運の悪い俺は、今日も湾岸の地下へ降りていく 作:シドロンモドロン
白い天井は、どこまで見上げても白いままだった。
直耶はしばらく瞬きを繰り返してから、ようやく自分が回廊の外にいるのだと思考が回ってくる。
横になったまま深く吸って、吐く。
――――生き延びた。
肺の底が少しだけ痛む。
胸のあたりに鈍い重みがあって、息を深くすると咳が出そうだった。
右足が特にひどい。
動かそうとすると膝から下が丸ごと借りてきたように重く
揺らすと骨の内側から熱が走る。
固定具で固められているのか、感触が布越しに伝わってきた。
顔を横に向けると消えたテレビ画面に映る自分が見えた。
上体を少しだけ起こし、体を確認した。
頬の擦り傷。
指の関節の切れ。
肩に青い痣。背中も同じように痛む。
大きな怪我は足だけ。
――助かったのは、防具のおかげか。
受け止めてくれた。反らしてくれた。壊れないでいてくれた。
体のあちこちが痛むが、この程度で済んだのは幸いだ。
直耶が天井を見たまま思考にふけっていると、カーテンの向こうで足音が響く。
カラカラと小さな車輪の音も一緒だ。
カーテンが引かれると、看護師がひょこっと顔を出した。
マスクを付けていて年齢はよく分からないが、目元が優しそうだ。
落ち着いた声が語り掛けてきた。
「目が覚めましたか。分かります?
ここ、病院です。お名前、言えますか」
直耶は舌を動かし、喉を鳴らした。
「……さかい。さかい、なおや……」
「はい、ありがとうございます。昨日の夜に運ばれてきて、それから丸一日。
ほとんど起きませんでした。疲労が強いです。今は点滴をしていますからね」
丸一日。
そんなに経っていたのか。
「ほかの人は……」
「同じチームの方なら何人かこちらのフロアです。
面会は医師の許可が出てからになります」
看護師は手早くモニターを確認し、直耶の瞳孔をライトで照らした。
「痛みはありますか?」
「あしが…ちょっと……」
「痛み止め、調整しますね。あと、今は無理に起き上がらないでください。
体のあちこち、細かく傷や打ち身がありますから」
頷こうとして、頭の重さに負けてそのまま横になる。
意識は戻っているのに、体が置いていかれている感じだ。
看護師がカーテンを閉めかけたとき、直耶は小さく声を出した。
「……吉永、さん…が…」
看護師の手が、ほんの一瞬止まった。
表情は読めない。だが、答え方に迷った空白だけが直耶の胸に冷たい針を落とす。
「その件は医師と隊の方から説明があると思います。
今は、まず体を休めましょう」
カーテンが閉じる。
天井が白い。
白すぎて、目を開けていられなかった。
――光。
最後に見たのは、光だった。
エレベーターの鉄の扉が、隙間から白く滲んだとき。
あの瞬間、自分はどうなっていたのだろうか。
起きろと話しかけられた気がする。
担がれたような気もする。
いまいち記憶がはっきりしない。
手のひらが、妙に熱い。
いまは素手で、点滴のテープが手首に巻かれている右手。
回廊の最後、グローブの内側で何か硬いものが当たっていた感触だけが、遅れて蘇る。
硬いもの。
冷たい石みたいな――
そこまで考えて、直耶は自分の思考が勝手に逸れていくのを感じた。
痛みのせいでも、眠気のせいでもない。
焦点が合いかけたところで、別の話題に押し流される感じがする。
「……おかしい」
声にすると、余計に自分が変な人間に思えた。
直耶は黙って、唇を噛んだ。
しばらくして今度は医師が来た。
若い男で、カルテを見ながら流れるように説明をはじめる。
「右足の捻挫と、靱帯の損傷があります。
骨折は免れていますが、しばらく固定が必要です。
体の表面の傷は軽度。打撲が多いですね。防護装備が効いてます」
防護装備。
直耶はその言葉に、薄い笑いが出そうになった。
重くて鬱陶しくて、文句しか出なかった装備が今は命綱だ。
「あと、睡眠が必要です。疲労が強い。
ここで無理をすると回復が遅れます」
医師は言い切った。
「申し出があり許可を出したので、隊の方があとで来ます。
……境さん、記憶は大丈夫ですか。何があったか、順番に思い出せますか」
順番。
「……途中で……はぐれました」
「誰と」
「大熊さんたち……B班……」
医師は頷き、メモを取った。
「分かりました。こちらの記録とも合っています。
とりあえずそこまでで結構です。詳細は後ほど。
ここは病院です。安全です。今は休んでください」
安全。
その言葉だけが直耶の中で妙に浮いた。
安全で、病院で、白い天井で。
なのに、胸の奥がずっとざわざわしている。
医師は足早に去っていく。
隣の病室へ行ったようだ。自分と同じような人が他にもいるのか。
そういえば廊下が騒がしい。
またカーテンが開いた。
