ノルン平原の戦況は大きく動いた。
それまでジリジリと睨み合いをしていた両軍であったが、ついに公国軍が大きく動き、闇夜に紛れてあっという間に撤退したのである。ここに関しては公国軍の特色があまりにもうまく働いた。
騎兵を中心にしてそもそも国家の構成員すべてが万年移動しながら暮らしているのだ、高々7万ほどの大移動など苦ではないかのようにあっという間に荷物をまとめて引いていった。
降将であるゼフォルにはまともな荷物がもないため、撤退準備を開始する公国軍をまじまじと観察できた。
かつてゼフォルはアルセリアと共に5千の兵で慌てて撤退をしたことがあった。あの時は帝国軍第二軍きっての精鋭部隊と、アルセリアとゼフォルという稀有な指揮官が率いたのもあって、何とか撤退に成功した。しかし公国軍は10倍以上の兵士を抱えつつも同じくらいのスピードで引き上げ準備を行っていた。
このとてつもないスピードの撤退に帝国軍は対応できなかったのだろう。10万近い大軍なのだからなおさらだ。帝国の追撃はなかった。
すでにかつての陣地からかなり離れた地点を公国軍はぞろぞろと轡を並べて撤退していた。その中でもガルド族達の本隊の中で族長であるカユンの隣にゼフォルは控えていた。
これまでと違って馬を与えられており、それにゼフォルは騎乗していた。しかしカユンの周りは腕利きの精鋭で囲われており、なによりゼフォル自身も怪我人の警護という名目で周囲を兵隊で固められていた。
「すさまじい速さです」
「ふん、我らにとっては当然の速さよ、むしろ帝国や王国の連中が遅すぎるのだ」
だが今さら周りを兵で固められようがゼフォルにとって気になることではなく、なんてことのない率直な感想を言えば、カユンからも素っ気ない返事が返ってきており、周りの兵も咎める様子もない。
すでにゼフォルは族長の知恵袋として認識されており、族長の傍に侍っていても特に気にする者はいないし、むしろ馴染んですらいた。
「そんなどうでもいいことよりだ。ゼフォル、貴様の為にガジュの連中どもにこの作戦を納得してもらったぞ。これより公国軍全軍、ピレンネ山へ攻撃を仕掛ける」
「我が策聞き入れてくださり感謝いたします。公国出身のカユン様なら当然かもしれませんが、この速さに帝国軍はついていけないでしょう。この奇襲、必ず成功いたします」
「当然だ」
そっけなく返すカユンだが、降ってからというもののカユンとばかリ話していたゼフォルからしてみれば表情が少し緩んでいるのがまるわかりだった。
「私はガジュ公国上層部のことは良く知りませんが、良く許可が下りましたね」
「いや、軍議では荒れに荒れたさ、ガジュ族の連中も焦っているのか俺に功績を渡したくない者、この拮抗状態を打破したい者で真っ二つだ。王国の連中はもはやあたふたしているだけで求心力にかけている。そこで俺があつめた物資で得た協力者達と一押ししてやればすぐよ」
案外ガジュ公国の上層部の動きは思った以上に酷いようだった。かつてゼフォルが帝国軍にいたときは、正面戦闘はともかく高機動による搦め手で翻弄してくる厄介な相手という印象だったが、所詮は新興国というわけだ。ちょっとした拮抗状態でも堪え性というものがない。
まぁ仕方ないことだろう。ガジュ公国の上層部は主に各氏族の族長たちであって、彼らは何も戦争だけしていればいいというものではない。族長として一族の内政も面倒を見ないといけないのだ。
少なくとも帝国軍はすべて職業軍人で固められており、多少の功績争いはあっても過度に焦ったりはしない。なにせ戦うことが仕事だからだ。
「情けないことです。今回は少なくともカユン様が仕切ることになって良かったと思います」
「見え透いた世辞だな」
世辞といいつつ、カユンも悪い気はしてないらしい、さらに機嫌が良くなっているのが分かる。
確かにゴマを擦っている自覚はあるが、ゼフォルは別に嘘を言っているわけではなかった。カユンはとにかく決断力がある。降将であるゼフォルを重用しているのもそうだし、今回の作戦といい、行動が速い。
