四人と一羽の暮らしは数日が過ぎたが、いつもにぎやかだ。
まず、朝の音が増えた。
今までは、外の風と木の軋む音と、囲炉裏の炭のはぜる音だけだった。
そこに、新しく二種類の寝ぼけた声と、布団を手繰る音が加わる。
夜明け前。外がまだ青いころ。
俺は目を覚まして、隣に並んだ布団に声を掛ける。
「錆兎ー。義勇ー。起きて」
声を掛けると、義勇の方がびくっと肩を揺らして、すぐに目を開けた。
錆兎はというと、布団の中で丸くなったまま、微動だにしない。
「……起きてる?」
「……起きてない」
「正直でよろしい。起きよう」
「あと五……五十……五十日……」
「それはもう季節が変わるね」
布団の端をつまんで、ずるずると引っ張る。
錆兎は布団にしがみついたまま、じたばたと足を動かした。
「寒い! 外、絶対寒い!」
「寒いよ。でも水はもっと冷たいよ」
「だからいやなんだ!」
梁の上で、家の烏が迷惑そうに羽根を膨らませる。
小さく「カァ」と鳴いて、頭を翼に埋めた。
結局、義勇に説得されて、錆兎はしぶしぶ顔を出した。
寝癖で跳ねた宍色の髪を片手で押さえながら、半目で俺を睨んでくる。
「……宗右衛、お前鬼か」
「朝はね、皆そう思うよ」
俺も昔は、そう思っていた。
外に出ると、山の空気は刺すように冷たかった。
桶を持って、三人で沢へ向かう。足場の悪い道を、一列になって下る。
「ここ、石が滑るから気を付けて。右足から下りた方が楽だよ」
振り返って言うと、義勇はこくりと頷き、言われた通りに足を置いた。
錆兎は「これくらい平気だ」と強がりながらも、しっかり石を確かめながら降りてきている。
桶を沢に沈めると、冷たさが腕まで跳ねた。
「うわっ……」
「これを毎日か……」
「そう。毎日」
二人の肩が小さくすくむ。
それでも、桶を放り出したりはしなかった。
水を運んで戻るころには、指先の感覚はほとんどなかったが、息は少しだけ温かくなっていた。
囲炉裏に火を起こし、鍋に水と米と干肉を入れる。
山菜を刻んで放り込めば、すぐに煮立ってくる。
「いただきます」
四人で手を合わせる。
茶碗によそわれる粥の量は、自然と四者四様になっていた。
鱗滝さんは少し多め、錆兎と義勇はほどほどの量。
俺の茶碗にはいつも山盛りだ。
ひと口、ふた口と掻き込み、あっという間に茶碗の底が見える。
何も言わなくても、空になった茶碗を鱗滝さんの方へ差し出す。
向こうも何も言わないまま、話を続けながら粥を盛り足してくれる。
「今日は山の向こう側まで回る、午後は型の訓練にする」
「はい」
ふんふんと頷きながら、二杯目を食べ終え、また茶碗を差し出す。
三杯目がよそわれるのも、もう当たり前のことになっていた。
その様子を、錆兎と義勇が、やや引き気味に見ていた。
「……それ、もう三杯目ですよね?」
「うん?」
口いっぱいの粥を飲み込みながら見返すと、二人とも同じ顔をしていた。
どんだけ食うんだ、この人、って顔だ。
「そんなに食べて、走れるんですか」
義勇が、おそるおそる聞いてくる。
「食べないと走れないよ。
体じゅう動かすんだから、その分入れとかないと」
俺が言うと、鱗滝さんが「うむ」と短く頷いた。
それで良い、ということだ。
「……俺も、それぐらい食べるべきだろうか」
錆兎がぼそりと言う。
「いやー、どうだろ。最初の頃はね、俺も並盛二杯でいっぱいいっぱいだったよ」
言いながら、少しだけ笑う。
(ああ、そうか)
いつの間にか、これが「いつも通り」になっていた。
最初の頃の自分なら、きっと今の俺を見て、二人と同じ顔をしていただろう。
「二人も、そのうちもっと食べられるようになるよ。
動く分だけ、腹も減るから」
気軽にそう言うと、二人はとても微妙な顔をした。
「……なりたいような、なりたくないような」
