櫛那がいなくなってから、季節がひとつ変わった。
山の色は少しずつ変わっていくのに、俺の毎日はあまり変わらなかった。
朝が来て、沢へ行って、水を汲んで、飯を作って、稽古をして。
日が沈んだら飯を食べて、囲炉裏の火を見て、眠る。
そうしているうちに、俺は十三になった。
誕生日はよく分からない。
裏長屋にいた頃、そんな日に気を配る余裕なんてなかったから、ただ「そのくらいだろう」と言われた日を、そうだと思うことにした。
十三になる日の少し前、鎹烏が一羽、山に来た。
家にいつもいる烏とは違う黒さの羽根を震わせて、梁の上で短く鳴いた。
鱗滝さんが外に出ていく。
俺は居間で掃除の手を止めて、こっそり耳をそばだてた。
外から、天狗面の下の低い声と、小さな紙の擦れる音が聞こえた。
少しして戻ってきた鱗滝さんの周りには、灰の中に白が混じっていた。
迷いと、少しの嬉しさの色だ。
「宗右衛」
「はい」
「儂の子になるか」
唐突にそう言われて、危うく箒を落としそうになった。
「は? え?」
「産屋敷様からの申し出だ。
儂が育手を続けるなら、お前を正式に儂の子として扱う、と」
よく分からない言葉だったけれど、「子」という音だけは、はっきり耳に残った。
「……俺が、鱗滝さんの……?」
「嫌か」
「嫌じゃないです!」
即答だった。
そのときのことを思い出すたび、胸の中がむずがゆくなる。
あの日から、俺の名前は「鱗滝宗右衛」になった。
名前が変わっても、やることは変わらない。
沢の水は相変わらず冷たくて、芋はたまに固くて、稽古はどんどんきつくなる。
それでも、ときどき自分の名を見ては、こっそりにやけてしまうのだった。
――そんなある日。
いつもの烏が梁の上で寝ているところに、もう一羽、鎹烏が飛び込んできた。
扉の上の隙間から滑り込むように入ってきて、梁の上でひとつ鳴く。
家の烏がびくっと羽根を膨らませて、そっぽを向いた。
あまり人前で喋るのが好きではない烏だが、同じ鎹烏に対しては、たまに小さな声で何かを囁いている。
鱗滝さんが外に出て、すぐ戻ってくる。
手には一本の細い巻子がある。
囲炉裏の前に腰を下ろし、巻子をそっと開いた。
墨で書かれた文字を、天狗面の下の目が追っていく。
周りの灰が、ゆっくりと揺れた。
「……どうかしました?」
聞かずにはいられなかった。
鱗滝さんは少し間を置いて、巻子を畳む。
「産屋敷様からだ」
「また、ですか」
「ああ。儂のところへ、弟子を二人、預かってほしいと」
弟子、二人。
その言葉を聞いて、胸の奥で何かが小さく跳ねた。
「また……育てるんですか」
無意識に、「また」という言葉が口をついて出た。
櫛那の顔が浮かぶ。
あの夜の火の赤も、全部一緒にせり上がってきた。
「……儂は、断ろうと思う」
静かな声だった。
「儂は、もう……名札を増やすべきではない」
低く絞り出された言葉だった。
その横顔を見ながら、胸の中で言葉が形になる。
(……本当は、受け入れてあげたいんだ)
そのことだけは、すぐに分かった。
この手紙の向こうには、きっと櫛那と同じような子がいる。
鬼に家族を殺されて、行き場をなくして、鬼への復讐を心に決めた子が。
俺みたいな悪ガキを「かわいそうだから」と思って拾ってしまう人だから、きっと今回も迷っているのだろう。
「……二人とも、鬼に家をやられた子なんですか」
「そう、だろうな」
鱗滝さんの、巻子を持つ指に僅かに力が入る。
その手を見ていたら、自然と口が動いた。
「……俺が、面倒見ますよ」
自分でも、驚くくらいはっきりした声だった。
「なに?」
「鱗滝さん一人じゃ、二人も面倒見るのは大変でしょうし。
二人も増えたら、飯も掃除も洗い物も、いろいろ増えますし。
稽古の仕方だって、俺なら少しは分かるので」
そこまで一気に言ってから、ようやく自分が何を言っているのか理解した。
鬼殺隊に弟子を出すことを止めたいと言っていた人に、「俺が手伝うから増やそう」と言っている。
今さら、言葉は引っ込められなかった。
「宗右衛」
名前を呼ばれる。
「お前……」
「俺だって、見てきましたから」
言葉が勝手に続いた。
「櫛那が、どんな顔でここに来て。
どんなふうに変わっていったか」
