裏長屋は、安い音でできている。
桶の板がぶつかる音。
隣の部屋で、誰かが咳き込む音。
路地の子が、空き缶を棒で叩く音。
薄い壁一枚を挟めば、他人の寝息も、腹の鳴る音も、泣き声も、みんな同じ場所に転がっていた。
それが、俺の暮らしている場所だった。
今朝も、奥の方から政吉の怒鳴り声が聞こえた。
政吉は、この裏長屋を仕切っている男だ。
毎日いるわけではない。気まぐれに顔を出しては、帳面を見たり、子どもを数えたり、誰かを叱りつけたりして、またどこかへ行く。
今日は、その声に、何日か前に身受けされていった子の名前が混じっていた。
俺は、聞こえないふりをした。
ここにいる子どもは、よく入れ替わる。
どこかへ連れていかれる子もいれば、冬を越せない子もいる。
朝にはいたのに、夜にはもういないこともあった。
最初のうちは、いなくなった子の顔を覚えていた。
いつからか、顔より先に、泣き方や、飯を食う速さや、寝る時に丸まる癖の方を覚えるようになった。
その方が、忘れる時に楽だった。
俺だけは、運よく――いや、運悪くかもしれないが、ずいぶん長くここにいる。
だから、新しく来た子がいれば、面倒を見るのは大抵俺の役目になった。
小さい子は、泣く。
腹が減れば泣くし、寒ければ泣くし、誰かの怒鳴り声に驚いても泣く。
泣けば大人が苛立つ。
だから、泣き出す前に手を塞ぐ。椀を持たせる。背をさする。外へ連れ出す。
そうしているうちに、泣く前の顔だけは分かるようになった。
政吉の声が、また奥で跳ねた。
赤黒いものが、襖の向こうで濁っている。
ああいう色が出ている時は、近寄らない方がいい。
俺は、そっと体を起こした。
朝の飯は、たぶん出ない。
出たとしても、俺の分までは残らない。
部屋の隅で丸まっている小さい子の鼻が垂れていたので、袖で拭ってやる。袖はもう十分汚れている。ひとつ汚れが増えたところで、何も変わらない。
「泣くな」
小さく言うと、その子は泣き止もうとして、余計にしゃくり上げた。
奥の赤黒い色が、こちらへ揺れる。
俺は床に伏せてあった欠け椀を拾い、中に残っていた薄い粥をその子の前へ押しやった。
これで少しは静かになる。
そうしてから、余計な音を立てないように長屋を抜けた。
外の空気は、夏の終わりらしく少し冷たかった。
土の上の泥はまだぬるく、足裏にまとわりつく。
路地を抜けると、表通りの田楽の露店から味噌の匂いが流れてきた。
腹が鳴る。
腹の音は嫌いだ。
自分の体が、自分の都合を無視して「足りない」と言う。
黙らせるには、何かを入れるしかない。
普段は、真っ当な仕事を探してこの道を歩く。
井戸汲み。
荷ほどき。
銭湯の掃除。
店先の片付け。
言いつけられれば、だいたい何でもやった。
時々、よくない手伝いが混じることもあったが、飯が出るなら断れなかった。
胸のあたりに嫌なものが溜まる日もある。
けれど、腹が空きすぎて手足が冷えるよりはましだった。
仕事の手柄も、飯の手柄も、だいたい政吉のものになる。
それでも、今日食えるならそれでいい。
そうやってきたのに、ここ三日ほど、政吉の機嫌が悪く、仕事も切れ、飯もろくに回ってこなかった。
小さい奴らには、まだ軽い仕事を行かせている。
でも、そろそろ俺の方が限界だった。
八百屋は、表通りから少し外れた角にある。
朝はまだ人が少ない。
店主は品を並べている途中で、巡査の足音は通りの向こうへ流れていた。
袖を少し緩める。
掏(す)る、と決めた瞬間、胸が嫌なふうに痺れた。
けれど腹の方がうるさい。
八百屋の前を通りながら、色を見る。
店主の青い帯は銭箱の方へ固く結ばれている。
巡査の緑は道の先へ薄く伸びている。
今なら、見ていない。
桃が一つ、笊の端にある。
通り過ぎざま、色の薄い縁をなぞるようにして、指を伸ばした。
桃が袖へ転がり込む――はずだった。
その前に、灰色が立った。
見たことのない色だった。
気づいた時には、手首を掴まれていた。
走ろうとした。
けれど、手首を掴む手は離れない。
力任せではない。
痛いほど握られているわけでもない。
それなのに、抜けない。
手をたどる。
水と雲を思わせる模様の着物が見えた。
さらに顔を上げると、赤い天狗の面があった。
叱られる。
殴られる。
