始まり
十二月 夕暮れ 岡山県北部の山
ポチャン…。
木々が生い茂る冬の山。僕は一人、キャンプに来ている。
幸い、雪は降っていないし、池も凍っていない。
椅子に腰掛け、静かな池に釣り糸を垂らす。冷たい風が吹いている。
五分後。
「はぁ、やっぱり釣れないな…」
ため息をつきながら呟く。「さみーな…」
釣り糸をたるませたまま、俺はそそくさとテントへ戻り、腰を下ろした。
ピカーンとランタンを点け、寝袋に横たわる。
手元にあったのは、僕の一番好きな小説「羊たちの沈黙」。
「はぁ…クソ、集中できないな。」
横になった途端、無意識に考え込んでしまう。
「雪…」
雪のことが頭をよぎる。どうしても、雪のことを考えずにはいられなかった。
僕はリュックのチャックを引き、リボルバー拳銃を取り出す。
カチャリ…。
装弾数を確認し、
カチャ…。
銃を手に持ち、座って構える。
「全員、殺してやる。」
独り言が漏れる。言ってみたものの、言葉の重みが心に響く。
再び寝転がり、目を閉じると、いつの間にか眠気が襲ってきた。
外の静けさと、ランタンの灯りが、僕を包み込む。
テントの外を片付け、ランタンを消してから、再び横になる。
目を閉じると、冷たい風の音だけが遠くから聞こえてきた。
深夜 ケッカイ島
アルタイル王国から遥か遠く離れた孤島――ティード海賊団の本拠地、ケッカイ島。
広がる砂浜の先には、凶暴な魔獣たちが巣食う密林が立ち塞がり、さらにその奥の中心地には、たいまつの炎に照らされた木造の巨大な城が建っている。
沖には、黒く鈍く光る海賊船が静かに錨を下ろしていた。
砂浜では、ガーゴンとガウスが奴隷たちを叱咤しながら出航の準備を進めていた。
「はぁ、はぁ……」
肩で息をしながら荷を運ぶ奴隷に、ガーゴンが鼻で笑いながらワインをぶっかけた。
「どうした?ほら、さっさと動け」
赤黒く染まった布が冷たく肌に貼り付き、奴隷は言葉もなくうつむいたまま立ち尽くす。
「貴様らに人権などない。俺たちの駒なんだよ」
ガウスが軽蔑の色を浮かべて言い放った瞬間、奴隷のひとりが力尽きて地面に崩れ落ちた。
「ふん……こいつももう使い物にならんな」
「おい、こいつを森へ捨ててこい。魔獣どもにでも喰わせてやれ」
絶望に染まった表情のまま、残った奴隷たちが倒れた仲間を肩に担ぐ。その身体はまるで枯れ木のように軽く、細かった。
「こんな体格じゃあ、魔獣も食うところがなくて困るなぁ。はははっ」
ガウスの下卑た笑い声が、ガーゴンの同調するような嘲笑と混ざって響き渡った。
海賊船 船長室
巨大な玉座にだらしなく身を沈め、ティードは船の揺れに身を任せながら浅い眠りに落ちていた。
――ドォン!!
突如、銃声が室内に響き渡る。ティードは夢の中から跳ね起きると、寝ぼけ眼のまま天井へ向けて銃を撃った。
「クライスは俺の弟だ……俺が決着をつけなければならんのだ!」
重たい足取りで窓へ歩み寄り、勢いよく開け放つ。
「来い、ドラゴ!」
呼び声に応えるように、甲高い鳴き声と共に一匹の小竜が現れる。
「きぇええええ!!」
ドラゴが羽ばたく風が、部屋の中の書類を舞い上がらせた。
「ドラゴ、俺をクライスのもとへ連れていけ」
ティードの言葉を合図に、ドラゴはその小さな足で彼の右手をしっかりと掴むと、まるで嵐のような勢いで夜空へと舞い上がった。
アルタイル王国 アルタイル城 医務室 小窓
「……透明化解除」
窓辺に立つティードの姿が、静かに輪郭を取り戻していく。
目の前のドアはわずかに開いていた。歩兵がいつ戻ってくるかわからない。迷っている暇などない。早くとどめを刺さなければ。
「さらばだ、呪われた弟……そして、思い出よ」
その背後から、くぐもった笑い声がした。
「おい、船長ともあろう者が……俺の気配すら察知できねぇとはな」
扉の前に立っていたのは、にやついたダグだった。
「……酒でも飲みすぎたか?」
ティードは鋭い目を細めて睨みつけた。
「貴様などと相手をしている暇はない。失せろ、槍兵」
そして、詠唱が始まる。
「――ブラックボックス」
ダグも即座に応じる。
「――ドルフィンズ!!」
轟音が医務室に炸裂し、真夜中の城に激しい魔法と怒声が交錯する。
真夜中のアルタイル城 地下牢
ガチャン!
