悪魔ほむらと豊川祥子   作:あばなたらたやた

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四話:豊川祥子(微覚醒)

 

 夕暮れの光が、ほむらの部屋に細く差し込んでいる。カーテンの隙間から漏れる橙色は、床に落ちた埃を浮き彫りにして、静かに揺れていた。

 

 ソファに座る豊川祥子は、膝の上で両手を組み、まるで石のように動かない。瞳は開いたままだが、そこに焦点はない。呼吸だけが、かすかに胸を上下させている。

 

 感情の色が、完全に抜け落ちた顔だった。隣に腰掛けた暁美ほむらが、静かに口を開いた。

 

「ほむら姉さん」

「一つ聞きたいの。良いかしら」

「はい」

「豊川祥子にとっての勝利とは?」

 

 その問いは、部屋の空気をわずかに震わせた。祥子は反応しない。まるで言葉が届いていないかのようだった。

 

 ほむらは視線を落とし、自分の指先を見つめながら、ゆっくりと語り始めた。

 

「私はね、勝利ってものを、ずっと嫌っていた」

 

 声は低く、どこか遠い。

 

「勝っても、何も変わらなかったから。むしろ、勝つたびに次の試練が降ってくる。まるで呪いみたいに。血へどを吐いて勝ったと思ったら、次はもっと大きな絶望が待っている。まるで運命が、私だけを玩具にしているみたいだった」

 

 ほむらは小さく笑った。自嘲の色が強い。

 

「だから思ったの。大きな勝利なんて、最初から狙わなければいいって。器に見合った勝ち方をして、妥協できる敗北を選ぶ。それが一番傷が浅くて、賢い生き方だって」

 

 彼女は顔を上げ、祥子を見た。

 

「でもね、それも嘘だった。私はただ、疲れていただけ。本当は、逃げていただけ」

 

 部屋に沈黙が落ちる。時計の針が、かすかに音を立てて進む。

 

「私の勝利は……気づくことだった」

 

 ほむらの声が、少しだけ震えた。

 

「過去を、あるがままに受け止めること。それが、私にとっての唯一の勝利だった。どれだけ辛い記憶でも、どれだけ取り返しのつかないことをしても……それを『こういうこともあったなぁ』って、いつか微笑みながら言える日が来る。それだけで、十分なんだって」

 

 彼女は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。外では、街灯がぽつりと灯り始めている。

 

「私は何度も時間を巻き戻した。完璧な結末を求めて。でも、結局、愛する人を神にしてしまった。その罪を背負って、悪魔になった。それでも……後悔はない。あの日のまばゆい光は、今も私の胸にあるから」

 

 ほむらは振り返った。祥子の瞳に、わずかに光が戻り始めていた。涙ではない。ただ、凍りついていたものが、ゆっくりと溶けていくような、そんな気配。

 

「あなたが今、何を捨てて、何を抱えて歩こうとしているのか……私は知らない。でも」

 

 ほむらは静かに、しかし確かに言った。

 

「ある日ふと、過去を向いたその時に……こういうこともあったなぁって。それだけで、もう十分。微笑みながら、はにかみながら、そんな言葉を口にできること。それが命の意味であり、ずっと共にいてくれた、“勝利”を得しるということだから」

 

 祥子は、初めて小さく息を吐いた。まだ何も言わない。ただ、震える指先が、膝の上でそっと握りしめられた。

 

「だからどうか誤魔化さないで。自らの過去を、想いを」

 

 夕陽が完全に沈み、部屋が薄暗くなる。それでも、二人の間に漂う空気は、ほんの少しだけ温かかった。

 

 部屋の灯りはすでに消えていた。窓から差し込む街灯の淡い光だけが、ふたりの横顔をぼんやりと浮かび上がらせている。祥子は、まだ震えの残る指を膝の上で絡めながら、掠れた声で訊いた。

 

「姉さんに何があったんですの?」

 

 ほむらは、静かに、古い傷をそっと撫でるように答えた。

 

「私は、魔法少女なの。そして認められない結末を壊すため、永劫回帰を繰り返した」

 

 その言葉は、呪文のように重く、部屋の空気を一瞬で変えた。祥子は目を大きく見開く。信じられない、というより、信じたくない、という表情だった。

 

「そんな事が、本当に?」

 

 ほむらは小さく微笑んだ。哀しみをたたえた、どこか遠い笑み。

 

「なら見せましょう。人の悪意から産まれる魔獣を」

 

 次の瞬間。紫の光が、ほむらの体を包んだ。背に広がる漆黒の翼。闇より深いドレス。

 

 瞳は紅く燃え、髪は夜そのもののように波打つ。

 

 悪魔ほむら。彼女は片手を差し伸べた。白く細い指が、祥子の前で静かに待つ。祥子は息を呑み、それでも震える手を伸ばした。

 

 指と指が触れた瞬間、世界が歪んだ。部屋が消える。壁が溶ける。天井が裂ける。ふたりはもう、夜の街の上空にいた。

 

 下界は、別の世界だった。街灯の光は届かない。代わりに、無数の黒い影が蠢いている。

 