「で、でも、食べられるようになった方が、強くなれるんですよね?」
「うん。強くなりたいなら、よく食べて、よく動く。これ大事」
義勇は小さく頷いて、残りの粥を口に運んだ。
錆兎も、渋い顔をしながらも、茶碗を空にした。
飯が終われば、走り込みだ。
「宗右衛、先頭で走れ」
「はい」
いつもの山道を駆け上がる。
俺の前には、いつかの俺と櫛那の足跡が、そのまま残っている気がする。
後ろからは、二人の足音。
一周目の終わりで、義勇の息が荒くなる。
二周もすれば、錆兎の足音も重くなっていく。
識彩を少しだけ開くと、二人とも随分と緑が濃い。
その中に、「やってやる」とばかりの赤も混じっていた。
(……こういうとこで止めると、逆に次が辛かったりするんだよなぁ)
自分のときのことを思い出す。
「止まりそうになったら、歩いていいから。前には進めよー」
わざと大きな声を出すと、後ろから息も絶え絶えの返事が返ってきた。
「宗右衛さん、息切れてないの、おかしくないですか……!」
「慣れれば、なれる!」
「それ説明になってません!」
そんなやりとりをしているうちに、午前の走り込みが終わった。
二人は地面にへたり込み、しばらく立てそうにない。
地面にへばりつくような苔色が段々と薄くなって、赤と青が入り混じった色に移っていく。
「水、持ってくる」
「じ、自分で……」
「いいって。ここまで走れたの、普通にすごいから」
沢へ小走りで向かいながら、昔のことを思い出した。
自分がここで吐いた回数と、吐いたあとに掃除をして、また走らされた日のこと。
それと比べれば、吐いてないだけでも本当に凄いことに思える。
(……ほんと、よくやってたな俺)
戻ると、錆兎は大の字、義勇は前かがみで息を整えている。
柄杓を渡すと、二人とも、まるで命の水みたいに大事そうに飲んだ。
昼飯のときも、さっきと同じだった。
俺が茶碗を差し出せば、鱗滝さんが無言でよそってくれる。
それを二人が、なんとも言えない顔で見る。
「あれだけ走っておいて、平気な顔して四杯も……」
「うぷっ……なんか、見てるだけで……吐きそうです」
「二人とも、恥ずかしいからこっち見ないで」
錆兎がぼやき、義勇が小さく笑った。
午後の稽古のメインは、型と素振りだ。
「午後は素振りだ。型を叩き込む」
鱗滝さんの声で、空気がきりっと引き締まる。
「前半分は、錆兎を宗右衛。義勇を儂が見る。
後ろ半分で交代だ」
「はい」
木刀を握ると、手のひらに馴染む重さが伝わってくる。
今はもう、この重さがないと落ち着かないくらいだ。
「じゃ、錆兎。まず百本いこうか」
「はい!」
「最初はゆっくりでいいよ。錆兎は型崩さないように振るように気をつけて」
構えを見ていると、錆兎の足の置き方や腰の位置が、最初に握ったときよりもずっと自然になっているのが分かった。
以前は木刀を握ると気持ちが前に出て来るように赤が多かったが、今は青が増えた。
構えの段階から、身体の感覚によく集中している。
「いち、に、さん……」
錆兎の口が、振るたびに数を刻む。
その隣で俺も型の素振りを始めると、錆兎が十を数えたときに、刀の軌跡がわずかにぶれる。
「今の、踏み込みの前で腰が浮いてる。
錆兎は集中したらちゃんと出来るんだから、次じゃなくて今の動きに集中して」
「ハァッ……! こうッ……! ですか!」
「うん。いい。――錆兎さ」
良い機会だと思って、前から気になっていたことを聞いてみる。
「ここに来る前って、何か体動かすようなことしてた?」
「宗右衛、いまッ……! それに! 答えないとダメか!?」
「木刀振ってるだけだと暇かと思って。
最初から足の運びとか、腰の据わり方がしっかりしてたから、前から気になってたんだよ」
錆兎は、少しだけ視線を落としてから答えた。
「……よく、近所の子とっ! 相撲してたぞっ!