突き出される。
頭の中に、そういうものばかりが並ぶ。
「腹が、減っているか」
低い声だった。
何を聞かれたのか、すぐには分からなかった。
呼吸を二つ置いて、ようやく意味が追いつく。
「……減ってない」
「減っているな」
つまらない嘘だった。
桃を盗ろうとしたところを見られているのに、口から勝手に出た。
癖なのか、意地なのか。
それとも、認める方が怖かったのか。
天狗の面の男は、それ以上何も言わなかった。
手首を掴んだまま、店主の前に銭を置き、頭を下げる。
そして、まるで最初からそうするつもりだったみたいに、俺の手を引いて歩き出した。
何度か振りほどこうとした。
どうにもならないと分かって、諦めた。
どこへ連れて行かれるのか。
聞こうとしても、喉からは音にならない息が漏れるだけだった。
巡査とすれ違う。
今まさに盗みをしたところだ。
声をかけられるわけもない。
天狗の男は黙って歩く。
俺も黙って歩いた。
町の端まで来ても、足は止まらなかった。
そのまま町の外へ出て、遠くに見える山の方へ向かっている。
ここまで来ると、もう戻れないのかもしれないと思った。
裏長屋のことが頭をよぎる。
けれど、俺一人いなくなったところで、あそこは何も変わらない。
政吉はたぶん、少し怒る。
それから、別の子を使う。
小さい子たちは、何日か探すかもしれない。
でも腹が減れば、探すのをやめる。
それで終わりだ。
俺は、たまたま長くいただけの子どもだった。
どのみち、いつかは追い出されていたかもしれない。
道端で野垂れ死ぬか、天狗に攫われるかの違いだ。
天狗は子どもを攫って食う、と聞いたことがある。
なら、俺はこのまま食われるのだろう。
そう思ったが、不思議と足は止まらなかった。
男の手は、相変わらず温かい。
引く力は強いのに、乱暴ではない。
考えごとをしているうちに、日が傾き始めていた。
遠くに見えていた山の麓に着き、そこからまた山道を登る。
坂を一歩進むごとに、空気が冷たくなった。
蝉の声が薄れていく。
代わりに、葉擦れと沢の音が近づく。
足裏の泥は乾き、今度は土のざらつきが増えた。
手は離れない。
ふと、男の周りに広がる灰色を見る。
赤でもない。
青でもない。
緑でもない。
知らない色だった。
灰は、ただ暗いだけではなかった。
見ていないはずの背中側まで、静かに届いている。
その奥に、細い金が沈んでいるようにも見えた。
何の色なのか、俺には分からない。
振り返るたび、町は一枚の絵みたいに平らになっていく。
あそこにいた自分まで、薄くなっていくようだった。
胸の奥で、何かが小さく疼く。
考えるのをやめる。
足を前へ置く。
吐いて、吸う。
生き延びるには、考えすぎない方がいい。
男はほとんど振り返らなかった。
言葉もない。
けれど、歩いているうちに気づいた。
俺はここまで、転ばずに歩いている。
つまずきそうになる一歩手前で、手首を引く角度がほんの少し変わる。
息が上がる頃には、歩幅がわずかに緩む。
助けられている。
そう気づいた時、胸の奥が妙に落ち着かなくなった。
空が紫がかる頃、木立の向こうに屋根が見えた。
目的地に着いたらしい。
板戸が横へ滑る。
山の冷えた匂いが、背中から押し出されるように消えていく。
赤い天狗の面がこちらを向いた。
「――入れ」
短い言葉だった。
一応、礼儀のつもりで足を揃える。
頭の中では、夜の山へ逃げる危険と、目の前の天狗に逆らう危険を天秤にかけていた。
従った方が、生き残れる。
そう判断して、慣れない敬語が口から転がった。
「お、邪魔します……?」
中は、思っていたよりもがらんとしていた。
けれど、整っていた。
物が少ない。
その少なさの中で、必要なものだけが、ちゃんとある場所に置かれている。
男に勧められるまま、囲炉裏の傍に座る。
板戸の隙間から冷たい風が細く入り込んでくる。
火床の赤が、それを押し返していた。
梁の上には、烏が一羽いた。
首をすくめて、人の出入りをじっと見ている。
天狗の男は囲炉裏の向かいに膝を折り、鍋を火にかけた。
「腹は減っているか」
「……は、い」
もう嘘はつけなかった。
三日ろくに食べていない腹は、火と一緒に立つ匂いの前で、あっさり白旗を上げた。
