月ノ森学園の廊下を歩いていると、暁美ほむらは偶然にも若葉睦とすれ違う。
彼女の感情をあまり表に出さない顔が視界に入り、ほむらは自然に足を止めて声をかける。
「若葉睦さん、体調は大丈夫?」
ほむらの声は穏やかで、上級生気遣いを感じさせる。睦は一瞬立ち止まり、静かに答える。
「大丈夫……です」
その声は小さく、どこか力がないように聞こえる。
「何かあれば声をかけてね。できる範囲で力添えするから」
ほむらは優しく微笑み、睦の目をじっと見つめる。彼女の言葉には温かさが込められていた。
睦は少し間を置いてから、かすかに頷く。
「……はい。あの、祥は」
睦の口から祥子の名前が出た瞬間、ほむらの表情がわずかに柔らかくなる。彼女は少し考え込むように首をかしげてから、ゆっくりと答える。
「大丈夫ではないと思うわ。だからそばにいてあげて。何も出来なくても、そばにいれば手が届くかもしれないから」
ほむらの中で過去の想い人の姿が浮かぶ。助けてもらってばかりだった。彼女はそばにいてくれた。
睦には、そういう存在であってほしかった。
「言葉も、行動も、気持ちも、全て空回りになるかもしれない。考え違いをしているかもしれない。罪と罰を抱いて、最善を尽くす。それが人よ」
その言葉に、睦の瞳が一瞬揺れる。彼女は無言でほむらを見つめ、やがて小さく「はい」と呟いて頷く。ほむらは満足げに微笑み、その場を後にする。
豊川祥子の神化阻止の計画の一環である長崎そよへの道を切り開くためにも、睦との関係を深めておくのは重要な一手だ。
ほむらの足音が軽やかに響き、月ノ森の校舎に溶け込んでいく。
暁美ほむらは、倫理などとうにかなぐり捨てていた。すべては彼女の欲望を満たすための道具に過ぎない。
大切な人が、友達と一緒に幸せる世界を維持すること。
そのために、彼女は完璧な「悪魔」を演じてきた。コミュニケーション能力と社会的なスキルに長け、生徒からも教師からの評判も上々だ。
当然だ。子供たちの心に深く刺さる「良い存在」になるには、表面的な信頼と魅力が不可欠なのだから。
そんなほむらが、長崎そよを見つけた瞬間、彼女の鋭い直感が働いた。そよの柔らかな笑顔、穏やかな物腰、その裏に隠された微かな影。
ほむらは一目で理解した。
この子は仮面をつけている、と。
そよは本当の自分や素の自分に悩み、葛藤を抱えるタイプの人間だ。家庭環境やこれまでの人生から、「誰かに尽くして居場所を得る」「人に捨てられたくない」という強い欲求と不安が、彼女の心の奥底に根付いている。
それが、そよの立ち振る舞いや視線の揺れから、ありありと伝わってきた。
ほむらの唇に、ほのかな笑みが浮かぶ。そよのような子は、悪魔にとって格好の標的だ。
心の隙間が明確に見えるからこそ、そこにそっと入り込み、優しさや理解を装って鍵を開けることができる。
そよが求める「居場所」や「承認」をちらつかせ、彼女の心を自分に縛り付ける——それはほむらにとって、赤子の手を捻るより簡単なことだ。
ほむらは、ゆっくりと近づき、優しく声をかけた。
「こんにちは」
「あ、はい。こんにちは」
と彼女は少し緊張した様子で返答する。穏やかな笑みを浮かべて、言う。
「長崎そよさん、ですよね」
「はい、そうですけど」
「良かった。少しお話があるの。時間をもらえるかしら?」
「え、お話とは何でしょう?」
「豊川祥子について、少し聞きたいことがあるの」
「祥子ちゃんを知っているんですか!?」
そよの声には戸惑いと好奇心が混じっている。ほむらは目を細め、ゆっくりと答える。
「単刀直入は好きじゃないの。少し遠回りしたいから、ちゃんと話したい時間を設けたいの。予定は?」
「あ、なら」
予定は放課後だった。