後は! 木を運んだりとかっ!」
「やっぱり」
思わず笑みがこぼれる。
「相撲好きで! 仕事の手伝いの後とかで、ハァッ……! 親方が連れてってくれたっ!」
言いながらも、木刀を振る手は止まらない。
無駄な力みが取れて、腰の位置がさっきよりも安定した。
錆兎の色の帯に、緑と少しの白が混じる。
型をなぞらせるのも大事だが、錆兎は“遊び”のある方が動きがいい。
「なるほどな。
だから、身体の動きが良いんだな。中が出来てる」
「ッ……! 中とは!?」
「中って、身体の真ん中に太い柱が一本通ってるみたいな感じ?
俺はそれが出来るまで、2年ぐらい掛かったもん。
すごいよ」
錆兎は褒められたのが少し照れくさいのか、口元を緩めた。
「男なら! やはり相撲だな! これで百ッ!」
「そうそう。その調子」
その後もしばらく、足さばきと踏み込みのタイミングを中心に見ていった。
錆兎は、言ったことを素直に試してみるし、失敗してもすぐ立て直す。
(……やっぱり、筋がいいな)
錆兎は一つ教えると、そこから二つも三つも見つけて、突き進んで行くようなところがある。
そのぶん基礎が疎かになる癖もあるが、それを直すのは鱗滝さんに任せて、俺は錆兎の凄いところを伸ばすようにしてみる。
そうして前半が終わるころには、錆兎の腕はぷるぷる震えていたが、目の奥の光は消えていなかった。
「では、入れ替えだ」
鱗滝さんの声で、配置が変わる。
今度は俺が義勇を見る番だ。
義勇も既に腕が震えているようだが、色を見ると、気持ちを奮い立たせているのだろうことが分かる、明るい赤が見えた。
「それじゃ義勇、構えてみて」
「……はい」
義勇は、少し緊張したように木刀を構えてみせた。
指の位置、手首の角度、力の入り方。どれも、丁寧に「こう」と考えた形になっている。
「さっき鱗滝さんが見せた型、ゆっくり一本やってみて」
義勇は、小さく息を吸い込んでから、動いた。
最初の一振り目で、すぐに分かった。
義勇は目で見たものを、そのまま自分の身体に落とし込むのが、驚くほど上手い。
俺なんかは、鱗滝さんの動きを目で追えても、自分の身体を動かすとてんでちぐはぐになっていた。
集中するときの青色が、鱗滝さんの動きをそのまま模倣するかのように動き、それを自身の身体で更になぞったのが見えた。
当然、鱗滝さんと同じ速さでとなれば模倣は難しいだろうが、それでも十分に凄いことだ。
(ただ、考えすぎて固くなってる、か)
「うん、凄いよく見てるし、動きもめちゃくちゃ良かった。
肩、力抜いたらもっと良くなると思う。
えっと、動きを頭で追いかけるんじゃなくて、体で覚えてく感じで」
「……はい」
何本か振ってもらってから、口を開いた。
「義勇、覚えるの、すごく上手いよ」
「え」
「さっき鱗滝さんが見せたの、一回だけだったろ。
それをここまで形にできるの、普通はなかなかできない」
義勇の帯の色が、ふわっと揺れた。
青の中に、わずかに白が混ざる。
「目で見たものを、そのまま自分の体に写していくの、得意だろ。
それと、自分の体が今どう動いてるか、ちゃんと感じてる」
それは本当に、感心して出てきた言葉だった。
「だから、俺が見てても直すところそんなにない。
『ここ、今の感じで覚えといて』って言えるの、すごく助かる」
「…………」
返事がないので顔を見ると、義勇は木刀を握ったまま、ぽろりと涙をこぼしていた。
「えっ、ちょ、ちょっと待って。
何か変なこと言った?」
慌てて声を上げると、義勇は首を横に振った。
「な、なんでも……ない、です」
そう言いながらも、涙は止まらない。
帯の色が、くすんだ桔梗みたいになっていた。
青と紫と、少しの黒と。どれもが沈んで、ほどけなくなっている。
(……ああ、これ、たぶん家のことだ)
口に出さなくても分かった。
褒められたことそのものじゃなくて――
きっと「誰かにそう言われたこと」が、あったんだろう。
家族か、近しい誰かに。
「ご、ごめん、義勇。
変なこと言ったなら、謝る」
「ちが……違います」