鉄の扉が音を立て、どこまでも続く闇の一角に拘束されたティードが放り込まれた。
「ぐおお……」
呻き声が響く中、鎧を鳴らして一人の剣士が立っていた。
「なんという怪物だ。貴様ひとりを捕らえるのに、騎士団と兵士たち総動員とはな」
クリスはあくびをしながら頭を掻き、ぼやいた。
「ぐっすり寝てたのに、手間取らせやがって」
ティードは顔を上げると、低く問いかけた。
「なぜすぐに殺さない?」
「陛下が目覚めた後、貴様を正式に処刑する。それが政府全体の判断だ」
そう言い残すと、クリスは振り返った。
「こちらも陛下の警備を固めるぞ」
メントが重々しくうなずいた。
「いつ海賊が奇襲を仕掛けてきてもおかしくないですからね。……しかし、歩兵だけでは心細い」
「我々も護衛に回る。二人とも気を引き締めろ」
ダグが大きく腕を振って歩き出す。
「クライスのところにはカノンがいるはずだ。さっさと戻ろうぜ」
独房の鍵を締めると、三人は足音を響かせながら廊下を進んだ。
「しかしダグ、貴様なぜ竹槍なんかで戦っているんだ」
「スリルを味わいたいからに決まってんだろ!」
そう言って笑うダグの横顔に、ティードとの一戦で死にかけたことへの屈託がちらついた。
「そしたらティードがいて殺されかけたけどな、あはは」
三人はそのまま医務室へと戻っていった。
AM3時 アルタイル城 上空
「今助けますぞ、ティード様!」
漆黒の夜空を羽ばたきながら、バードリーが叫んだ。
「羽爆弾で空爆を起こしてやる! きえええい!!」
ヒューン、ヒューン、ヒューン!
彼の両翼から放たれた羽の針が、鋭く空を裂いて飛んでいく。
無数の羽が城に降り注ぎ、次の瞬間――
ドーン! ドーン! ドーン!
爆発音が連続して響いた。アルタイル城の各所で火柱が上がる。
「早速来やがったな」
ダグが刀の柄に手をかけ、クリスが頷いた。
「始末してやるぞ。行くぞ!」
メントとカノンを医務室に残し、彼らは駆け出した。
「きええええい!!」
バードリーは飛び回りながら正門へ突入した。
ヒューン! どかーん!
「被害甚大! 騎士団に伝えろ!!」
「うわーっ!」
爆発の連鎖が兵士たちを混乱に陥れる。
「冗談だろ……城の中がめちゃくちゃだ」
クリスが眉をひそめる。すでに城の三分の一が崩れ、壁は瓦礫と化していた。
「この鳥野郎を捕まえろ! おら行け!」
怒号と共にダグが叫ぶ。兵士たちは慌てて動き出した。
「王子たちの護衛は!?」
「カノンと武装兵士がいる!」
ティードの元へ向かおうと、二人は再び駆け出した。
地下牢
「来たか」
暗がりの中、ティードが目を細める。
「今お助けしますぞ、我がマスター」
バードリーが羽ばたきながら降り立つと、その羽を金属のように硬化させ、鉄格子と錠前を切り裂いた。
「ぐおおおおおおおああああああああああああああ!!!!!!!」
ティードが咆哮し、身体が狼へと変貌していく。
「俺様がぁ!! キャプテン・ティードだああああ!!」
怒りに身を任せ、牢を飛び出す。
「動くな!」
兵士たちが剣を構えるが――
「グルルルル……」
唸り声を聞いた瞬間、彼らは恐怖で足をすくませた。
「ひぃっ!」
誰もが後ずさり、逃げ出す。
「王子と王女を人質に捕らえる。今すぐ城各地で爆撃を行い、混乱させろ」
「ケケケ、承知いたしましたぞ、マスター」
不敵に笑うバードリーは羽ばたき、再び王宮内へと飛び去った。
「ぐおおおおおおあああああ!!」
ドゴーン! ドゴーン!
