悪魔ほむらと豊川祥子   作:あばなたらたやた

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一話:悪魔と神になる少女

 

 雨は容赦なく降り注ぎ、夜の街を叩いていた。街灯の光が水溜まりに揺れて、まるで千切れた星の欠片のように見える。

 

 豊川祥子は傘も差さずに立ち尽くし、肩を震わせて泣いていた。制服はびしょ濡れで、長い髪が頬に張り付き、涙と雨が区別がつかない。

 

 彼女の嗚咽は雨音に紛れ、誰にも届かない。その光景を、時が止まった世界の片隅で、悪魔ほむらは静かに見つめていた。

 

 なんて複雑で、なんて重い因果。

 彼女の瞳に映る「線」は、常人の何倍も太く、絡まり、絡みついていた。黄金に輝きながら、同時に呪いのように黒く淀んでいる。

 

 お金、地位、知性、品格、行動力、誠実さ、柔軟さ。

 

 どれをとっても「完璧」と言える水準。それでいて、決して「100点」には届かない。

 世界は彼女に「80点」を強制する。太陽に近づきすぎた翼は必ず溶け、彼女は絶望の海へと墜落する。

 

 どれだけ頑張っても、どれだけ正しくても、彼女が本当に欲する「頂点」だけは、永遠に手の届かない場所に置かれている。悪魔ほむらは息を呑んだ。

 

 この子の因果の「量」は、神に匹敵する。けれど「質」は、神に「なること」を禁じられている。だからこそ、彼女は泣いている。

 

 完璧に近いのに、決定的な一歩が踏み出せない。誰よりも高く飛び立とうとして、誰よりも深く落ちる。その繰り返しの中で、彼女は今もがいている。

 まるで、あの子のようだ。かつて、自分が必死に守ろうとした友人の姿が重なる。あの子もこうして、雨の中で泣いていた。届かない願いを抱えて、翼を灼かれながら、それでも飛ぼうとした。

 

 悪魔ほむらの胸が、久しぶりに痛んだ。雨はまだ降り続いている。祥子は顔を上げ、空を見た。

 

 涙で視界が歪んでも、彼女は唇を噛んで立ち上がろうとする。濡れた制服の裾を握りしめ、震える足で一歩を踏み出す。

 

 その姿に、悪魔ほむらは目を伏せた。

 

(あなたは、きっとまた飛ぶのでしょう)

 

 神に届かないと知りながら、翼を溶かされながら、それでも。『まだだ』と叫び進む。だからこそ、この因果は恐ろしい。

 

 この子は、絶望を知り尽くしても、なお立ち上がる。悪魔ほむらは静かに世界を再始動させた。雨音が再び動き、街が息を吹き返す。

 

 祥子は誰にも気づかれぬまま、泣きながら歩き出した。濡れたアスファルトに、彼女の影だけが長く長く伸びて、夜の闇に溶けていく。

 

 悪魔ほむらは、もう二度とその背中を見ないと決めた。あまりにも眩しすぎて、あまりにも痛々しすぎて。この子がまた墜ちる瞬間を、自分はもう見たくないから。

 

 

 

 雨は容赦なく降り続け、豊川祥子の髪を重く濡らし、顔に貼り付けたまま冷たく滴り落ちた。

 彼女の嗚咽は雨音に掻き消され、ただ口から漏れる白い息だけが、彼女がまだ生きている証拠のように虚しく漂う。

 

 水たまりに足を取られ、転んだ瞬間、膝がコンクリートに打ち付けられ、皮膚が裂ける鈍い痛みが全身を貫く。血は雨に混じり合い、薄赤い筋となって地面を流れ、彼女の震える指先がそれを無意識に辿る。

 

 泥が服に染み込み、冷気が骨まで染み渡り、体温が奪われていく感覚に、彼女は抵抗する気力すら失われていく。

 

 地面に頬を押し付け、濡れた髪が顔を覆い隠す中、祥子の瞳からは涙が溢れ、雨と混ざって頬を伝った。

 視界は灰色に霞み、遠くの街灯の光さえ歪んで見える。「死んでしまいたい」という言葉が、喉の奥から絞り出され、誰にも届かず雨に溶ける。

 

 生きることの重さ、痛み、孤独が彼女を押し潰し、動くことすら億劫に感じさせる。転んだままの彼女は、まるで世界から見捨てられた亡魂のようだった。血と泥にまみれた手が地面を掴むが、そこに力はなく、ただ虚しく滑る。

 

 その時、雨音を切り裂くように、喪服を着た異常に美しい女性の声が響く。

 

「大丈夫かしら」

 

 その声は静かで、どこか冷たく、しかし不思議なほど澄んでいる。祥子の絶望に割り込むその存在は、死神のようにも救いのようにも感じられるが、彼女には立ち上がる力も、答える気力すら残されていない。ただ、冷たい地面に横たわり、雨に打たれながら、静かに意識が遠のいていくのを待つだけだ。

 

「そう。なら家でお話しましょう」

 

 豊川祥子は意識を取り戻し、ゆっくりと身を起こす。冷たい雨と泥にまみれていたはずの体は、今、温かい毛布に包まれている。彼女の裸の肌に触れるその柔らかさが、さっきまでの絶望的な寒さとは対照的で、奇妙な安心感を与える。

 

