運の悪い俺は、今日も湾岸の地下へ降りていく 作:シドロンモドロン
給料明細は、やけに普通の茶封筒に入っていた。
寮の二段ベッドの下段に座って直耶は中身を1枚ずつ広げていく。
基本給、訓練手当、危険準備手当。引かれる税金と保険。
最後に、手取りの数字。
「……マジか」
思わず声に出た。
初めての給料は2週間分。それほど期待はしていなかった。
なのに、コンビニや倉庫で働いていた頃の1ヶ月分より、多い。
もちろん、「これで全部解決」と胸を張れる額じゃない。
でも、「どうやっても詰む」って数字からは、1歩だけ離れている。
(寮だから家賃は当面ゼロ。奨学金は最低額で回すとして……
母さんの病院にいくら送れるか)
頭の中で、数字を並べる。
完全には足りない。
けれど、「計算する意味がある」レベルには届いていた。
「お、査定タイム?」
上段から、高梨が顔をひょいっと覗かせる。
明細を片手でひらひらさせながら、ニヤニヤしていた。
「どうよ、命の危険付きコンビニバイトの給料は」
「コンビニよりはだいぶマシ。命の危険分、って感じかな」
「俺は血の匂い付き月収って呼んでる」
高梨はそう言って笑う。
「でもまあ、寮と飯込みでこれなら、地上のブラックよりマシだろ」
「ホワイトの基準がだいぶ狂ってるんだよな……」
口ではそう言いつつ、直耶は明細の裏にざっとメモを書き込んだ。
送金予定額、奨学金、手元に残す分。
(今月は、とりあえず振り込む側には立てる)
それだけで、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
*
「はい走り込み終わりー! 息上がってるやつはストレッチしながら聞けー!」
グラウンドの砂も、教官の声も、肺の軋みも、もう「未知の地獄」ではない。
入所から数週間。
境 直耶の身体は、とりあえず朝のメニューに「慣れる」ところまでは来ていた。
「……あれ、山岸いないな」
軽くストレッチをしながら、直耶は列の隙間を見回す。
「山岸? ああ、あいつ帰ったよ」
隣でふくらはぎを伸ばしていた高梨が、あっさり言った。
「思ってたのと違いましたって。
浅層の実地のあと、佐伯先生んとこで話して、そのまま正式辞退」
「……そうか」
初日の自己紹介で「人生逆転」と何度も口にしていた顔が浮かぶ。
一番「やる気あります」って言ってたやつほど、先にいなくなる。
「根性より相性ってやつだろ」
「……そうだな」
返事をしたところで、教官の声が飛ぶ。
「走り込み組はこのあとブリーフィング! 浅層Cブロック、定期巡回だ!」
ざわ、と空気が動いた。
「お、また穴ん中ツアーか」
「見学じゃなくて仕事ってやつね」
誰かの軽口に、別の誰かの乾いた笑いが上乗せされる。
高梨が、タオルで汗を拭きながら直耶の肩を小突いた。
「ほらほら境、今日もやや命がけだぞ」
「お前、ややの範囲がバグってるぞ」
そう言い合いながら、建物の中へ向かった。
*
ブリーフィング室は、いつもの座学教室より少し狭い。
前にはモニターと簡単な立体マップ。
壁際には、先に終わった班が座ってメモを取っていた。
「浅層Cブロック、定期巡回の説明を始める」
前に立った係官が、レーザーポインターで画面を指す。
「今日の目的は3つ」
指し示された先に、箇条書きが浮かぶ。
「1つ。前回設置した簡易ビーコンのログ確認と、一部回収
2つ。通路の変化と崩落箇所のチェック。
昨日まで安全だった場所が、今日も安全とは限らない」
3つ。マーカーの確認。
消えている・塗り潰されている・何かでいじられている場所があれば報告」
後ろの席から、小さくざわめきが上がった。
「いじられている?」
「落書きでもされんの?」
係官はそれを聞こえないふりで続ける。
「敵性生物との交戦は、目的ではない。
遭遇した場合は、現場隊員の判断に従え。——以上。
各班の担当者は……第三探索チーム、森山」
名前が呼ばれた瞬間、直耶は肩の力が半分抜けて、半分緊張した。
「またあの人か」
「またって言うなって。まだ面倒見てもらえてるんだからさ」
高梨のツッコミともフォローともつかない一言に、直耶は苦笑する。
*
装備庫は、相変わらず金属と油と洗浄液の匂いで満たされていた。
