運の悪い俺は、今日も湾岸の地下へ降りていく   作:シドロンモドロン

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第2話 石柱の手前

暗がりから流れてくる匂いは複数だ。

 

汗と血。

そして薬草の苦さ。

その奥に、火へ近づけた飴のような甘い匂いが混じっている。

 

カレナはその匂いを知っていた。

 

革を貼り合わせる時。

井戸の継ぎ目を塞ぐ時。

古い結晶灯の隙間を埋める時。

 

職人たちが指を黒くしながら練る、硬化樹脂の匂いだった。

 

「ネフィ。硬化樹脂の匂いがする」

 

声を落とすと、後ろで木炭筆の音が止まった。

 

「誰かが持ってるのかなぁ」

「かもしれない。血と薬草の匂いも混じってるよ」

 

前方で石が擦れた。

一度。

間を置いて、もう一度。

音は暗がりの奥で途切れながら続いている。

カレナは足音を殺して進み、ネフィラも後に続く。

 

さっきまで記録板の上を走っていた木炭筆は肩掛け鞄の脇へ差し込まれている。

代わりに片手が鞄の口へ添えられていた。

 

曲がり角を越えると、古い石柱が見えた。

 

腰ほどの高さしかない石柱だった。

上半分は欠け、表面には数えきれないほどの線が刻まれている。

 

深い線。

浅い線。

まだ白い傷。

黒ずみ、指でなぞらなければ見えない傷。

 

潜り手たちは、道が変わるたびに新しい印を残してきた。

今日探していた目印も、その重なりの中にある。

 

「着いたねぇ」

 

ネフィラが囁く。

今日の依頼は古い石柱まで。

残っているゴブリンと、持ち帰れる素材を確かめたら戻る。

カレナも今日は覚えている。

 

石柱の手前に、二人の潜り手がいた。

 

丸い耳を持つ女が壁へ背を預けて座り込んでいる。

片脚を前へ投げ出し膝の下には布が巻かれていた。

白かったはずの布は半分ほど赤く染まっている。

 

二人の足元には小さな陶器の壺が置かれている。

壺の口は欠け、ひびの間から琥珀色の樹脂が垂れていた。

 

「そこで止まれ」

 

女の前に立つ男が、低い声を飛ばした。

ショートソードは通路の奥へ向けたままだ。

カレナとネフィラは、男の間合いの外で足を止めた。

 

「素材組合の依頼で来た潜り手だ」

「割符を見せろ。こちらへ近づくな」

 

ネフィラが肩掛け鞄から割符を取り出した。

 

「投げるよぉ」

 

男が頷き、ネフィラは割符を石床へ滑らせた。

割符は乾いた音を立てながら、男の足元で止まる。

 

男は通路の奥へショートソードを向けたまま、片足で割符を裏返した。

刻まれた印を確かめている。

それでもすぐには剣を下ろさなかった。

 

「何の依頼だ」

「古い石柱までの確認だよぉ。

 ゴブリンの残りと、回収できる素材を見に来た」

 

男はカレナとネフィラを順に見た。

やがて短く息を吐き、剣先をわずかに下げる。

 

「疑ってすまない。助かった」

 

ネフィラはその場から声をかけた。

 

「そちらの人、脚を怪我してるねぇ。

 近づいてもいいですかぁ」

 

男は背後の女を振り返り、それからようやく二人へ道を空けた。

 

「頼む。背負袋は奴らに奪われてしまってな。

 残った薬草と樹脂でどうにか血だけは止めたんだが」

「血を止めるだけなら仕方なかったねぇ。でも剥がす時は痛むよぉ」

 

ネフィラは女の前へ膝をついた。

 

「へ、平気です」

「ゆっくり外すからねぇ」

 

ネフィラは布へ少しずつ水を含ませた。

樹脂が緩んだところから布を剥がしていく。

 

女の指が痛みに耐えるように、石床を強く掴む。

 

