運の悪い俺は、今日も湾岸の地下へ降りていく   作:シドロンモドロン

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第二章
第1話 オルマの朝


朝の鐘が鳴る前から市場には活気が溢れている。

焼いた肉の匂いが石畳の上に広がり

薬屋の軒では、所狭しと干されているスライム膜たち。

朝日を受けた膜は薄くキラキラと光り、見慣れていても綺麗だと思う。

 

濡れた皮の匂い。

香草を煮る匂い。

焦げたパンの匂い。

カレナの鼻は朝から忙しい。

 

腰の小袋には干し肉が入っている。

それでよし。

かなりよし。

カレナには十分な朝だ。

 

道具屋の窓に映った姿を見ると

赤茶のスカーフは首元で少し曲がっていた。

生成りのチュニックには昨日の泥が残っている。

コボルト革の胴当ても片側だけ少し浮いていた。

簡単に身なりを直そうとして、内側の店員と目が合って笑われた。

 

まぁ、ここまで整っていれば十分だとカレナは思う。

少なくとも朝の市場を歩くには困らない。

 

「カレナぁ」

 

横からのんびりした声がした。

 

「また口が動いてるよぉ」

 

カレナは干し肉をくわえたまま首だけ向けた。

相棒のネフィラが立っていた。

青灰色の膝丈上着は今日もきちんとしている。

袖口の紐もきれいに結ばれていた。

 

片手には木札。

もう片手には記録板。

肩掛け鞄からは羊皮紙と包帯と小瓶が少しだけ見えていた。

朝から全部が整っている。

 

「歩く前に食べてるだけだよ」

「歩く前に依頼札を読むんだよぉ」

「食べ終わったらちゃんと読むから」

「その返事は少し怪しいねぇ」

 

ネフィラは木札をこちらへ向けた。

組合の文字が並んでいる。

絵は少ない。

字は多い。

 

カレナは干し肉を噛み切った。

 

「絵が少ないかな」

「少しはあるよぉ。ここ」

「これだけだと時間がかかるよ」

「読む気はあるんだねぇ」

「あるよ」

 

カレナは少し胸を張った。

 

「ちょっと読むのが遅いだけ!」

「そこは威張るところじゃないよぉ」

「威張ってないよ。正直に言っただけだよ」

 

ネフィラは困ったように笑いながら、ふとカレナの腰を見る。

つられるようにカレナも見ると、短い刃が

逆向きに収まっていた。

 

「ネフィ、これはまだ直す前」

「市場まで直さずに来たんだねぇ」

「いま気づいたから間に合ったよ」

「気づいたのは私だよぉ」

 

ネフィラは刃の向きを直し、しょうがないとばかりに

革紐もきゅっと締める。

少し強めなのは心配の裏返しだ。

カレナは干し肉の残りをネフィラに差し出した。

 

「食べる?」

「いらないよぉ」

「朝から働いたのに」

「カレナの刃を直すのは朝の仕事に入らないんだぁ」

「じゃあオルマから戻ったら褒めてね」

「戻ったらねぇ」

「ほんとに?」

「戻ったらだよぉ」

 

その言い方は少しだけ本気だったと思う。

カレナは干し肉をしまった。

最後の一口は帰り用に残しておこう。

 

*

 

素材組合の前は人でいっぱいだった。

大きな木の看板には古い組合文字が彫られている。

読める者には依頼と買い取りの場所だと分かる。

読めない子どもでも牙の絵を見ればだいたい分かる。

絵看板も街ではよく見かけた。

素材屋の丁稚は木箱を抱えて外をよろよろと歩いている。

別の見習いの子どもが大人の足の間を抜けようとして、

誰かの尾を踏んで怒られていた。

潜り手たちは看板の前で肩をぶつけて怒鳴り合っていた。

今日はここも賑やかだ。

 

運ばれる箱の中にはゴブリンの牙。

ちょっと覗いてみると、白くて小さい。

欠けたものも混じっている。

うん、あれじゃ買取価格は安いだろう。

 

