閣下、私は覚えています。
高らかに笑っていたあなたの笑い声を。
どうしようもなく浅はかだった我々の愚かさを。
エデン条約以来となるトリニティの地は、相も変わらず憎たらしいほど美しい街並みを誇っておりました。流石に調印式の会場となった古聖堂やその周辺の地域はやや修復作業を行っているようですが、もうすっかり日常を取り戻していると言っても差し支えないような状態です。
私が向かうのは、トリニティのティーパーティー。
正式な訪問としてあらかじめ連絡を入れているので、特段揉め事もなく会談を予定している場所に辿り着きます。ティーパーティーの茶会に招くのには問題があるということで、トリニティ自治区内の個室があるカフェを貸し切って行うことになりました。
時間五分前。ちょうどいいですね。
少し早い到着にはなりますが、この程度で文句を言われることはないでしょう。
「14時に百合園様とお約束している者ですが、こちらでお間違いないでしょうか?」
店の戸を叩いた時、店内から冷ややかな視線が突き刺さります。トリニティにとってゲヘナの生徒など、これが普通の扱いなのでしょう。
しかし、それは店を利用している生徒からの視線。
もともとゲヘナの生徒が来ると聞いていたのでしょう。店員たちはプロとして驚く様子もなく、嫌悪の目を向けることもなく、にっこりと笑顔で私を部屋へと案内しました。
ミレニアムとは違って動機がいくらでも存在するため、罠が待ち受けている可能性も考えましたがそんなものは杞憂だったようで、案内された部屋にはクリーム色の髪を持つ狐耳のトリニティ生が静かに来客を待っていました。
「本日は、百合園様だけでしょうか?」
逆に言えば、そこにいたのは百合園セイアただ一人で。
「ああ、私の一存でね。他の二人は今日の場にはいない方が良いと、そんな予感がして、席を外してもらった」
三名所属しているはずのティーパーティーの生徒会長の残り二名は、今回の話し合いに参加しないようでした。
しかし、それは私にとっては都合がいいこと。
元々話し合いなどするつもりがありませんでしたから。
「ヘイローを壊されたくなければ、ゲヘナを取り戻すのに協力してください」
私は席に座ることなく、百合園セイアの頭へと銃を突きつけました。
百合園セイアはそれに動じることはなく、まるでそれを予想していたかのように優雅に紅茶を口に運びます。それどころか、どこか納得したような表情で笑みを浮かべる彼女が何を考えているのか全く想像が及びません。
「やはり、あの二人を連れてこなくて正解だった。なるほど、君はあの二人がいたとしても同じことをしていたね? その場合、君は今頃ミカにねじ伏せられて話し合いどころではなくなっていただろう。ナギサも同じだ。彼女も過保護だからね。すぐに正義実現委員会を呼んだだろう」
冷静にそう分析して、百合園セイアはそれからようやくこちらに目を合わせました。
見上げるようにこちらを見つめるその視線には、やはり恐怖や焦りと言った類のものは全く感じられず、逆に私の内心を見透かしているかのようなその瞳に私の方が焦り始めているのを自覚しました。
彼女はただ冷静に、その腕を持ち上げ、私に着席を促すのみ。
「私はもう既にティーパーティーのホストではない。トリニティを動かす権限は、今はナギサが持っているんだ。だから、話を聞かせてくれ。君が何を望むのか。私たちも君たちゲヘナの現状を放っておいていいなどとは思っていないよ。ミカもナギサも君たちのことを大切とは言わないだろうが、間違いなく重要な隣人であることは認識しているはずだ」
だから、事を荒立てようなんて、思わないでくれたまえ。
言外にそういう彼女は、どこまでも余裕の姿勢を崩しません。今ここで銃を撃てば、彼女は揺らぐでしょうか。命の危機に瀕すれば、彼女だって――
「――それに、私個人としてはとても申し訳なくも思っているんだ」
突然、彼女は訳の分からないことを宣い始めました。
これに思わず、私はその意味を問うてしまいます。
「どういう、意味ですか」
「エデン条約の折、私はヘイローが壊れる寸前だった。予知夢の中で絶望の未来を知り、諦めてしまった。だが、先生や皆の奮闘で、ハッピーエンドを迎えられる。そう奮起して戻ってきて、実際にハッピーエンドを掴んだつもりだった。トリニティ側だけを見ればそれは間違いなかったが、まさか取り溢していたなんて、思ってもみなかったんだよ」
ああ、そういえば。
知っている。思い出した。忘れていた。
エデン条約のタイミングで、トリニティでは揉め事が起こっていました。これは情報部から聞いた、間違いない話です。聖園ミカによる、クーデター未遂。ティーパーティーが一人、パテル派の長が起こした、アリウスを利用し、利用された利敵行為。
