迫真バディ部・天使の裏技 作:天使ξ紳士
冷たい雨が降っていた。
東京の空は鉛色に濁り、アスファルトを叩く雨音が、ボクの鼓膜を絶えずノックし続けている。
「……冷たい」
ボクは濡れた髪をかき上げた。
制服はずぶ濡れで、肌に張り付いて不快だ。
羽も水を吸って重い。
「うへぇ、最悪っすね〜。天気予報じゃ晴れって言ってたのに、これじゃあ詐欺ですよ詐欺!」
隣で喚いている筋肉ダルマもまた、全身泥だらけに、汚れていた。
今日の討伐対象は『泥の悪魔』。
物理的な強さは大したことなかったけれど、辺り構わず泥沼を作り出し、汚染する厄介な敵だった。
「……君が突っ込むからだよ。おかげでボクまで泥まみれだ」
「どういたしまして! いやー、あそこで俺が行かなきゃ天使くんが泥パックまみれになってたでしょ? 美容にはいいかもしれんけど、どうなんすかねえ」
「……泥の悪魔の泥だよ。ただの汚物」
ボクはため息をついた。
確かに、彼が前に出て注意を引きつけてくれたおかげで、ボクは大きな汚れを回避できた。
その代わり、彼は頭から爪先まで、見るも無惨な泥人形と化しているのだが。
「早く帰ってシャワー浴びたい……」
「おっ、奇遇っすね! 俺も俺も! 帰ったら速攻で風呂行きましょうよ、公安の大浴場!」
公安本部には、職員用の大浴場がある。
激務で汚れることの多いデビルハンターのための福利厚生だ。
いつもなら、ボクは部屋のシャワーで済ませる。
他人と入るのは面倒だし、何よりボクの「身体」を見せたくないから。
特に、コイツには。
「……ボクは部屋で」
「えー、広い風呂の方が疲れ取れるって! 背中流しっこしましょうよ」
無邪気な提案。
ボクのことを「女の子」だと思っているくせに、平気で「一緒に入ろう」なんて冗談を言う。
それが彼のデリカシーのなさであり、同時にボクを苦しめる無邪気さでもあった。
……ああ、もう。
本当に、面倒くさい。
雨に打たれながら、ボクの中で何かが飽和していくのを感じた。
隠すこと。
誤魔化すこと。
「女の子」として扱われることへの、居心地の悪さと、甘美な罪悪感。
それら全て、雨と一緒に流れてしまえばいいのに。
ふと、魔が差した。
あるいは、もう疲れてしまったのかもしれない。
「……いいよ」
「えっ?」
彼が目を丸くした。
雨粒が彼の長い睫毛から滴り落ちる。
「大浴場、行くよ」
「マジで⁉︎ やったぜ。 ……って、いやいや、混浴じゃないからアゼルバイジャン(良識)」
慌てて訂正する彼。
その姿を見て、ボクは心の中で冷たく笑った。
別々?
ああ、そうだね。
君は「男湯」に、ボクは「女湯」に行くと、そう思っているんだろう。
でも、もういいや。
何もかも、この雨のせいにしよう。
■ ■ ■
公安本部の脱衣所。
夕方の早い時間帯だからか、人の気配はほとんどなかった。
ボクは濡れた制服を脱衣カゴに放り込む。
重たい布地が肌から離れ、冷えた空気が直接触れる。
「ふぅー、生き返るわぁ」
隣のロッカーで、彼が既に全裸になってタオル一枚を腰に巻いていた。
その鍛え上げられた肉体には、無数の古傷と、今日できたばかりの新しい擦り傷が刻まれている。
彼は鼻歌混じりに脱衣所を出て、浴室へと向かおうとして――。
「ん? ……あれ?」
足を止めた。
振り返る。
そこには、同じ空間で服を脱いでいるボクがいる。
当然だ。
ここは「男湯」の脱衣所なのだから。
「て、天使くん!? マズイですよ! こ↑こ↓男湯! 間違えてる間違えてる!(大事なことなので二回)」
彼は慌てて目を覆い、あさっての方向を向きながら叫んだ。
顔が真っ赤。
本当に、初心な反応をする。
「……間違えてない」
ボクは淡々と言った。
最後の下着を脱ぎ捨てる。
露わになったのは、白くて細い、けれど間違いなく「男」の身体。
胸の膨らみはない。
腰のラインも、女性のそれとは違う。
そして何より、決定的な証拠がそこにはある。
「え……?」
