迫真バディ部・天使の裏技 作:天使ξ紳士
その日、公安のデビルハンター本部には、いつもと違う、少しピリついた空気が流れていた。
「はぁ……」
ボクはいつものように重たい瞼を擦りながら、地下の演習場へと向かう廊下を歩く。
隣には、今日も今日とて無駄に代謝の良い筋肉ダルマがいる。
「今日は新人の研修らしいっすよ! 先輩として、ガツンと気合入れていきましょう!」
「……うるさい。耳元で叫ばないで」
ボクは心底面倒くさそうに返す。
研修。
新人の実力を測りつつ、先輩ハンターが指導するという名目の、あからさまなパワハラ……ではなく、教育の場だ。
これに参加するということは、つまり「サボれない」ということを意味する。
ボクにとっては地獄のような時間だ。
「あーあ。早く帰って寝たい」
「天使くんまだ一回表、試合は始まったばかりYO」
「……意味不明なこと言わないでくれる?」
ボクたちが担当となっている公安の一室へ到着すると、そこには既に新人のデビルハンターが。
一際目立つ少女の姿があった。
黒髪のショートカット。
端正な顔立ちの、小柄な少女。
「あ! あれは……!」
隣のコイツが野太い声を上げるのと同時だった。
その少女がこちらに気づき、生意気そうな笑みを浮かべて手を振った。
「わーっ、鈴木センパイじゃーん! チーッス!」
「おお姫野か! お久しぶりブリ大根!」
姫野、と呼ばれたその新人。
彼女はスタスタとこちらに歩み寄ってくると、何のためらいもなく――人間の分厚い胸板をバシバシと叩いた。
「元気してました? なんかまた筋肉ついたんじゃない? ちょっと触らせてよ」
「あぁ^〜いいっすね〜(快諾)」
ペタペタと、二の腕や大胸筋をまさぐる小娘。
新人の分際で、その距離感は明らかに「舐めている」ものだった。
そしてアイツの方も、満更でもなさそうにニヤついている。
「…………」
ボクは一歩引いた場所で、その光景を見ていた。
見ているしかなかった。
なんだ、あの小娘は。
アイツの後輩?
それにしても、近すぎる。
「ん、その人が噂の新しいバディですか? 先輩」
彼女の視線が、ボクに向けられた。
その瞳は、好奇心と、どこか人を小馬鹿にしたような光を宿している。
「初めましてー。新人の姫野でーす。鈴木センパイには学生時代に世話になったんすよねー」
「……あっそう。だから?」
「ふーん、ふふーん?」
小娘はボクの顔を覗き込み、ニシシと笑った。
「鈴木センパイには勿体ないくらいの美人さんじゃん。ねえ?」
「そうだよ(便乗)。俺の自慢のバディだからな、見とけよ見とけよ〜」
人間が鼻高々に答える。
いつもなら、そのバカみたいな笑顔に呆れるところだ。
けれど、今はなぜか、その笑顔が癇に障った。
なぜ、そんなに嬉しそうなんだ。
ボクのことは「女の子」だと思っているくせに。
目の前にいる「生意気な新人の小娘」にあんなにベタベタ触られておいて。
「じゃあセンパイ、ちょっと借りますねー」
「ファッ!?」
姫野はそう言うと、強引に人間の腕を引いた。
「新人の組手相手、手伝ってくださいよ。センパイのその筋肉、サンドバッグに丁度いいし」
「えぇ……(困惑)。やめてくれよ……(絶望)」
「いいじゃないですか減るもんじゃないし! あっ、バディの方は休憩してていいので。行こ!」
有無を言わせぬ強引さ。
アイツは「行ってきまーす!」とボクに手を振り、彼女に連行されていった。
その背中は、どこか嬉しそうにも見えた。
残されたボクは、ポツンと一人。
地下の冷たい空気が、肌に張り付くようだった。
「……なにさ」