隣にはコボルト革が積まれていた。

まだ乾ききっていない。

鼻の奥に鉄と獣の匂いが残る。

カレナは少し顔をそらした。

 

少し離れた棚では薬師と鍋職人がにらみ合っていた。

二人の間には厚めのスライム膜がある。

今日の膜はつやがいい。

それはカレナにも分かった。

 

「それは薬に使うんだ。良品なんだから鍋底なんかに使うなよ!」

「いーや使うね!焦げない鍋は俺らの必需品だ!」

「病人が先だ!」

「なら腹が減った病人を俺が救うんだよ!」

 

相変わらず元気な人たちだ。

カレナは棚をぐるりと見回す。

 

「今日の膜、厚いね」

「よく気づくねぇ。でも今は依頼札だよぉ」

「分かってる。薬師が欲しがるやつでしょ」

「そうだねぇ。寄り道は帰ってからだよぉ」

「見るだけなら寄り道じゃないよ」

 

その時。

素材組合の扉が内側から開き、市場の声が

少しだけ小さくなった。

 

オルネッサだ。

 

黒い耳が朝日に縁取られている。

黒い髪は後ろで束ねてあった。

濃い上着の胸元には素材組合の小さな金具。

片手には古い帳面。

 

その帳面は重そうだった。

今年、戻った者の名前も。

戻らなかった者の名前も。

その帳面には記されているのだから。

 

「カレナ」

「はい」

「今日は返事が少しおとなしいね」

「ちゃんと聞くつもりでいるよ」

 

オルネッサの目が少し細くなった。

疑われている。

それは仕方がない。

日頃の積み重ねというものがある。

 

「依頼札は読んだかい」

「読んだよ。全部じゃないけど」

「どこまで読んだんだい?」

「東の浅口。昨日の討伐跡。

 ゴブリンの残り確認。牙と刃物片の回収。

 古い石柱で戻る」

 

ネフィラの耳がぴくりと動いた。

オルネッサも少しだけ黙った。

カレナは小さく息を吐く。

読めないわけではないのだ。

 

「読めるなら最初からそうしな」

「時間がかかるの」

「なら時間をかけな」

「朝の肉が冷める前なら頑張る」

「そこに肉を入れるんじゃないよ」

 

オルネッサはため息をつきながら依頼札を渡した。

 

「昨日の討伐は終わってる。

 あんたたちは確認と回収。

 奥へは行かないでね」

「分かってる」

「たのむよ、カレナ」

「大丈夫、古い石柱は越えない」

 

カレナは今度は先に言った。

 

「ただ石柱の手前で異常があったら確認はするよ。

 情報は必要でしょ?」

 

オルネッサの指が帳面の背をなぞった。

 

「見に行って戻らなかった潜り手の名前を

 私は何人も書いてる」

「うん」

 

オルネッサの真剣な目に、カレナは目をそらせなかった。

 

「帳面に載るのは嫌だよ。怒られる方がまだいい」

 

オルネッサは少しだけ息を吐いた。

 

「そこまで分かってるならいいよ」

「たぶん」

「勘弁しておくれ、カレナ」

「……分かってる」

 

ネフィラが横で小さく笑った。

オルネッサはパタンと低い音とともに帳面を閉じた。

 

「ネフィラ。記録は今回もあんたが持ちな」

「はいだよぉ」

「カレナ。余計なものは拾うな」

「今日は拾わないよ」

「目玉が3つある骨とか。鳴る石とか。

 よく分からない皮とか」

「それはもう昔の話」

 

ネフィラが小さく咳をした。

オルネッサの目が細くなる。

 

「拾ったんだね」

「二日前の話!でも今日は拾わないって」

「言い直しただけ少しは進歩したもんだね」

 

見習いたちが笑ってる。

カレナは少し口を尖らせると、ちょうど神殿の鐘が鳴った。

 

一つ目の鐘。

市場の向こうで結晶灯がひとつずつ光を弱めていく。

朝日が石畳に広がった。

 