ティードは拳で天井を破壊し、階上へと跳躍した。
子供部屋
「お兄ちゃん……怖いよぉ……」
サナ王女が震える声でつぶやく。
「大丈夫。カノンさんと僕がついてる」
王子ガルルは妹を庇いながら、小さな体を張った。彼とサナは、クライスと故マリアの双子の子供であり、中学二年生。大魔術中学校に通っている。
「大丈夫! 何があっても私が必ず守るから!」
カノンが鋭い眼差しで立ちはだかり、マチェットナイフを構えた。
ゴゴゴゴゴ……
「来る……!」
ドゴーン!!!
「ぐおおおおおあああああああああああああああああ!!!!!」
ティードが壁をぶち破って乱入した。
「きゃああああああああ!」
サリが悲鳴を上げ、ガルルも叫ぶ。
「わああああああああ!!」
「ハァッ!」
カノンがマチェットを振るう――しかし、その一撃はティードに掴まれた。
「……!?」
「俺様がこの程度の剣で傷がつくわけないだろ。失せろ」
バリン!
カノンの身体が勢いよく窓の外へと放られた。
「くっ……クリス、ごめんなさい……!」
ぼちゃん!
湖に落ちていく音が響いた。
「来てもらうぞ、餓鬼ども」
ティードは王子と王女の腕を掴み、窓から飛び出した。
「来い、ドラゴ!」
「キャアア!!」
小さな竜が飛来し、ティードのコートを掴んで空へと舞い上がった。
すぐさまバードリーが合流する。
「やめてぇ! おろして!」
ガルルが必死に叫ぶが、バードリーが口を歪めた。
「だまれガキ!」
「これで取引をする。探偵との交換だ。俺様を痛ぶったあの探偵に、地獄を見せてやる」
二十年前 アルタイル城 王宮
涼風が石畳を撫でる初夏の朝、若きクライス王子は重厚な王宮の大広間を歩いていた。二十歳の彼は、魔王討伐のため、旅立ちの挨拶に父のもとを訪れていた。
「魔王討伐へ向かう、クライス王子、勇者ルーシェ、銃士コロウ、魔法使いロイスの出発を認める」
玉座に腰かけるアルタイル王は、足を組み、無言の威厳を漂わせていた。右手には細い煙草。視線の奥に、どこか陰りのようなものが見えた。彼はクライスの実の父であり、先代の王である。
「感謝いたします、陛下。では、行ってまいります」
クライスは膝をつき、深く頭を下げた。彼は当時、国内でも指折りの魔力と身体能力を誇る若者であり、討伐隊への選出は当然と見なされていた。ただ、その気性の荒さは宮廷でもしばしば噂され、王の側近たちは少なからず危惧を抱いていた。
城門を抜けると、討伐の仲間たちが馬車の傍らで彼を待っていた。
「やっと来たか」
腰をかけていたコロウが立ち上がり、苛立ちを隠さずに言った。
「そんな軽装で大丈夫なの?」
魔法使いロイスが訝しむように眉をひそめた。
クライスは白い長袖のシャツに黒のジーンズという簡素な格好で、腰には煌びやかな剣を携えている。
ロイスは王国随一と名高い女性魔法使いで、長身に大きな杖を構えた姿は見る者に畏敬の念を抱かせる。
「これから魔王を殺しに行くってのに、危機感なさすぎだろ」
不機嫌そうなコロウが言う。彼はまだ25歳で、今のような立派な髭は生え揃っておらず、ショットガンを背にしていた。
「私はいいと思うけどな、かっこいいし」
鎧に身を包んだルーシェが微笑む。世界中の戦地で戦った経験を持つ女勇者で、その戦いぶりはしばしば“戦場に舞い降りた女神”と称された。
「うるせぇ、どうせ死なねぇだろ。グズグズしてる暇はねぇ。さっさと乗れ」