長崎そよを豊川祥子の家、つまり豊川家に迎え入れて、ほむらは言う。
「時間を作ってくれてありがとう、そよさん」
「いいえ、それで、その」
そよは少し困惑しながらも頷く。ほむらはその反応を見ながら、そっと本題に近づいていく。
「最近、悲しいことがあったりしたでしょう」
「そ、れは」
その声には微かな震えが混じる。ほむらは見逃さない。彼女はさらに穏やかに、しかし核心に迫る言葉を投げる。
「例えば、バンドが解散したとか」
「……! なんで貴方がそれを」
そよの目が見開かれ、驚きと動揺が隠しきれなくなる。ほむらは内心でほくそ笑みつつ、平静を装って続ける。
「私は豊川祥子の姉なの。義理だけど。それでまぁ、大方の事情は聞いたわ。酷い終わり方をしたそうね」
「お姉さんなんですか!?」
「ええ、そうよ。ここも豊川の家。豊川祥子もこの家に住んでいた」
「なら、直接お話を」
ほむらは手を軽く振って、優しく遮る。
「セッティングしても良いけど、それは後でね。まずは私の話を聞いてちょうだい」
そよの表情が一瞬固まり、言葉を探すように視線が泳ぐ。ほむらはその隙を見逃さず、そよの心の揺れに静かに楔を打ち込む準備を整える。
彼女の策略は、そよが自分で心を開くよう仕向けることだ。CRYCHICの解散という傷をそっと刺激しつつ、信頼を装った距離感で近づいていく——ほむらの「狙い」が、ここから本格的に始まるのだった。
「私は事情を知っている。そして誰にも話さない。だから貴方の口から話してほしい。何が起きて、どう思ったのか」
ほむらの声は静かで、穏やかだが、どこか抗えない力を帯びている。彼女の黒い瞳が長崎そよを真っすぐに見つめ、その視線には優しさと同時に逃げ場を塞ぐような圧があった。
そよは一瞬、悩む素振りを見せる。唇を噛み、視線を落とし、何かを隠そうとするように肩を小さく震わせる。だが、ほむらの瞳にじっと見つめられると、その重圧に耐えきれず、ついに折れた。
彼女はゆっくりと、ためらいがちに語り始める。
「豊川祥子ちゃんが、バンドを辞めたんです。何故かはわかりません。睦ちゃんも、楽しいとは思わなかったって」
そよの声は小さく、言葉の端々に混乱と痛みが滲んでいる。ほむらはそっと頷き、優しく促す。
「そっか。それを受けて、どう思った?」
そよの目が潤み、声が震え始める。
「悲しかったです。楽しかったのは……自分だけだったのかって。でもきっと誤解がある。みんな楽しかったはず。じゃなきゃ、やってない」
その言葉を吐き出した瞬間、そよの感情が堰を切ったように溢れ出す。彼女は両手で顔を覆い、涙が指の間からこぼれ落ちる。
「もっと一緒にCRYCHICをやりたかった。私達の居場所に戻りたい。こんな終わり方は嫌だ!」
泣きじゃくるそよの声は、教室に切なく響く。彼女の肩が震え、嗚咽が止まらない。
ほむらは静かにその姿を見つめ、表面上は穏やかな表情を保ちながらも、内心では静かな同情が広がっていた。
そよの心の隙間が露わになり、彼女が求める「居場所」や「繋がり」への渇望がはっきりと浮かび上がった瞬間だ。
それは感情の消化として喜ぶべきだが、しかし苦しく悲しいのは変わらない。
ほむらはそっと立ち上がり、そよの隣に近づく。優しく肩に手を置き、囁くような声で言う。
「そう、苦しく辛いね。でも、ここで話してくれて良かったよ。私には何でも話していいから。どうしたいのか、だうなりたいのか、一緒に探りましょう」
その言葉は癒しを装いつつ、そよの心にさらに深く入り込むための罠だった。彼女の涙と叫びは、ほむらにとって次のステップへの完璧な足がかりとなる。そよが泣き続ける中、ほむらの瞳が静かに光っていた。
