悪魔ほむらと豊川祥子   作:あばなたらたやた

7 / 7
7話 謎の少女

 

 悪魔の優しさ豊川家の本邸、夜の応接間。重厚なシャンデリアの光が、床に敷かれたペルシャ絨毯を静かに照らしている。

 

 窓の外では冬の風が木々を鳴らし、ガラスを細かく震わせていた。

 

 豊川祥子は、久しぶりに着慣れたドレスを身に纏い、ソファに腰を下ろしていた。

 

 白いレースの手袋をはめた指が、小さく震えている。それでも表情は落ち着いている──嵐の後の湖面のように。

 

 向かいに座る長崎そよは、緊張した面持ちで書類の束を抱えていた。隣には、黒髪を背中に流した少女──暁美ほむらが、静かに紅茶を啜っている。

 

「これで全部、終わりましたわね」

 

 祥子が呟く。声は低く、しかし確かに安堵に満ちていた。父親の生活を保障する手続き、そして自分の豊川家本邸への帰還許可。

 

 すべてが、今日一日で片付いた。中学生の少女一人では、到底背負いきれなかった重しが、システムという名の歯車に乗せられた瞬間だった。

 

 そよが、ぽつりと漏らす。

 

「……ごめんね、祥ちゃん。私、CRYCHICのときうまくできなくて」

 

 祥子は首を振った。

 

「いいえ。私の方こそ、皆を傷つけましたわ。あのときの私は……自分のことしか見えていませんでしたから」

 

 ほむらが、カップをソーサーに戻す音が、静かに響く。

 

「人間は、視野が狭くなるときがある。それが苦しみの始まりよ」

 

 祥子の瞳が、ほむらに向けられる。

 

「ありがとうございます。助かりましたわ。お姉様には色々とお世話になりましたわね」

 

 義理とはいえ、姉と呼ぶべき存在。血は繋がっていなくても、今日この瞬間、祥子は確かにそう思っていた。ほむらは小さく笑った。どこか自嘲めいた、儚い笑み。

 

「良いのよ、別に。義理の姉とはいえ、貴方が不幸になる姿は見たくないわ」

 

 祥子が、ふっと息を吐く。

 

「お姉様は流石ですわね。視野が広いですわ」

 

 ほむらは、長い黒髪を指で梳きながら、遠くを見るような目をした。

 

「……視野が広くなるのに、かなり時間がかかったわ」

 

 それは、誰にも語ったことのない言葉だった。どれだけの時間を遡り、どれだけの絶望を繰り返したか。

 

 大切な人が生き残る世界を、ただ一つでも多く残すために。そして最後、彼女は神となった。優しさゆえに、神となった。けれど神である彼女は、なお人間の心を失わなかった。悲しみも、恐怖も、痛みも、すべてを抱えたまま。

 

 だからこそ、ほむらはその座を奪った。神の力を、悪魔の手で。──これ以上、誰にも、あの子を苦しませないために。

 

 今、目の前にいる豊川祥子という少女は、かつての自分の大切な人にあまりにも似ていた。神に至る可能性を秘めながら、それでも人間として生きようと足掻く、愚かで、愛おしい存在。

 

 だから救った。システムを使え。歯車に乗れ。一人で抱え込むな。それが、悪魔が学んだ、唯一の優しさだった。

 

 ほむらは、静かに立ち上がる。

 

「もう遅いわ。そよ、そろそろ帰ることね。私が家まで送るわ」

 

 祥子が立ち上がり、深く頭を下げた。

 

「本当に……ありがとうございました。お姉様」

 

 ほむらは、振り返らない。背中越しに、ただ一言。

 

「人間でいなさい、祥子。それが、一番の幸せだから」

 

 扉が閉まる音がした。残された祥子は、初めて、涙麗な本邸の中で、ぽろぽろと涙を零した。

 

 それは、救われた者の、素直な涙だった。窓の外、月が雲間に顔を出す。悪魔は、空を見上げて呟いた。

 

「……これで、いい」

 

