運の悪い俺は、今日も湾岸の地下へ降りていく   作:シドロンモドロン

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第43話 使える異常

午前8時28分。

CORRIDOR JAPAN本社、社長室。

 

新屋は湯気の残るコーヒーに手もつけず

机上の端末に目を落としていた。

画面に表示されているのは深夜に上がってきた

お台場入口の一次報告書だ。

 

『お台場入口:別入口間距離短縮事例に関する第一次報告』

 

その一文をしばらく眺める。

距離短縮。

なるほど、と小さく独りごち。

指先で机を小さく叩くと報告書の本文へ視線を移す。

 

『発生場所』

・お台場入口確認班:入口から739歩地点。

・横浜中華街入口確認班:入口から762歩地点。

・両班の同期ロガー記録、映像記録、無線照合により、接触は事実と判断。

 

地上での移動距離を考えれば不可能な接触。

それが回廊内では互いに大した移動はせずに会合している。

 

報告書は続く。

 

『想定される有効活用案』

・救助導線の短縮。

 →複数入口間の距離短縮が安定する場合、負傷者を発見地点から

  最寄りの地上入口へ戻すだけではなく、医療・搬送体制の整った入口へ

  誘導できる可能性あり。

 

・入口間人員支援。

 →各入口を独立運用するのではなく、回廊内接触点を利用して

  人員不足の入口へ別入口班を回すことが可能となる可能性あり。

 

・資材および医療物資輸送。

 →必要医療用品やそれに準ずる物資を、地上輸送より短い時間で移送できる可能性あり。

 

・孤立班救出。

 →片側入口からの撤収が困難となった場合

  別入口側からの接近・回収手段として利用できる可能性あり。

 

・複数入口統合運用。

 →各入口を個別拠点ではなく、湾岸回廊内で接続される拠点網として

  再定義する必要あり。

 

続きを読みながら、飲みやすくなったコーヒーに手を伸ばした。

注意書きにも目を落とす。

 

『未確認事項』

※接触地点の安全性。

※距離短縮現象の再現性。

※継続滞在による心理的影響。

 

『その他報告事項』

※森山班は、現場判断として追加周辺探索を続行困難と申告。

※横浜中華街入口確認班も撤収に同意。

※職員より、当該地点に対する強い忌避感の申告あり。

 

「強い忌避感、ねぇ」

 

机の端に置かれた直耶の追加資料を引き寄せた。

読めば読むほど凡夫の域を出ない。

成績も、経歴も、評価も、抜きん出たものはない。

だが、やはりいくつかの記録だけが妙に引っかかる。

それが彼の方の興味を引いたのか。

 

もう一枚の資料に目を向ける。

日向葵。

日本の魔女。

若く、見栄えもよい。

監視対象とするなら、こちらの方が筋が通りそうなものだが。

 

軽く肩をすくめた。

 

「監視も面倒なものですね」

 

報告書の下部には、本部側の暫定判断が記載されていた。

 

・距離短縮事例は危険性を前提とした上で再調査対象とする。

・次回調査では、追加人員、救助搬送要員、通信補助、医務班待機を要する。

・警察および消防への事前共有要。

・ただし、現段階では外部公開不可。

 

無難な内容に小さく頷く。

特にそれ以上の感想も無い。

背もたれに深く体を預けた。

 

人命。

 

便利な言葉だ。

金や人命。

どちらかを目の前にぶら下げれば、あとは機械のように勝手に進む。

それすら滑稽で、愛おしい。

 

考えを巡らせていると、社長室のドアが控えめにノックされた。

軽く姿勢を正し、招き入れた。

資料を抱えた秘書が入室と同時に報告を始める。

 

「おはようございます。役員への共有ですが、一次報告の件を最初に上げますか」

「ええ。ただし、言葉は慎重に。まだ新輸送ルートなどとは呼ばないように」

「承知しました」

「距離短縮事例としましょうか。ひとまず仮称で構いません。

 利用可能性を示す程度とします。

 ただし、現場の撤収判断を責める空気にはしないでくださいね」

 

秘書の手が一瞬だけ止まった。

 

「森山班の件ですね」

「はい。あの隊長は現場で正しいことをしたと思いますよ」

 

新屋は穏やかに言った。

 

「少なくとも、現場を荒らさずに帰還。しっかり報告書も出た。なら十分です」

「では、再調査の編成は運用部に?」

「運用部、医務、警備、通信、法務も入れてください。

 警察と消防への共有文面も用意を。

 指揮権はありませんが、救急導線に関わる以上は無視できません」

「承知致しました」

 

秘書は手元の端末に素早く入力した。

 

「お台場現場に残した担当からも、補足が入っています」

 

新屋は端末から目を離さなかった。

 

「ええ、読んでいます」

「社長室共有指定のままでよろしいですか」

「構いません」

 

秘書が一拍置いた。

 

「現場側に伝える必要はありますか?」

「必要ありません」

 

新屋は淡々と言った。

 

「監視役と思われると、見えるものも見えなくなりますから」

 

秘書の指が止まる。

 

