悪魔の優しさ豊川家の本邸、夜の応接間。重厚なシャンデリアの光が、床に敷かれたペルシャ絨毯を静かに照らしている。
窓の外では冬の風が木々を鳴らし、ガラスを細かく震わせていた。
豊川祥子は、久しぶりに着慣れたドレスを身に纏い、ソファに腰を下ろしていた。
白いレースの手袋をはめた指が、小さく震えている。それでも表情は落ち着いている──嵐の後の湖面のように。
向かいに座る長崎そよは、緊張した面持ちで書類の束を抱えていた。隣には、黒髪を背中に流した少女──暁美ほむらが、静かに紅茶を啜っている。
「これで全部、終わりましたわね」
祥子が呟く。声は低く、しかし確かに安堵に満ちていた。父親の生活を保障する手続き、そして自分の豊川家本邸への帰還許可。
すべてが、今日一日で片付いた。中学生の少女一人では、到底背負いきれなかった重しが、システムという名の歯車に乗せられた瞬間だった。
そよが、ぽつりと漏らす。
「……ごめんね、祥ちゃん。私、CRYCHICのときうまくできなくて」
祥子は首を振った。
「いいえ。私の方こそ、皆を傷つけましたわ。あのときの私は……自分のことしか見えていませんでしたから」
ほむらが、カップをソーサーに戻す音が、静かに響く。
「人間は、視野が狭くなるときがある。それが苦しみの始まりよ」
祥子の瞳が、ほむらに向けられる。
「ありがとうございます。助かりましたわ。お姉様には色々とお世話になりましたわね」
義理とはいえ、姉と呼ぶべき存在。血は繋がっていなくても、今日この瞬間、祥子は確かにそう思っていた。ほむらは小さく笑った。どこか自嘲めいた、儚い笑み。
「良いのよ、別に。義理の姉とはいえ、貴方が不幸になる姿は見たくないわ」
祥子が、ふっと息を吐く。
「お姉様は流石ですわね。視野が広いですわ」
ほむらは、長い黒髪を指で梳きながら、遠くを見るような目をした。
「……視野が広くなるのに、かなり時間がかかったわ」
それは、誰にも語ったことのない言葉だった。どれだけの時間を遡り、どれだけの絶望を繰り返したか。
大切な人が生き残る世界を、ただ一つでも多く残すために。そして最後、彼女は神となった。優しさゆえに、神となった。けれど神である彼女は、なお人間の心を失わなかった。悲しみも、恐怖も、痛みも、すべてを抱えたまま。
だからこそ、ほむらはその座を奪った。神の力を、悪魔の手で。──これ以上、誰にも、あの子を苦しませないために。
今、目の前にいる豊川祥子という少女は、かつての自分の大切な人にあまりにも似ていた。神に至る可能性を秘めながら、それでも人間として生きようと足掻く、愚かで、愛おしい存在。
だから救った。システムを使え。歯車に乗れ。一人で抱え込むな。それが、悪魔が学んだ、唯一の優しさだった。
ほむらは、静かに立ち上がる。
「もう遅いわ。そよ、そろそろ帰ることね。私が家まで送るわ」
祥子が立ち上がり、深く頭を下げた。
「本当に……ありがとうございました。お姉様」
ほむらは、振り返らない。背中越しに、ただ一言。
「人間でいなさい、祥子。それが、一番の幸せだから」
扉が閉まる音がした。残された祥子は、初めて、涙麗な本邸の中で、ぽろぽろと涙を零した。
それは、救われた者の、素直な涙だった。窓の外、月が雲間に顔を出す。悪魔は、空を見上げて呟いた。
「……これで、いい」
長い黒髪が、夜風に揺れた。
翌日、午後の陽射しが豊川家の庭園を金色に染めていた。薔薇のアーチの下で、祥子とそよは並んで歩いている。
制服のスカートが風に揺れ、笑い声が軽やかに響く。
「CRYCHIC、復活できるでしょうか」
祥子が、少しだけ不安そうに尋ねる。
「できるよ〜! 燈ちゃんも、立希ちゃんも、睦ちゃんもみんな待っているから」
そよは両手を背中で組んで、くるりと回った。
「事情をちゃんと説明して、頭を下げれば……きっと許してくれる。そう信じるしかありませんわね」
「うん、うん! 祥ちゃんが戻ってくるの、みんな嬉しいはずだよ」
二人の影が、重なり、離れ、また重なる。その様子を、屋根の上から、暁美ほむらは静かに見下ろしていた。長い黒髪が風に靡く。
紫の瞳は、感情を殺して、ただ眺めている。
(私の役目は終わったわね)
心の中で呟く。
(もう関わる必要はない。あとは、彼女たちの物語)
悪魔は人の営みに関わるべきではない。それが、彼女が自らに課した掟だった。世界の終わりまで、魔法少女たちが絶望に呑まれて魔女になる瞬間を回収し、魂を回収して、魔女化を防ぐ。
それだけが、悪魔の仕事。
人間の喜びも、涙も、希望も、すべては遠い。触れてはならない。だから、痕跡を消す。
この世界に存在したこと、関わったこと、すべてを。ほむらは指を軽く振った。紫の光が、かすかに空気を歪ませる。
記憶の糸が、そっとほどけていく。祥子もそよも、もう「お姉様」と呼んだ少女のことを、ほんの少しの記憶すら残さないように。
それでいい。それが正しい。そう思った瞬間だった。背筋に、冷たいものが走った。
(……何か、いる)
ほむらは振り返った。庭園の向こう、薔薇の迷路の奥。影が、揺れた。人の形ではない。魔女の結界の残滓とも違う。もっと古く、もっと深い。