 長い黒髪が、夜風に揺れた。

 翌日、午後の陽射しが豊川家の庭園を金色に染めていた。薔薇のアーチの下で、祥子とそよは並んで歩いている。

 

 制服のスカートが風に揺れ、笑い声が軽やかに響く。

 

「CRYCHIC、復活できるでしょうか」

 

 祥子が、少しだけ不安そうに尋ねる。

 

「できるよ〜! 燈ちゃんも、立希ちゃんも、睦ちゃんもみんな待っているから」

 

 そよは両手を背中で組んで、くるりと回った。

 

「事情をちゃんと説明して、頭を下げれば……きっと許してくれる。そう信じるしかありませんわね」

「うん、うん! 祥ちゃんが戻ってくるの、みんな嬉しいはずだよ」

 

 二人の影が、重なり、離れ、また重なる。その様子を、屋根の上から、暁美ほむらは静かに見下ろしていた。長い黒髪が風に靡く。

 

 紫の瞳は、感情を殺して、ただ眺めている。

 

(私の役目は終わったわね)

 

 心の中で呟く。

 

(もう関わる必要はない。あとは、彼女たちの物語)

 

 悪魔は人の営みに関わるべきではない。それが、彼女が自らに課した掟だった。世界の終わりまで、魔法少女たちが絶望に呑まれて魔女になる瞬間を回収し、魂を回収して、魔女化を防ぐ。

 

 それだけが、悪魔の仕事。

 人間の喜びも、涙も、希望も、すべては遠い。触れてはならない。だから、痕跡を消す。

 

 この世界に存在したこと、関わったこと、すべてを。ほむらは指を軽く振った。紫の光が、かすかに空気を歪ませる。

 

 記憶の糸が、そっとほどけていく。祥子もそよも、もう「お姉様」と呼んだ少女のことを、ほんの少しの記憶すら残さないように。

 

 それでいい。それが正しい。そう思った瞬間だった。背筋に、冷たいものが走った。

 

(……何か、いる)

 

 ほむらは振り返った。庭園の向こう、薔薇の迷路の奥。影が、揺れた。人の形ではない。魔女の結界の残滓とも違う。もっと古く、もっと深い。

 

「…………」

 

 ほむらの瞳が、鋭く細まる。悪魔の直感が、警鐘を鳴らす。これは、彼女の知る「世界の理」の外側から来たものだ。誰かが、干渉した。いや、干渉しようとしている。祥子を。いや、祥子の中に眠る「可能性」を。

 

 ほむらは、屋根から音もなく降り立つ。足音を殺し、薔薇の茂みへと滑り込む。背後で、祥子とそよの笑い声が、まだ遠く聞こえている。

 

(まだ、終わっていなかったのね)

 

 悪魔は、静かに唇を歪めた。優しい笑みではない。狩るものの、笑みだった。

 

「誰かが、私の大切なものを、また傷つけようというのなら、そのときは」

 

 悪魔は、闇に溶けるように歩き出す。長い黒髪が、風に翻る。薔薇の棘が、紫のドレスをわずかに裂いた。一筋の血が滴る。痛みなど、もう感じない。

 

 ただ、「許さない」小さな、呟きだけが、庭園の奥に消えていった。

 庭園の奥、薔薇の迷路の中心。そこに、黒い水溜まりのようなものが浮かんでいた。地面に触れていない。世界の裏側から滲み出た染みのように、宙に漂っている。

 ほむらは立ち止まった。

 

「……やっぱり、いた」

 

 水溜まりの中から、声がした。甘く、ねっとりと、耳の奥に絡みつくような女の声。

 

 

『認めない、そんな結末は認めない』

 

 水面が波紋を描く。

 

『こんな未来は、私が閉ざす』

 

 ほむらの瞳が、凍りついた。この声は知っている。いや、知っているはずがない。でも、胸の奥が、痛いほど疼く。

 

『絆の未来を削って檻を編もう。

 記憶と過去に偽りの鍵を閉めよう。

 輝く光を罪の鎖で撃ち貶し、穢れた両手で抱きしめよう。

 私だけの神話であるように』

 