並べられたシールド、ヘルメット、ベスト。
壁際には折りたたみ式の簡易槍や、ナンバーの振られたポーチ。
「よー、今日も元気に穴ん中ツアー」
奥の扉から、森山が片手ポケットのまま入ってきた。
首からぶら下げたカードには「第三探索チーム 森山」。
軽装ベストは、研修用のそれよりも少しだけ傷が多い。
「B班、ここな。境、高梨、それと……お前とお前」
名前を順に読み上げ、4人を前に集める。
「今日の仕事。
入口寄りのビーコン2基のログを吸い上げて、1基は回収。
浅層Cの見学ポイント1号と2号の間で、通路の描き変わりチェック。
ついでに、マーカーが変なことされてたら写真撮る。以上」
「変なことって?」と、高梨が手を挙げる。
「上から変な線を足されてたり、何かの印で塗り潰されてたり。
人間じゃない何かの爪跡っぽいのが入ってることもある」
森山は肩をすくめた。
「回廊そのものがなかったことにしてる場合もあるし、向こう側が消してる場合もある」
「向こう側……?」
「敵側って意味でね。
あいつらもあいつらで、自分らの目印付けたり、こっちの消したりしてるフシがある」
冗談なのか本気なのか分からない口調だった。
「盾は前回と同じく境」
「またですか」
「メンタル丈夫って評価もらってんだから前に出ろ。
心折れてる盾役ほど怖いもんはない」
ヘルメット越しでも、森山がニヤついているのが分かった。
「列は前から森山、境、高梨、もう2人、最後尾に榊」
「はい榊でーす。今日もできるだけ撃たれ役にならない方向でサポートしまーす」
後ろで手を上げた補助員に、軽い笑いが起きる。
「いいか、今日のキーワードは悪戯されてないかどうか。
ビーコンもマーカーも、置いたときのまま残ってるとは限らん。
そのつもりで見ろ」
森山の声だけは、いつもより少し真面目だった。
*
エレベータの揺れにも、直耶の身体はだいぶ慣れてきた。
——ゴウン、ゴウン。
鉄格子越しに下へ流れていくコンクリートの壁。
耳の奥に響く低い音。
ヘルメットライトが箱の中に小さな光の点を作る。
(これが職場への通勤ってやつなんだから、世の中分からないよな)
コンビニのバックヤードでダンボールを運んでいたときには、
こんな感想を抱く日が来るとは思わなかった。
エレベータが止まり、金属の扉が開く。
最初は人間が作った通路。
壁の配管、白い床。
それが切れた先に、回廊の「地形」が口を開けていた。
薄く筋模様の走る壁。
岩ともコンクリートともつかない素材。
ヘルメットライトの輪だけが、そこに輪郭を与えている。
「前にも言ったが、こっから先は毎回ちょっとずつ違うと思っとけ」
森山が、何度目か分からない説明を繰り返す。
「マップはあくまで傾向図。
昨日あった角が今日も同じ角度であるとは限らん」
*
最初のビーコンは、施設側の通路が尽きる少し手前に設置されていた。
壁に取り付けられた小さな箱。
ケーブルが施設側へ伸びている。
「ビーコン1号。境、ライト固定」
「了解です」
直耶が光を当てると、森山が端末を取り出し、ビーコンにコードを繋ぐ。
「ログは……生きてるな。環境値に変な跳ねもなし。
こいつはこのまま置いとく。入口から一番近いしな」
「壊されることもあるんですか?」
後ろから、高梨が小声で聞く。
「ある。潰されることもあるし、
向こうの連中にじゃまそうな箱として扱われることもある」
森山は端末をしまいながら答えた。
「こないだなんて、中身がきれいに抜かれて、外装だけ残ってた。
何に使われたかは知らん。知りたくもない」
「それって……」
「ビーコンのログには、そこだけ妙なノイズが残ってた。
解析班いわく、説明しにくい変化だそうだ。便利な言葉だよな」
隊列に、わずかな寒気が走る。
「歩くぞ。今日の仕事は無事に見て帰るだからな」
*
浅層Cブロックに入ると、通路が少しずつ狭くなっていった。
天井も低くなる。
壁の筋模様が、ライトの光の中で密に重なっている。
「前方、分岐」
森山が足を止めた。
右は緩やかなカーブの通路。
左はまっすぐ奥へ伸びるように見えた——が、ライトでは途中までしか追えない。
「ログだと、ここは右がメイン、左が行き止まり気味だったな」