ほむらはそよの涙をそっと見つめながら、さらに一歩踏み込む。彼女の声は柔らかく、まるで心の奥をそっと撫でるようだ。
「これは本筋をズレるけど、そよさんは自分が二人いるような感覚がある? 優しい自分と冷酷に計算する自分」
「……!」
そよの身体が小さく震え、明らかに動揺した様子で視線が泳ぐ。彼女の手は無意識に爪を弄り始め、落ち着かない仕草がその内心を物語る。
「そ、それは……」
と呟く声は弱々しく、言葉を続けることができない。
ほむらはそよの反応を逃さず、穏やかだが鋭く核心に迫る言葉を続ける。
「無理をして、学校の友達と一緒にいる。でもCRYCHICは等身大の自分でいられた、とか。あとは尽くすのと、求められるのは違ったりするんじゃないかしら?」
そよの目が見開かれ、息を飲む音が小さく響く。ほむらの言葉は、そよの心の奥底に隠していた思いを暴くように的確だ。
彼女の指はさらに激しく爪を弄り、唇が震える。
「なんで……そんなこと、お姉さんが……」
と途切れ途切れに呟くが、否定する力すら失っているようだ。
ほむらはそよの動揺を静かに観察しながら、優しく微笑む。
「ただの経験。でも、そよさんがそんな風に感じててもおかしくないなって。辛いでしょうね、それは。たぶん、演じている感覚はあるけど、その優しくしたい気持ちもも嘘ではない。同時に計算する冷静な部分もある。その軋轢を抱えてずっと頑張ってたんだから」
その言葉は寄り添うように聞こえるが、実際はそよの心の隙間をさらに広げるための計算された一撃だった。
彼女の弱さ、孤独感、居場所への渇望——それらすべてが、ほむらにとって操りやすい糸となる。
そよは涙を堪えきれず、再び顔を伏せる。
彼女の心は今、ほむらの手の中で裸にされているも同然だ。ほむらはそっとそよの肩に手を置き、温かみを装いながら、次の言葉でさらに深く彼女を引き込む準備を整える。
ほむらはそよの震える肩に手を置いたまま、静かに、しかし確信を持った声で続ける。
「私には貴方の性格や苦しみを変えることは出来ない。それは自分でやるしかない。だけど、相談にのることは出来る。大きな外れを引くことを防ぐことが出来ると思う。だから、まずは知ってほしい。私がいることを。頼る選択肢があることを」
その言葉は優しく、寄り添うように響く。
そよの涙に濡れた顔がゆっくりと上がり、ほむらの黒い瞳を見つめる。彼女の表情には動揺と戸惑いが混じっているが、同時に何かをつかもうとするような微かな光が宿っている。
ほむらの声は、そよの心の隙間にそっと入り込み、信頼と安心を装って根を張っていく。
そよはしばらく黙ったまま、爪を弄る手を止めて深呼吸する。
「ほむらさんが……いる?」
と小さく呟き、その声には半信半疑と希望が混ざり合っている。ほむらはそっと頷き、微笑みを深める。
「そう。私がいるわ。いつでも話に来てくれればいい。何かあった時、一人で抱え込まなくてもいいんだから」
そよの瞳が揺れ、涙がまた一筋こぼれる。彼女にとって、CRYCHICという居場所を失った今、ほむらの言葉は救いの手のように感じられた。
だが、ほむらの内心では別の思惑が渦巻いている。
この瞬間、そよが自分に頼る選択肢を意識したことが、悪魔の策略の一つ。
空気はまだそよの涙で湿っている。
暁美ほむらは、そよの肩に置いていた手をゆっくりと下ろし、静かに椅子を引き寄せて腰を下ろした。
重い扉を開けるように、声を一段低く落とす。
「そよさん……もう少しだけ、聞いてくれる?」
そよは涙で赤くなった目で小さく頷く。ほむらは一度だけ深呼吸をして、穏やかだが決して揺るがぬ声音で語り始めた。
「……豊川祥子のお父様……実のお父様は、豊川家から莫大な損失を出して、一族を追放されたの」