少なくとも聞いているだけで王国から派遣された士官らと一緒になって右往左往している公国という寄り合い所帯を纏めるのならば、まだ見ぬガジュ族の連中よりもカユンの方が適していると思っていた。
「で?今回のピレンネへの奇襲、何か策はあるのか?」
「とにかく速度を最優先にするべきです。このノルン平原でピレンネ山の盆地は珍しい形をしていますが、そんなに広い土地というわけでもありません、7万の大軍が入ればあっという間に手狭になるくらいの面積です。物資を運びきるのにも困りません。強いて言うならば長居は無用です」
「物資に目をくれるなということか?ただでさえ集めた物資を配っているのだ。できれば多く運びきりたい」
「いえ、この地を攻撃されれば帝国は必ず大軍を差し向けます。その足は遅いかもしれませんが、万一もあり得ます。そしてご存じの通りピレンネの山間部は騎兵にとって死の地です。追いつかれるわけにはいきません。それに物資問題ならば心配いりません」
「それはなぜだ?」
「カユン様はすでに多くの物資を公国軍全体に捧げました。まさか今回の作戦で肥え太ったほかの氏族がガルド族に物資を要請されて断れるはずがありません。特にガジュ族が出し渋ればそれを材料に宗主としてふさわしくないと批判すればよいのです。物資の運び出しなどほかの氏族に任せて問題なく、策の発案者という実績は確実、今回の作戦始まった時点でカユン様とガルド族には栄光が約束されているのです」
「フハハ!そうか!」
よほどゼフォルの発言が気に入ったのか、カユンはついにその冷静さをかなぐり捨てて笑い出した。さらにゼフォルは畳みかける。
「それに……失礼、この場の護衛の皆様はカユン様の信頼に足る達ですか?」
「あぁもちろんだとも」
「ならば遠慮なく……もしピレンネ山で帝国軍に閉じ込められる間抜けな友軍がいたところで、我々はとっとと脱出してほおっておけばいいのです。そんな連中カユン様の役には立ちません。そうですねぇ、特に功に焦る連中なんかは目がくらんで足が遅くなってしまうのでは?」
断りを入れつつ、場所が場所なのでオブラートに包んでゼフォルは言った。
功に焦る連中は他でもないガジュ族のことだ。要はここでガジュ族が帝国に滅ぼされるか、大打撃受ければ自然にカユンが公国のトップに立てるとゼフォルは言っていた。
公国に降った将の分際で明らかに分を超えた危険な発言だった。
「確かにそうよなぁ。俺も軍議の場でそのリスクは言っておいたがそれでも引っかかる馬鹿はどうしようもないからなぁ」
しかしゼフォルのそんな発言にカユンは咎めもせず、むしろ一緒になって笑っていた。まるでそれはかつてのゼフォルの功名心が乗り移ったかのようだった。
ゼフォルはそんなカユンを見てまるで鏡を見ているようだと一瞬錯覚した。
しかし自分はもっと顔の整った美女なので全然違うとすぐに忘れた。
「全軍かかれ!」
最前線でカユンが剣を振い、それに合わせて公国の全軍がピレンネに駐屯する帝国軍に襲いかかった。
ゼフォルもカユンの旗本と共にその少し後ろに続いた。
何も公国軍の全てがカユンの配下ではない。しかし今回の作戦を立案者であるカユンはまるで全軍全てが己の配下のように振る舞っていた。
「な、何で公国軍がここにいるんだよ!」
「ここを突破されるわけにはいかん!耐え抜くのだ!」
「でもあの数は無理だろ⁉」
帝国軍は狭いピレンネの山間部を陣地化していたが、駐屯している兵士の数は数千といった所だ。地形と陣地を活かして良く守っていたが数万を超える公国軍に対してはまさに蟷螂の斧でしかなく、公国軍の浸透を許していく。
「皆の者!ここを突破できれば帝国の物資は思いのままだ!我々の手でピレンネの屈辱を晴らすのだ!」
そう最前線で叫ぶカユンはすでに公国軍の宗主のようだった。あっという間に少数の帝国軍は蹴散らされ、陣地は破壊されていく、帝国兵はあれよあれよと持ち場を離れて逃げ出した。
それを覆って公国軍は前進を続ける。ピレンネの山間部は切り立った断崖に囲まれ余り広くはない、進んですぐもしないうちにその全容が明らかになった。
「ほう……流石だなゼフォル。確かにこれは大変な量の物資だ」
