豊川家の邸宅は時間が止まったかのような場所だった。
東京の山の手、かつて華族が競うように邸宅を構えた高台の奥。鉄の門をくぐり、鬱蒼とした老杉の並木道を上りきると、突然視界が開ける。
そこに佇むのは、赤煉瓦と白漆喰が美しいコントラストを描く洋館。
明治末期に英国人建築家が設計したとされ、屋根には緑青を吹いた銅板が葺かれ、尖塔の先端には風見鶴が今も静かに風を読み続けている。
季節は十月も半ば。庭の薔薇は最後の花を咲かせ、落ち葉が石畳を埋め尽くしていた。
風が吹くたび、枯れ葉が渦を巻いて舞い上がり、夕暮れの空に溶けていく。応接間へ続く廊下は長く、足音がこだまする。
壁には先祖代々の肖像画が掛けられ、どの顔も厳しくこちらを見据えている。
祥子は幼い頃から、この廊下を通るたびに背筋を伸ばし、息を潜めてきた。自分は豊川家の娘として、恥じないように。だが今夜は違う。
扉の前で立ち止まったとき、彼女の指は震えていた。重いマホガニーの両開き扉を押し開けると、グランドピアノが目に入った。
死んだ母親の綺麗な思い出が部屋全体を柔らかく照らしている。
壁には古い置時計。秒針の音だけが、静寂を刻んでいた。
そして、そこには長崎そよが、窓際のソファに腰掛けていた。
いつもなら「祥子ちゃん!」と笑顔で飛びついてくるはずの少女が、今は背筋を伸ばし、膝の上で両手を固く組んでいる。
制服を纏う彼女は、少し大人びたものだった。肩が小刻みに震えているのがわかる。
その背後に、暁美ほむらが立っていた。長い黒髪を無造作に流し、紫の瞳は感情を殺したように冷たい。
腕を胸の前で組み、壁に軽くもたれている。ここが自分の家であるかのような落ち着きようだった。
祥子は、一瞬、息を忘れた。
「……どういうことですの? これは。お姉様」
声が裏返った。自分でも信じられないほど、幼い声になってしまった。
彼女が「お姉様」と呼ぶのは、暁美ほむらだけだ。彼女は豊川家に引き取られた義理の姉だ。
大切な姉だった故に裏切られた痛みは大きかった。ほむらはゆっくりと顔を上げた。
「話があると言ったでしょう。そよには全て話したわ。その上で、ちゃんと話し合いなさい」
静かな、しかし決して揺るがない声。
「何を勝手に……! 見損ないましたわ」
祥子の瞳に涙が滲んだ。怒りと悲しみと、混乱が混じり合って、言葉がうまく出てこない。
ほむらは小さく息を吐いた。
「別に構わないわ。私はただ、貴方が傷つくのを見たくないだけ。そして行動した」
その言葉に、祥子の肩が震えた。
傷つく。
父親が騙されて一族から追放され、豊川祥子は感情のまま弱った父親を助ける生活をしている。
純粋に負担が大きい。助けることを放棄しても、そのまま生きても、どちらにしても、傷つく。
ほむらは過去の優しい友人と豊川祥子を重ねていた。友人として、世界で一番大切な人。
絶望を始めてはいけない。まだ彼女は可能性がある。
ほむらは一歩前に出た。
「そして貴方が向き合うべきは、私ではなく、目の前にいる人でしょう」
静かに、しかし確実に、祥子をそよの方へ向けた。長崎そよは、ゆっくりと顔を上げた。
いつも笑顔の奥にあった、怯えと寂しさが、今は隠しようもなく表に出ている。瞳は赤く、頬には涙の跡が残っていた。
「……ごめんなさい、祥子ちゃん」
掠れた声だった。
「私……知ったよ。祥ちゃんのお父さんのこと。だからあんなことになったんだね」
そよの声が途切れた。嗚咽が漏れる。
「良かった。祥ちゃんもCRYCHICを大切に想ってくれてたんだね」
祥子は、息を呑んだ。胸が、痛かった。自分がどれだけそよを傷つけていたか、今、痛いほどわかった。
彼女はゆっくりと、震える足取りで近づいた。そして、そよの前に座った。
いつもは圧倒的な光だった、誰にも弱さを見せない豊川祥子が、今はただの少女だった。
「それで、話とは?」
掠れた声で、祥子は言った。
「私に……何を、伝えたかったんですの?」
その声には、もう怒りも、プライドも、高慢さもなかった。ただ、ひどく脆く、震えながらそれでも、確かに、そよを見つめていた。