クライスはそう言い放つと、馬車に乗り込んだ。他の三人も無言で続く。
今から五年前、突如ハッタン王国の砂漠に“それ”は現れた。
まるで空から落ちてきたかのように、大地を砕きながら着地したそれは、巨大な蜘蛛の姿をしていた。六本の腕と、四本の足。異様なバランスで動きながら、怪物は辺りを蹂躙した。
「なんてことだ……あんな化け物が存在していたなんて」
フロスト将軍が呆然と呟いた。
怪物の口元から、よだれがとろりと垂れ落ちる。泣き叫ぶ三人の女エルフを無造作にくわえると、怪物は海へ向かって走り出した。
「撃てぇぇぇぇっ!!」
フロストの怒号が響いた。
砲撃の音が轟き、砂漠に煙が上がる。だが、それでも怪物は止まらなかった。
やがて海を渡り、無人島に上陸した怪物は、三人の女エルフを放り投げた。
「ギャアアアアオオオ!!」
奇声を上げると、その牙で一人を食いちぎった。残りの二人も巣へと運び、獲物として貪った。
以降、怪物は世界各地の国や都市を襲い、エルフたちを攫っては巣に引きずり込み喰らうようになった。
エルフたちはその怪物を“魔王”と呼び、世界中がその名に震えた――。
病室にて
「はっ――!」
荒く息を吐いて目を覚ますと、白い天井が視界に広がった。硬いベッドの感触と、消毒液の匂い。ここは……。
「悠くん! あ、ああっ……良かった……っ」
振り向けば、目に涙を浮かべた姫野がいた。頬はこけ、目元には明らかな疲労が滲んでいる。
「姫野……ここは病院か?」
「ちょ、ちょっと待っててください! 今すぐ先生呼んできます!」
そう言って姫野は慌てて部屋を飛び出していった。
後から聞かされた話では、俺は栄養失調で意識を失い、そのまま五日間も眠り続けていたらしい。命に別状はなく、点滴治療の後、俺はすぐに退院することとなった。
翌日 午前十一時 アルタイル王国 医務室
「……ん、んん……」
クライスが重いまぶたを開くと、木製の天井と、薬草の香りが鼻腔をかすめた。薄く湿った空気。ここは――医務室か。
「起きましたか、陛下」
控えていたメントが、椅子から静かに立ち上がる。
その直後、医務室の扉が勢いよく開いた。ダグとクリスが険しい顔で入ってくる。
「寝起きのところ悪いが、クライス。緊急事態だ」
ダグの声は切迫していた。
「ティード海賊団の襲撃に遭い、陛下のご子息が連れ去られました」
「……なに?」
クライスの顔から血の気が引いた。瞬時に全身に緊張が走る。
「おそらく、やつらの狙いは探偵――浪野悠だ。復讐と、完全なる抹殺が目的だ」
「交換条件を突きつけるつもりか……?」
「その通りだ」
ばさ――
クライスはシーツを払い、立ち上がった。
「まだ駄目です、陛下!」
メントが慌てて制止するも、クライスの意思は固い。
「探偵はどこだ?」
「……交換に応じる気か?」
「当然だ。子どもたちを取り返す。たとえ、悠を犠牲にしてでも」
その声には迷いはなかった。ただし、目の奥には言葉にしない苦悩の色が、かすかに揺れていた――。
警視庁・取調室
「おい、なんで山でぶっ倒れてた?通行人が見つけなきゃ凍死してたぞ」
取調室の重たい空気の中、釜野の声が鋭く響いた。机越しに睨みつけるその眼差しに、俺は一瞬、返事を詰まらせた。
「それは……」
「それともう一つ、気になってることがある」
釜野は椅子に体を預けながら、手元の資料をぱらりとめくった。