神殿の階段では若い神官が白い布を広げていた。

その上に結晶片を並べている。

親指ほどのもの。

子どもの爪ほどのもの。

砂粒みたいなもの。

 

オルマから来たものは必ず誰かの手に渡る。

灯りになり。

薬になり。

鍋になり。

刃になり。

税になり。

祈りになる。

小さな欠片にも、それを待つ者がいた。

 

カレナは少しだけ足を止めた。

 

「小さいのでも灯りになるんだね」

「なるよぉ」

「じゃあ今日も拾えたら神殿袋だね」

「ふふ、それは覚えてるんだぁ」

「大事なことは覚えるよ」

「書類も大事だよぉ」

「それは分かってる」

 

カレナは少し声を落とした。

 

「遅いだけ」

 

ネフィラは何も言わず、かわりにカレナのスカーフを軽く直した。

カレナは礼を言う代わりに少しだけ顎を引いた。

 

*

 

東門はまだ半分だけしか開いていなかった。

門番の男が槍にもたれて欠伸をしていて、

隣の犬耳の女は立ったまま目を閉じていた。

 

「寝てる?」

「寝てない」

 

カレナのふとした言葉に、女は目を閉じたまま答えた。

 

「目を休めてるだけだ」

「立ったまま?」

「耳は起きてる」

「真似しないでねぇ。カレナは寝ちゃうでしょ?」

 

ネフィラがすぐに言った。

門番の男が笑いながら依頼札を受け取る。

 

「東の浅口か。

 昨日はゴブリンが多数いて散らしたばかりらしい。

 まだ残りがいると思うぞ」

「残りがいるなら牙もあるかな」

 

カレナが聞いた。

 

「牙が欠けてなきゃいいな」

「ちゃんと欠けてない奴を狩るよ」

「そりゃあいい、噛まれるなよ」

「うん、気をつける」

 

カレナの真面目な返事に、門番の男は少し意外そうに目を丸くする。

 

「今日は少し真面目なんだよぉ」

「いつも真面目だよ」

「いつもは真面目が迷子になるんだぁ」

「今日は連れてきた」

「置いて帰らないでねぇ」

 

門の外に出ると草地の先にオルマの入口が見えた。

大きな入口の上には飾り板がかかっていて、

曲がった線と尖った線を組み合わせた古い文字で

オルマと刻まれている。

 

朝日があるのに奥は薄暗い。

近づくと土の匂いの下に冷えた鉄の匂いが混じった。

カレナの耳が緊張で少し伏せる。

体は正直だ。

 

「怖いのぉ?」

「少しね」

 

ネフィラの耳がわずかに動くのをカレナは見逃さなかった。

あえて言う必要もない。

カレナはスカーフを指で押さえた。

 

「でも今日は浅口。石柱までで戻る」

「うん」

「だから大丈夫」

 

ネフィラはカレナの肩紐を引いた。

 

「ここ緩いよぉ」

「また?」

「これ、歩いたら緩むんだねぇ」

「直してくれる?」

「そのためにいるわけじゃないよぉ」

「でも助かってる。いつもありがとね」

 

ネフィラは少し笑ってカレナの紐を結び直した。

 

*

 

二人はオルマに入った。

足元の土の色が変わる。

草地の乾いた土から湿った黒い砂へ。

市場の声が背中の後ろで小さくなった。

 

神殿の鐘も遠くなる。

門番の欠伸も遠くなる。

さっきの肉の匂いも遠くなる。

少し惜しい。

 

かわりに冷たい石の匂いが来た。

古い水の匂いもある。

ここを通った潜り手の匂いも残っている。

 

カレナは膝を少し曲げ、鼻から短く息を吸った。

嗅ぎ慣れたゴブリンの匂いがある。

耳を立てる。 遠くで砂を擦る音がした。

 

少し古い。

三つ。

いや四つ。

一つだけまだ近い。

 

「いた」

 

ネフィラが記録板を出す。

 