森山は手元の端末を軽く操作し、昨日の映像を確認する。
「映像見たい奴いるか」
画面には、似たような通路が映っていた。
ただ——
「……あれ?」
高梨が小さく声を上げる。
「映像だと、右の通路、最初まっすぐじゃないですか?」
「そう。10メートルぐらい直線で、そのあとで曲がってる。
——で、今、目の前はどう見える?」
森山に促されて、全員が右の通路を見直す。
ライトの中で、通路は最初からゆるやかに右へ曲がっていた。
「角が削れてる、ってレベルじゃないな。通路ごと描き直された感じだ」
榊が、ひび割れを確かめるように足元を軽く蹴る。
「でも——」
直耶は壁に目を向けた。
「ここの白い線は、ちゃんと残ってる」
「C→のマーカーな」
壁の一角に、白いチョークの矢印があった。
人の手で引かれたその線だけが、
「ここは昨日と同じ場所だ」と主張している。
「回廊が形を変えても、人間の線だけは上から塗りつぶさないってパターンが多い。今のところ」
森山は矢印の下に、今日の日付を書き足した。
「ただし、さっき言った通り例外もある。
マーカーごと飲み込まれたり、上から何かでぐちゃぐちゃにされてたりな」
「……そういうの、見たことあるんですか」
「ある。あんまり寝覚めが良くないタイプだな」
森山はそれ以上は説明しなかった。
「今日は右。ログでは安全帯。——ログではな」
軽く付け足してから、森山は歩き出した。
*
通路の奥は、昨日の映像と「大体同じ」で、「ちゃんと違って」いた。
天井の高さ、曲がり角の位置、広場の大きさ。
全部、「似ているけど一致はしない」。
「ここ、見学ポイント1号。前来たときより、天井ちょっと低くなってるな」
榊がライトを上に向ける。
「壁の模様の流れも、ログと逆向きですね」
「細かいとこよく見てんな、お前」
森山は、壁際に新しい白線を1本引いた。
「境君、足元」
「はい」
床の一部が、他よりわずかに暗く、しっとりしている。
直耶がライトをそこに当てると、細かな亀裂が走っていた。
「ここ、昨日のログだとほぼフラットでした。
今日、ひびが浅いうちに見つかったのはラッキーでしたね」
森山は少しだけ真面目な声になる。
「こういうの、放っとくと誰かが踏んだタイミングで落ちるからな」
「落ちたらどうなるんです?」
高梨が聞く。
「浅層なら、だいたい怪我で済む。中層以降は、落ちたやつのログが途切れる」
冗談なのか本気なのか分からない言い方だった。
*
見学ポイント2号の手前で、榊が小さく声を上げた。
「森山さん、これ」
壁の一角に描かれた白い矢印。
その上から、黒い何かでぐしゃぐしゃに塗り潰された跡があった。
「……あー、またか」
森山が眉をひそめる。
「これ、人間のスプレーじゃないですよね。にじみ方が変」
榊が、指先で少しだけなぞる。
ヘルメットライトに照らされると、その黒はただの汚れではなく、
細かい線が幾重にも重なっているように見えた。
「誰かの文字にも見えないし、絵にも見えない。頭が痛くなるタイプだな」
高梨が、少し顔をしかめる。
「敵のサインか、回廊自身の拒否反応か、その両方か。
どっちにしろ、いい意味には見えん」
森山はポーチから小型カメラを取り出し、塗り潰されたマーカーを何枚か撮影した。
「映るかはわからんが、念のためだ。
こういうのが増えると、だいたいロクなことにならない。
……が、今日は見て帰るだけの日だ。深入りはしない」
「これ、消したりはしないんですか」
「消せるなら苦労してない。
上から人間の線を足しても、そのうちまた書き換えられる」
森山は、塗り潰しの少し横に小さく新しい印を付けた。
「せいぜい、ここで何かあったってログを残すくらいだ」
直耶は、その黒い塗り潰しから目を離しきれなかった。
(……見れば見るほど、形が分からなくなる)
ライトの輪から外した途端、
さっきまでの不快感が、少しだけ和らいだ。
*
見学ポイント2号は、天井が高く開けた空間だった。
壁には、意味の分からない筋模様がさらに濃く走っている。
「ここ、ビーコン2号」
榊が壁際の装置を指さした。
1号より少し小ぶりの箱が、岩肌に食い込むように取り付けられている。
「……おい、位置、ログと違わねえか」
