ほむらは鍋の火を弱めながら、頭の中でCRYCHICについて思いを巡らせていた。
豊川祥子、椎名立希、長崎そよ、若葉睦、高松燈——この5人から成るバンドは、それぞれが独特の魅力を持ち、ほむらの興味をそそる存在だった。
彼女の紫色の瞳が細まり、獲物を品定めするような冷たい光が一瞬だけ宿る。「みんな可愛くて、脆そうだ」と、彼女は心の中で呟く。だが、すぐにその思考は具体的な計画へと移っていく。
彼女たちに手をつけるとしたら、誰からがいいだろうか。考えを巡らせた末、ほむらの選択は若葉睦に落ち着いた。
豊川祥子の幼馴染であり、彼女と深い絆で結ばれている存在。
祥子がCRYCHICを失った痛みを抱えている今、睦を通じてケアさせる
睦の冷静で落ち着いた性格、そして内に秘めた感情の強さが、ほむらにとって適切に映った。
彼女を自分に惹きつけ、祥子との関係に波紋を広げ、仲間にさせる。その想像だけで、ほむらの胸は小さく高鳴る。
(大切に思い合う人が、あの子には必要ね)
そうと決めた瞬間、ほむらは動き出す。
眠る祥子を毛布に包んだまま放置し、黒い服の裾を翻して部屋を出る。
スープの香りが漂う部屋に、時計の音だけが小さく響き続ける。若葉睦に会うため、彼女は月ノ森の校舎か、あるいは睦が過ごしていそうな場所へと足を向けた。頭の中では、すでに睦の心をどうやって掴むか、その繊細な感情をどうやって揺さぶるか、緻密な策略が描かれ始めている。
暁美ほむらは若葉睦を探して歩き回り、疲れを感じたところで適当に選んだ喫茶店に入った。
そこで、運命的な出会いが待っていた。店内の薄暗い照明の下、顔を俯かせて座っている少女、若葉睦が、静かにそこにいた。
彼女の表情は感情をあまり表に出さないものだったが、その瞳にはどこか重いものが宿っているように見えた。
「若葉睦さん?」
ほむらが声をかけると、睦はゆっくりと顔を上げ、「え……」と小さく呟く。感情に乏しい顔がほむらの方を向き、わずかに眉が動く。
「ほむらさん」
ほむらは微笑みながら頷く。
「正解よ。良く覚えてたわね。つい先日、豊川祥子さんと出会ったのだけど、CRYCHICが解散して傷ついていて、悲しんでいたわ。何があったのか聞いても良い?」
睦は一瞬黙り込む。彼女の沈黙は重く、言葉を出す前に何かを考えているようだった。
ほむらは急かさず、ただ静かに待つ。そして、祥子の背景をすでに知っていることを明かす。
「大体の事情は知っているから大丈夫。お父さんが詐欺に遭って、一族から放逐されたって流れは知っているから。聞きたいのは、貴方が、どう思ったか、ということ」
その言葉に、睦の瞳がわずかに揺れる。祥子の過去を知られていることで、彼女の中で何かが解けたのか、ゆっくりと口を開く。
「祥は、CRYCHICを続けたかった。だけど私のせいで、解散することになった」
「貴方のせい?」
ほむらの声は穏やかだが、鋭く核心に迫る。
「CRYCHICは楽しかったことはない。そう言った」
「本当に楽しくなかった?」
「違う。楽しくなかったのは、私が下手だから。みんなといる時間は、とても……夢のようで」
睦の声は小さく、言葉の端々に後悔が滲む。彼女の手がテーブルの上で微かに震え、俯いた顔に影が落ちる。
「そっか。言葉選びを間違えたのね。それを後悔しているの?」
「……うん」
彼女の短い返答に、深い痛みが込められている。
「それは、困るわね。今から貴方はどうしたいの?」
「分からない。でも、祥には笑っていて欲しい」
睦の言葉は純粋で、幼馴染への想いが溢れていた。ほむらは優しく微笑み、そっと言う。
「なら、豊川さんの味方でいてあげて。それがきっと、誰もが幸せになる道」
「はい、ほむらさん」
睦は小さく頷き、その声にはわずかな決意が宿っていた。
ただ穏やかに喫茶店の空気の中で睦を見つめていた。
ほむらが部屋に戻ると、豊川祥子が目を覚ましており、オロオロと辺りを見回していた。
毛布を握りしめたまま、彼女の瞳にはまだ混乱と不安が残っている。
「ほむら姉さん……?」
祥子の声は小さく、戸惑いが滲んでいる。ほむらは自然に微笑み、落ち着いた口調で返す。
「ああ、祥子姉さん。目が覚めたのね。スープ作っておいたから、温めて食べましょう?」
「え、はい、え?」
祥子は状況を掴みきれず、戸惑ったまま返事をする。
二人はキッチンに移動し、ほむらが鍋を温め直してスープを器に注ぐ。温かい湯気と共に、部屋に穏やかな香りが広がる。