ピアノの蓋は閉ざされ、譜面台は倒れ、壁には剥げかけた「春日影」の手書きスコアが一枚だけ貼られたまま。
夕陽が血のように赤く差し込み、埃の舞う空気を金色に透かしながら、 二人の少女を残酷なまでに鮮明に照らし出していた。
長崎そよの指先は震え、制服のスカートは小刻みに揺れ、いつもの「優しいお姉さん」の仮面は、まだ完璧に貼りついている。 だが、その仮面の奥では、 「愛される価値がない」という幼少期からの信念が、 「やっと手に入れた楽園を失った」という中学時代の傷が、 繰り返し強迫となって暴れ回っている。
彼女はもう、自分が「演じている」ことすら忘れかけている。 優しい笑顔の裏で、絶え間なく鳴り続けるのは 「私がやらなきゃ誰も私を必要としてくれない」という、 死に至るほどの渇望だった。
豊川祥子は背筋を伸ばし、腕を組み、視線を長崎そよに固定する。数秒でお嬢様の仮面をかぶり、完璧研ぎ澄まされ、感情を殺した声は氷のようだ。
彼女は救世主であろうとしている長崎そよと、自らの運命と対決するべく視線を真っ直ぐ向ける。豊川祥子の完璧主義と自己犠牲の呪縛は、優しさと残酷さとなり、彼女の中で完全に同一化している。
二人は、互いに最も理解し合える存在でありながら、 同時に最も理解し合えない存在でもあった。 同じ穴の底で、同じ傷を抉り合い、同じ言葉で自分たちを縛り続けている。祥子さん。
「CRYCHICをやり直そう」
「貴方はやはり、そういうのですわね」
「私がやらなきゃ、ダメなの。私がやらなきゃ、みんなバラバラになる。 私がやらなきゃ、また誰かが消える。 私がやらなきゃ、幸せになれない。みんなのために私はCRYCHICを復活させる」
彼女の声は穏やかで、優しい。
だが、写真を握る指は白くなるほど力を込め、 爪が掌に食い込み、血が滲み始めている。
これはもう、願いではなく、強迫だ。
「壊れた救世主」の、救いを求める最後の手段。
「私がみんなの気持ちを全部拾って、繋いで、笑顔にしてあげなきゃいけない。あの時みたいに、突然やめるって言われて、ただ慌てるだけの自分はもう嫌なの」
そよは立ち上がり、一歩、祥子に近づく。 床が軋み、夕陽が彼女の涙を金色に光らせる。
「CRYCHICを、もう一度。 私が全部整える。今度は私が中心にいて、みんなを絶対に離さないようにするから。 私がみんなにとって不可欠でいられる場所を、もう一度作らなきゃ…… そうじゃなきゃ、私は」
豊川祥子は、ゆっくりと息を吐く。 瞳は冷たく澄んでいるが、その奥に、 深い疲労と、かつての自分が映る恐怖が 揺れている。
「私がやらなきゃ、貴方の口癖のようですわね。繰り返し自らにかける呪いのように。自分のことばかりですわ」
彼女は微動だにしない。 自分が動いたら崩れてしまうかのように。豊川祥子も同じ言葉で自分を縛っていた。
「私がバンドを続けたら、みんなを不幸にしますわ。私がお父様を支えなきゃ、お父様は死んでしまう。私が全部背負わなきゃ、誰も守れない。だから自分で決めました。 一人で全部背負って、CRYCHICを終わらせました」
豊川祥子は言いながら、少し思う。
(終わらせたのはみんなを守るため……そう言い訳しているだけかもしれませんわね)
祥子の指が、制服の袖の中で小さく震える。 それは怒りではなく、 自分が今まさに今の自分を見ているという、 耐え難い痛みだった。
「みんなにやめる理由を説明せず、消えた……あれが、あのとき私が選べた、みんなのため、でしたわ」
結果、みんなを一番傷つけて、離散させた。
「違う!」
そよの声が、初めて割れる。 涙が頬を伝い、床にぽたり、ぽたりと落ちる。 彼女は祥子の手をつかんで胸に押し当てる。そして心臓を守るように抱きしめた。
「祥ちゃんがいなくなった瞬間、私たちの幸せは崩れていった。みんなの居場所が、一瞬できえていった」
そよは言う。
「あの時、ちゃんと引き止めていれば」
彼女の笑顔は、完全に壊れかけている。
それでも、必死に保とうとする。