「お褒めに預り、光栄です」
そこには帝国軍の物資が所狭しと集められていた。裕福な帝国ならともかく、基本的に貧乏な公国軍ではまず一生お目にかからないほどの質量だろう。
すでに対抗していた帝国兵はみな捕虜となっていた。なにせ逃げ場がないのだから当然だった。
それをいいことに公国軍7万そのすべてがお祭り騒ぎとなっている。少し前までカユンの作戦と聞いて難色を示していたほかの氏族の族長たちも我を忘れたかのように配下の兵に収奪命令を下していた。
「カユン様、なるべく必要なものを取捨選別して早く撤退作業に取り掛かりましょう」
「むぅ……そうだな……」
そう提案するゼフォルだが、カユンの反応は芳しくない、見れば彼もあまりの残された物資の多さに目を取られていた。
ただただ物欲で眺めているのはないのであろう。これだけの物資があればどれだけの軍団を増やせるか?どれだけ大規模な作戦を練れるかそういった理性が働いているようだったが、ゼフォルからしたら、前提が間違っているとしか思えなかった。
日が暮れても、カユンは撤退命令を下すことなく、このピレンネの山間部で陣地を敷いていた。護衛の兵に囲まれながらもある程度の自由を許されたゼフォルは陣地の様子を見て回っていた。
どこもかしこもどんちゃん騒ぎだ。皆一様に公国の物とは比べ物にならない帝国の糧食や嗜好品の酒に舌鼓を打ち、戦勝祝いのようだった。公国軍の中では軍律に厳しいガルド族ですらこうなのだから、他の氏族たちはさらにひどいだろう。遠目にほかの旗が翻る陣地を眺めるが、どれもこれも篝火をもうもうと炊いている。せめて宗主の一族はと思ってガジュ族の本営を見るが、なんなら一番光が強かった。
ため息をつきながらカユンの天幕に入ると、強いアルコールの匂いがツンとした。見ればカユンを中心に、ガルド族の有力者たちが一杯やっていた。
「おう!ゼフォルか!お前もこっちにこい!」
そうカユンに呼ばれて、番の兵士に一番の下座に案内される。しょうがないのでそこにゼフォルは座った。
「紹介しよう!今秋の勝利の立役者であるゼフォルだ!降将であるとはいえなかなかの知恵者!皆仲良くするように!」
「……紹介に預りましたゼフォルです」
しょうがないので話を会わせて一同に頭を下げる。ガルド族の有力者たちからの視線がゼフォルに突き刺さった。
その後はゼフォルは置いてきぼりに盛り上がっていた。
ゼフォルはカユンにその才能を見せつけたが、やはり過ごしてきた年月というものはそう簡単に塗り替えられない。文化的にも全く違ったのだから余計だろう。話している世間話にもついていけなかった。
所詮ゼフォルは圧倒的な才能があるのかもしれない、しかし所詮は成り上がりものだ。カユンと一対一ならば限りなく近くで献策できるがこういった公の場ではいまだ末端も末端なのだ。
ふと見れば戦傷から復帰したメルドゥがゼフォルよりはるかに上座で周囲に媚びを売り、これ見よがしにゼフォルを笑ってきた。あんな小人相手にする気もないが腹が立つものは立った。
話は世間話から自慢話、そして現在の戦況を代わり、辛抱強く待っているとついにカユンから話が振られた。
「ここは新たな知恵者であるゼフォルに聞いてみるか、帝国軍に今後どう対処するべきだと思う?」
「カユン様、失礼を承知ですが、この場を速く撤退するべきです。ここは袋小路なのですから帝国軍が押し寄せればひとたまりもありません」
「はっはっはっは!ゼフォル殿は小心ですなぁ」
「しかり!しかり!帝国の連中がここまで距離の離れたピレンネを攻撃できる大軍を用意するのにどれだけかかることやら」
「ゼフォル殿は賢いが大局を見る目が欠ける。ここの物資を全て奪ってしまった方が今後の為になる」
ガルド族の有力者が口々にゼフォルを責め立てる。まぁ彼らの気持ちもわからなくはない。ここ最近の作戦は外様のゼフォルがすべて立案して成功させていたのだ。古参である彼らにとってはおもしろくないだろう。ゼフォルはこういった小人の嫉妬が良くわかるようになっていた。ほかならぬゼフォルの敗因は己の能力不足でも王国軍が強かったのでもなく、これだったのだから。