鍋の端がふつふつと煮立つ。
湯気の向こうで、男の手が椀を取る。
やがて、俺の前へ椀が差し出された。
一口、口に入れる。
熱さと塩気が舌を撫でて、喉の奥へすべり落ちていった。
いつもなら、掻き込む。
そうしないと、誰かに取られるかもしれないからだ。
けれど今は、それができなかった。
誰かと向かい合って、温かい飯を食う。
その行為があまりに知らないもので、乱暴にしたら崩れてしまいそうだった。
気づけば、椀は空になっていた。
「……ごちそう、さまでした」
手を合わせて、頭を下げる。
誰に向けてかは分からなかった。
目の前の天狗にか。
腹に入った米と味噌にか。
あるいは、その両方にか。
言ってから、いただきますを言っていなかったことに気づいた。
急に恥ずかしくなる。
顔を上げると、天狗の面の奥と視線が合った気がした。
男は湯呑を二つ用意し、湯を注いだ。
どちらの湯呑も、同じ高さになるように、最後にほんの少し足す。
そういうところに目が行く人なのだと、すぐに分かった。
「名乗るのが遅れたな。儂は鱗滝左近次と言う。お前の名は」
「ない、あ、いや……ない、です」
町で呼ばれていた音はある。
けれど、それを名前だと思ったことはなかった。
政吉には「名前が無い」「親に捨てられた子」だと言われていた。
そう言われているうちに、自分でもそういうものだと思うようになった。
天狗――鱗滝左近次と名乗った男に、その音を差し出す気にはなれなかった。
「ないなら、貸そう」
「え」
「返したくなったら返せばよい」
天地がひっくり返るようなことを、鱗滝さんは当たり前のように言った。
「宗右衛。そう呼ぶ」
「そ、うえ……?」
自分の名前になる、ということより先に、貸すとは何だろうと思った。
誰かの名なのか。
なぜ、この人はそれを俺に貸すのか。
疑問が次々と浮かぶのに、どれも口まで上がってこない。
「宗、右、衛――と書く。字は分かるか」
鱗滝さんが空に字を書く。
筆の運びを目で追おうとして、途中で迷子になった。
「えっと……俺、あんまり字が得意じゃなくて……」
帳簿の数字なら読める。
番台の勘定も、だいたい分かる。
けれど、普通の字は、誰も丁寧には教えてくれなかった。
裏長屋では、読み書きより先に働くことが大事だった。
「字は後でよい。声で覚えろ」
鱗滝さんは、もう一度空をなぞる。
「一つずつ言え」
「……そ。う。え」
「続けて」
「宗右衛」
「呼ばれたら返事をしろ。試す。……宗右衛」
「は、はい」
名前は、自分を指すためのものだ。
犬猫につける音でも、番号でも、政吉の持ち物みたいに呼ばれる音でも、今までは何でもよかった。
なのに、宗右衛と呼ばれた瞬間、背筋が勝手に伸びた。
ずっと前から、そう呼ばれていたような気がした。
知らないはずなのに、耳が覚えているような、不思議な感じだった。
胸のまわりに、やわらかい金が増える。
俺のものではない。
誰かがこちらへ向けている色だ。
裏長屋では、めったに見なかった。
「もう一度呼ぶ。宗右衛」
「ッ……はい」
今度は、少し詰まった。
腹の底に落ちた飯の熱が、喉の方へ戻ってくる。
何かがぐるぐるして、泣きそうになる。
泣きたくなかったので、飲み込んだ。
「よし。返事は短く強くするように。それで足りる」
どうしてなのか分からない。
会ってまだ数刻しか経っていない。
この人が何者なのかも、まだよく知らない。
それなのに、名前を呼ばれるたび、体のどこかが少しずつほどけていく。
裏長屋には、こういう空気はなかった。
鱗滝さんは立ち上がり、襖の向こうを顎で示した。
「風呂は要るか。眠る前に体を温めるといい。嫌なら歯を磨け。寝床は敷いてある。選べ」
「は? あの、湯がある、んで、すか?」
思わず素で返してしまった。
山奥で風呂があるとは思わなかった。
たとえあったとしても、それは家の者か客のもので、拾ったばかりの子どもが入るものではないはずだった。
町の湯屋でさえ、水回りを手伝い、桶を洗い、番頭に頭を下げて、ようやく残り湯に浸からせてもらえる。
湯は、簡単に使っていいものではない。
「ある。家の習いだ。長く歩いて疲れただろう。冷えを残すと体に悪い」
鱗滝さんは、戸口に畳んであった手拭いを指した。
当たり前の言い方だった。