そよの瞳が大きく見開かれる。
「祥子ちゃんは、おじい様の反対を押し切って、そのお父様について行った。でも……お父様は精神を病んでいて、警察のお世話になることも多くて。お金もほとんどない。祥子ちゃんは、介護と生活で手一杯になって……だからCRYCHICを辞めざるを得なかった」
そよの唇が震える。言葉にならない声が漏れる。
「そんな……祥ちゃんが……」
ほむらは静かに続ける。
「それを誰にも言わなかったのは……きっと、彼女なりの覚悟だったんだと思うわ。自分が全部背負って消えることでCRYCHICが『祥子がいなくなったから解散した』じゃなく、『祥子がいなくても続けられる』って形にしたかったのかもしれない……あるいは、ただのプライドかもしれない。
豊川家の娘としての、最後の意地だったのかもしれない」
そよは両手で口を押さえ、肩を激しく震わせる。新しい涙が、頬を伝ってぽたぽたと机に落ちる。
「知らなかった……私、知らなくて……祥ちゃん、ひとりでそんな……!」
ほむらはそっと、そよの手を両手で包み込むように握った。温かさを装った、冷たく確かな手。
「だから、そよさんが自分を責める必要なんてどこにもない。祥子ちゃんは、そよさんたちに『助けて』って言えなかっただけ。……でも、知ってしまった今、そよさんがどうするかは、貴方次第よ」
そよは涙に濡れた瞳で、ほむらを見つめる。そこには混乱と、痛みと、それでも確かに灯った小さな決意があった。
ほむらは静かに微笑んだ。
(……いい子ね)
教室に、静かな嗚咽だけが響く。長崎そよは両手で顔を覆い、肩を小刻みに震わせながら、堰を切ったように泣き続ける。
「……違う……違うんだ……私たちが喧嘩したわけじゃなかった……誰かが裏切ったわけでも、嫌いになったわけでも……なかったんだ……」
ぽたぽた、と涙が机に落ちる音がする。
「祥ちゃんは……ひとりで全部抱えて、私たちを守ろうとして……消えていっただけなのに……私、知らなくて……睦ちゃんも、燈ちゃんも、みんな、ただすれ違ってただけなのに……!」
そよはぎゅっと目を閉じ、声を絞り出す。
「私がもっと早く気づいてれば……
祥ちゃんが『辞める』って言ったとき『なんで?』ってちゃんと聞いてれば……『助けて』って言わせてあげられたかもしれないのに……!」
嗚咽が、悲鳴に近い声に変わる。
「CRYCHICは……壊れたんじゃなくて……
ただ、祥ちゃんがひとりで終わらせちゃっただけだった……私たちの居場所は……誰のせいでもないのに……どうしようもなかったのに……それでも……それでも私、祥子ちゃんを置いてきぼりにしちゃった……!」
そよは突っ伏し、声を上げて泣き始めた。
「ごめんね……祥ちゃん……ごめんね……私、知らなくて……ごめんね……」
その涙は、怒りでも悲しみでもなく、ただただ純粋な「無力感」と「後悔」だった。
暁美ほむらは、静かにそよの背中を撫で続ける。
そよの心は今、
「CRYCHICは誰のせいでもない」
「自分は何もできなかった」
「それでも祥子を救いたい」 という、矛盾と罪悪感に満ちた渦の中に沈んでいる。この罪悪感は、そよを永遠に縛る。
そしてその鎖の片方は、必ず暁美ほむらの手に握られることになる。
ほむらは優しく、そよの耳元で囁いた。
「……そよさん。もう、ひとりで抱えなくていいわ。私がついてるから。またCRYCHICは終わった。だけど、始める事ができる」
そよは顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃの顔で、それでも必死に、ほむらに縋るように頷いた。
新たな依存が、静かに、確かに、生まれた瞬間だった。