今度は自分の会社の腕章がついている制服の男だった。
その後ろに、見覚えのある顔がいた。
森山だ。
地上側で指揮を執る、第三探索チームの隊長。
森山は直耶の顔を見て、眉間の皺を少しだけほどいた。
「目が覚めたか。よかった」
直耶は起き上がろうとして、足の痛みに息を詰めた。
森山が手のひらを上げて制した。
「動くな。まだ固定中だ。
……よく帰ってきた。はぐれてから、こっちはかなり肝が冷えた」
森山は責任を背負う側の人間だ。
言葉は労いの形なのに、声の奥に硬さがある。
「大熊たちは……」
「全員、生きてる。軽傷が多い。日向は……少し重い」
日向。
あの明るい声が、直耶の耳の奥で反響した。
「吉永さんは」
森山は一拍置いた。
置いた拍子が、直耶の胸の奥を殴った。
「吉永は、死んだ」
直耶は喉の奥が鳴るのを感じた。
声にならない音だ。飲み込むこともできない。
森山は視線を外さずに続けた。
「現場での判断は間違っていない。……少なくとも、今の情報ではな。
だが、俺の指揮の責任は俺が負う。隊の処理は進める。
家族への連絡も、会社がやる」
家族。
直耶の頭に、父の顔がよぎった。母の病室の白。妹の机。
そういえば最近連絡が減っている。元気だろうか。
森山の次の言葉は妙に現実的だった。
「まず、お前らが生きてることが先だ。切り替える。いいな」
切り替える。
直耶は、頷くことしかできなかった。
森山の後ろの制服の男が咳払いをした。
「境さん。回収物の申告について確認が必要です。
医師の許可が出た範囲で、簡単に確認いたします」
回収物。
直耶の手のひらが、じわりと汗ばんだ。
森山が男を睨む。
「今はその話じゃない。後にしてもらえませんか」
「そうですか。すみません」
愛想よく男は引き下がったが、目は笑っていないように見える。
直耶は喉の奥が乾くのを感じた。
あまり好きなタイプではない。
それよりも――石。
硬いもの。
自分は最後、何を握っていた。
直耶の視線が無意識に右手へ落ちる。
点滴のテープが巻かれ、手首が少し腫れている。
手のひらは見えない。
見えないのに、熱だけが残っている気がした。
森山は短く息を吐き、直耶に顔を戻す。
「榊が、お前のことを心配してた。……落ち着いたら、顔を出すはずだ」
榊。
あの冷静な声。現場でも号令を飛ばしていた声。
直耶はその名前で、ようやく自分が帰ってきたのだと実感した。
「……会えますか」
「医務が許せばな。俺も長居はできない。上が騒がしい」
「……上?」
森山の表情が、ほんの少しだけ苦く歪んだ。
「日向の件だ。回廊で起きた現象について、俺を飛ばして会社の上役が直接聞き取りを始めた。
正式なテストもやると言ってる」
「日向さんに何かあったんですか?」
「ああ。隠しても無駄だからな。日向が魔法らしき現象を発現した」
「…は?」
「まぁ、そうなるよな。わかるよ。だが事実だ。
手から火が出た。そうとしか見えない。
上はもう魔法で押し通す気だ」
森山は続ける。
「いいか境。余計なことは考えるな。今は回復しろ。……俺は、現場を守る」
森山はそう言って、カーテンの向こうへ出ていった。
制服の男は名刺だけ置いていった。
名刺の文字は読めたが、頭に残らない。
他に気になることがある。
直耶は枕に頭を沈めた。
天井が白い。
しばらくしてまた、廊下が騒がしくなった。
足音が増え、誰かが笑っている。
カーテンが引かれた。
大熊が立っていた。大きな肩が、病室の空気を狭くする。
「……生きてたか」
大熊の声はいつも通り低い。
直耶はその声だけで、胸の奥の緊張が一段落ちた。
「はい……」
大熊の後ろから、高梨がひょいと顔を出した。
目の下に青い隈があるのに、口元だけが笑っている。
「よかった。ほーんと、よかったわ。
お前さ、最後まで運の悪さキープしてんの、逆に才能だろ」
直耶は笑うべきか迷って、喉が引き攣る。
高梨は気にせず、カーテンの隙間から手を振った。
「日向は今、別室だ。榊さんと三宅がいる。境、丸一日寝てたんだぞ」
「…らしいな。よく寝たよ」
直耶は大熊を見た。大熊の前腕に、包帯が巻かれている。盾を持つ腕だ。
「……回廊で……」
直耶が言いかけると、大熊は首を振った。
「中の話は、まだ整理できてない。あれからお前がどこでどうなったかも、実は知らん」
それはそうだ。
はぐれたのだから、分かるはずがない。
高梨が軽い調子で続ける。
「こっちはこっちで、めちゃくちゃだった。
古参だった吉永さんとお前がはぐれてからは、代理で榊さんが回したんだ。
三宅が数値見て、日向っちが……まあ、頑張りすぎた」
頑張りすぎた。
直耶はその言い方が、妙に引っかかった。
誰かが死んで、誰かが壊れかけているのに、言葉だけが軽く感じる。
たまらず尋ねた。
