SEA-BATが倒れてから
私の父。
──海江田悟史。
海上自衛隊の、潜水艦ソナー員。
享年三十五。
死因は──圧潰による圧死。
その言葉は、いつ聞いても胸の奥を静かに締めつける。
苦しいほど静かで、痛みだけがそこに残る。
でも、父の記憶は痛みだけじゃない。
父はいつも海の話をしていた。
まるで海そのものが親友みたいに、ぽつぽつと語る。
「海ってな、静かに見えるけど……本当はどこまでも広くて、強くて、優しいんだ」
悩んだ時、私を連れて堤防に座らせて海を眺めさせてくれた。
「見てみろ、あんなに広いんだ。俺達人間の悩みなんて、ちっぽけに思えてくるだろ?」
と笑って、私の頭をくしゃっと撫でる。
父は特に、朝焼けの海を見せるのが好きだった。
まだ空が薄暗い時間に私の手を引き、眠い目をこすりながら歩いた桟橋。
やがて水平線から光が登り始め、海面が金色に染まる。
波は静かに揺れて、海はまるで呼吸をしているみたいに見えた。
「綺麗だろう」
その声は、潮の香りに混じって少し低くて、でもどこか子どもみたいに嬉しそうだった。
本当に、いい父だった。
優しくて、穏やかで、ちょっと不器用で……
でも私の世界の中心だった。
気づけば私は、その温もりの残像を。
いつまでも胸の中で抱いてしまう。
海を見ると。
朝日を見ると。
誰よりも先に父の背中を思い出す。
あの日見た黄金色の海も、
あの日まで聞いていた穏やかな声も、
もう二度と手を伸ばしても届かないのに。
それでも私は、今日も思う。
──父は、ずっと“海”の中で生きているのだと。
……
…………
暗闇を溶かすように、一筋の光が差し込んだ。
どこかで──見たことのある光。
胸の奥で、懐かしさが柔らかく揺れる。
まぶたが重くて、でもその温かさに引かれるように、
ゆっくりと、ゆっくりと目が開いた。
……痛みが、ない。
あれほど身体の内側を焼いていた激痛は、嘘のように消えている。
代わりに、胸の奥に微かな温もりだけが残っていた。
「………知らない天井だ」
なんて、あの台詞を声にすると、やけに静かに響いた。
自分の声じゃないみたいに軽かった。
ゆっくりと身体を起こす。
指、前腕、二の腕。問題なく動く。
少々背中が軋むけれど、それすらも生の証みたいで安心した。
チラリ、と窓の方へ視線を向ける。
「朝日………」
水平線の向こうから、ちょうど光が顔を出すのが見えた。
黄金色。
静かで、優しくて。
心の奥のどこかが強く引っ張られる。
(……懐かしい)
あの海辺で見た光と、同じ色だ。
父がよく見せてくれた、あの朝日。
胸の奥がじんと熱くなった。
「……ぅ……うぅん………」
横から声がする。
小さな声がして、はっと横を見る。
時雨が椅子に座ったまま寝ていた。
腕を組んだまま、ベットに上半身を預けていて、寝息がほんのり揺れている。
もしかして、ずっと付き添っていてくれたのだろうか。
何時間も、何十時間も。
私が目を覚ますかどうかも分からないのに。
(……ごめんね、迷惑かけちゃって)
窓から差し込む朝日が、部屋をゆっくり満たしていく。
生死の境界のあの暗闇から、
ようやく日常へ帰ってきたんだと気づく。
小さく息を吐き、私は静かに、その光を見つめる。
(……提督に会いに行こう)
提督にも色々迷惑をかけただろうし、話さなければならないことも多い。
でも──
すぐ隣で穏やかな寝息を立てている時雨を見ると、その決意は少しだけ揺れた。
ベットに付すように眠っていて、腰や首が痛くなりそうな姿勢だ。
私から離れずに、ずっと見守ってくれていたのが分かる。
(起こすのは、さすがに可哀想だよね……)
そっと、できるだけ音を立てないように抱えて、私が寝ていたベッドへ静かに横たえる。
布団をそっと掛けると、時雨の寝顔がほんの少し緩んだ気がした。
目線を移すと、ベッド脇の小さなテーブルに付箋とペン、
そしてお皿の上にラップで包まれたおにぎりが置かれていた。
きっと、目を覚ましたらすぐ食べられるようにと、誰かが用意してくれたのだろう。
ペンを手に取り、付箋に小さく書いた。
『迷惑かけちゃってごめんなさい。ありがとう。』
(──これでよし!)