彼が恐る恐る、指の隙間からこちらを見た。
その視線が、ボクの顔から首筋、平坦な胸、そして下腹部へと滑り落ちる。
——時が止まった。
換気扇の回る音だけが、やけに大きく聞こえる。
「ファッ⁉︎(驚愕)」
素っ頓狂な声が響き渡った。
「えっ、あっ、えっ⁉︎ ……これってもしかして、もしかするかも知れませんよ?」
彼は何度も瞬きをし、目をこすり、ボクを見た。
幻覚ではない。
そこにあるのは、紛れもない現実だ。
「……だから、言ったじゃないか」
ボクはタオルも持たずに、無防備な姿のまま彼を見つめ返した。
恥ずかしさなんて、もう通り越していた。
あるのは、奇妙なほどの静寂と、諦めだけ。
「ボクは男だって。何度も」
彼は口をパクパクさせて、まるで陸に上がった魚みたいだ。
「えぇ……(困惑)」
彼の脳内で、これまでの記憶が走馬灯のように駆け巡っているのがわかる。
「女の子」として扱ってきた日々。
デリカシーのない発言。
可愛い服を選んだこと。
お尻を叩いたこと。
それら全ての前提が、音を立てて崩れ去っていく。
「……気持ち悪い?」
ボクは自虐的に問いかけた。
「男なのに、あんな風に女の子扱いされて、黙ってて。……君を騙してたんだよ」
これで終わりだ。
彼はきっと、怒るか、呆れるか、あるいは気味悪がって離れていくだろう。
「なんだよ、ホモかよ(事実)」なんて言って。
それでいい。
それで、元の「ただの同僚」に戻れるなら。
ボクは視線を落とす。
浴室へ行こうと足を踏み出した。
すれ違いざま、彼との距離がゼロになる。
その時。
「……これもうわかんねぇなあ」
低い声が、ボクの耳を打った。
「え?」
顔を上げると、彼は真剣な眼差しで――いや、どこか開き直った、清々しい顔でボクを見ていた。
「いや、そりゃビビったけど! タマげたなぁ……って感じだけど!」
彼は頭を掻きながら、豪快に笑い飛ばした。
「でも、天使くんは天使くんだろ。男だろうが女だろうが、俺のバディで、俺の好きな天使くんに変わりないって、はっきりわかんだね」
……は?
ボクは思考が追いつかなかった。
普通、もっとこう……あるだろう。
拒絶反応とか、失望とか。
「それにほら、男同士なら気兼ねなく背中流せるじゃん! むしろ好都合ってやつ?」
「……バカなの?」
「バカで結構! 王道を征く一番風呂……。さ、天使くんも早くしろ〜」
彼はボクの返事も待たず。
颯爽と浴室へと駆け込んでいった。
カポーン、と桶の音が響く。
残されたボクは、脱衣所の冷たい床に立ち尽くしていたまま。
……受け入れられた?
この姿を?
男であるという事実を?
「バカで結構!」と言い切った彼の横顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
胸の奥が熱い。
今まで感じたことのない種類の熱。
それら全てが、全身を駆け巡る。
ああ、バカ(アイツ)で良かった——。
そう、思ってしまったのだ。
■ ■ ■
湯船は広かった。
湯気が立ち込める中、ボクたちは少し距離を空けてお湯に浸かっていた。
「あぁ^〜生き返るわぁ^〜」
彼はタオルを頭に乗せ、心地良さそうな表情を浮かべている。
その屈託のなさは、さっき衝撃の事実を知ったばかりとは思えないほどである。
ボクは膝を抱えて、お湯の水面を見つめていた。
彼の視線が、チラチラとこちらに向けられているのを感じる。
いや、性的な意味ではなく、単なる「確認」のような視線だ。
「……見ないでよ」
「いやー、やっぱ信じられなくてさ。こんな”可愛い”のに”付いてる”んだもんなぁ……ほんと、世の中不思議だらけだわ」
「……沈めるよ」
ボクはお湯をすくって、彼に掛けた。
彼は「ぬああああん」と笑いながら、避ける素振りを見せる。
男同士の、裸の付き合い。
本来なら、もっとラフで、遠慮のないものだろう。
でも。
ボクは無意識に、彼との距離を測っていた。
お湯の中なら、多少触れても大丈夫かもしれない?