「日向の、魔法ってなんだ?何が起きたんだ?」
「わっかんねぇ。ブチ切れて手から炎が飛び出たって感じ。
俺も燃えるかと思ったわ」
笑いながら高梨が軽く応えた。
「俺も魔法仕えるようになりてぇよ。あとさ、聞いた? あれ。石」
直耶の心臓が跳ねた。
「石……?」
高梨は頷き、声を少し落とした。
病室での秘密話の距離だ。
「塵になったやつの足元にさ、たまに残る。光るやつがあるんだ。
榊さんが拾ってさ。実物見たけど、うっすら光ってるのな」
大熊が続ける。
「エネルギー結晶。正式名称はそう決まったと聞いた。
会社に全て回収されるらしい。契約でその後スポンサー買い取り。後で説明があるはずだ」
高梨が肩を竦めた。
「でかいのほど高いんだってさ。夢あるよな。……いや、夢って言うと変か。
吉永さんの分も、家族に渡すってさ。会社がそういうの、ちゃんとしてるってよ」
ちゃんとしてる。
死が、処理になっていく。
直耶は目を閉じた。
まぶたの裏に、回廊の暗さが浮かぶ。二足歩行の犬頭。牙。白い光。
そして、手のひらの熱。
「境」
大熊の声で、直耶は目を開けた。
「無理すんな。今は休め。……戻ったら、また話そう」
大熊はそれだけ言うと、踵を返した。
高梨は最後にもう一度、直耶の顔を見て笑った。
「お前、帰ってきたんだからさ。今日はそれで勝ちだろ」
勝ち。
だが同時に、直耶はその言葉に救われたのも事実だった。
生きている。今はそれだけでいい。
二人が出ていったあと、病室はまた静かになった。
直耶は、右手を少しだけ動かした。手のひらに残る熱を確かめるみたいに。
硬いものは、ない。
ただ、ベッド脇の棚に、透明なビニール袋が置かれているのが見えた。
患者私物。そう書かれた紙が結ばれている。
中には汚れた衣類の束と、グローブだけが押し込められていた。
その他装備は整備担当が引き取ったと誰かが言っていた気がする。
それでも、この布切れに助けられたと思うと
信心深いわけでもないのに拝みたい気分になった。
直耶は、あの硬い感触が、グローブの中に残っている気がしてならなかった。
思い出そうとすると、また思考がふっと逸れる。
別に重要じゃない、とでも言うみたいに。
代わりに頭の中に浮かぶのは、森山の「上が騒がしい」という言葉。
現象。テスト。
魔法。
直耶は、病室の隅のテレビに目をやった。
音量は絞られていたが、字幕だけが流れている。
バラエティ番組の切り替えの間に、ニュースのテロップが挟まった。
湾岸。
回廊。
帰還者。
未知の現象。
言葉だけが、踊っていく。
怪我や死の話題は、ほんの数秒で流れた。
次の瞬間にはスタジオの人間が笑顔で何かを褒めている。
勇気。
希望。
未来。
エネルギー。
画面の中の熱が、病室に漏れてくる。
直耶は胸の奥が冷たくなるのを感じた。
テレビの世界との温度差を感じてならない。
それが正しいのか、間違っているのか。
直耶には判断できない。
ただ、判断が追いつく前に、周囲の温度だけが上がっていくようだった。
看護師が薬を持って戻ってきた。
「痛み止め、入れますね。眠くなるかもしれません」
直耶は頷いた。
薬が点滴に混ざり、意識が少しずつ溶けていく。
看護師が去り、病室が完全に静かになった。
息を整えてから、ビニール袋に手を伸ばした。
袋の口が、かさりと鳴る。
中のグローブを引っ張り出すと、砂の匂いが微かに立った。
指先で揉む。
乾いた布の奥で、何かが――転がった。
直耶は息を止めた。
グローブをそっと裏返す。
小さな硬い粒が、掌へ落ちた。
光、とまでは言えない。
だが、白い天井の下でそれは確かに普通の石とは違う温度を持っていた。
これを提出するのか。
直耶はなにげなく、それを握り込んだ。
掌の中心が、じわりと熱くなる。
熱が皮膚の下へ沈んでいくような感覚。
硬さが、少しずつほどける。
直耶は慌てて掌を開こうとした。
だが指が、言うことをきかない。
眠気と、熱と、何か別のものが指先を鈍らせる。
――消えた?
気づいたとき、掌には何もなかった。
代わりに、皮膚の中心に爪で強く押したような赤みだけが残っている。
直耶はその痕を見つめた。
声が出ない。喉が鳴らない。
――溶けた?
疑問は、形にならないまま胸の奥へ沈んだ。
眠りに落ちる瞬間、右足の痛みが、ほんの少しだけ軽い気がした。
錯覚かもしれない。薬のせいかもしれない。
だが直耶の中のどこかが、違う、と言っていた。
違う。
何かが、変わった。
それを喜ぶべきなのか、恐れるべきなのか。
まだ決められないでいた。
白い天井が遠ざかる。
病室の外では誰かが笑っていた。
祭りのような熱が廊下を流れていく。
直耶はその熱から一歩だけ遅れて、暗い場所に立ち尽くす感覚のまま、眠りに沈んだ。