軽く頬を叩き、息を吸う。
正常に頭を回す。
こんな、大切な人たちが待っていてくれたんだ。
なら私は、何も隠さず、嘘もつかずに、ちゃんと向き合わなきゃいけない。
提督と話そう。
これからどうするのか。
自分は何者で、どこへ向かうのか。
ゆっくり、でも確かに歩き出す。
扉の前で一度だけ振り返ると、朝日の柔らかな光が時雨の寝顔を照らしていた。
ようやく、日常が戻り始めていると実感した。
私は静かに扉を開け、廊下へ足を踏み出した。
……
…………
──コンコン
「入ってくれ」
扉を開けた瞬間、部屋の空気がぴんと張りつめた。
朝日が差し込む廊下から一歩、提督室の静寂へ。
「失礼します。SEA-BATです」
提督は書類から目を上げ、安堵がにじんだような表情で息を吐いた。
「……起きたんだな。良かった」
「はい。ご迷惑おかけしました」
「迷惑なんて言葉じゃ済まないほど、皆が心配していたよ」
その声には詰めた響きが混じっていて、
それだけで胸が少し痛くなる。
提督は椅子の背にもたれ、静かに告げた。
「……SEA-BAT君、君はあれから一週間眠っていた」
「………一週間……」
思った以上に長い。
「その間、君の艤装を調べさせてもらった。
結果は……未知の技術ばかりだった。
我々の国どころか、この世界のどこでも作れない代物だ」
(……やっぱり、そうだよね……)
提督は続ける。
「そのことも含め、上に報告を上げた。」
(……上──)
何となくどんなことを書かれているのかはわかる。
危険性。
不確定要素。
処分の必要性。
(……嫌だな……聞きたくないな……)
でも、聞かなきゃいけない。
逃げるにしても、知っていなければ動けない。
「私は……処分ですか?」
聞きたくはないけれど聞かなきゃならない。
もし処分。解体になるのなら海にすぐ逃げなきゃいけない。
沈黙が落ちた。
部屋の時計の秒針の音が、妙にうるさく感じる。
提督は目をそらさずに言った。
「酷な話だが……上のほとんどは、危険だとして処分しろと言っていた。」
「……やっぱり………」
心が沈んでいく。
底の見えない海に落ちるような感覚。
逃げる準備を——
そう思った瞬間。
「だが、元帥がそれに反対した」
「……なぜです?」
「君を消すことは、この世界の損失だと言った。
危険性があるのは確かだが、それは“使いよう”だと。
何より性能を見ずに判断するのは愚かだとな」
「……」
「だから、君にはこれから君の力を我々に見せて欲しい。と言ってもただの演習だがね」
提督は柔らかく言ったつもりなのだろうけれど、その言葉の裏にある重さは隠しきれていなかった。
(……演習、か)
ゲームの方で何度もした演習。
けれど、この世界での演習はおそか、戦闘すらまともにしたことが無い。
(──大丈夫だろうか)
「それ次第で処分は取り消しに?」
「あぁ、そうなる可能性は充分高い」
不安だ。
でも、もし受けなければ──
自分の未来も、名をくれた提督への信頼も、時雨との繋がりも……
「…やります!やらせてください!」
間髪入れず答えた自分に、提督が目を細める。
「即答かね」
「私は、ここで消える訳にはいかないんです。時雨ちゃんのためにも」
「前にも思ったが、君はなぜそこまで時雨にこだわるんだい?」
胸が少し強くなる。
(……言えない。まだ。)
「……本当のことはまだ言えません。でも、時雨ちゃんのことが大好きなんです。
嘘偽りのない言葉。
提督はじっと私を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「嘘は言ってないようだね。信じよう」
「ありがとうございます。提督」
頭を下げる。
本当に、感謝しかない。
「そうだ。名前のことだが……SEA-BATのままで大丈夫かね?」
提督は机の上の書類を指で軽く叩きながら言った。
「上層部がそこを気にしていてな。
“どっちつかずな名前だ。深海棲艦なのか艦娘なのか判別できん”……などと、失礼な話だ。」
「……名前……」
胸の奥に、微かなざわつきが走った。
SEA-BAT。
それはあの世界で呼ばれていた形。
かつての“私”を示す符号のようなもの。
……でも。
「朝日……」
ぽつりと呟いた瞬間、提督が顔を上げた。
母でもなく仲間でもなく、
一番最初に手を引いてくれた人が見せてくれた光。
父がくれた、私の原点──朝日。
「朝日か……いい名前だとは思うが、残念ながら鎮守府の艦娘に同じ名がいてな。
混乱を避けたいと上も言っている。」
「……そう、ですか。」
沈みかけた私に、提督は静かに続けた。
「もしよければ、君に……“天照”という名を提案したい。」
「天照……」
驚きで息が止まる。
「どうだろうか……」
天を照らす存在。
光そのものを象徴する、大きすぎる名前。
私なんかに、そんな……。
でも胸の奥で、小さな灯がふっと揺れた。
もしその名前を名乗れるなら……
いつか誰かの夜を照らす存在に、
父が見せてくれた朝日のように
誰かの心に光を落とせる存在に、なれるかもしれない。
「……いいんでしょうか。そんな……大層な名前を私なんかが。」
提督は優しく首を振った。
「君はこの世界を変えることのできるほどの力を持っている。
なら、その名を名乗る資格はある。
名は生を縛るものじゃない。
これからどう生きるかを決めるのは、君自身だ。」
胸がじんと温かくなる。
逃げてばかりいた。
過去と正体を抱え、怯えていた。
でも、名前が変われば……
私の歩く道も変えられる気がする。
私は深く頭を下げた。
「……ありがたく、頂戴します。」
提督は嬉しそうに笑い、小さく頷いた。
「では、そう書いておこう。
今日から君は──天照だ。
よろしく頼むよ。」
「はい。……よろしくお願いします、提督。」
新しい名前が胸に溶けていく。
天照。
光の名。
私は今日、生まれ直したのだと改めて気づいた。
「天照。詳しい日時はまた連絡する。それまでは待機だ。
それまで、この鎮守府を見て回って来るといい。
外を歩くのも、気晴らしにもなるだろう」
「はい。ありがとうございます……では、これで失礼します。」
ガチャリ。
扉を閉め、廊下に一歩戻る。
空気がやわらかい。
さっきまで張りつめていた胸が、少しだけ軽くなっていた。
少し外に出てみようかな……
風に触れたい。
太陽を見たい。
地面を自分の足で踏みしめて、確かめたい。
誰に聞かせるわけでもない小さな独り言が、
静かな廊下へ溶けていった。
ハッピーコーンです
7話いかがでしたか?
主人公の改名。
SEA-BAT▶︎天照
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【日常】