ベルズーフとベラムトの軍勢が来てからというものの慌ただしかったヴァン・ウィルベートの喧騒は最高潮に達していた。ついにこの空前絶後の軍団が動き出そうとしていた、出陣は明後日、この軍勢がすべてを決めるだろう。
「兵糧に装備すべて予定通りです。」
「そう。前線は?」
「ハルード要塞のクレッチマー将軍から異常なしの報告が上がっています」
「出てくる気配はなさそうね」
「えぇ今の王国にハルード要塞を落とす力もないでしょう。しかし同時に、王国が国境付近に兵を集めているとの報告も上がっています」
「やはり、ザントン要塞周辺での決戦か……ゼフォル、貴女の言う通りになったわね」
「別に、元帥閣下や両大将も考えづいていたでしょう。私はきっかけを作っただけにすぎませんよ」
ゼフォルはエスメルの執務室で軍勢についての最終確認を行っていた。
「まさか皇帝陛下自らヴァン・ウィルベートまで来ることになるとは」
「帝国きっての一大軍事作戦だからよ。これで今回の戦、ご親征までの大事になったわ」
ヴァン・ウィルベートの兵力集結はほとんど済んだものとゼフォルは思っていた。ベルズーフの本隊の数は15万に及び、両大将の10万ずつの合計35万に上った。それだけで大した戦力だが、此処にさらに帝都からバルグリフ陛下が近衛師団を含んだ5万を率いてヴァン・ウィルベートに入城する手筈になっていた。流石に皇帝自ら最前線にはいかないものの、主力が出払う間このヴァン・ウィルベートに駐屯することになっている。すなわち帝国軍は35万の精鋭を全て王国にぶつけることができるということだ。
前線に出ない戦力もいるとはいえ、帝国は東部に総数40万の大軍を用意していた。
それにしても皇帝陛下も剛毅なものだとゼフォルは思っていた。二年前のヴァンダル高原の戦といい、おそらく彼が皇子だったらこの戦いの前線に出ていただろう。代わりと言わんばかりにユースクリフ殿下がベルズーフの保護下で出陣するらしい。
「しかし、お嬢様、皇帝陛下のお出迎えはどうしましょうか?兵隊にとってうまい飯と寝床はしっかり用意しましたが、陛下にも同じものをだしますか?」
「んなわけないでしょ⁉」
「まぁ、冗談は置いておいて本当にどうします?我々も明後日には出陣ですけど」
ゼフォルの一番の心配がこれだった。ただヴァン・ウィルベートの留守番に5万の兵を動かしてくれるなら天幕も食料もあるから私たちが戦果を挙げるのをそこで見ててねと要塞の守備を任せればいいだけだ。しかし皇帝自身が来るとなると歓待やら何やら準備しなければならない。
「そこは心配しなくていいわ。お母様を歓待に当たらせるから」
「メイドちょ……エルシア様がですか、なら安心ですね」
なじみ深い役職で呼ぼうとして慌ててゼフォルは言い方を変えた。今やエルシアは当主の母親という貴人だ。軍で大佐の階級があっても公爵家に仕えているゼフォルより地位は上なのだ。
それはそれとしてバルグリフ陛下の歓待に関してもエルシアが担当するなら安心だろう。皇族のその次に偉い公爵家のそういった催し事を取り仕切っていた上にあの完璧ぶりなら相手が皇帝であってもそつなくこなすだろう。
「まぁけどそのせいで私の書類はダース単位で増えたわ」
「ご苦労様です。紅茶でも入れましょうか」
「頼んだわ」
「少々お待ちください」
そろそろエスメルも休憩するべきだろう。ゼフォルはいつもの御茶を淹れにエスメルの執務室を後にした。
「ふぅ……行ったわね」
お茶を淹れに言ったゼフォルを見送ってエスメル張り巡らせていた緊張を一気にほどいた。帝国がこの一大決戦に挑もうとしている中、一番の心配事はゼフォルだった。
彼女の事だ。その忠誠心の高さでエスメルを功績一位にするためなら何でもやるはずだ。エスメルが望もうと望まざろうとも。
いの一番にアルセリアの援軍に立候補したのもその一環だろう。参謀長だろうが最前線にゼフォルを出すのは妥当な判断だ。クレッチマーも十分任を果せるだろうが、やはり前線で動かすなら彼女以上の人物はいない。
なのにエスメルはゼフォルを手元に置いていた。理由は単純で下手に功績を上げさせないためであった。
今のところ彼女はエスメルの傍仕えに満足してくれている。終戦までこのままだ助かるのだが。
そうこうしているとエスメルの執務室がノックされた。どうぞと招き入れると、そこにはある憲兵の姿があった。
「お久しぶりです。エスメル閣下」
「……えぇ久し振りねアティア憲兵大佐」
そこにはゼフォルの釈放にも協力してくれたアティア憲兵大佐がいた。
自然と声が強張ってしまう。たかが大佐といえど、彼女の会話するのはそこらの将官と話すより緊張する。
「今日は何の用かしら?」
「中央からの言付けを授かっております」
アティア憲兵大佐とはただの憲兵大佐ではない。皇帝にほど近い憲兵総監のお気に入りにして手足であり目でもある。そういった役割を授けられている。普段の真面目で素直な憲兵さんのイメージは演技か性格すら使い分けているにすぎない。ゼフォルはかなり彼女を気にっているようだが、その本性を知らないのだろう。とにかくアティアとは一定以上の役職を持つ者への中央からのメッセンジャーとして帝国の高級将校から恐れられていた。
エスメルも彼女から皇帝の密命を何度も受けていたし、ゼフォルの管理について口を出されたことも何度もあった。
「……聞きましょう」
「中央は既に戦後について考えておいでです。つきましては今回の大戦の功労者であるエスメル閣下の戦後の役職についてです」