二人で食卓に向かい合い、静かに食事を始める。スープの温かさが祥子の冷えた体を少しずつ解していくようだった。
ほむらはスプーンを置いて、祥子を見ながら言う。
「貴方の事情は全部知ってるわ。昨日話してくれたし。お父さんとCRYCHICね。それについて何もしようと思わないけど、相談や、手を貸して欲しい時はそう言って。私は貴方の味方でありたいから」
祥子はスープを飲む手を止め、ほむらをじっと見つめる。
夕暮れの柔らかな光が差し込んでいた。長いテーブルの上には、温かいスープの湯気が静かに立ち上り、銀のスプーンがわずかに光を反射している。
部屋には穏やかな静けさが漂い、二人の少女だけがその空間を共有していた。
「姉さんは、変ですわ」
祥子がぽつりと呟くと、向かいに座るほむらはスプーンを置いて、ゆっくりと顔を上げた。
「変?」
ほむらは小さく首をかしげる。その仕草はどこか無垢で、長い黒髪が肩に滑り落ちる様子が、夕陽に照らされて艶やかに見えた。
祥子は唇の端をわずかに上げて、控えめに笑う。
「普通はもっと関わってくると思いますわ」
その言葉に、ほむらは目を細めて小さく笑った。肩を軽くすくめる仕草は、まるで姉らしい余裕を感じさせる。
「私には何も出来ないわ。だけど、話すだけならできる。私は貴方の姉だから、何があっても仲間よ」
ほむらの声は低く、穏やかだった。けれどその瞳の奥には、どこか計り知れない深さが宿っている。
祥子はスープの表面を見つめ、湯気に揺れる自分の顔をぼんやりと眺めていた。胸の奥にあった冷たい塊が、ほんの少しだけ溶けていくような感覚があった。やがて、祥子は静かに顔を上げる。
「では、何かあればお願いしますわ」
「そうして。いつでも良いわ」
ほむらの返事は優しく、包み込むような響きを持っていた。祥子は小さく頷き、再びスープに視線を落とす。
温もりが指先に伝わり、心の片隅に小さな安心が芽生えていた。それは長い孤独の中で、初めて感じる灯りのようなものだった。
食事が終わり、二人は静かに器を片付け始めた。祥子はほむりの背中を見つめながら、かすかな安堵に身を委ねる。だが、ほむらの内心は別の色を帯びていた。
(これでいい……少しずつ、距離を詰めていくのよ)
彼女はあえて深く踏み込まず、関わりすぎない姿勢を見せることで、祥子の心の扉をそっと開かせようとしていた。
優しい姉の仮面の下で、冷徹な計算が静かに回っている。
夕陽が完全に沈む。
スープの余韻が残る部屋で、ほむらの紫色の瞳が一瞬だけ鋭く光った。暁美ほむらは豊川祥子を無事に帰宅させ、部屋に静けさが戻った後、一人残された空間で次の計画を練り始める。
彼女の紫色の瞳には満足感と期待が混じり合い、唇にはかすかな笑みが浮かんでいる。
月明かりがカーテンの隙間から銀色の線となって床に落ちている。机の上に置かれた小さなランプだけが、部屋をぼんやりと照らしていた。
ほむらは椅子に腰かけ、膝の上に開いたノートを見つめている。そこには丁寧に書かれた五人の名前が並び、豊川祥子と若葉睦の欄にはすでに小さな○が記されていた。
祥子の絶望は、底冷えするような孤独だった。華やかな表層の下に、家族という名の檻に閉じ込められた悲鳴が詰まっている。
睦の絶望は、静かで深い。言葉を失った少女は、自分自身すら見失いかけていた。凍てついた瞳の奥に、誰かに見つけてほしいと願う微かな灯が揺れている。
二人の顔繋ぎは、完璧だった。
ほむらはゆっくりと息を吐き、微笑んだ。優しい、どこか慈しむような笑みだ。だがその瞳は、氷のように冷たい光を宿している。
次は——長崎そよ。月ノ森の生徒。同じ屋根の下にいる。最も近づきやすい。そよの優しさは、春の陽射しのように穏やかで、誰にでも平等に降り注ぐ。
でもだからこそ、彼女は自分の傷を隠してしまう。繊細すぎる心を、誰にも見せまいと抱え込んでいる。
ほむらは指先でノートの余白をなぞった。祥子と睦が繋がれば、そよも自然とその輪の中へ引き込まれるだろう。
傷ついた者たちが寄り添い、互いを癒していく。美しい光景だ。人が助け合い、心を癒す。
そんな温かな世界を、彼女は確かに願っている。ただし、自分の掌の上で。ほむらはノートをそっと閉じ、ランプの灯りを消した。闇の中、彼女の唇が小さく動く。
「平和の輪は、広がっていくわ」
その声は誰にも届かない。月明かりだけが、静かに彼女の横顔を照らしていた。