傷が露出すると、残った水で血と汚れを流した。

薬草を浸した布を当て、その上から新しい包帯を巻いていく。

 

「どうして脚を?」

 

カレナが通路の奥を見たまま尋ねた。

 

「帰りには脚が重くなってたのに、いつも通り踏み込んだんです。避けるのが遅れて」

「反省は外へ出てからだ」

男は女を責めず、通路の奥を見ていた。

 

その時、カレナの耳が砂を踏む音を拾った。

男も同時にショートソードを構え直す。

 

「二匹、戻ってくるよぉ」

 

一匹は正面。

もう一匹は石柱の右へ回ろうとしている。

姿はまだ見えない。

だが、息遣いと獣脂の匂いまでは隠せなかった。

 

「右から一匹来る」

「そちらは俺が塞ごう」

 

男が石柱の右へ立つ。

疲労で呼吸は重い。

それでもショートソードの切っ先は揺れなかった。

カレナは腰の刃を抜いた。

 

石柱の向こうで空気が鳴る。

投石か。このまま避ければ後ろの三人に届く。

カレナは顔を庇い、肩当てで受けた。

 

硬い音が響く。

 

衝撃が左腕へ走り指先まで鈍く痺れた。

その隙を狙ってゴブリンが踏み込んでくる。

汚れた刃が低い位置から跳ね上がる。

 

カレナが刃を合わせると、金属が擦れ火花が舞う。

痺れた腕で受け切ろうとはせず、体を斜めへ引き、力を横へ逃がす。

 

ゴブリンの刃が横へ滑った。

勢いを失った体が石柱へぶつかるが、すぐに向き直り

刃を構え、今度はカレナの脚へ刃を走らせた。

 

その動きはもう見えていた。

 

足を軽く引くだけで刃先を外し、返す刃でゴブリンの手首を深く切りつけた。

叫びと共に武器が床へ落ちる。

それでもゴブリンは逃げず、空いた手を伸ばしてきた。

指先が毛へ触れるより先に、カレナは懐へ入り刃を胸元へ押し込んだ。

 

小さな体が一度だけ強く震えた。

カレナが刃を引く。

ゴブリンの輪郭が足元から崩れ、塵が石柱の根元へ落ちた。

 

すぐ右で刃がぶつかった。

二匹目が石柱を回り込み、男へ斬りかかっている。

男はショートソードを傾け、ゴブリンの刃を外へ流した。

返した切っ先が相手の腕を浅く裂く。

 

男はそのまま追撃を選ばず、進路へショートソードの切っ先を置く。

ゴブリンの足が止まり、後ろを振り返った。

背後ではカレナが刃を構えている。

石柱の根元には仲間だった黒い塵。

 

ゴブリンは二人を見比べると、短く喉を鳴らし、暗がりの奥へ逃げ出した。

 

男は追わなかった。

カレナも石柱の前で足を止める。

 

今日の依頼は、ここまでだった。

逃げていく足音が遠ざかる。

やがて匂いも薄くなり、オルマの湿った空気へ消えていった。

ネフィラは包帯の端を結び終えていた。

 

「こっちは終わったよぉ。次はカレナの肩だねぇ」

「問題ないって。ちゃんと動くよ」

 

カレナは左腕を上げようとしたが肩の奥に痛みが走る。

その仕草をネフィラは見逃さなかった。

カレナはバツが悪そうに、上がりかけた腕を下ろす。

肩の奥に痛みが走り、途中で止まる。

 

ネフィラは何も言わず、カレナの前へ手を出した。

 

「座ってねぇ」

「歩けるよ」

「肩の話をしてるんだよぉ」

 

カレナは諦めて石柱のそばへ座った。

 

ネフィラは革鎧の上から肩の腫れを確かめる。薬草を浸した布を当て、ずれないよう革紐で留めた。

 