「例の誘拐事件で参考人を取り調べた後――お前はどこに行ってた?そいつはその隙に逃げた。都合が良すぎると思わねぇか」
確かに、おかしな点はいくつもある。俺が関わっていると疑われても、無理はない。
(どうする……異世界の話なんてすれば即座に呪いが発動する。ここは……賭けるしかない)
「実は……俺、今精神科に通ってるんだ」
「……精神科?」
釜野の目が細くなる。「そんな話、初耳だな」
「幼いころから、解離性同一性障害――いわゆる多重人格を患ってる。あの時のことも……まったく覚えてないんだ」
釜野はゆっくりと胸ポケットからメモ帳とペンを取り出す。
「……通ってる病院の名前は?」
「総合精神科病院」
(危なかった。灰田がいてくれて、本当によかった)
一週間前 飛鳥探偵事務所
「コンコン」
扉がノックされる音に、俺はタバコを灰皿に押し付け、ソファから立ち上がった。
「よう、久しぶりだな、浪野」
現れたのは、黒いコートに眼鏡姿、手にはケーキの箱を提げた男――灰田だった。
「悪いな、わざわざ来てもらって」
「いいさ。今日は休みだ。入っても?」
俺は黙ってドアを開け、背後でカチリと鍵を閉めた。高校時代からの旧友であり、いまは精神科医として働く男だ。
「……折り入って頼みがある」
「改まってどうした」
「俺はいま、例の連続誘拐事件を追ってる。けど、警視庁には事実を伏せて動いてるんだ。だから、灰田――お前に、偽の診断書を作ってほしい」
「……は?」
灰田の目が一瞬で鋭くなった。
「なに言ってんだよお前。そんなの無理に決まってんだろ。医者に偽造させてどうするつもりだよ。いくら友達でも、限度がある」
「わかってる……わかってるんだ……」
俺は頭を抱えた。
「……落ち着けよ。お茶でも淹れるか?」
椅子から立ち上がろうとした灰田を、俺は引き留めた。
「灰田。この事件のせいで、どこかで泣いてる人たちがいる。誘拐された子供たちだ……。俺は、諦めたくないんだよ」
「……」
「頼む」
俺は静かに、しかし深く頭を下げた。土下座だった。
「……少し考えさせてくれ。今日は帰る」
バタン、と扉が閉まり、灰田は静かに事務所を後にした。
現在 警視庁・取調室
「おい、確認取れ」
釜野が刑事にメモを渡す。しばらくの沈黙のあと――
「失礼します!」
姫野が勢いよく取調室に入ってきた。表情は硬く、声にも張りがある。
「どうだった」
「……事実です。悠さんは多重人格者でした」
「……そうか。本当だったんだな」
釜野は静かにため息をついた。
「よく協力してくれたな、その先生」
「私も……驚きました」
「安心しろ。このことは誰にも漏らさない」
「じゃあ……もう、出てもいいか?」
「今日のところはな。ただし……」
釜野は身を乗り出し、睨みつけるように問いただした。
「お前、本当に……何も知らないんだな?」
「しつけぇな、なんも知らねぇよ」
異世界・スモーク山
警視庁を出てすぐ、俺は異界へのゲートを開いた。
「久々の雪山だな……」
目の前に広がるのは、氷雪に閉ざされたスモーク山の山道。吹き付ける風が頬を刺す。
転移能力を使ううちに気づいたことがある。どうやら、転移先はある程度“意識”して選べるようだ。そして、この能力を使っても身体には何の負担もない。
つまり――いくらでも異世界を渡れるということだ。
ザクッ、ザクッ。
雪を踏みしめながら前へ進むと、背後に乾いた声が響いた。