梁の上で、鎹烏が小さく羽根を震わせた。
「……でも、その分、儂は」
「鱗滝さん一人で抱え込むから、しんどいんですよ」
自分でも、生意気なことを言っている自覚はあった。
「櫛那のことだって、俺、ちゃんと覚えてます。
名札だって、机のそばに置いてます。
忘れたりしません」
机の上の、小さな木札を思い浮かべる。
「新しい子が来たって、櫛那が消えたりしません。
……俺、ちゃんと覚えてますから」
鱗滝さんの肩が、わずかに揺れた気がした。
「お前は……」
何かを言いかけて、飲み込む気配がした。
長い沈黙のあとで、ぽつりと言葉が落ちる。
「……儂は、その子らをまた鬼の下へ送ってしまうのだぞ」
「そのときは、俺が一緒に行きますよ」
気付けば、そう言っていた。
「一緒に行けば、生き残れます。
必ず、助けます。
俺、鱗滝さんを一人にはしませんから」
囲炉裏の火が、ぱち、と小さく弾けた。
天狗面の奥で、息を吸う音がした。
「……手紙に、似たようなことが書いてあった」
「え?」
「『あなた一人だけで抱え込ませてしまって、すまない』と。
『それでもあなたのそばにいる者がいるなら、預けてもよいかもしれません』と」
それが誰のことかは、言われなくても分かった。
顔が熱くなるのを誤魔化すように、囲炉裏の火を見つめる。
「……分かった」
短く、鱗滝さんが言った。
「儂は、その子らを預かる。
その代わり――」
面の下から伸びた指先が、こちらを指した。
「お前も、覚悟しておけよ。
弟弟子の面倒を見るというのは、そう軽いことではない」
「はい!」
返事だけは、やけに良く出た。
胸の奥が、少しだけ軽くなった気がした。
――その数日後。
「宗右衛。留守を頼んだぞ」
山を下りる支度を整えた鱗滝さんが、短く言った。
「はい。布団も箸も、ちゃんと三人分にしておきます」
「四人分だ」
天狗面の奥で、わずかに笑い声が混じった。
「……儂の分も、忘れるな」
「忘れませんよ!」
そう言って笑うと、鱗滝さんの仕草が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
鎹烏が肩にとまり、二度鳴く。
そのまま二人は、山道を下りていった。
俺は家に残って、掃除をやり直し、布団を干し、箸を磨いた。
鍋も、いつもより少し大きいものを出した。
(どんな子たち、なんだろう)
櫛那みたいに、よく喋る子だろうか。
そういえば、男の子か女の子なのかも聞かなかった。
それとも、俺みたいに、裏長屋上がりの悪ガキだったりするんだろうか。
山に来る子には、みんなそれぞれ事情がある。
そのことだけは、もうよく分かっている。
そして、はたと思う。
(怖がってたら、どうしよう)
山に来たばかりのときの自分を思い出す。
天狗に無理やり連れてこられて、何もわからないまま泣きそうになっていた自分を。
(ちゃんと話してやれば、少しは楽かもしれない)
だから、できるだけ柔らかく、にこにこして迎えてやろうと決めた。
――夕方。
外の気配で、俺は戸口のところまで走っていった。
山道を登ってくる足音が三つ。
鱗滝さんの、聞き慣れた足音。
それと、少し軽くて、不安定な足音が二つ。
戸を開けると、まず天狗面が見えた。
その後ろに、二人の男の子が立っていた。
一人は、臙脂の着物に身を包み、肩をすくめ気味に立っている。
目は伏せ気味で、視線があちこちさまよっていた。
周りの色は、暗い青と暗い緑が混ざっている。
沈み込みと不安が、ぎゅっと絡み合った色だ。
ところどころに黒も混じっているのが、かすかに見える。
(怖いけど……来たんだな)
もう一人は、緑と黄色の亀甲柄の着物を着て、背筋をしゃんと伸ばしていた。
口元にはまっすぐな線が引かれていて、目に強い光が宿っている。
その周りには、明るめの赤が、細く揺れていた。
「ここが、お前たちの当分の家だ」
鱗滝さんが、二人の背中を軽く押した。
「入れ」
戸を開け放って、俺は精一杯、にっこりしてみせた。
「いらっしゃい、ようこそ、狭霧山へ!」
二人の動きが、ぴたりと止まった。
亀甲柄の子の赤が、一瞬だけ濃くなる。
もう一人の臙脂の子は、きゅっと固く縮こまった。
(あれ?)