ボクは壁際のベンチに腰を下ろした。
翼を身体に巻き付けて、外界を遮断するように縮こまる。
胸の奥が、ざらつく。
これまで感じたことのない、不快な感覚。
それはまるで、溶けたアイスクリームが腕にねっとり滴り落ちた時のような。
いや、もっと粘着質で、ドロドロとした何かだ。
■ ■ ■
研修が始まった。
ボクは遠くから、二人の様子を眺めていた。
彼らの組手は、意外にも激しいものだった。
新人の姫野が果敢に攻め込む。
アイツはそれを、余裕の表情(というよりニヤけた顔)で受け流している。
「いいよ! 来いよ!(挑発)」
「うらぁ!」
姫野の蹴りがアイツのガードの上から炸裂する。
「痛いですね……これは痛い……(大嘘)」
「嘘つけ! 全然効いてないじゃん!」
「いやーキツイっす(素)」
楽しそうだ。
ボクといる時よりも、ずっと。
生き生きしているようだ。
あの小娘、アイツの扱い方を心得ている。
……当たり前か。
彼女は人間で、ボクは悪魔だ。
彼女は触れても死なないし、アイツの寿命を奪うこともない。
肩を組んでも、肌が触れ合っても、何も問題がないのだ。
「……はぁ」
ボクは膝に顔を埋めた。
それに、彼女は「女」だ。
ボクと違って、本物の。
まだ未熟かもしれないけれど、その身体つきは確かに女性のものだ。
アイツはボクのことを「女の子」だと思っている。
でも、それは誤解の上に成り立っている幻想だ。
もしボクが男だと知ったら?
あんな風に「いいよ!来いよ!」なんて、受け入れてくれるだろうか。
――比べても仕方ない。
頭ではわかっている。
ボクは天使の悪魔。
人間とは相容れない存在。
アイツはただの一時的なバディ。
それだけの関係だ。
なのに。
「休憩ー!」
アイツの声が響く。
研修が一区切りついたようだ。
アイツが汗を拭いながら、こちらへ戻ってくるかと思いきや――姫野が彼にスポーツドリンクを投げ渡し、また何かを話しかけている。
「センパイ、さっきの動き相当キモかったですよ」
「おっ、そうだな(適当)」
バシッとアイツの背中を叩く姫野。
その自然な接触が、ボクの視神経を焼き切るほどに不愉快だった。
「……帰ろ」
ボクは立ち上がった。
これ以上、ここにいたくない。
あの二人の世界を見せつけられるのは、何だかとても不快で苦痛だったから。
出口に向かって歩き出した時。
背後から声がかかった。
「あれ、先輩のバディの方。どこ行くんですか?」
姫野だ。
いつの間にか近づいてきていた。
ボクは足を止め、振り返らずに答える。
「……別に、どこにも」
「おやおや。もしかして、妬いちゃいました?」
ドキリとした。
心臓を直接掴まれたような感覚。
振り返ると、姫野がニヤニヤと笑いながら、新人のくせに生意気にもタバコを咥えていた。
「……ボクに一体何の用事?」
「あはは、怖ーい。鈴木センパイのことですよ。あの人、見た目はゴリラだけど中身は優しいですから」
「……それがどうかした」
「ふふっ、素直じゃないんですね」
姫野は一歩、ボクに近づいた。
紫煙が鼻をかすめる。
「安心してくださいよ。私はセンパイのこと、そういう対象として見てませんから」
「は?」
「面白いおもちゃ、みたいな。反応がよくて」
彼女はニヤリと笑い、悪戯な目をした。
ボクには妙にそれが嫌に思えた。
去っていく彼女を尻目に、そんな感情が湧いた。
「……小娘のくせに」
ボクは去っていく少女の背中に、小さくそう吐き捨てた。
彼女が残していった言葉が、いつまでも耳の奥で反響している。
『もしかして、妬いちゃいました?』
妬く?
このボクが?
人間に?