「数はぁ?」

「三つは古い。ひとつだけ近い」

「距離はぁ?」

「石柱より手前。たぶん曲がり角の先」

 

ネフィラの手が止まった。

 

「相変わらず良い鼻だねぇ」

「この先の通路だね。行こう」

 

通路の先で小さな影が動いた。

間違いない。やはりゴブリンだ。

 

汚れた刃を大きく振り、こちらへ見せつけている。

けれど足は前へ出ていなかった。

重心も後ろに残っている。

右の耳が一度だけ奥を向いた。

同時に暗がりの中で、砂を踏む小さな音がする。

 

正面のゴブリンは――

 

「手前が気を引いてる!奥!」

 

カレナの声とともにゴブリンの投石が襲う。

だが、半歩体をずらすと肩の横を抜けて壁で大きな音を立てて石は砕けた。

 

「危っぶなぁ!」

 

ネフィラの声が跳ねる。

 

「当たってない!?」

「当たるとこだったぁ!」

「当たってないなら――」

 

カレナは強く踏み込んだ。

 

「――大丈夫!」

 

カレナはゴブリンの振るう横薙ぎの刃をさらに低くくぐり抜け

勢いを殺さぬまま強く足を払った。

 

「ギィッ!」

 

ゴブリンが黒い砂の上へ倒れた。

カレナはもがく体を押さえ、喉元へ刃を突き立てる。

ゴブリンの輪郭が崩れ、塵となって消えた。

あとには数本の牙と、欠けた刃物片が残った。

 

「奥のが逃げるよぉ!」

 

ネフィラの声に、カレナは顔を上げた。

暗がりの向こうで二つ目の影が消え、足音もすぐに聞こえなくなった。

 

カレナは牙と刃物片を保存袋へ拾い入れると

硬い音がカラカラと小さく重なった。

 

オルマの通路はよく変わる。

静かになったからといって、安全とは限らない。

 

古い石柱はまだ先、のはずなのだが。

どうも他に気になる匂いがする。

 

「ネフィ、石柱までは確認するね。

 正体が分からなくても、そこで戻るよ」

「ほんとにぃ?」

「ほんと」

 

ネフィラは記録板を閉じた。

まだ納得していない顔をしている

それでも荷物を持ち直す手は早かった。

 

「絶対に他のことも考えてるでしょぉ」

「…少しね」

「やっぱりぃ」

「でも約束は守る」

「戻ったらオルネッサに報告するからねぇ?」

「うん。それでいいよ」

 

ネフィラは困ったように眉を下げ、カレナのあとに続いた。

 

奥から薄い臭いが流れてくる。

ゴブリン。

血。

ほのかに混ざる別の匂い。

 

新しい獲物かもしれない。

倒せば牙より高いものが出るかもしれない。

けれどカレナはまだ狩れるなんて思い上がらない。

 

まずは見たい。

それが動いているところを見たい。

どんな姿なのか。

何を怖がるのか。

どこへ逃げるのか。

 

死んだものから採れるものがある。

でも、生きている時にしか分からないこともある。

それを見落とせば、次に誰かが塵になる。

それがカレナやネフィラかもしれない。

カレナはそれが嫌だった。

 

低く身を沈め、耳を伏せ、尾の動きを止める。

後ろでネフィラが同じ姿勢で小さく息を吐いた。

 

暗がりの奥でまた物音。

逃げたゴブリンの匂いは薄れていた。

その代わり、別の匂いが少しずつ強くなっている。

カレナは刃を握り直した。

 

今日の依頼は残りの確認。

牙と刃物片の回収。

古い石柱までで戻ること。

 

分かっている。

ちゃんと分かってる。

カレナは一歩だけ前に出た。

 

「ネフィ、絶対に見て戻るよ」

「絶対ぃ?」

「絶対」

 

ネフィラが少しだけ口元を緩める。

カレナは少しだけ笑った。

それから暗がりへ目を向けた。

 

オルマの朝はまだ始まったばかりだった。

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