森山が端末に表示された座標を見て、眉をひそめる。
「昨日の記録だと、もう少し右寄りでしたね。数メートルレベルでズレてる」
榊が壁と端末を見比べる。
「ケーブルは生きてる。回廊が動いてるのか、誰かが触ったのか、その両方か」
森山はビーコンを外し、中身を簡単にチェックした。
「外装に細かい傷。……爪か何かでいじられた跡に見えなくもない」
「マジで……」
高梨が小さく呟く。
「ログは後で解析に回す。今日は壊される前に回収できたってことで、運がいい方だ」
森山は新しいビーコンを少し離れた位置に取り付け直した。
「こっちはテスト用。次に来たときに、こいつがどうなってるか、また見に来る」
そのときだった。
「——っと」
直耶が足を滑らせそうになり、反射的に壁に手をついた。
右手の指先が、壁の黒ずんだ一角に触れる。
そこだけ、他と違う質感だった。
冷たい。
岩の冷たさでも、鉄の冷たさでもない。
次の瞬間——
頭の奥が、きゅっと締め付けられた。
「っ……!」
目の前の光が1瞬だけ白く跳ね上がる。
耳の奥で、キーンという音が鳴った気がした。
心臓の鼓動だけが、異様に大きく聞こえる。
(やば——)
膝が折れそうになるのを、なんとかこらえる。
手を離した瞬間、痛みも圧迫感もすっと消えた。
「境?」
高梨の声が近くで聞こえる。
「大丈夫か。今、完全にフラついてたぞ」
「……ちょっと、目眩しただけ」
直耶は、呼吸を整えながら壁を見直した。
さっき触れた部分は、もうただの黒い汚れにしか見えない。
指先にだけ、じんとした痺れが残っていた。
「酸欠か?」
森山が、軽く覗き込んでくる。
「初期の頃はよくある。
無理すんなよ。ここから折り返しだから、きつかったら途中で戻す」
「いけます。歩けます」
「自分の面子優先で言うなら、それはバカだからな。
マジで無理だったら、素直に言え」
釘を刺されて、直耶は「はい」とだけ答えた。
(……さっきの、なんだったんだ)
説明できる言葉が見つからないまま、隊列は折り返しに入った。
*
帰り道は、行きより少しだけ早かった。
通路の曲がり方は、来るときと同じような、同じではないような感じだ。
遠くで、ケモノの低い声が響いた気がしたが
音の位置は別の方らしく近づいては来ない。
「今日は目撃なしで済むパターンか」
森山が、後ろに聞こえるような声量でぼそりと言う。
「こういう日が続くと、逆に怖いけどな」
「やめろよ、そういうフラグみたいなこと」
直耶の言葉に、高梨が即座に突っ込む。
冗談とも本気ともつかないやり取りに少しだけ緊張が緩んだ。
施設側のライトが視界に入ったとき、直耶はようやく肺の奥まで息を吐き出した。
*
簡易ブリーフィング室での報告は、事務的に進んだ。
「浅層Cブロック、定期巡回B班。
ビーコン1号ログ正常、2号は軽い傷と位置ズレあり、回収。
新規ビーコンを別座標に設置。
通路形状、前回ログから軽微な変化数カ所。
マーカー1カ所が何かで塗り潰されていた。写真データ提出済み。
敵性生物との直接接触なし。——以上」
係官がメモを取りながら、短く頷く。
「研修生の体調異常は?」
「道中、境が1瞬フラつき。現在は問題なし。念のため医務室に回す」
「……えっ」
本人の意思に関係なく、予定が増えた。
「よし。じゃあB班は装備返却後解散。
何も起きなかった巡回のログも大事だからな」
森山の締めで、ブリーフィングは終わった。
扉を出ようとしたとき、隣の部屋のドアが開き、別の班が入っていくのが見えた。
「第三探索チームA班」と書かれた札がかかっている。
開け放たれた扉の隙間から、報告の声が漏れ聞こえてきた。
「——浅層Bブロック、探索A班。敵性生物3体排除。回廊由来物質サンプルA-17を1点回収。
損害、軽傷1名。以上」
「あのサンプル、企業案件だってよ」
「成功報酬、今回どれくらい付くんだろうな」
小声のやり取りに、短い笑いが混じる。
(同じ日に、同じ地下を歩いてても——
こっちは何も持たずに帰ってきたって事か)
直耶は、ほんの1瞬だけ自分たちの空の手元を見下ろした。
(……いや。何も起きないで帰ってこれた時点で、十分収穫か)
そう思い直して、装備庫へ向かう足を速めた。