「動くな、探偵」
振り向けば、猟銃を構えた老剣士――コロウがいた。
「じ、じいさん……なんだよ、いきなり」
続いて、雪の中からぞろぞろと兵士たちが現れる。
「悪く思うな。王子たちのためじゃ。来てもらうぞ」
馬車の車輪が雪を踏み、音を立てながら近づいてくる。
「……わかった、わかったよ」
俺は大人しく手を挙げ、コロウと共に馬車へと乗り込んだ。
正午 王都
馬車が王都の門をくぐったと同時に、兵士たちの鋭い視線が俺に集中した。何本もの剣が俺に向けられている。まるで犯罪者でも連行しているような扱いだ。
門の前では、騎士団のダグとクリスが待ち構えていた。雪を踏みしめる音も、どこか緊迫感を帯びている。
「来たな、イカれ探偵。」
ダグが皮肉交じりに言い捨てた。
クリスが手を上げて兵士たちに命じた。「あとはこちらで引き継ぐ。兵士たちは持ち場に戻れ。」
「は?」
状況が飲み込めないまま反応すると、バシッという音と共に、腕に激痛が走った。
「ぐぎぎぎぎっ……いてえええええ!! 何しやがる!!」
ダグが俺の腕を捻り上げながら低く囁く。「悪いな。こっちも人命がかかってるんだ。お前みたいな家畜は、絶好の駒なんだよ。」
「家畜だぁ? だったらお前も同じだろ、あぁ? その丸い耳が何よりの証拠だ。同類だよな、俺たち。」
ピキ……バキィッ!!
「ぎゃああああ!!」
ダグは躊躇なく俺の右腕をへし折った。激痛に崩れ落ちる俺の頭を、ダグの手が鷲掴みにする。
「いいか、クズ野郎。二度と俺を人間なんて呼ぶな。」
「……あはは、考えといてやるよ、“人間”さんよ。」
ダグの拳が振り上げられた、その時だった。
「いい加減にしろ!」
城の正門からクライスが現れ、怒声を響かせた。「さっさとそいつを王室へ連れてこい!」
俺は騎士団に囲まれたまま、王室へと連れて行かれた。
「まもなく、ティードが子供たちを連れてここに現れる。」
クライスが横に並びながら言う。
「交換ってわけか。」
苦しげに腕を抑えながら、俺が返すと、
「その通りだ。」
クリスが淡々と応じた。
王室に入ると、豪華な食卓テーブルがずらりと並んでいた。コツコツという靴音と共に、使用人が現れ、ワインを注ぐ。
静かな待機の時間が流れる。
――ドゴォン!
突如として王室の扉が吹き飛び、ティードが現れた。両脇にはロープで拘束されたガルルとサナの姿。兄妹は衣服も髪も乱れ、ボロボロだった。
「邪魔するぜ。」
「ティード!」
クライスが叫ぶ。「この探偵をやる! さっさと子供たちを解放しろ!」
「まぁ待てって。まずは腹ごしらえだ。」
ティードは子供たちの拘束を解くと、悠々と椅子に腰を下ろした。ガルルとサナはよろめきながらもクライスの元へ走り寄り、泣きながら彼の腕に飛び込む。
「ガルル……サナ……!」
クライスは二人を強く抱きしめた。
そして、ティードの前に“それ”が運ばれてきた。血の滲んだ肉の塊。人間の……。
「おう、来たな!」
ティードは歓喜しながら肉を手づかみでむさぼり始めた。ぐしゃ、ぐちゃ……咀嚼音が不快に響く。
最悪だ。このまま海賊に連れ去られるのか……?
――その時だった。
「お迎えに上がりました、船長。」
ゴツゴツとした体格の男が現れた。ガーゴンだ。
「探偵を連れていけ。」
ティードが命じたその瞬間、
「ですが、そうはいきませんよ。」
「……なんだと?」
ドォン!