「まだ戦いは終わってないのに気の早い話ね」
「なせるだけの戦力をすでにおくりこんだと中央政府は判断しておるのでしょう」
エスメルの言葉にアティアも少し困ったように返した。よくよく考えれば、帝国内の中央の実力者と地方の実力者双方の相手をしなければならないのだから相当に大変な仕事だろう。とエスメルは中央の大臣たちの顔を思い出す。彼らも有能には違いないのだがやはり専門が違うのか、どうしても武官たちとは温度差があるのだ。
「それで私の戦後の役職だったわね、どうなるのかしら?」
「英雄たる閣下にはいろいろ候補があります。王国占領軍総司令官、中央第一軍総司令官、近衛師団長、そして征東大将軍」
つらつらと錚々たる役職をならべるアティアにエスメルは一瞬で中央の真意を理解できた。いやクレッチマーに相談しなければわからなかったかもしれない。前三つはまさに栄転といって良かった。
「この中から希望はおありでしょうか?出来るだけ閣下の意見を取り入れる用意があります」
「征東大将軍と伝えておいて」
「⁉……それはそれは」
提示された中で一風変わった古風の役職の名をあげるエスメルの回答にアティアが一瞬、顔に驚愕を浮かべたのを見逃さなかった。
征東大将軍とはずっと昔にあった役職だ。任命されたのは帝国の歴史上ただ一人、エスメルの先祖にしてウィルベート家の開祖であるピエール・ウィルベートだけだった。
彼は王国が建国されその勢い目覚ましいときに東部を任され、王国と渡り合った。そんな時期に時の皇帝に与えられたのがこの役職だった。内容は帝国東部の軍事権に行政権、さらに王国から切り取った領土も同様の権利を与えるというすさまじいもので類似する役職すら存在しないピエールだけが任された役職だった。
しかしそんな役職も今では名誉職に過ぎない。長い年月で変わっていく帝国法によって当時でこそ必要で絶大な権限があったが、今ではかつてあったから名が残っているだけでノースラン公爵家が賜った大公家と同じように今では碌な権限が残っていない名誉職だった。
こんなものをわざわざ提示するあたり、中央もいやバルグリフ陛下もエスメルの進退について思うことがあったのだろう。
「意外でした、まさかこの役職をお選びになるとは」
「私も十分出世したわ。それに現代で征東大将軍になって終われるなら悪くない」
ある意味これはエスメルを若くして引退に追いやる事へのバルグリフ陛下なりの心遣いだろう。
エスメルの戦後についてクレッチマーと色々話し合ったが、結局エスメルは出世しすぎた。影響力の少なめの役職に就こうとすると、どんなものでも実質的な左遷や降格のように見えてしまうからだ。
別にエスメルは今更気にしないが、ウィルベート家の威信に傷がつくし、信賞必罰をおろそかにしては他の家臣達の不審を抱かせる可能性があった。
だが、征東大将軍は、名誉職だとしても武門に与えられる役職として最高のものだ。なにせ授かったのがピエールしかいないし、皇室はエスメルをピエールに並ぶ英雄だと認めたようなものだからだ。ウィルベート家の面子も大いに立つだろう。
「ふふふ、ゼフォル大佐の上官だからどうかと思いましたが、エスメル閣下が謙虚なおかげで多くの人が胸を撫で下ろすでしょう。今回の件しかとバルグリフ閣下に伝えます」
「ええ、頼んだわ」
そう心底安心したように答えるアティアに、自分とクレッチマーは間違ってなかったとエスメルは無でを撫で下ろした。
中央政府やバルグリフ陛下と意見を同じにするならば、戦後エスメルがどうこう疑われたり、火種になったりすることは無くなるだろう。
それに名誉職とはいえ武門の最高位と言っていい役職はかなり多額の給金が出る。これと公爵家の収入があればきっとエスメルはゼフォルと幸せに暮らしていけるはずだ。
「最後にお節介かもしれませんが、ゼフォル大佐の手綱の握り様まさに見事の一言です。おそらく本当にお二人は信頼し合っているのだなと外野の私でもわかります」
「本当にお節介ね。貴女にゼフォルの何が分かるの?」
ゼフォルのことを言われて、エスメルはつい語気が強くなってしまった。自分の役職にどうこう言われるのはどうでもいいが、ゼフォルとの関係に口出しするのはデリカシーがない。
特にこの憲兵大佐はその仮面で目下にはなんだかんだで優しいゼフォルをだましていたのだ。
「失礼いたしました……ですが私がエスメル閣下とゼフォル大佐を尊敬しているのは本当です。戦後も幸せになって欲しいと思っています」
「貴女に言われるまでもないわ」
「ええ……そうかもしれませんですが言わせていただきます。決してゼフォル大佐の手綱をこの戦いで緩めないでください。彼女は本来、誰にも従わぬ恐ろしく鋭い一振りの刃、それが今閣下という鞘に奇跡的に収まっているのです。そんな印象があります」
あんまりにずけずけ言うアティアにエスメルは怒ろうとしたが、あんまりにもアティアが真剣で、どこか憂いを帯びた顔をしているため、何も言うことができなかった。あの冷酷な憲兵大佐殿もこんな表情をするのかとただそう思ったのだ。
「王国は今更どうにでもなるでしょう。しかしその後の世界が平和に収まるかどうかは閣下にかかっています。これは事実です。どうか帝国のため、閣下ご自身のため、そしてゼフォル大佐のためこれだけは覚えておいて欲しいのです」
「ええ……わかったわ」
憲兵としてか、1人の帝国国民としてかはわからないが懇願するようなお願いにエスメルは是と返した。