ゼフォルは自身の天幕で震えていた。手元にあるのは密偵部隊のある報告書、その書かれた内容に、戦慄すらしていた。
「こ、れは……本当なのですか?」
「は、たしかな情報です」
報告書を持ってきた密偵に震える声で確認する。ここ最近、密偵部隊の指揮ばかり執っていたので、彼らを信用している。その信憑性は高かった。
その報告内容はロッソ王国のハルディン王子がこの南方に逃れており、ゼフォルが見つけた隠し道をつかって王都に逃れようとしているということが書かれていた。
結局ゼフォルはあの隠し道をエスメルに報告しなかった。どうせ却下されるのが目に見えているし、結局兵を送れないなら用のない情報でしかない。しかしそのことがどうも後ろめたく、万一ここを通って王国軍が進軍してくる可能性があるので常に密偵部隊に監視はさせていたがどうやらこれが功を奏したらしい。
王国はこの道をまだ帝国にばれてないものと思ってまんまと皇子の脱出路に使ってしまったのである。
「良い成果です。しかしこのことは絶対に多言しないように。私がエスメル閣下に伝えておきましょう」
「ははっ」
「これはお礼です」
そう言ってゼフォルは金貨を何枚か彼に握らせた。察しの良い彼はこれだけでゼフォルの言わんとすることが分かっただろう。
「お、お待ちください。私は密偵としての任を果たしたまでです。このようなものを受け取るわけには……」
「いいから受け取っておきなさい。これを握るだけの価値がこの情報にはあるのです」
彼の人柄はよく知っている。少なくとも賄賂を受け取るような性格でない、でもなければゼフォルが信頼などしないからだ。けど今日はこれで良かった。それだけ価値のあるものだったし、なによりこの情報を他に漏らすわけにはいかないと早くも確信していた。
「黙って受け取りなさい。こうして稼げるのもこれが最期かもしれませんよ」
「……わかりました」
殺気を帯びた瞳で睨みつければ彼は恐る恐るといった様子でそれを受け取り退出していった。
密偵が退出した後一人になった天幕でゼフォルの頭は恐ろしいほどに回っていた。ここ周辺の王国兵の数と配置もゼフォルはよく知っていた。すでに王子が使おうとしている抜け道周辺も帝国軍の占領地が過半を囲っている。そこから導き出される答えは王子はろくな護衛を連れず、少数で抜けていくということだった。
ゼフォルは己の手のひらをかざして点を仰いだ。白魚のようにしなやかな自慢の美しい手のひらだ。幼いころは剣だこなりなんなりあったが今では完全に馴染んだのかシミ一つない。だがこんなのは表面上の美しさに過ぎない。ゼフォルの手は切り捨てた敵兵の死体で真っ赤に染まっている。そのことに後悔はない。すべてゼフォルを英雄たらしめる為の勲章だ。誇ることはあれど恥じることもない。
そしてこの手は十数人程度の敵兵ならなんなく切り裂ける。特にこの二年、ゼフォルはずっと戦い続けた。多くの猛者と渡り合い、殺し、仕立て上げてきた。
いま手元に自由に動かせる兵はいない。だがハルディンを守る少数の護衛を屠るのに兵隊は不要だ。この両手だけですべて葬ることができる。
あの抜け道は使えると思ってずっと地形を調べてきたのだ。地の利もある。もはやゼフォルは王国の第二王子を殺そうと思えば殺せるのだ。
そう思って頭の中ではハルディンを殺す計画が続々と立てられていく。どうやって殺すか、いつ決行するか、何が必要か、次々と考えが生まれていた。
だがその思考の中にノイズが紛れ込んでいた。いやこのノイズがメインと言っていいかもしれない。ハルディンを殺していいのかどうかという問題だった。密偵部隊を動かしていたからこそ彼の王国での評判はよく聞いている。かつて悪魔の給仕を撃退し、帝国軍35万の侵攻にも臆せず立ち向かった勇敢な王子、敗れたと言えど未だその人気は絶大だった。
彼を殺す等本来ゼフォル一人で判断していいものではない。それだけの戦略的価値が彼にはあった。殺せば王国の民は彼の死を嘆き悲しみ、反帝国のシンボルとして祭り上げ、徹底抗戦をするかもしれない。もしくは彼に希望を抱きすぎて、その死によってすべてをあきらめて降伏するかもしれない。だがどちらかと言えば前者の可能性が高かった。