「今日は大きく振らないでねぇ」

「帰るだけなら平気だよ」

 

男はショートソードを鞘へ戻し、ゆっくりと息を吐いた。

 

「すまない。助かった」

「治療まで、本当にありがとうございます」

 

女が頭を下げる。

 

「お礼は外へ出てからでいいよぉ」

「石柱を確認したら、私たちも戻るよ。一緒に帰ろう」

「立てますかぁ?」

「やってみます」

 

ネフィラは立ち上がると、古い石柱の前へ移動した。

欠けた位置。

表面に増えた傷。

周囲に残る足跡。

記録板へ一つずつ残していく。

 

カレナは石柱の根元を確かめた。

ゴブリンが残した刃物片を拾い、持ち帰れるものだけを袋へ入れる。

 

石柱の先へは進まない。

確認を終えてから、男が女へ肩を貸した。

 

女は壁から背を離し、男へ体重を預ける。

包帯を巻いた脚を床へ触れさせると、顔が歪んだ。

それでも膝は折れなかった。

 

「ゆっくりなら歩けそう」

「よし、そのペースで帰ろう」

 

カレナは割れた壺を拾った。

硬化樹脂はまだ底に残っているようだ。

ひびから漏れた分は、砂の上で飴色に固まり始めていた。

 

ネフィラが薄いスライム膜を取り出した。

壺全体を包み、上から革紐で縛る。

 

「これで、壺の樹脂は入口まで漏れずに持つと思うよぉ」

「すまない、助かる」

「いいですよぉ、潜り手は助け合いってねぇ。

 足は応急処置だから、街へ戻ったら神殿へ行ってねぇ」

 

カレナは壺を引き受けた。

硬化樹脂の甘い匂いが干し肉へ移らないよう、ちゃんと腰袋から離して。

 

 

*

 

四人でゆっくりと、来た道を戻る。

カレナが先頭を歩く。

その後ろで、細い角の男が負傷した女を支える。

ネフィラは最後尾についた。

 

負傷した女が止まれば、四人とも止まる。

狭い通路では、一人ずつ壁際を抜ける。

曲がり角では先頭の姿が見えなくならないよう間を詰める。

 

持ってきた水も、二人だけで飲む時より早く減った。

二人なら気にせず通れた場所で、何度も足を止めることになった。

だが、確実に戻る。

 

負傷した潜り手。

硬化樹脂の壺。

ゴブリンが残っていたという記録。

今日、石柱の手前で起きたこと全部。

 

最初の分かれ道でカレナは足を止めた。

 

右から流れてくる空気には、乾いた草の匂いが混じっている。

入口に近い場所の匂いだ。

けれど左の壁には、入る時に見た白い筋が残っていた。

 

匂いを信じれば右。

古い目印だけを信じれば左。

オルマの道は相変わらず少しずつ形を変える。

 

「ネフィ。入口へ戻る道は右で合ってる?」

「右だよぉ」

 

後ろで記録板を開く音がした。

 

「左の白い筋は、行きに見ただけだよぉ。私たちが通ったのは右。今日数えた歩数も合ってるねぇ」

「ありがとネフィ」

 

匂いとネフィラの記録が重なった。

カレナは右へ進んだ。

細い角の男が、負傷者を支えながら疑問を口にする。

 

「いつも二人で道を決めるのか」

「私が先に、匂いと空気の流れを探す」

「私が記録を見て、カレナの選んだ道が

 今日の帰路と合っているか確かめるんだよぉ」

 

ネフィラの木炭筆が、また動き始めている。

 

新しく増えた傷。

記録に残っていたより狭い曲がり角。

帰る途中でも記録は必要だ。

 

「長く組んでるんだな」

「最初はオルネッサに組まされたんだよ」

「カレナが帰る道を記録しなかったからねぇ」

「記録は残してたよ」

「壁に爪で三本引っかいただけだったよぉ」

「見つけやすかったでしょ?」

「次に来た時には、壁の表面ごと欠けてたよぉ」

 