「まぁまぁ、皆、彼女はわが陣営に来たばかりなのだから、あまりいじめてやるな」
そんな彼らをカユンはなだめるが全く本気ではない、酒の肴にしているだけだ。彼もよくゼフォルの策を取り上げてくれたが、このガルド族の族長なのだ。組織内のパワーバランスというものを考えなければならないのだろう。これまで彼はゼフォルを贔屓にしすぎた。メルドゥの後釜まで約束してくれたが、それを行うにも早急すぎるのだろう。むしろ今こうやってかばってくれるだけで温情だったかもしれない。
「物資も重要かもしれません、しかし動かせる兵隊はそれより重いのです。今なら無傷で逃げ切れるのです」
「馬鹿なことを言うな、まだほかの氏族たちもいるのに撤退などできるわけなかろう」
「そうだ。公国の戦列を乱す真似は出来ん」
その温情にあやかって言葉をつづけるがやはり反応は芳しくない。別に彼らの方に利がない訳でもない。他の氏族たちと表向きは仲が悪くても、同じ平原に住んでいるのだ、関係性が一元的であるはずないし、この地に住んでいたわけではないゼフォルにはわからない関係性というのもあるのだろう。
しかし戦術家としてのゼフォルにとっては無駄の極みでしかなかった。そう言った小難しいことは作戦の成功で黙らせればいいのだ。少なくともガルド族の言う事を聞かなかった連中など帝国に殲滅されてその力を落としてしまえばいい。政敵が敵の手で殲滅されるのだから一石二鳥だろう。
もちろんゼフォルの極端すぎる戦術が理解されにくいのも知っている。だがそれでも覇者を目指すならカユンにはこちらを選択してほしいものだが、その様子はない。彼はゼフォルではなく、既存権益の保持に走ったのだ。エスメルならうまいこと調整してくれたというのに。
「……差し出がましい真似をしました。お許しください」
「今後気を付けることだな」
名前も知らぬガルド族の有力者の言葉を最後にゼフォルはこの宴で言葉を発することはなかった。だがそれでもゼフォルはあまり気を落とさなかった。
「……すまなかったな」
宴の後、ゼフォルはカユンに呼びだされていた。周りには先ほどいたガルド族の有力者もメルドゥもいない。密かな呼び出しであった。
「何のことでしょうか?」
「先ほどの宴でのことだ。おぬしを粗末にする気はないのだが、やはり氏族間のバランスというものがある」
「お気になさらず。トップとしてこういった調整が大変ということは百も承知です。それよりこの場からの撤退はいかがなさるのです」
ゼフォルがそう言い返すとカユンは渋い顔になった。
「もちろんそれは覚えておる。しかし今は時間が必要なのだ。だが悪いことばかりでもない、他氏族への調略も進んでおる。ここの物資を全て持ち出せれば、俺は、ガルド族はガジュ族より優位に立てる。帝国に関しては心配いらない、連中がそんなに早くここまでたどり着くはずがない。来たとしても少数だ。ここの公国軍本軍を直撃できる兵力は早々集められん。敵にベルズーフはなく、ベラムトしかおらんのだからな」
「そうおっしゃるのなら私はこれ以上何も申し上げません」
労わってくれるのは嬉しいが、ゼフォルにとってそんなことはどうでも良かった。小人の嫉妬は鬱陶しいが、実害さえ出なければ心地よいものだからだ。特に今回など、北部蛮族の有力者がこぞって降将にすぎないゼフォルを妬むものだから、新たな体験ですらあった。風土と文化が違っても、己は見あげられる能力があるのだとゼフォルは自尊心を高めた。
それにカユンは時間を無為に使っているわけではないらしい。いまの戦勝ムード、ガジュ族に対抗するための根回しに最も良いタイミングなのだろう。結局彼は他の連中にくらべて、油断などしていないのだ。むしろ気が緩むこのタイミングを最大限に利用して、指導者として最大の利益を出せるように振る舞っている。かつて戦勝の後に寝坊した自分より幾分もマシだった。
それもあってゼフォルは今回あまり強くカユンに言わなかった。だが結局自分の策は用いられなかった。それでもまぁ良かった。