いや、ダメだ。
水は電気を通すように、ボクの能力も伝導するかもしれない。
リスクは冒せない。
「なぁ、天使くん」
彼が、少し真面目な声で言った。
「男だってわかったらさ、なんかこう……逆にスッキリした」
「……そう」
「今までさ、女の子だから守らなきゃとか、女の子だから優しくしなきゃとか、勝手に思ってたけど」
彼は湯船の中で足を伸ばした。
その足先が、ボクの方へ伸びてくる。
けれど、触れる寸前で止まる。
「天使くんが男なら、もっと対等に、背中預けられる気がする」
「……ボクは最初から、君の背中を守ってたつもりだけど」
「おっ、そうだな。俺が勝手に勘違いしてただけだ」
彼は苦笑いした。
そして、ゆっくりと手を伸ばしてきた。
水面の上、ボクの肩へ向かって。
「これからもよろしくな、相棒」
その手は、温かそうだった。
ゴツゴツしていて、大きくて、頼り甲斐のある手。
その手が肩に触れれば、きっと安心するだろう。
男同士の友情の証として、ガシッと掴み合うことができるなら、どれほどいいか。
でも。
ボクは、その手を避けた。
スッ、と身を引いて。
彼の指先が、空を切る。
「……?」
彼の手が空中で止まる。
不思議そうな顔をしていた。
「……ダメだよ」
ボクは震える声で言った。
「触ったら、死ぬ」
ボクが「天使の悪魔」であることを。
触れるだけで寿命を吸い取る、呪われた存在であることを。
そっと思い出させるように告げた。
性別の誤解は解けた。
心の距離は縮まった。
「男でもいい」と、彼はボクを受け入れてくれた。
けれど。
それだけでは、「物理的な壁」は消えないのだ。
「ボクは……悪魔だから」
湯気が、視界を白く滲ませる。
ボクは自分の身体を抱きしめた。
「君がボクをどう思おうと、ボクの身体は君を殺す。……それが、現実だ」
もしボクがただの人間だったら。
もしボクがただの男だったら。
今ここで、彼とふざけ合って、お湯を掛け合って、肩を組んで笑い合えたのに。
彼の手が、ゆっくりと下ろされた。
水面に波紋が広がる。
「……そっか」
彼は短く呟いた。
その声には、先ほどまでの陽気さはなく、ただ重苦しい事実を噛み締めるような響きがあった。
「忘れてたわ。……天使くんが、悪魔だってこと」
彼がボクを「人間」のように扱ってくれたから。
ボクも一瞬、自分が悪魔であることを忘れそうになっていた。
でも、現実は残酷だ。
この広い湯船の中で、ボクたちの間にある数メートルの距離。
それは、永遠に埋まることのない断絶だった。
「……あがろう」
ボクは立ち上がった。
お湯が体から流れ落ちる。
寒気がした。
脱衣所の寒さのせいじゃない。
心の芯が、冷えていく感覚だった。
彼は何も言わず、ただボクの背中を見つめていた。
■ ■ ■
更衣室に戻り、服を着る。
無言の時間が流れる。
さっきまでの「男同士の気安さ」は消え失せ、代わりに「触れたくても触れられない」というもどかしさが、重くのしかかっていた。
外はすでに、雨が上がっていた。
けれど、ボクたちの心には、どんよりとした雲がかかったままだ。
「天使くん」
別れ際、彼が言った。
「また明日」
「……うん」
彼は無理に作った笑顔を見せて、背を向けた。
その背中は、いつもより少し小さく見えた。
ボクは一人、寮への道を歩く。
夜空を見上げると、雲の切れ間から月が。
冷たく、青白い月光が、覗いていた。
「……神様」
悪魔のボクが神に祈るなんて滑稽だけど。
「もし願いが叶うなら……ボクを、どうか人間にしてください」
もちろん、答えなど返ってこない。
ただ、街の喧騒と、遠くで聞こえるサイレンの音。
それだけが、ボクの孤独を際立たせていた。
次回、最終話です