気が付けば軍の倉庫にゼフォルは一人ふらりと入っていた。番兵に見つからないようにするりと裏口から侵入する。この陣地を作ったのもゼフォルだ。この程度、たやすいことだった。
陣地の中でゼフォルは脳内の考えに従って必要なものを揃えていった。頭の中の理性はこんなことやめろと訴えかけてくるが、その手は止まらない。
おそらくエスメルはこんなことをしても喜ばないだろう。彼女は昔から無欲で節度というものを知っていた。最近ゼフォルの策を用いない理由も薄々わかってはいた。すでに帝国軍大将になりウィルベート家の名はこの上ない程に高まった。ゼフォルと違って感性が善良な彼女はこのまま王国が降伏して平和が来ることを望んでいる。
そしてそれは彼女一人の意見ではない。帝国も王国も長い戦いでくたびれてきている。この大陸に住む多くの人々の願いだった。
ハルディン王子の情報をエスメルに伝えても丁重に捕虜にするか、和平交渉の準備をさせるために王都への道を素通りさせるかもしれない。少なくとも殺すことを許可しないだろう。
だがゼフォルはエスメルとの戦いがこんなところで終わってしまうのが悲しかった。ここでハルディンを殺せば、王国は帝国に徹底抗戦をしかける。そうなればもう二、三回は二人で戦争をできるのだ。そこでさらなる功績を立てればウィルベート家はさらなる躍進を遂げる確信があった。
「お嬢様、この広い世界で私は貴女に出会えました。二人一緒ならすべてを相手にできる。そう思えてならないのです……ごめんなさい」
ゼフォルはこの2年間、本当に楽しかった。大陸中を転戦して、世界にはこんなに戦う場所があるのだと知ることができたからだ。しかしその戦火ももう消えようとしていた。
この世界で不義の子とその専属メイドという異色の組み合わせで、合わせればすべてを捻じ伏せる程の才能がそろったのだ。こんな奇跡はそうないだろう。
それなのにたかだか帝国軍大将で終わったらもったいないじゃないか。そうゼフォルは感じていた。
それを証明するためなら王国の民がいくら死のうが帝国兵がいくら死のうがどうでも良かった。だから最後の謝罪の言葉はこれから燃やす世界に向けてではなく、エスメルに対してであった。
準備を整え、ゼフォルはかき集めた装備を自分の天幕に密かに運び込んだ。
「お嬢様」
「なぁに?」
「少々休息をいただきたいのです」
「貴女はずっと働いてたから別にいいけど……どういう風の吹き回し?」
「空前絶後の大軍に囲まれてたせいか、熱くなりすぎた気がします。閣下から見ても軍議や態度にも表れてたと思います」
「えぇそうね。最近の貴女は少々焦っていたわ」
「参謀長としてこれはいけないと思い。少し頭を冷やしたいのです」
「それは良い心がけね。ゆっくりしてらっしゃい」
「は。失礼します」
休憩の許可を貰ったゼフォルはもちろん休息などしていなかった。王国の南部の王都に向かう抜け道、そこで息を殺して近くの茂みに身を隠していた。
すでに準備は完了した。あとは彼を待つだけである。しかしゼフォルはこの期に及んで酷く悩んでいた。
ついにゼフォルはエスメルにすら嘘をついてしまった。休憩中どこにいてもいいではないかと言い訳はできる。しかし己の本心に嘘はつけない。
いっそハルディン王子がここを通るのが誤報であってほしいとすら思っていた。そうすれば本当にゼフォルは変なところで散歩してただけになるのだから。
異様に時間の流れが長かった。何回もおとなしく帰ろうと思った。
そんなゼフォルの内心をあざ笑うように、フードを深くかぶった騎兵の一団がこちらに向かっていた。
急いでいつもの望遠鏡をのぞいて様子をうかがう。人数は5人ほど、しかしかなり質の良い装備をしているのが分かった。
どんどん近づいてくる。だんだん何か話しているのか声も聞こえてきた。馬の足音を排除するように耳を澄ませた。
「王子!あともう少しで抜け道です!」
間抜けが。そう内心でつぶやいたゼフォルは仕掛けの紐を手に握った。
ゼフォルとエスメルの新たな世界を開くカギが目の前に来ていた。絶対にしくじる気はなかった。獲物を前にして先ほどまでの迷いはすっかり消えていた。