 部屋は白と黒で統一された異世界のような空間だ。

 壁も床も天井も、モノトーンのコントラストが不思議な静けさを醸し出し、どこか現実離れしている。小さく規則的に響く時計の音だけが、時間の流れを辛うじて感じさせた。

 

 彼女の頭はまだぼんやりとしていて、「ここは……?」と呟く声はかすれ、状況を理解しようとする思考は霧の中で立ち往生しているようだった。

 

「起きたかしら?」

 

 その声に顔を上げると、そこにはあの異常に美しい女性が立っていた。黒い髪が肩に流れ、紫の瞳が深淵のように静かに祥子を見つめる。

 

 喪服に包まれたその体は病的に細く、まるで影そのものが形を成したかのようだ。彼女の存在は、死神を思わせる不気味さと、目を離せない美しさを同時に漂わせている。祥子は混乱したまま、「貴方は?」と声を絞り出すが、言葉は途中で途切れる。

 

「暁美ほむら。職業は悪魔」

 

 その言葉に、祥子の頭は一瞬停止する。は? と間の抜けた声が漏れるが、ほむらは小さく笑って続ける。

 

「冗談よ。貴方の義理の姉。思い出した?」

「義理の、姉?」

 

 祥子の声には疑念が滲む。確かに暁美ほむらという名前には聞き覚えがあるが、この女性の顔には全く記憶がない。ほむらは静かに微笑み、ゆっくりと祥子に近づく。

 

「そう、良く見てみて?」

 

 ほむらの顔が近づき、そのアメジストの瞳が祥子の視界を埋める。瞳の中に映る自分自身を見つめるうち、甘い香りが漂い始め、祥子の感覚を包み込む。それは花のような、蜜のような、どこか危険な甘さだ。

 

 頭が痺れ、思考が溶けていく。意識が崩れ、抵抗する間もなく、彼女の脳は麻痺していく。何かを感じようとしても、もはや何も掴めない。ただその瞳に吸い込まれ、温かさと混沌の中で意識が再び遠のく。

 

 ほむらの手が豊川祥子の頬に触れる。その指先は冷たくもあり、温かくもある不思議な感触で、祥子の震える肌を静かに撫でる。ほむらはゆっくりと彼女をベッドに押し倒し、その黒い瞳でじっと見つめながら、低く柔らかい声で問いかける。

 

「とても辛そうな顔をしているわ。ねぇ、私に話してみて?  何があったの?  何が辛いの?」

 

 祥子の唇が震え、言葉が途切れながらも溢れ出す。

 

「CRYCHICをやめることになりました……自分から、やめると、ああ、なんで、こんな」

 

 彼女の声は混乱と痛みに満ち、感情が抑えきれずに涙と共にこぼれる。

 

「CRYCHICはやめたくなかった?」

 

 ほむらの声は穏やかで、寄り添うように響く。

「当然ですわ……みんな優しく、楽しく、幸せでしたわ。それを、こんな」

 

 豊川祥子の言葉は途中で力尽き、嗚咽に変わる。彼女の瞳には、失ったものの大きさが映り込み、胸を締め付けるような苦しみが滲んでいる。

 ほむらは静かに頷き、彼女の髪を優しく撫でながら言う。

 

「そう……それは辛いね。大切な居場所からでなければならないなんて」

 

 その言葉は、祥子の心の傷をそっと包み込むようだ。

 

「私の大切な……幸せな……」

 

 祥子の声は小さくなり、意識が再び混濁していく。記憶と現実が交錯し、彼女の心は壊れそうなほど脆くなっている。

 ほむらはさらに近づき、耳元で囁く。

 

「これは全部、夢。何も怖くない。何も恐ろしいことはない。大丈夫。私が守ってあげるわ。神に至る必要はない」

 

 その声は甘く、催眠的で、祥子の意識を深い眠りへと誘う。彼女の体から力が抜け、ベッドに沈み込むように横たわる。

 

 ほむらの細い腕が彼女を抱き寄せ、温かい毛布の中で、祥子の心は一時的に痛みから解放されるかのようだった。だが、その夢が本当に救いなのか、それとも別の闇への入り口なのか、彼女にはまだ知る由もない。

 

 豊川祥子が完全に眠りについたのを確認すると、ほむらは静かに立ち上がり、部屋の片隅にある小さなキッチンへと向かう。

 

 彼女の手は慣れた動きで鍋を取り出し、野菜を切り、火をかける。目が覚めればお腹が減っているだろうという、さりげない配慮だった。

 

 鍋の中でスープが煮立ち、部屋に温かい香りが広がる中、ほむらの表情はどこか遠くを見ているようで、穏やかさと冷たさが混在している。

 

 鍋をかき混ぜながら、ほむらは眠る豊川祥子をちらりと見る。毛布にくるまれたその姿は無防備で、壊れそうなほど儚い。

 

 CRYCHICを失い、心が砕けた彼女は、今、まさにほむらの手の中で形を変えていく素材だった。

 

 「私が守ってあげる」と囁いた言葉は、優しさの仮面をかぶった罠だ。目覚めた時、温かいスープと共に差し出されるのは、癒しに見せかけた新たな鎖なのかもしれない。

 

 ほむらの紫の瞳が一瞬だけ光り、再び静かな調理の音が部屋を満たす。

 

 

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