義勇は、袖で慌てて目をこすった。
「怒ったとか、じゃなくて……
ただ、その……思い出して、しまって」
「……そうか」
どう言っていいか分からず、木刀を持ったまま頭をかく。
「今は、続けられそう?」
「……はい。大丈夫です」
「無理そうだったら、ちゃんと言えよ。
鱗滝さんも怒らないから。
稽古休んだって、取り返せばいいだけだしさ」
櫛那にも、何度か似たようなことを言ったことを思い出す。
「……はい」
義勇は、もう一度小さく頷いた。
涙の跡を残したまま、木刀を構える。
「じゃ、さっきの続き。
一振りごとに、自分で『今の良かった』とこ探してみて」
「……良かったところ、ですか」
「うん。悪いところばっかり探すと、どんどん縮こまるから」
それは、自分にも言い聞かせる言葉だった。
それからしばらく、義勇と一緒に素振りを続けた。
一振りごとに少しずつ、肩から余計な力が抜けていくのが分かった。
義勇が「ここが少し楽でした」とか、「今のは手首が軽かったです」とか、小さなことを言葉にするたび、帯の桔梗色が少しずつほどけていった。
そうして夕方には、腕も足もがくがくになった二人が地面に倒れ込んでいた。
「はぁ……はぁ……死ぬ……」
錆兎が地面にひっくり返りながら、息を吐く。
「死なん。死ぬ手前までしかやらん」
鱗滝さんの声は、いつも通り淡々としていた。
「死んでないから、まだ大丈夫、ってことですね……」
義勇が、ゼエゼエ言いながらも、妙に納得したような顔をしている。
「そうそう。生きてるうちは追い込めるだけ追い込んだ方がいいしね」
「宗右衛さんは元気ですね……」
「慣れだよ、慣れ」
本当にそうだと思う。
最初は木刀を振るだけで精一杯だった。
夜になって、三人で囲炉裏を囲んだ。
肉と山菜の汁をすすりながら、ぽつぽつと話をする。
最初の頃に比べたら、二人とも、少しだけ自分のことを話すようになってきていた。
「相撲で負けなしだったんだっけ」
「ああ。一回り年上の奴らとやっても負けなかったな」
「そりゃすごい。
じゃあ、いつか俺と取ってみる?」
「……今は絶対に断る」
錆兎が即答して、鱗滝さんの天狗面が、微妙にこちらを向いた気がした。
……俺も鱗滝さんに相撲やろうとか言われたら嫌ですよ。
勝てないとか以前に、訓練でぶん投げられすぎて、鱗滝さんとの相撲で痛い思いをする未来しか思い描けなかった。
「義勇は? 何か好きなこととか、得意なこととか」
鱗滝さんの視線に気付かないふりをして、義勇に話を振る。
「……魚、捌くのは、好きでした」
「魚?」
「姉さんが、料理をよくしてくれて。
僕は、その手伝いで……骨を抜いたり、皮を引いたり」
言いながら、義勇の声が少し柔らかくなる。
帯の色も、深い青に、少し白が混じる。
「魚、食べたいな」
錆兎がぽつりと言う。
「鱗滝さんに山を下りたときに、魚を買って来てもらう?」
「え、いいんですか?」
「それなら、川で魚を釣った方が早いんじゃないか?」
それを聞いた鱗滝さんが、いつもの調子で言った。
「……釣った魚を捌いてもらうのも、よいかもしれんな」
「そうしたら、僕、頑張ります」
義勇が、少しだけ声を弾ませた。
梁の上で、家の烏が羽根をふくらませて様子を見ている。
たまに首をかしげて、鱗滝さんの肩に降り、小さな声で何かを囁いていた。
もしかして、魚好きなのか、お前。
布団を並べて眠る前、机の上の名札が目に入った。
櫛那の名前が刻まれた、小さな板。
梁の上に上げるには、まだ、もう少しかかりそうだ。
名札は増えていない。
代わりに、布団の数は増えた。
悲鳴も、笑い声も、話し声も。
前よりずっと、山に響く音が増えた。
(櫛那姉ちゃん)
心の中で、そっと呼びかける。
(弟弟子二人来たよ。
よく食べて、よく転んで、よく泣いて、よく笑うやつらだ)
いつか、三人で藤襲山に旅立つ日のことを思い描く。
その日まで、今日という日を胸を張って自慢できるように。
そう思いながら、目を閉じた。
新しい手と、昔の手と。
日々が、静かに積み重なっていく。