない。柚子の香りが後味を全部持っていって、口の中が冬の海になります」
次に菊花。
「菊の苦味がこんなに優しくなるなんて……酢蓮根のシャキッとした歯触りと、菊のふわりとした舌触りが対比になって……これは、もう芸術です」
最後に占地茸。
「出汁が……染みてます。茸の傘の裏側まで、じんわりと。香りだけでご飯が三杯いけそう」
店主は黙って聞いていたが、ついに口を開いた。
「お嬢ちゃん、味の覚え方が尋常じゃないね。料理人か?」
「い、いえ! ただ……食べるのが好きで……」
頬を赤くしながら、次の皿が運ばれてくる。
八寸の漆皿。
・銀杏串焼き
・鴨燻製 山椒風味
・海老の艶焼き
・子持昆布 柚子味噌掛け
・占地松茸の炭火焼き
・秋刀魚の生ハム巻き 酢橘
ナギサはまず銀杏を。
「ぷつっ……と弾ける瞬間がたまらない。苦味と甘みが同時に来て、舌の上で踊って……ああ、これだけで日本酒が欲しくなります」
「飲む? 未成年でも甘酒ならあるよ」
「い、いえ! 結構です!」
慌てて手を振る仕草が可愛くて、店主が初めて笑った。
鴨燻製を口へ。
「燻製の香りが……こんなに優しく包み込むなんて。鴨の脂がじんわり溶けて、山椒がピリッと締める……これ、温度が命ですね。冷めると全然違う」
海老の艶焼き。
「焼き目が完璧……! 香ばしさと甘みの境目が、まるで線一本で分かれているよう。頭の味噌が濃厚なのに、嫌な臭みが全くなくて……大将、これはどうやって臭みを取っているんですか?」
「生きたまま塩と酒で〆て、すぐ焼く。簡単なことさ」
「簡単……ですか?」
信じられないという顔で、次に子持昆布。
「昆布のねっとりした食感と、子持ちのぷちぷちが……柚子味噌が甘すぎず、塩味が効いていて、後味がすごく綺麗……」
松茸は、炭火の香りがついたまま。
「これ……土瓶蒸しじゃなくて、炭火で焼くんですか……? 松茸の香りが、煙と一緒に立ち上って……もう、言葉が出ない」
最後、秋刀魚の生ハム巻き。
「秋刀魚の生の甘みと、生ハムの塩味が……酢橘を絞った瞬間に、全部が一つに……!」
ナギサは両手を頬に当てて、完全に蕩けていた。
椀物が来た。
蓋付きの椀。開けると、湯気が立ち上る。
「松茸と鱧の土佐酢ジュレ寄せ」
「……っ」
香りだけで、ナギサの目が潤んだ。
「松茸の香りが……こんなに強く、でも優しく……鱧の身は骨切りが細かくて、口の中でほろほろと溶ける。ジュレの酸味が全体を締めて、でも出汁の旨味が底に残って……」
スプーンを置く手が震えている。
「こんなの……食べたこと、ありません」
焼き物。
「銀鱈の西京焼き 柚庵風味」
皮目はパリッと香ばしく、中はしっとり。
「西京味噌の甘みが、鱈の淡白な身に染み込んで……でも柚庵の酸味が後から来て、くどくならない。皮の香ばしさが、もう……」
強肴。
「和牛のたたき 雲丹とキャビア添え」
「……大将、これは贅沢すぎませんか?」
「たまにはね。お嬢さんが珍しい客だから」
薄く切られた和牛の表面だけを炙ってある。中央に雲丹、その上にキャビア。
ナギサは震える手で箸を伸ばす。
「和牛の甘みが……まず舌の上で溶けて、そこに雲丹の濃厚な海の香りが重なって……キャビアがぷちっと弾けて塩味が広がって……これは、もう罪です」
揚げ物。
「車海老と松茸の天ぷら 藻塩と柚子塩で」
「天ぷらの衣が……こんなに薄くて、素材の味を殺さないなんて……車海老の甘みがそのまま、松茸の香りがそのまま……塩だけで、こんなに味が立つなんて……」
ご飯物。
「鯛と茸の炊き込みご飯 香り炊き」
土鍋の蓋を開けた瞬間、店中に香りが広がる。
「……」
ナギサは無言で三杯おかわりした。
「鯛の身がほぐれて、ご飯一粒一粒に旨味が染み込んで……茸の香りが立ち上って……これは、もう……」
言葉にならない。
留椀は赤出汁。ハマグリと三つ葉。
「ハマグリの出汁が……こんなに澄んでいて、でも深い……」
最後に水菓子。
・柿の白和え
・林檎のコンポート シナモン風味
・抹茶のわらび餅
ナギサは全部ゆっくり味わって、ふと顔を上げた。
「大将」
「ん?」
「私……明日から、また嫌なこといっぱいあると思うんです。責任とか、期待とか、しがらみとか」
静かに、でも確かに。
「でも、今日ここで食べた味を思い出せば、きっと頑張れる」
店主は黙って、追加の小鉢を三つ並べた。
「明日のお弁当用に。冷めても美味しいように味を濃くしてある」
「……ありがとうございます」
会計のとき、ナギサは財布から丁寧に札を出しながら言った。
「今日のことは、誰にも言いません。また、こっそり来させてください」
店主は苦笑いしながら、小さな紙袋を差し出した。
「次は、正装でなくてもいいよ。眼鏡も外して、髪も下ろしてね」
ナギサは一瞬驚いた顔をして、やがて微笑んだ。
「……約束します」
暖簾をくぐるとき、彼女はもう眼鏡を外していた。
路地裏に響く下駄の音は、まるで踊るように軽やかだった。
今夜だけは、桐藤ナギサは誰でもなく、ただの「美味しいものを愛する一人の少女」でいられた。
それだけで、十分に贅沢だった。
もうなんかブルアカの短編集っていうかブルアカの孤独のグルメみたいになってしまった