貸しにするでも、恩に着せるでもない。
ここでは、湯があるから入れ、で済むらしい。
一瞬、視界がくらりと傾いた。
天狗に食われるのだと思っていたのに、風呂に入れと言われている。
どういう顔をすればいいのか分からなかった。
「桶は湯に付ける前に洗え。焚き口はさっき落とした。転ばないように気をつけろ。髪はよく拭け。湯冷めする」
「……はい」
次々に、していいことが示される。
飯を食べていい。
名前を呼ばれていい。
湯を使っていい。
眠っていい。
そんなふうに並べられると、どれから信じればいいのか分からなくなる。
けれど、鱗滝さんが誰かを貶めるためにそんなことを言う人ではないことは、もう分かっていた。
そういう嗅覚だけは、裏長屋で散々育てられた。
「これからはここで働いて、食べて、眠る」
鱗滝さんの声が、囲炉裏の火の向こうから落ちる。
「嘘はつくな――自分に。できぬ日は言え。できる日はやれ」
自分に嘘をつく、という言い方を、初めて聞いた。
裏長屋では、嘘はありふれていた。
巡査には「知らない」と言う。
客には「新しい」と言う。
政吉には、本心を隠す。
嘘をつかずに生きるなんて、無理だと思っていた。
でも鱗滝さんが言っているのは、外へ向ける嘘ではない。
もっと中の方の話だ。
できないことを、できると自分に言うな。
そういうことなのかもしれない。
全部は分からない。
それでも、頷いた。
「それと、お前の目はよく回る」
「目が……?」
「見えるものを全部拾おうとするな。疲れる。置く場所を先に決めろ。そうすれば、かえって見えるものが増える」
自分の見ている色のことだろうか。
人がどこを気にしているか。
何を恐れているか。
何に怒っているか。
俺には、それが色の帯のように見える。
全部を拾っていると、確かに疲れる。
それでも、見落とせば痛い目を見るかもしれないから、見るのをやめられなかった。
鱗滝さんは、それを一目で見抜いたのだろうか。
天狗の面越しに、自分の目の奥まで見られているような気がした。
「それから――ここでは、かしこまった礼は要らぬ」
鱗滝さんは言う。
「宗右衛。ここはお前の家だ。必要なのは、お前が生きるための仕事だ」
「……はい」
頭を下げるのは、大抵こちらが弱い時だった。
帳面の数字が合わない時。
仕事がほしい時。
怒られないようにする時。
ここでは、それがあまり役に立ちそうにない。
代わりに、仕事をしろと言われた。
働いて、食べて、眠れと言われた。
その方が、分かりやすかった。
「選べ。風呂か、歯か、寝るか。どうする、宗右衛」
「……じゃあ、お風呂、入ります」
湯があると聞いた時から、気になっていた。
山奥で湯を沸かすのは大変なはずだ。
薪もいる。水もいる。火の番もいる。
それなのに、俺の分があると言われた。
だったら、使わない方が失礼だと思った。
戸口に畳んであった手拭いを取る。
振り返ると、鱗滝さんは板戸の風を指先で確かめていた。
「湯から上がったら、一声かけろ。布団はそちらの戸の奥。烏が梁で見ているが、気にしなくていい。夜中に外へ出るな。山は町より危険だ」
「……わかりました」
「ゆっくり休め」
色で見ると、鱗滝さんの周りには広く薄い灰がある。
その縁に、ほんの少しだけ金が混じっていた。
俺の方へ伸びる色だった。
湯場へ向かう戸を開ける。
確かに湯気があった。
街の湯屋ほどではない。
それでも、冷えた体には十分すぎる。
桶はきれいに伏せてあり、うっすら火の匂いがした。
俺のために焚いてくれたのだと、分かった。
「……あの」
戸の向こうへ、つい声をかけた。
返事はすぐだった。
「なんだ」
「ありがとう、ございます」
本当は、別の言葉が喉の奥にあった。
ただいま、と言ってみたかった。
けれど、まだ早い気がした。
ここにいるには、まだ足りていない。
働いて、食べて、眠って。
それを何度も繰り返してから言う言葉だと思った。
だから、今日はこれでいい。
囲炉裏の方から、低い声が返ってきた。
「ゆっくり休め。宗右衛」
湯気の中で、その名が染みていく。
体が震えたのは、寒さのせいだ。
胸のあたりがむず痒いのも、きっと冷えた体が温まってきたせいだ。
そういうことにして、俺は桶に手を伸ばした。