百合園セイアはそこで、生死の境を彷徨ったそうです。その存在が揺らいで、一歩間違えば廃人になってもおかしくない程だったとか。結局エデン条約とその後のアリウス攻略戦まで彼女が表舞台に立つことはなく、再びその存在が確認されたのは聖園ミカの聴聞会だったはずです。
しかし、彼女は戻ってきました。傍目から見れば五体満足で。
戻ってきてからの彼女は、ティーパーティーのホストという重責から解放されたからか、随分とアグレッシブに動いているように見えました。もしかすると、死の縁を経験したおかげで彼女の中で何かが変わったのかもしれません。
そこまで思考を巡らせて、ようやく理解します。
百合園セイアは、このキヴォトスで最も死に近づいた生者です。だから、分かっているのです。
私程度の悪意では、自身が死なないことを。ちくしょう。
先の百合園セイアの演説に打たれたわけではありません。彼女の罪悪感など関係ありません、ただ私は私の意思で、私の理論で、意味がないと理解したから銃を降ろすのです。
ああ、なんて私は愚かなのか。燃え落ちる飛行船。重傷を負った、皆さん。私は。私が。
大人しく、座りましょう。
「ようやく席に座ってくれたか」
「すみません。取り乱しました」
「いや……、私も短慮だったと気付かされた。記憶に蓋をするのも無理はない。だが、この場はその話をしに来たわけではないのだろう?」
コクリ、と肯定の動きを返します。
さて、彼女にはまず何から話すべきでしょうか。
脅しは無意味。完遂は不可能。仮に完遂できたとしても、その時は百合園セイアの死という決定的な溝が生まれるだけ。脅しと言うのは所詮、脅されるものに守りたいものとこちらが図りに乗せるものが釣り合っていなければ成立しないのですから。
ですがせっかくの機会です。引き出せるものは引き出しておきたいというのが本音です。
トリニティは腐っているとはいえ三大校と称される学校です。しかも隣接していて、ゲヘナに支援を送るには最適な位置関係を有しています。体力のある学校が隣にある。これ以上の幸運を活かさない手はないでしょう。
惜しむらくはゲヘナ学園も負けず劣らず広大な敷地を有していることでしょうか。
トリニティから人を出したとて、目的の場所にすぐには駆け付けることができないというのは勿体ないと感じてしまいますね。
なるほど、まずはそこの確認が必要ですね。
「トリニティからゲヘナ側へ、人を派遣することは可能でしょうか?」
「難しいだろうね。我々はどこまで行けどもトリニティとゲヘナだ。直接人を送るのは厳しいと考えてもらった方が良い」
「やはりそうですか。では、監視目的であればどうでしょう」
「なるほど。あくまでもゲヘナの自治区には踏み入らず、ギリギリのところから索敵と監視を、ということであれば許可が下りるかもしれない。交渉してみよう」
そこからは、とんとん拍子で決まっていきました。
トリニティとして表立って力を貸すことはできない。できることは目標の捜索と動向を監視すること、そして絶対にトリニティ側に移動させないという保証のみ。その代わり、作戦実行時のトリニティ境界には剣先ツルギと蒼森ミネを含む戦力の防衛ラインを検討すると。
人的リソースを直接調達できなかったのは残念ですが、危険極まりないこの作戦に追い込み漁であれば人を出すと言ってくれているだけまだ譲歩してもらった方でしょう。
また、作戦成功後には治安維持の手伝いをしてくださることも約束してくれました。彼女という脅威が去ったのならば、ゲヘナの地を踏みことも吝かではないということらしいです。正直そこについてはどうするか考えていたのでお手伝いいただけるのならそれ以上のことはありません。
「そうだ、『彼女』のことについてだが」
会談を終えて撤収しようとしていたところに、彼女が思い出したように言葉を投げました。
「何か、情報をお持ちなのですか?」
「そうだね。私は百鬼夜行に行って、色彩との接触を断ってもらった。クズノハという人物を尋ねてみると良い」
「わかりました。情報提供ありがとうございます」
次に向かう場所が決まりました。
百鬼夜行。何の準備もしていないので足を運ぶのは少し恐ろしさがありますが、しかし彼女をどうにかする方法が欠片でも存在するのであればそれに縋らない手はありません。
何か糸口が見つかればよいのですが。
「さて、行きますか」
百合園セイアと別れ、私は別の場所へと歩を進めます。
私がトリニティに来たのは、何も単に協力の依頼をしに来ただけではないのです。
「お久しぶりですね、イブキさん」
「…………え?」
こちらを向いて目を丸くする小さな彼女を利用しなければならないことが、とても心苦しくて堪りません。
彼女は戦力にはなりませんが、楔にはなるかもしれないのです。
だから、どうか。幼い彼女を巻き込むことをお許しください、閣下。
仕込みは次が最後です。次回、百鬼夜行にて。