悪魔ほむらと豊川祥子   作:あばなたらたやた

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六話:話し合い②

 

 豊川祥子は、ドアに手をかける。

 振り返らない。 振り返ったら、自分も崩れてしまうと知っている。

 豊川祥子は少しだけ声を和らげて、言う。

 

「貴方達と過ごした日々、楽しかったですわ」

 

 優しいからこそ、残酷になれる。

 私も、そうだったから、わかる。 あなたは今、CRYCHICを破壊した雨の日にやったことと同じことをしようとしてる。

 「みんなのため」と言い訳して、自分を騙して。

 

(でも、それは誰も救わない。 私も、みんな、誰も救えなかった)

 

 私たちは、同じ穴に落ちてる。長崎そよは、涙で視界が滲む中、それでも微笑み続ける。

 それはもう、笑顔ではなく、 壊れゆく少女の、最後の抵抗だった。涙が止まらなくなって、それでも微笑み続ける。

 

「……諦めきれない」

 

 そよは思う。

 私がやらなきゃ、いけない。

 みんなのために/誰も私を必要としてくれないから。

 

 みんなそれを望んでいる/私がみんなを集めないと私には帰る場所がないから。

 

 だから……どうか、私と共にいて。 私が、みんなを……幸せにしてあげるから。

 

 豊川祥子は、静かにドアを開ける。

 夕陽が完全に沈み、部屋が闇に呑まれ始めていた。

 諦めない、その発言に言葉を返す。

 

「……それが、あなたの答えなんですのね。自分のために、誰かを救おうとするのはやめることをお勧めしますわ。さよなら、長崎そよさん」

 

 置時計は、秒針を刻むたびに小さな金属音を立てている。その音だけが、三人の沈黙を、裁くように響いていた。

 

「待ちなさい、豊川祥子」

 

 祥子は、暁美ほむらが振り返る。指先が白くなるほど強く握りしめている。

 

「結局、一番の問題は『父親』ね」

 

 ほむらの声が、静かに落ちた。

 

「心を病み、酒に溺れ、行動不能になってしまった。それが現実よ」

 

 言葉は鋭く、容赦なかった。けれど、そこに込められたのは憎しみではなく、ただの「事実」だった。

 

 祥子の実父。

 人の良さを利用され、騙された。豊川の家に損害を与えた。その責任を取る形で一族から追放される。

 

 今はもう、貧しいアパートの部屋に閉じ込もり、朝から晩まで酒をあおり、誰とも口をきかない。

 

 祥子が「お父様」と呼ぶことをやめてから、もう一年以上が経っていた。

 

「悪く言っているつもりはないわ。単純な事実よ」

 

 ほむらは続けた。

 

「逆に言えば、それさえ解決してしまえば――あとは自分たちの話し合いで落としどころを見つけられるでしょう?CRYCHICの再結成か、正式な解散か。あるいは話し合いか。どちらにせよ、そもそも話し合うことすらできない現状を、まず打破できる」

 

 CRYCHIC。

 祥子が始めたバンドだった。

 燈、そよ、立希、睦、最後に祥子の五人で始めた小さな奇跡。でも、祥子は突然辞めた。理由も告げず、連絡も絶ち、存在そのものを消すように。

 

 それは、家族を養う必要が出てきてバンドに参加できなくなったから。

 自分のせいで、みんなの夢と時間を壊したくなかったから。

 

「どうにか……できるんですの?」

 

 祥子の声は、子どもが助けを求めるように小さかった。ほむらは、静かに頷いた。

 

「国を頼れば良い。日本は福祉がある。役所に行けば、祥子のしがらみはなくなる。お父さんの精神についても、国の支援を受けながら専門家の治療を受けたほうが、よほど健全でしょう」

 

 そう言って、彼女は紙の束を軽く指で押さえた。そこには、救いの手順書のように、すべてが書かれていた。

 どれも「豊川家」の名に恥じない生き方をしてきた祥子が、一生縁がないと思っていた言葉ばかりだった。

 

「明日でも、区役所に行けば相談に乗ってくれる。必要な手順はここに全部揃えてある」

 

 ほむらは、まるで当然のように言った。祥子は紙をめくった。

 

「申請に必要なもの」「持参するもの」「相談の流れ」まで、丁寧にメモがしてある。まるで、誰かがずっと前から準備していたかのように。

 

「……私の行動は、無駄でしたのね」

 

 声が震えた。

 自分で働こうとしたこと、睡眠を削り、食事を抜き、それでも生活費を捻出できない現実に怯えながら、誰にも言えずにいたこと。

 すべてが、無駄だった。

 

「貴方は優秀な人間よ」

 

 ほむらが、初めて、少しだけ優しい声で言った。

 

「だけど、それ故に分不相応な問題を自ら解決しようとしてしまう悪癖があるわ。自分が世界を救うと叫ぶ救世主が決戦兵器になるように」

 

 祥子は顔を上げた。

 目が合った瞬間、涙がこぼれた。

 

「私は……私は、豊川家の娘として、恥じないように生きなきゃいけないと……

だから、誰にも迷惑をかけるわけには……」

 

 言葉が途切れた。嗚咽が漏れる。ほむらはゆっくりと近づき、祥子の前に膝を折った。そして、まるで小さな子をあやすように、そっとその肩に手を置いた。

 

「貴方に足りないのは自覚よ。貴方は優秀だけど、万能ではない。自らすべてを背負おうとするのは、美徳でも誇りでもない。ただの、愚かさよ」

 

 その言葉は、冷たくもあり、温かくもあった。

 

「周りを頼りなさい。社会システムを頼りなさい。それが、現代に生きる人間の、賢い生き方でしょう?」

 

 長崎そよが、そっと立ち上がった。そして、祥子の隣に座り、震えるその手を握った。

 

「……私も、一緒に行く。役所。だって、祥子ちゃんが一人で頑張ってたの、私、知ったから。もう、ひとりじゃないよ」

 

 温かい。そよの手は、いつもより少し冷たくて、それなのに、ひどく温かかった。祥子は、唇を噛んだ。涙が頬を伝って、ぽたぽたと紙の上に落ちる。

 

 外では、風が強くなった。

 枯れ葉が窓ガラスを叩き、ざあっと音を立てて過ぎていく。夕陽は炎のように揺れる。これまでのすべてを焼き尽くし、新しい何かを生み出すように。

 

 祥子は、震える息を吐いた。

 

「……ありがとう。感謝しますわ」

 

 小さな、掠れた声だった。けれど、それは確かに、これまで誰にも言えなかった、本当の「ありがとう」だった。

 

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