何か間違えたのかと考える間もなく、鱗滝さんが紹介を始めた。
「こちらが、儂の弟子で……今は儂の息子でもある」
ちらりと、こちらを見る。
「鱗滝宗右衛だ」
「どうも、鱗滝宗右衛です」
改めて名乗ると、亀甲柄の子がわずかに眉をひそめた。
「……息子?」
低く、はっきりした声だった。
「じゃあ、あんた……」
そこで言葉を切って、俺をじろりと見る。
「ここ、コネで来てるのか?」
「え?」
思ってもみなかった言葉だった。
「あ、いや、その……」
慌てて手を振る。
「コネ、っていうか、その……俺も最初は弟子で。
いろいろあって、今はその、息子……みたいな……」
言えば言うほど、訳が分からなくなっていく。
亀甲柄の子の目つきが、じわじわと険しくなった。
それを見て、余計に焦ってしまう。
「と、とにかく! これからよろしくな!
分からないことがあったら何でも聞いてくれ!
飯の場所とか、布団の使い方とか!」
(ああ、なんか違う。これじゃない)
自分でも、喋りながら「何かおかしい」と思った。
優しくしようとして、裏長屋で身につけた「愛想笑い」が出てきてしまう。
にやにやしているつもりはないのに、きっとそう見えている。
もう一人の子――臙脂色の着物の方がおずおずと口を開いた。
「……富岡義勇です」
小さく名乗る声だった。
その名前を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっとなった。
どこかで聞いたような響きだと思った。
亀甲柄の子も、続く。
「錆兎です。
……よろしくお願いします」
言葉だけは丁寧だったが、その視線はまだささくれていた。
鬼に家をやられた子。
大事な人を奪われた子。
(……そうだよな)
歓迎しようなんて考えて浮かれていたのが、少し恥ずかしくなった。
「二人とも、まずは荷物を置け」
鱗滝さんが、いつもの淡々とした声で言った。
「家の中のことは、宗右衛に聞け。
飯の前に、ひとつだけ言っとく」
天狗面が、二人の方を向く。
「ここでは、儂の言うことと――」
そこで、わざとらしく間を置く。
「宗右衛の言うことは、だいたい同じだと思っておけ」
「えっ」
「は?」
俺と錆兎の声が、同時に出た。
義勇は、少しだけ目を見開いただけだった。
「弟弟子ができたんだ。
ちゃんと面倒見ろ」
「……はい」
返事をしながら、背中が少しむずがゆくなるのを感じていた。
その夜の飯は、妙な空気になった。
俺はできるだけ明るく話しかけたつもりだったが、二人はほとんど口をきかなかった。
錆兎は必要なことだけを短く答え、義勇は小さく頷くだけだった。
家の烏が梁の上から様子を見ている。
たまに首をかしげて、鱗滝さんの肩に降り、こそこそと何かを囁いていた。
(……やっぱり、変だったかな)
布団に潜り込んだあとで、何度も今日の自分の顔を思い出しては、布団の中でじたばたした。
にやにやしていたかもしれない。
へらへらしているように見えたかもしれない。
(くそっ、明日から、ちゃんとしよう)
そう心に決めて、目を閉じた。
――次の日。
朝の水汲みから、三人で行った。
俺が先頭を歩き、後ろから二人の足音がついてくる。
義勇は少し足を引きずるような歩き方で、錆兎は無理に速度を合わせようとしている。
「ここ、足場悪いから気をつけてな」
振り返りながら声をかけると、錆兎がふいっと顔を背けた。
「別に、これくらい」
負けん気の強そうな声だった。