それはもう、仮面ではなく、 彼女自身が「これが本当の自分だ」と信じ込もうとする、 最後の抵抗だった。
「だから今度は私が集めて、私が創り、私が守り、私が必ず幸せにする。今度は祥ちゃんだけに背負わせない。私が絶対に崩壊させない。 私がみんなの居場所を、完璧にして作り上げて、守るから」
長崎そよは思う。
(私が完璧な居場所を作れたなら、みんな笑っていられる。CRYCHICは続く)
「みんなが笑える完璧な居場所をもう一度」
「みんな……完璧……?」
祥子の声に、かすかな、乾いた笑いが混じる。 それは自分自身への嘲笑でもあった。
「あなたは本当に、みんなが望んでると思ってるんですの? 睦や燈、立希に訊いたことあるんですの? 貴方の言うみんなはもう、前に進もうとしてるかもしれないのに」
長崎そよの肩が、小刻みに震え始める。
彼女はもう、立っていることすら辛そうだった。
そよの声が震えている。
「……それでも、私は諦めない」
彼女は一歩、また一歩と祥子に近づく。 距離が縮まるたびに、瞳に狂おしい光が宿っていく。 それは、救いを求める光ではなく、 救いを強制しようとする、壊れた光だった。
「私がみんなの気持ちをちゃんと聞いて、調整して、 やっぱりやりたいよねって思わせてあげる。 私が調整役にいなきゃ、みんなバラバラになる。 私がいなきゃ、私の存在意義なんてどこにもない。私がいなきゃ……私なんて、必要とされない」
長崎そよの心は狂気に取り憑かれている。
(演じなくても必要としてくれる場所が…… もう、あそこしかなかったのに)
豊川祥子は、初めて表情を歪めた。
それは哀れみでも、怒りでもなく、 自分自身を 他人の姿で再び見ているという、 絶望的な共感だった。
「……それが、あなたの本音でしょう。みんなを幸せな時間を取り戻すのは、あなたが必要とされていたいだけ」
彼女は静かに、でも確実に告げる。 それは、自分自身にも向けられた言葉だった。
長崎そよの涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。 それでも彼女は笑顔を崩さない。
壊れた人形のような、完璧な、虚ろな微笑み。
「……うん、そうかもしれない。 私、怖いの」
彼女は両手で自分の胸を掴む。
爪が布を、皮膚を、抉る
(あの時より、もっと深く、もっと取り返しがつかなくなる。だから私がみんなを縛ってでも、繋ぎ止めてでも、 あの楽しい、綺麗で、温かくて、 誰もいなくならなかったCRYCHICを、 もう一度取り戻したい)
そよは言う。
「何でもする。 私が全部犠牲にしてもいい。 お金がいるなら、私が稼ぐ。 時間がいるなら、私が全部作る。 私が何でもするから、CRYCHICをもう一度」
豊川祥子は、静かに首を振る。 彼女の瞳には、もう怒りはない。 ただ、深い、深い悲しみだけが残っている。
「……私は、もう戻りません。 あの思い出は、私が自分で壊したものだから。私が殺したものですわ。 だから生き返らせる資格なんて私にはありませんし、そのつもりもありません」
彼女はゆっくりと背を向ける。
夕陽が、二人の影を、引き裂くように長く伸ばす。私が「みんなのため」に決めたことが、一番残酷だったって、 今ならわかる。
CRYCHICの復活なんて、誰も望んでいないのだろう。私が殺したバンドを、生き返らせる必要なんてどこにもないと、豊川祥子は結論づける。
長崎そよの膝が、がくんと崩れそうになる。 それでも彼女は立ち続ける。 立ち続けることでしか、自分を保てない。
「どうして? 私はあの優しく暖かい時間が欲しいだけなのに」
豊川祥子は思う。どうして優しさって、こんなに痛いんだろう、と。
(そよ達には笑顔でいてほしかった。でも、私と一緒にいれば不幸になる。どうして私の優しさは、いつも誰かを傷つけるのでしょうか)
豊川祥子は悔やみながら、それでも過去の再臨を否定する。
「どうして、こんなに世界は残酷なの」
そよが呟く。
「みんな、CRYCHICが好きな筈なのに。戻りたい筈なのに。どうして」