岩が生成され、勢いよくティードに直撃した。ティードの体が吹き飛び、豪華な机ごと床に叩きつけられる。
「ぐおおおおあああ!!」
「貴様……ガーゴン……裏切ったな……!」
ティードが血を吐きながら立ち上がろうとする。その間に、クライスたちが剣を抜き、俺の前に立ちはだかった。
「この探偵の力は、貴様には渡さない。」
ガーゴンが背を向けながら答える。「悪く思わないでくれよ、船長。」
「ダイス、奴を叩き潰せ!」
クライスの号令と同時に、天井からサイコロの形をした奇怪な目玉が降りてきた。
ビーッ!!
ビームが王室を薙ぎ、ティードの周囲を一掃した。
クライスが合図を出す。「ダイス、やれ」
天井から、目を持った巨大なサイコロが降りてきた。
ビーッ!!
ビームがティードを焼き尽くすように放たれ、王室が白光に包まれた。
「ぐわああああ!」
その光の中で、ティードが叫んだ。――だが、それで終わりではなかった。
「ドラゴぉぉぉおお!!」
バリン!
窓が砕け、怒声とともに空を割って一匹の小さなドラゴンが飛来する。
「きえええええっ!」
ティードがその脚を掴み、ドラゴンは彼を抱えたまま空へと飛び去った。
「逃げられちまったな……」
ダグが剣を収め、肩を竦める。
クライスはガーゴンの肩に手を置き、ねぎらった。
「ご苦労だったな、ガーゴン」
ダグがぼやく。「ダイアリーでの戦闘じゃ死にかけたぞ。もうちょい手加減しろよ」
「手加減すりゃバレるだろ」
思考が追いつかないまま、俺は問う。
「……つまり、最初から海賊共のスパイだったってわけか?」
ガーゴンがうなずく。
「そういうことだ」
クライスが続けた。「ティードたちのアジトを探るために、王国の兵士であるガーゴンに潜入させていたのさ」
それでも聞かずにはいられなかった。
「……不本意とはいえ、人間の奴隷たちをこき使って心は痛まなかったのか?」
騎士たちが揃って俺を見て、まるで意味が分からないという顔をした。
「痛むわけがないだろう」
ガーゴンの冷たい声が響く。
「奴らは我々にとって“食事”だ。食い物に同情するか?」
「……」
その場を濁すように、ダグが席を立った。
「ちょっとトイレ行ってくる」
クライスが話題を戻す。
「ティードのアジトは特定できた。君の探している人間たちも、そこに捕らわれているだろう。我々は海賊を潰したい。君は奴隷を解放したい。手を組む理由はある」
「ふざけんなよ。俺を交換材料に使っておいて、今さら手を取り合おうって?」
「フフ……あれは演技だ」
そう言って笑みを浮かべる騎士たち。だがその笑みに、もう信頼は宿らない。
「だが、その前に君に頼みたい事案がある」
「今度はなんだよ」
「学園で、私の息子と娘の護衛をしてもらう。三ヶ月間。明後日からだ」
「子供の護衛? 俺一人で?」
「安心しろ。カイラが同行する」
「……あの騎士様がいれば俺なんていらないだろ」
「彼女は学生だ。授業中は護衛に回れない」
その時、静かに扉が開いた。
「失礼します」
入ってきたのは、白いワンピースを着た麗しい婦人だった。長い髪が柔らかく揺れる。
騎士団全員が彼女の前に跪いた。
「おお、ワンダ。具合はどうだ?」
「今のところは大丈夫。探偵さんに挨拶しておきたくて」
「ガルルとサナの母のワンダです。あなたが浪野悠さんね」
「苗字で呼ばれるの、久しぶりだな。じゃあ、あんたがクライス王の奥さんか」
「この国は今、海賊の脅威にさらされてる。子供たちのこと、お願いね」
「……そこの優秀な騎士たちに任せればいいじゃねぇか。なんで俺なんだよ」
「同じ時期に、私はハッタン王国で会合がある。クリスとメントはその護衛として同行する」
「ハッタン王国……?」
「砂漠の国さ。ほとんど水がねぇ」