沢で水を汲み、戻ってきてから、朝飯。
そのあとすぐに走り込みが始まった。
「宗右衛、先頭で走れ」
「はい」
いつも通りのコースを、後ろの二人の足を気にしながら走り出す。
後ろから、必死の足音が追いかけてくる。
(もう少し速度を落とすか)
最初の一周で、義勇の呼吸が乱れ始めた。
二周目で、錆兎の足音も重くなる。
三周目に入る前に、鱗滝さんが声をかけた。
「止まるな。
歩いてもいいから、前に進め」
義勇の背中が、小さく震えながらも、前へ前へと進んでいく。
「明日も同じことするから、無理しちゃ駄目だ。
まだ来たばかりで、息するの辛いだろ?」
つい声を掛けてしまう。
俺と二人の間には、年は近いかもしれないが、すでに大きな差があった。
でも、それは仕方ない。
錆兎の方は、細かく見なくても分かる。
負けてたまるかとばかりに、目の光を強くしている。
昨日から、なんというか、嫌われているのが分かってちょっとへこむ。
午前中の走り込みが終わるころには、二人とも地面にへたり込んでいた。
息は荒く、汗が顔から滴っている。
俺の方は、むしろまだ動き足りないような気持ちだが、今日は二人に時間を使うべきだろう。
「水、持ってくるよ」
声を掛けると、錆兎が悔しそうに顔をしかめる。
「じ、自分で……」
「いいから、座ってて。最初がきついのは皆一緒だから」
そう言って笑うと、錆兎の顔に浮かんだ警戒が、ほんの少しだけ和らいだ――ような気がした。
いや、そうであってほしかっただけかもしれなかったが。
昼には、素振りをさせると鱗滝さんが告げる。
二人はもう木刀に触れるのかと、木刀を握りながらどうしても自分と櫛那のときの基礎鍛錬の長さと比べてしまう。
「お前の時は身体が出来ておらんかったからな」
いつの間にか後ろに立っていた鱗滝さんから答えが落ちてくる。
(今、口に出してなかったと思うんですけど……そんなに分かりやすかったですか)
二人に木刀を握らせると、鱗滝さんが幾つかの型を見せて、素振りをさせる。
いつもの「よく見て、真似ろ」というやり方だ。
俺たちの時と違うのは、俺も教える側に立っていることだ。
「宗右衛、見てやれ」
やることは櫛那の時と同じだ。
二人の動きを見て、身体の使い方を直してあげる。
錆兎は筋がよかった。
一度見ただけの型を、ぎこちないながらもなぞってみせる。
型としては足りない部分も見えるが、身体の動かし方に戸惑いがなかった。
もしかしたら、元々何か身体を動かすような経験をしていたのかもしれない。
義勇は動きが固いが、それでも真面目に一つひとつ丁寧に真似をしようとしていた。
一振りごとに、正しい型に近付いていっている。
櫛那と同じ覚え方をしているような気がして、義勇にほんの少しだけ櫛那の影を見る。
「そこ、肘、もう少しだけ下げて」
気が付いたら義勇の後ろに回って、そっと腕を支えていた。
肩がびくっと震えた。
「ご、ごめん」
「い、いえ、驚いただけで」
嫌がられてはいないようだったが、本当に何も考えず櫛那にするようにしてしまった。
次は気をつけようと心に決める。
錆兎は身体の動きに不足はないように見えたので、足さばきを中心に教えた。
「攻めるの、得意そうだね」
「……悪い、ですか」
「敬語じゃなくていいよ。たまたま先に来ただけで、たぶん歳も同じくらいだし。
悪くはないけど、踏み込みの前に足を置く場所を選ぶ癖をつけておいた方が、後で楽だよ」
そう言って、自分の足元を見せる。
何度も何度も叩き込まれてきた動きだ。