ありえない。
そんな無駄な感情、ボクには必要ないし、持ち合わせてもいないはずだ。
でも。
「おーい! 天使く〜ん! 待たせたな!」
向こうから、汗だくになったアイツが走ってくる。
その顔は、茹で上がったタコみたいに赤くて、汗が滝のように流れていて……正直、汚い。
いつもなら「近づかないで」と一蹴するところだ。
それなのに。
「……遅い」
口から出たのは、つい拗ねたような言葉だった。
「いやー、姫野のヤツ、久々だからって張り切りすぎなんすよ。もう身体中バキバキっすよ。勘弁してくれよな〜」
アイツは豪快に笑いながら、ボクの隣にドカッと腰を下ろそうとする。
その瞬間、フワッと汗の匂いがした。
そして、その奥に微かに混じる、甘い香り。
――さっきの小娘の匂いだ。
彼女がベタベタと触っていた痕跡。
それが鼻についた瞬間、ボクの中で何かが「プツン」と音を立てて切れた。
「……臭い」
「へ?」
「あっち行って」
ボクは冷たく言い放った。
わざとらしく鼻をつまんでみせて。
アイツはキョトンとした顔をして、自分の脇の匂いを嗅いでいる。
「えぇ……そんな臭いかなぁ? 自分じゃわかんないんだよなぁ……」
「臭い。とにかく不潔」
「ファッ⁉︎(驚愕) そんな臭いのか俺……(悲)」
アイツは、少し距離を取って座り直した。
その「配慮」が、今は逆に腹立たしい。
小娘――姫野には、あんなに近づかせていたのに。
彼女は、君の腕を掴んでいた。
背中を叩いていた。
アイツもそれを受け入れていた。
ボクにはできないこと。
寿命を吸ってしまうボクには、絶対に許されない距離感。
「……帰る」
ボクは立ち上がった。
ここにいると、自分が惨めな生き物に思えてくる。
翼を持った化け物が、人間の真似事をして、勝手に傷ついているだけだ。
「あとはよろしく」
背後で喚く人間を無視して、ボクは廊下を早足で進んだ。
足音が追いかけてくる。
どうして追いかけてくるんだ。
放っておけばいいのに。
……いや、放っておかれたら、それはそれで嫌だと思っている自分がいる。
「はぁ……」
本当に、面倒くさい。
自分の心が、一番面倒くさい。
■ ■ ■
結局、アイツはボクの後をついてきた。
公安の建物を飛び出して街を歩く。
二人の間に流れる空気は、いつもより重たい。
沈黙が痛い。
いつもなら、この人間がくだらない冗談を言って、ボクが適当に流して、それで終わるはずなのに。
「……なぁ、天使くん」
少し控えめな声で、アイツが話しかけてきた。
「怒ってる?」
「別に」
「嘘つきはそっぽ向くって、はっきりわかんだね」
アイツがボクの顔を覗き込んでくる。
その真っ直ぐな瞳。
曇りのない、バカみたいに純粋な目。
「姫野のこと、嫌いだった?」
「……嫌いとかじゃない」
ボクは視線を逸らす。
道端のガードレールを見つめた。
「そっか。ならよかった。アイツ、昔から距離感バグってるところあるからな〜」
人間は懐かしそうに笑った。
その笑顔が、またボクの神経を逆撫でする。
「(俺の後輩でね、『センパイ』なんて呼ばれてるけど、先輩扱いされたことは一回も)ないです」
ボクと君は「バディ」だ。
でも、それは上司に決められただけの関係。
彼と彼女の間にあるような、積み重ねた時間は、ボクたちにはない。
それに、彼女は「普通の女の子」。
君が勘違いしているボクとは違って、本物の。
「……あのさ」
ボクは足を止めた。
「バディ、変えてもらえば?」
「は?」
人間も足を止め、振り返る。
「あの女と組めばいいじゃないか。仲が良いんでしょ? 触れても死なないし、君にとっても安全だし」
言ってしまった。
心にもないことを。