 水溜まりが割れ、中から手が伸びてきた。白く、細く、まるで人形のような手。指先が、祥子のほうへ、祥子とそよが笑い合っている方角へ、ゆっくりと伸びていく。

 ほむらは、盾を構えた。

 

「やめなさい」

 

 声は低く、静かだった。しかし、悪魔の声だった。手が止まる。水溜まりの中から、今度は顔が覗いた。

 

 セミロングの金色の髪。

 綺麗な顔。

 アイドルような美しさ。でも、違う。目が違う。狂気に濡れている。

 

「……あなたは」

 

 ほむらは、息を呑んだ。

 まず感じたのは自分の成れの果てのような感覚。いや、もっと先。もっと壊れた先の、自分の鏡のような。

 彼女は、微笑んだ。

 

「はじめまして、悪魔さん」

「貴方は?」

「私は……いや、名乗りません。ごめんなさい。でも、きっと、何度も会うことになります」

 

 ゆっくりと水溜まりから這い出してくる。足元が、地面に触れない。

 

「あなたは悪魔になった。私は、祥ちゃんを神にします。もちろん、比喩的な表現です。だけど、私が選ばれた可能性があるなら、その未来で生きたい」

「やめなさい」

「やめられません。私は、もう戻れない。もう未来は知りました」

 

 謎の少女は、両手を広げた。

 

「私が幸せになる未来を知った。ならそれを求めても良いと、そう思います」

 

 祥子の笑い声が、遠くで響く。でも、もうすぐ、それは消える。

 

 CRYCHICの再結成は「保留」になった。

 

「CRYCHICの再決戦は少し時間を置きましょう」

 

 そよは困惑し、祥子は俯いた。誰の記憶にも、もう「暁美ほむら」という少女はいない。

 世界が、書き換えられていく。ほむらは、歯を食いしばった。

 

「……私が、それを認めないわ」

 

 少女が、首を傾げた。

 

「どうしてですか? 私たちは同じですよね。大切な人の為にすべてを犠牲にして、その人を神にした」

「違う」

 

 ほむらは、一歩踏み出した。

 

「私は、彼女を神にしたことを、後悔してる」

 

 少女の目が、わずかに揺れた。

 

「私は、彼女に人間でいてほしいって、そう願ってる」

 

 盾が開く。時間操作の魔法が、紫の光となって渦巻く。

 

「だから、あなたのその未来は」

 

 ほむらは、悪魔の姿を露わにした。背中に黒い翼が広がり、瞳が紅く燃える。

 

「私は認めない」

 

 二人の少女が、同時に動いた。薔薇が散り、庭園が歪み、世界が悲鳴を上げる。

 祥子とそよは、何も知らずに、ただ立ち尽くす。その背後で、謎の少女が祥子を神にしようとしている。それを止めるために、ほむらは、自分の「可能性」を、すべて焼き払う覚悟で、立ち向かった。

 

 これは、悪魔同士の戦争だった。

 誰にも見えない、誰にも知られない、永遠に続くかもしれない戦い。

 

「私は、もう二度と、誰かを神になんかしない」

 

 ほむらの声が、庭園の空に響いた。

 

「だから、消えなさい」

 

 紫と黒の光が爆ぜた。世界が、一瞬、白く染まった。そのとき、祥子はふと顔を上げた。

 

「……今、誰か、呼んだ気が」

 

そよが首を傾げる。

 

「え? 誰にもいないよ?」

 

 祥子は、もう一度辺りを見回した。でも、もう誰もいない。ただ、薔薇の花びらが、一枚、風に乗って舞い降りてきた。それが、紫色だったこと。

 

 祥子は、なぜか胸が締めつけられるような気がして、そっと涙が出そうになった。でも、理由はわからない。

 

 ただ、誰かに、守られたような気がした。それだけだった。

 

 庭園の奥、薔薇の迷路は、静かに元に戻っていく。戦いの痕跡は、どこにも残っていない。

 

 ただ、風が、少しだけ、冷たくなった。まるで、誰かが去っていったような、そんな気がした。

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。