夕方までに、二人とも、ぼろぼろになっていた。
「ハッ……ハァッ……死ぬ……!」
錆兎が地面にひっくり返りながら、はっきりとした声で言った。
「死なせん。その手前まで追い込むだけだ」
鱗滝さんが、容赦のない言葉を落とす。
「死なないように鍛えるのが、ここですからね」
思わず口を挟むと、錆兎がじろりとこちらを見た。
昨日のような「嫌っている」視線ではないが、内心は窺い知れない。
「……何かあった?」
その視線に思わず身構えると、錆兎はぼろぼろの身体を何とか起こして正座した。
「最初、ここ来たとき」
錆兎は、はっきりと言葉にする。
「あなたのこと、めちゃくちゃ気持ち悪い人だと思いました」
「えっ」
あまりにも直球で、変な声が出た。
「いきなりにやにや笑って、『ようこそ』と言われ、鱗滝師範の息子だと聞き……
遊びでここにいるのだと、早とちりをして、無礼を働きました。
申し訳ありませんでした」
錆兎が頭を下げる。
「いや、それを言うなら俺の方こそ勘違いさせるようなことして、ごめん。
俺の方こそ、軽率だったよ。
二人が、その、緊張しないようにと思って、慣れない、変なことしたから」
俺は慌てて錆兎の頭を上げさせる。
「……でも」
錆兎は、少しだけ目を細めて俺を見る。
「今日、一日一緒にいて。
ちゃんと教えてくれて、水も持ってきてくださって……」
言いにくそうに言葉を選びながら、ぽつりと続けた。
「決して遊びでここにいる人ではない、と」
悔やむように口元を固く結ぶ。
本当にまっすぐで、良い子なんだなと、見ているこっちも謝りたくなった。
「……変な人は、変な人ですけど」
「そこは変なんだ……」
思わず肩が落ちる。
その横で、義勇が小さく口を開いた。
「……僕も」
声は小さいが、はっきりとした響きだった。
「最初、怖かったです。
鱗滝さんも、この山も。
……宗右衛さんも」
義勇は一度視線を落とし、それからゆっくり続ける。
「でも、さっき、後ろから手を添えてくれたとき。
ちゃんと、斬れるようにって教えてくれてるんだなって……
だから、その……」
言葉に詰まり、視線が足元に落ちる。
それでも、最後まで言おうとしているのが見えた。
「怖い人じゃ、ないと思います」
「……ありがとう」
胸の奥が、じんわり熱くなった。
「気持ち悪いって言われたのは、ちょっと傷ついたけど……
でも、二人とも、ちゃんと言ってくれてありがとう」
そう言うと、錆兎は気まずそうに頬をかいた。
義勇も、少しだけ顔を赤くしている。
「これからも、変なとこはあると思うけど」
自分で言って、少し笑う。
「分からないこととか、嫌なこととかあったら、ちゃんと言って。
俺、できるだけ何とかするから」
「じゃあ」
錆兎が、少しだけ悪戯っぽい目をした。
「明日は、水汲みに行く前に、ちゃんと起こしてください。
俺、寝起き悪いので」
「……うん、それは、わかった」
あまりに真剣な顔でいるので、思わず吹き出すと、錆兎もほんの少しだけ笑った。
義勇も、その横で小さく口元を緩めていた。
その日の夜。
囲炉裏を囲んで三人で飯を食べ、布団を並べて寝た。
梁の上では、家の烏が羽根を膨らませて眠っている。
櫛那の名札は、今も机の上にある。
梁の上には、まだ上げる気にはなれなかったから、そこに置かせてもらっている。
名札は増えていない。
でも、布団の数は増えた。
悲鳴の数も、きっと増えていく。
四人と、一羽。
新しい日常が、静かに始まっていた。