もう目と鼻の先にいる完璧なタイミングでゼフォルは仕掛けを起動した。
「うわわぁぁ!」
「な、なんだ⁉馬が!」
それまでななにも無かった街道に土煙が起こると突如鉄線が張り巡らせた。ゼフォルが倉庫から持ち出したものだった。騎兵を防ぐための、太い有刺鉄線である。ゼフォルはこれを丁寧に道に埋め込み、突如飛び出してくる仕掛けとしたのだ。
目標の機動力は奪った。高々5人程度ゼフォルの相手ではない。もうこいつらは詰みだ。
ゼフォルは愛用の曲剣を抜いて目標に歩み寄った。
「ハルディン王子ですね?」
「貴様は……そうか悪魔の給仕だな」
明らかに中央にいて護衛されていた男にゆらりと歩み寄る。落馬の衝撃でフードは脱げていた。あの日以来忘れたことはないハルディン王子がそこにいた。
「お、王子!お逃げください!」
「お前たち!下がれ!」
「なぜです!我らが死力を決して足止めします!」
「相手はガルセルを一人で破った猛将だ。もう逃げられんよ」
そういうとハルディンはゼフォルを正面から向き合った。王族だからか王族の癖にというべきか驚くほど肝が据わっていた。
「あきらめはつきましたか?なら一思いに……」
「私はここで死ぬわけにはいかない。通してくれ」
「なにを……しているのですか?」
向き合ったハルディンはゼフォルの顔をまっすぐ見つめると突如跪いて頭を地面に擦り付け、両手を地面に会わせて土下座をした。
殺意に染まっていたゼフォルの思考に冷や水をぶっかけられた。ただただ殺すと真っ直ぐだった思考がこんがらがり、困惑に染め直されていく。
「あ、あなたは王族でしょう⁉それが何を一介の……それも悪魔の給仕に土下座をしているのですか⁉」
「王族だからこそだ!私はこれから王都に戻って父上と家臣たちを説得し、講和の草案をまとめ上げなければならない!ガルセルがいなければ貴様に討ち取られていただろうこの命、いまさら惜しくはない!だが民の命は惜しいのだ!」
その言葉にゼフォルは衝撃を受ける。
王族なのにあまつさえ敵に土下座する人間が此の世にいるというのか。同時に私利私欲で戦争を広げようとする己がどれだけ醜い怪物なのかを嫌でもわからされてしまう。
王国ももう戦争は続けたくないのだ。もはやゼフォルは帝国で異端の考えを持っているのではなく、この大陸での異端になっていた。
急速に困惑していた心が自己嫌悪に落ちていく、敵国だが立派な人間はいるのだ。そんなことダリウスを見たときから知っていた。
しかし討ち取ろうとしていたハルディンは立派な君主でゼフォルは戦火を広げんとする悪魔だった。こんな差はあんまりじゃないか。
だがもう決めたことなのだ。ここでハルディンを殺す。 ゼフォルはまるで防衛本能のように思考を塗りつぶしていく。怒りによってである。怒りの炎で全身を焼き尽くさなければ、己の美貌から醜い怪物があふれ出してくるような気さえしていた。
今さら聖人君子気取ったからなんだというのだ。ハルディンがあの日おとなしく殺されていればゼフォルはこんなに苦しむことはなかった。あそこで王族を殺し、大きく士気を落とした王国をそのまま押し込んで王都を落としていた。そうなればゼフォルはこの時代最大の英雄になっていたのだ。
そのチャンスを奪ったのはお前だ。お前が私をここまで引きずり下ろした。それなのに今さら土下座して命乞いをするのか、あまりにもできたお涙頂戴エピソードと共に。
「講和……ですか、確かに万民はそれを求めているでしょうね。他の帝国将校なら見逃したでしょう。しかし来る平和は私になんの価値もない」
「このままでは帝国の兵も多く死ぬぞ、悪魔」
「悪魔……ですか、私はそれに魂を捧げるメイドですよ」
理不尽すぎる怒りを心に燃やしながらハルディンを殺すために曲剣を抜く。護衛の兵も慌てて立ち塞がろうとするが、ゼフォルの相手ではない。全員まとめてここで殺す。
そう思ってとびかかろうとする。
しかし次の瞬間、ゼフォルの本能が凄まじい殺気を感じ取り、反射的にそちらに曲剣を振るう。
凄まじい轟音と共に視界が見慣れた紫の閃光に包まれた。