 人の形をした悪意が、這いずり回り、絡み合い、膨れ上がる。巨大な、歪んだ魔獣が、ゆっくりと夜の底から這い出してくる。風が冷たい。星すら見えない空の下、悪魔の翼が静かに羽ばたく。

 

 祥子は、ほむらの腕の中で小さく震えていた。恐怖ではない。圧倒的な現実の重さに、ただ、息ができないだけだった。ほむらは、静かに、夜を見下ろしながら呟いた。

 

「これが、私が見てきた世界」

 

その声は、どこか優しく、どこか果てしなく寂しかった。

夜の空は、底なしの闇だった。悪魔の翼を広げたほむらは、祥子を抱えたまま、ゆっくりと高度を下げていく。

 

 街はもう遠く、眼下に広がるのは廃墟のような工場跡地だけ。錆びた鉄骨が月光に冷たく光り、風がコンクリートを這う音だけが響いている。

 

 ほむらは地面に降り立ち、祥子をそっと下ろした。黒いドレスが風に揺れ、翼が静かに畳まれる。

 

「……私の話を、してもいい?」

 

 声は小さく、どこか掠れていた。祥子は黙って頷いた。まだ震えが止まらない。ほむらは、廃墟の端に腰を下ろし、膝を抱えるようにして語り始めた。

 

「弱い私に、初めて優しくしてくれた子がいたの」

 

 彼女の瞳は、遠い記憶を映している。

 

「笑顔が眩しくて、声が優しくて……私みたいな、誰とも話せないような子に、普通に話しかけてくれた。それだけで、世界が変わった気がした」

 

 ほむらは、かすかに笑った。でもすぐに、その笑みは消えた。

 

「でも、その子は死んだ。魔女に殺されて」

 

 風が強くなる。ほむらの髪が、乱暴に揺れる。

 

「だから、私は時間を巻き戻した。助けるために。何度でも、何度でも。でも、ダメだった。どれだけ頑張っても、どれだけ傷ついても……必ず破滅する。その子は必ず死ぬ。私がいる限り、運命はそれを許さない」

 

 彼女は両手で顔を覆った。

 

「それに……時間を巻き戻すたびに、その子の因果が、私に積み重なっていった。どんどん重くなって、どんどん大きくなって……最後には、その子は自分で望んでいないのに、神になってしまった」

 

 声が震える。

 

「怖かったはずなのに。嫌だったはずなのに。私が、私が選ばせてしまった。みんなが幸せになれる最終案を」

 

 ほむらは顔を上げた。紅い瞳に、涙が光っている。

 

「後悔した。だから私は……悪魔になった」

 

 彼女はゆっくりと立ち上がる。背後の翼が、再び広がる。

 

「その子が、普通の女の子として、幸せに生きられるように。この世界の絶望は、私が全部背負う。だから、もう誰も犠牲にならなくていいように」

 

 ほむらは夜空を見上げた。

 

「一人で戦うことにした」

 

 その声は、静かで、どこまでも澄んでいて。でも、どこまでも孤独だった。祥子は、ただ立ち尽くしていた。言葉が、出てこなかった。ただ、胸の奥が、熱く、痛くなるのを感じていた。

 

 

 廃墟の風が、二人の間を冷たく通り抜ける。ほむらは、ゆっくりと振り返った。紅い瞳が、夜の底で静かに揺れている。祥子を見つめるその視線は、遠い記憶を透かして見ているようだった。

 

「……あなたは、すごくまぶしい」

 

 ほむらの声は、掠れていた。

 

「貴方は前を向ける強さがあり、行動できて、輝いている。心を殺して、大義を成すことができてしまう。だから私は、貴方の味方でいたいと思う」

 

 言葉は静かだった。でも、その一語一語に、抑えきれない想いが滲んでいる。ほむらは、一歩だけ近づいた。

 

「私は……もう、あの子を直接見ることはできない。でも、あなたを見ていると、あの子の笑顔が重なる」

 

 彼女の瞳が、わずかに潤む。

 

「あなたは、私が守れなかったものを、まだ持っている。だから……」

 

 ほむらは、そっと手を差し伸べた。悪魔の指先は、冷たかった。でも、その手のひらは、確かに温もりを求めていた。

 

「どうか、あなたは絶望しないで」

 

 声が震える。

 

「あなたが折れてしてしまうのは、悲しいわ」

 

 祥子は、その手をじっと見つめた。震える自分の手が、ゆっくりと伸びる。指が触れた。冷たい。でも、確かに、そこに誰かがいた。

 

「私は……」

 

 祥子が、掠れた声で呟いた。

 

「私は、私には成さねばならないことがあると信じていました。豊川の人間として、優れた人間として、戦い続けることが使命だと」

 

 涙が、一筋、頬を伝う。

 

「でも、姉さんが……こんなに、こんなに私を見てくれてるなら」

 

 彼女は、ぎゅっとその手を握り返した。

 

「私……もう少し、わがままになっても、いいですか?」

 

 ほむらは、静かに微笑んだ。悪魔の顔に、初めて、本当の笑みが浮かんだ。

 

「……ええ。何者にも縛られず、自由に」

 

 風が止んだ。夜空に、ひとつだけ、星が瞬いた。

 

 

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