いや、心のどこかで「そんなことないよ」と否定してほしいと願っている言葉を。
アイツはポカンと口を開け、眉をひそめた。
「何言ってんだ。俺のバディは天使くんだろ」
「……上司に言えば、変えてくれるよ。ボクも、君みたいなうるさい人間より、もっと静かな人がいいし」
嘘だ。
静かな人間なんて、すぐ死んでしまう。
ボクを置いて、いなくなってしまう。
そんなのはもう嫌だ。
なのに、口は止まらない。
「どうせ君も、あんな風にベタベタ触れる相手の方がいいんでしょ。ボクなんかといたって、寿命が減るだけだし……」
そこまで言った時だった。
――ドスッ。
頭に、軽い衝撃が走った。
見上げると、人間の大きな手が、ボクの頭の上に乗っていた。
……いや、直接じゃない。
アイツが着ていたジャケット越しだ。
「……なに」
「んあー、もう! 御託はいいんだよ!」
ワシャワシャと、乱暴にボクの頭を撫で回した。
髪がぐしゃぐしゃになる。
「やめ……!」
「いいか、よく聞けよ天使くん。俺はな、お前がいいんだよ」
動きが止まる。
ジャケット越しの手の温もりが、頭頂部からじわりと伝わってくる。
「姫野は確かに後輩だけど、それだけだ。俺の背中を任せてんのは、天使くんだろ」
人間は真っ直ぐにボクを見つめていた。
太陽に照らされたその顔は、いつもより少しだけ……本当に少しだけ、凛々しく見えた。
「それに……さっきからウジウジと、らしくない」
「……うるさい」
「寿命がどうとか、触れる触れないとか、そんなん関係ねぇよ。俺は、天使くんが淹れてくれたコーヒーをいつか飲みたいし、また下北沢行きたいし、一緒に美味いもん食いたいんだよ」
人間はニカッと笑った。
「わかったか! こら!」
デコピン。
もちろん、指が触れないように寸止めで、風圧だけを感じるような。
ボクは呆気にとられて、言葉を失った。
なんだ、コイツ。
本当にバカだ。
寿命が関係ないなんて、そんなわけないのに。
命をなんだと思っているんだ。
でも。
胸の奥にあったドロドロとしたものが、少しだけ溶けていくような感覚がした。
「……わかったよ」
ボクは彼の手を振り払うようにして、髪を整えた。
「髪、ボサボサになった」
「ぬっ。でも、そっちの方が可愛いかも?」
「……ふん」
可愛い。
またその言葉だ。
普段なら訂正したくなるその言葉も、今はなぜか、少しだけ心地いい。
「それにしても腹減ったなぁ。なぁ天使くん、今日こそラーメン行こうぜ」
「……油っこいのは嫌」
「じゃあ蕎麦! 駅前に美味い立ち食い蕎麦屋があんのよ!」
立ち食い……。
また面倒くさそうな場所に。
でも、断る気にはなれなかった。
「……いいよ、付き合ってあげる」
「やったぜ。」
人間が歩き出す。
ボクはその隣に並んだ。
ふと、自分の手を見る。
白くて、細い指。
誰かに触れることを許されない手。
あの女――姫野のように、彼の腕を掴むことはできない。
背中を叩くことも、汗を拭いてあげることもできない。
その事実は変わらない。
物理的な距離は、どうしようもなく存在する。
けれど。
『俺は、お前がいいんだよ』
……ああ、そうか。
ボクは、気がついてしまった。
さっき感じたあの苛立ち。
胸の奥が焦げ付くような不快感。
あれは、「彼が死ぬのが惜しい」からじゃない。
「便利なバディを失うのが嫌」だからでもない。
ただ単に、ボク以外の誰かが――特に、ボクにはできないやり方で――彼に触れるのが、嫌だったんだ。
「待ってよ、鈴木」
ボクは少し早足で、アイツの隣に追いついた。
夕日が、二人の影を長く、長く伸ばしていた。
その影だけは、しっかりと寄り添って。
まさに一つに重なっていた——。
影と影ならば、触れることだってできる