細い角の男が笑った。

肩を借りている女も、痛みに耐えながら口元を緩める。

カレナには少し不満だった。

あの三本の傷は、自分なりに深く刻んだつもりだった。

 

「でも、あの時も帰れたよ」

「カレナが入口に近い方角を見つけて、私が歩いてきた分岐と照らし合わせたからねぇ」

「うん」

「それからは、組合に言われなくても二人で同じ依頼を選ぶようになったんだよぉ」

 

ネフィラは記録板から目を上げず話続ける。

歩数を読み上げる時と変わらない声。

その自然さが、カレナには少し嬉しかった。

 

入口が近づくにつれ石の冷たい匂いが薄くなり

乾いた土の匂いが戻ってくる。

草の青さが混じる。

 

やがて、門番たちの声が聞こえた。

 

荷車の車輪が軋む音。

桶が石へ当たる音。

朝、置いてきた街の音だった。

 

負傷した女が長く息を吐いた。

 

「入口だ、良かった」

「まだ帰還の確認が残ってるよぉ」

「もう門が見えてる」

「組合の帰還印がつくまでは、依頼の途中だよぉ」

 

東門を抜けると日差しが目に痛かった。

入った時よりも太陽が高い。

門番が依頼札を受け取りカレナたち四人を見た。

 

次に、札へ書かれた人数へ目を落とす。

 

「その依頼札は二人組だったはずだが」

「石柱の手前で、負傷した二人を保護した」

「そう、帰りに二人拾ったんだよぉ」

 

細い角の男が疲れた顔で笑った。

神殿の見習いが負傷者を引き受ける。

担架が運ばれ、丸い耳の女の脚へ白い布が掛けられた。

 

カレナは、硬化樹脂の壺を男へ返すと

男は井戸番へ渡す。

東門脇の共同井戸には、朝より多くの桶が並んでいた。

 

石組みの継ぎ目から水が細く漏れている。

濡れた場所だけ、石の色が濃い。

井戸の取っ手には、形も色も違う金具が使われていた。

 

黒い金具。

赤茶けた金具。

表面が滑らかな、古い金具。

 

作られた時期も、使われた素材も違う。

 

壊れるたびに修理され、同じ部品がなければ別の素材で補われてきた。

井戸番は壺の中を確かめる。

 

「これだけ硬化樹脂が残っていれば、今日漏れている場所は塞げる」

「これで塞がる?」

「興味があるのかい?いいか、今日は一度目を塗る。

 乾くまで水量を落として、明日もう一度樹脂を重ねるんだ」

 

井戸はすぐに元通りになるわけではない。

それでも、水を止めずに済む。

職人が硬化樹脂を練り、濡れた石の継ぎ目へ押し込んでいく。

 

井戸の取っ手が動いた。

古い木軸が軋む。

しばらくして細い水が石桶へ落ちた。

 

水を待っていた者が、すぐに桶を差し出した。

その後ろには、次の桶がもう並んでいる。

 

ネフィラは記録板を開いた。

 

オルマへ入った二人の名前。

帰還した時刻。

石柱の手前で見つけた二人。

残っていたゴブリンの数。

負傷の状態。

 

木炭筆が今日起きたことをひとつずつ残していく。

カレナは腰袋へ手を入れた。

朝に残しておいた干し肉がそこにある。

 

「ネフィ」

「組合への報告が終わるまで待ってねぇ」

「まだ何も言ってないよ」

「顔に書いてあるよぉ」

「何て?」

「干し肉を食べたい、って書いてあるねぇ」

 

石桶へ水が落ちる。

 

一滴。

もう一滴。

 

細かった流れが、ゆっくりと太くなっていく。

 

ネフィラの記録板には、入った二人の下に救助した二人の名前が書き足されていた。

その横には、四人とも帰還と記されている。

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