*
医務室は、いつも通りの白と静けさに満ちていた。
「ふらつき?」
「はい。回廊の壁に手をついたとき、一瞬だけ頭をぎゅっと掴まれたみたいな感じで」
佐伯先生は、カルテをめくりながら淡々と質問を重ねていく。
「今は?」
「特に……。疲れてるくらいです」
「頭痛、吐き気、視界がおかしい感じは?」
「ないです」
ライトで瞳孔を見られ、脈を測られ、簡単な検査が終わる。
「まあ、酸欠寄りの眩暈か、単純な疲労だね。
初期の頃はよくある。深層でこれやると笑えないけど、今日は浅層だし」
カルテにさらさらと文字が書き込まれる。
「今日は早めに寝ること。明日の朝もまだおかしかったら、もう1回来て」
「……はい」
扉を開けかけたところで、佐伯に呼び止められた。
「境くん」
「はい」
「回廊から戻ってきた日は、だいたい何かしら変な感じがするっていうのは、割と普通だからね」
抑揚の薄い声なのに、その一言だけ妙に残る。
「自分だけおかしい、って思い詰めるのは、3ヶ月ぐらい潜ってからにしなさい」
「……悩んでいいラインなんですか、それ」
「その頃でも悩めてるってことは、生きてるってことだからね」
どこまでが冗談でどこまでが本気なのか分からない。
でも、少しだけ肩の力が抜けた。
*
夜。
寮のベッドの上で、直耶はスマホの画面を見つめていた。
母からのメッセージは、いつもより少しだけ長かった。
『今月もありがとう。
検査、ちょっと数値悪かったけど、先生いわく「想定の範囲内」だって。
お父さん、今日もハローワーク行ってたよ。
帰ってからまた回廊のニュース見てた。変な人だねえ。
あの子はテスト前でバタバタしてる。奨学金のパンフ、また増えたよ。
あんたも体に気をつけて』
何度か読み返してから、「今月もなんとかやれてる」「こっちも気をつける」といった
当たり障りのない言葉を打ち込む。
送信ボタンを押す。
すぐに「既読」が付いた。
(父さん、また回廊のニュースか……)
リモコンを握りしめてテレビを睨んでいる姿が、なんとなく浮かぶ。
妹がテストと奨学金のことで騒いでいる光景も目に浮かんだ。
(……俺の奨学金は、まだまだ終わらないけど)
画面を伏せて、天井を見上げる。
目を閉じて、母のいる病院を思い浮かべた。
白い廊下。
ベッド。
カーテン。
——その瞬間、胸の奥が、かすかにざわついた。
(……ん?)
妙な感覚が、内側から立ち上がってくる。
今、自分がいる寮から見て、病院がだいたいどっちの方角にあるか
それが、なんとなく分かる。
地図を頭に描いたわけじゃない。
歩いたルートを思い返しているわけでもない。
ただ、あっちの、だいたいこのくらい遠くという形で、ざっくりした位置が掴めてしまった。
(前から、こんなにはっきり分かったか……?)
試しに、訓練センターのグラウンドの朝の光景を思い浮かべてみる。
砂の感触。
教官の怒鳴り声。
汗の匂い。
今度は、別の方向が頭に浮かんだ。
距離も、なんとなく。
(……気持ち悪)
思わず小さく呟いた。
頭が痛いわけでも、目眩がするわけでもない。
ただ、「持っているはずのない方位磁針を、胸の中にひとつ増やされた」みたいな居心地の悪さがあった。
(今日、壁に触ったときのアレと関係あるのか……
それとも、ただ疲れてるだけか)
どちらにしても、今ここで結論を出せる話ではない。
直耶は、意図的にその感覚から目を逸らした。
今日のことを、順番に思い返す。
給料明細。
浅層の巡回。
崩れかけの床を踏まずに済んだこと。
ケモノの声だけで、遭遇せずに済んだこと。
ビーコンが壊される前に回収できたこと。
別の班が、ちゃんとサンプルを持って帰ってきた日だったこと。
どれも、「すごくラッキー」と胸を張って言えるような出来事ではない。
それでも——
(今日は、運が悪い日じゃなかった)
少なくとも、そう断言できる程度には、マシな1日だった。
今、自分がどれぐらい入口付近でしか騒げていないのかは、ちゃんとは分からない。
回廊の奥に何が待っているのかも分からない。
それでも。
(悪くなかった日、くらいの評価はしてもいいか)
そう自分に言い聞かせたところで、
直耶の意識は、浅い眠りへとゆっくり沈んでいった。