ダグがトイレから戻ってきたかのように言う。
その時、扉が開き、鎧を着た騎士――カイラが姿を現した。
「戻りました。……探偵さん、よろしくお願いしますね。明後日、学園でお待ちしてます」
魔王を討ち果たし、英雄としてその命を散らした勇者ルーシェ。その子として生まれたカイラは、間もなくしてクライス王の側近・コロウに引き取られることとなった。
山奥にあるスモーク山の小屋で、コロウは少女に剣技と生き方を叩き込んだ。
──七年後。
カイラが振り下ろした薪割り斧が、乾いた音を立てて木を裂いた。
「そうだ、だいぶマシになってきたな」
雪が積もる小屋の前で腕を組むコロウの声に、カイラは不満げに顔をしかめた。
「おじさん、薪割り飽きちゃったよ……そろそろ銃とか魔法とか教えてよ!」
目を輝かせるカイラに、コロウは少し笑ってうなずいた。
「そうだな、もう薪はいい」
「やったー!」
少女は地面をぴょんぴょん跳ねながら喜びを爆発させた。
――こうしてカイラは、戦術魔法と銃器の扱いを学び始めた。
二ヶ月後。
吹雪く山のふもとで、大剣を構えたカイラが叫んだ。
「ふんっ!!」
ザンッ――!
斬撃が放たれ、鋭いエネルギーの線が雪山を裂いた。
瞬く間にひび割れが走り、斜面が大きく崩れ落ちていく。
「信じられん……」
傍で見ていたコロウは、ただ呆然とつぶやいた。
「七歳の子どもが……クライスや、俺を超えただと……?」
カイラは無言で剣を納め、静かにその場を後にした。
──さらに六年が過ぎ、カイラは十三歳に。
大魔術学校ルーン中等部へと進学した。
夕暮れ時。スープがことことと煮える小屋で、コロウがふと口を開いた。
「もうすぐ飯ができる。手伝ってくれぇ」
「はーい」
本を棚に戻し、カイラは軽い足取りで台所にやってくる。
だが、コロウの顔はどこか硬かった。
「カイラ、お前に……伝えねばならんことがある」
手に持っていたスプーンをぎゅっと握りしめ、彼は深く息をついた。
「おじさん……? どうしたの?」
「……お前の母親のことだ」
「……!」
それは、いくら聞いても教えてくれなかった話。カイラの瞳に緊張が走った。
「お前の母親の名は、ルーシェ。かつて俺と共に魔王を討伐した仲間だった」
「冒険の最中にお前を産み……そして魔王との最終決戦で命を落とした」
「だが、魔王は最後に“禁忌魔法”タイムトラベルを使い、未来へと逃れた」
「……」
「ルーシェは最期の瞬間、お前を俺に託した」
「……なんで今になってその話を?」
「お前が……強くなったからだ。もう、すべてを背負うだけの力を持っている」
「魔王は……今も、生きてるの?」
「多分な」
カイラは膝に乗せた手をぎゅっと握り、拳に力を込めた。
──翌日。
大魔術学校ルーン 中等部 Aクラス。
「おはよう、カイラ」
陽気なクラスメイト、アレンの声にカイラはゆっくりと顔を上げた。
いつも元気な彼も、今日はどこか沈んでいる。母親のことを気にしてくれているのだろう。
「……よう」
「おはよ、カイラ! はい、これ!」
八百屋の娘・アリスが差し出したのは、育てたばかりの果実。
「商品持ってきて大丈夫なのか?」
「大丈夫、大丈夫! 朝ごはん食べてないでしょ? これで元気出して! 辛いときは、私たちが話、聞くからさ!」
「おはよう、カイラ! 調子はどうだ?」
ガラガラと教室の扉が開き、ギャバットとカノンが姿を現した。
カイラはふと、窓の外を見つめた。
(そうだ……まだ、守るべき日常がある。守るべき、エルフたちが……)
「どうした?」
アレンが不思議そうに尋ねる。
カイラはひとつ深く息を吸い、答えた。
「……なんでもない。ただ、もっと強くならなきゃって思っただけだよ」