「では、表向きは現場調整員のまま」

「そう言いました」

「し、失礼いたしました」

 

新屋は画面を見たまま呟く。

 

「誰でもよいのです。

 現場の邪魔をせず、報告書に載らないものを拾える人間なら」

「彼を選んだ理由は」

「あまり無能では困りますのでね」

 

新屋は、そこでようやく顔を上げた。

 

「手続きしか見えない者では遅い。

 現場に寄りすぎる者では流される。

 バランスですよ、バランス。

 書類上だけでも使えるかどうかは見えますから」

「承知致しました」

 

秘書は短く答えた。

 

画面の最後にある添付欄を開く。

荒く、短い映像が表示された。

 

ヘルメットライトに照らされた白い粒。

紙地図。

榊と森山。

そして、画面の端で小盾の縁を握りしめている若い隊員。

 

音声のやり取りが小さく流れ、映像の中の青年は

うまく説明できずにいるようだ。

 

そこで映像を止める。

 

「この部分もお願いします」

「役員共有に、ですか」

「ええ」

 

秘書が少しだけ意外そうな顔をするのを

新屋は笑って理由を告げる。

 

「有益な案だけを見せると皆、鼻息が荒くなりますからね。

 指摘したくなる別の理由も置いておきましょう」

「承知しました。

 最後に、ご希望されていた救助者についての動画データが届きました。こちらです。

 暫定ですが、コボルト亜種関連についての証言のようですね」

 

秘書は新屋にデータを渡すと頭を下げ

静かに部屋を後にした。

 

新屋は自身の端末でデータを確認する。

ファイル名には『お台場救助者③:アイザワミノリ』の表記。

 

起動すると、鮮明な動画が流れ始めた。

 

白い壁。

薄いカーテン。

病室のベッド。

 

ベッドの上に座っている少女が映っている。

 

肩に毛布をかけられていた。

その下には病院着を着ているようだ。

両手は毛布の上で、指先だけが時々ぴくりと動く。

 

画面の外から女性の声。

 

『相沢みのりさん。

 覚えているところだけで大丈夫です』

 

みのりと呼ばれた少女は答えない。

目は開いている。

だが、病室のどこでもなく、虚空を見つめているかのようだ。

 

『お兄さんが倒れたあと、何か見えましたか』

 

沈黙が落ちた。

長い。

病室の機械音だけが、細く入る。

 

ふと、みのりの喉が小さく上下した。

 

『……砂』

 

それだけ。

だが、聞き取りの女性は急かさずに返答を待っている。

沈黙がゆっくりと続いている。

 

みのりの視線が、ゆっくり右へ動く。

白い壁。

何もない場所。

そこを見た瞬間、毛布を掴む指に力が入った。

 

『いた』

 

ほとんど息のような声だった。

 

『お兄さんを襲ったものですか』

 

みのりの肩が小さく跳ね、首が横に動いた。

 

『違う』

 

毛布にしわが寄る。

 

『あれじゃない』

 

それきり、また黙った。

視線が揺れるたびに指先が毛布をつまむ。

 

『覚えている形はありますか』

 

みのりの手がゆっくり持ち上がる。

首元を指す。

腕を指す。

頬の横で止まる。

 

『毛』

 

短い言葉だった。

 

『いっぱい』

 

手が落ちる。

毛布の上で、また指が震えた。

 

『立ってた』

 

聞き取りの女性は、何も言わなかった。

 

『人じゃない』

 

みのりの口元が歪む。

泣くのでも、笑うのでもない。

言葉にした瞬間、もう一度それを見てしまった顔だった。

 

『でも、立ってた』

 

そこで、みのりの目が大きく開いた。

焦点が合っていない。

息が浅くなる。

 

『飛んだ』

 

小さな声が落ちた。

 

『小さいの』

 

みのりは目を閉じた。

 

『どんって』

 

肩が震え始める。

 

『壁。砂。兄が、血で』

 

画面の端から医務班らしい手が入った。

聞き取りを止める合図だろう。

 

その時、みのりが目を閉じたまま呟いた。

 

『分かんない』

 

医務班の手が、みのりの肩に触れる。

みのりは毛布を握ったまま、小さく震えていた。

 

最後に、唇だけが動いた。

 

『ごめんなさい』

 

映像はそこまで。

新屋は画面を見据えたまま、黙り込む。

やがて、口元がゆっくりと歪んだ。

 

笑みだった。

 

穏やかなものではない。

片側の頬だけが引きつり、目の奥に熱のない光が浮かんでいる。

 

「……そうですか」

 

声は静かだった。

止まった画面の少女を見たまま、喉の奥で低く嗤った。

短い笑いだった。

それでも、社長室の空気が変わるには十分だった。

 

「回廊は、本当に」

 

その先は声にならず、虚空へ消えた。

 

*

 

この日を待っていたかのようだった。

CORRIDOR JAPANは加速度的に

世界の回廊インフラ企業として台頭していく。

 

あらゆる『法に認められている』手段を使い

まるで津波のように世界を飲み込んでいった。

 

わずか半年。

 

まるで予定調和のように世界を席巻した。

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