「…………」
ほむらの瞳が、鋭く細まる。悪魔の直感が、警鐘を鳴らす。これは、彼女の知る「世界の理」の外側から来たものだ。誰かが、干渉した。いや、干渉しようとしている。祥子を。いや、祥子の中に眠る「可能性」を。
ほむらは、屋根から音もなく降り立つ。足音を殺し、薔薇の茂みへと滑り込む。背後で、祥子とそよの笑い声が、まだ遠く聞こえている。
(まだ、終わっていなかったのね)
悪魔は、静かに唇を歪めた。優しい笑みではない。狩るものの、笑みだった。
「誰かが、私の大切なものを、また傷つけようというのなら、そのときは」
悪魔は、闇に溶けるように歩き出す。長い黒髪が、風に翻る。薔薇の棘が、紫のドレスをわずかに裂いた。一筋の血が滴る。痛みなど、もう感じない。
ただ、「許さない」小さな、呟きだけが、庭園の奥に消えていった。
庭園の奥、薔薇の迷路の中心。そこに、黒い水溜まりのようなものが浮かんでいた。地面に触れていない。世界の裏側から滲み出た染みのように、宙に漂っている。
ほむらは立ち止まった。
「……やっぱり、いた」
水溜まりの中から、声がした。甘く、ねっとりと、耳の奥に絡みつくような女の声。
『認めない、そんな結末は認めない』
水面が波紋を描く。
『こんな未来は、私が閉ざす』
ほむらの瞳が、凍りついた。この声は知っている。いや、知っているはずがない。でも、胸の奥が、痛いほど疼く。
『絆の未来を削って檻を編もう。
記憶と過去に偽りの鍵を閉めよう。
輝く光を罪の鎖で撃ち貶し、穢れた両手で抱きしめよう。
私だけの神話であるように』
水溜まりが割れ、中から手が伸びてきた。白く、細く、まるで人形のような手。指先が、祥子のほうへ、祥子とそよが笑い合っている方角へ、ゆっくりと伸びていく。
ほむらは、盾を構えた。
「やめなさい」
声は低く、静かだった。しかし、悪魔の声だった。手が止まる。水溜まりの中から、今度は顔が覗いた。
セミロングの金色の髪。
綺麗な顔。
アイドルような美しさ。でも、違う。目が違う。狂気に濡れている。
「……あなたは」
ほむらは、息を呑んだ。
まず感じたのは自分の成れの果てのような感覚。いや、もっと先。もっと壊れた先の、自分の鏡のような。
彼女は、微笑んだ。
「はじめまして、悪魔さん」
「貴方は?」
「私は……いや、名乗りません。ごめんなさい。でも、きっと、何度も会うことになります」
ゆっくりと水溜まりから這い出してくる。足元が、地面に触れない。
「あなたは悪魔になった。私は、祥ちゃんを神にします。もちろん、比喩的な表現です。だけど、私が選ばれた可能性があるなら、その未来で生きたい」
「やめなさい」
「やめられません。私は、もう戻れない。もう未来は知りました」
謎の少女は、両手を広げた。
「私が幸せになる未来を知った。ならそれを求めても良いと、そう思います」
祥子の笑い声が、遠くで響く。でも、もうすぐ、それは消える。
CRYCHICの再結成は「保留」になった。
「CRYCHICの再決戦は少し時間を置きましょう」
そよは困惑し、祥子は俯いた。誰の記憶にも、もう「暁美ほむら」という少女はいない。
世界が、書き換えられていく。ほむらは、歯を食いしばった。
「……私が、それを認めないわ」
少女が、首を傾げた。
「どうしてですか? 私たちは同じですよね。大切な人の為にすべてを犠牲にして、その人を神にした」
「違う」
ほむらは、一歩踏み出した。
「私は、彼女を神にしたことを、後悔してる」
少女の目が、わずかに揺れた。
「私は、彼女に人間でいてほしいって、そう願ってる」
盾が開く。時間操作の魔法が、紫の光となって渦巻く。
「だから、あなたのその未来は」
ほむらは、悪魔の姿を露わにした。背中に黒い翼が広がり、瞳が紅く燃える。
「私は認めない」
二人の少女が、同時に動いた。薔薇が散り、庭園が歪み、世界が悲鳴を上げる。
祥子とそよは、何も知らずに、ただ立ち尽くす。その背後で、謎の少女が祥子を神にしようとしている。それを止めるために、ほむらは、自分の「可能性」を、すべて焼き払う覚悟で、立ち向かった。
これは、悪魔同士の戦争だった。
誰にも見えない、誰にも知られない、永遠に続くかもしれない戦い。
「私は、もう二度と、誰かを神になんかしない」
ほむらの声が、庭園の空に響いた。
「だから、消えなさい」
紫と黒の光が爆ぜた。世界が、一瞬、白く染まった。そのとき、祥子はふと顔を上げた。
「……今、誰か、呼んだ気が」
そよが首を傾げる。
「え? 誰にもいないよ?」
祥子は、もう一度辺りを見回した。でも、もう誰もいない。ただ、薔薇の花びらが、一枚、風に乗って舞い降りてきた。それが、紫色だったこと。
祥子は、なぜか胸が締めつけられるような気がして、そっと涙が出そうになった。でも、理由はわからない。
ただ、誰かに、守られたような気がした。それだけだった。
庭園の奥、薔薇の迷路は、静かに元に戻っていく。戦いの痕跡は、どこにも残っていない。
ただ、風が、少しだけ、冷たくなった。まるで、誰かが去っていったような、そんな気がした。