義勇が岩を割った翌朝、山の空気はやけに澄んでいた。
秋が近づくにつれて、狭霧山の朝は少しずつ冷たくなってきている。
冷たいのに――胸の奥は、妙に熱い。
岩を割った。
錆兎も、義勇も、割った。
藤襲山へ行ける。
(……行ける、ってことは)
行く、ってことだ。
布団の中で目を閉じていたけれど、昨日の夜から頭のどこかがずっと起きているみたいだった。
朝は相変わらず騒がしい。
「錆兎ー、義勇ー、起きてー」
呼べば、義勇は素直に身体を起こして「おはようございます」と挨拶する。
錆兎はと言えば、布団の中で丸まったままだ。
「……まだ寝ていたい」
「気持ちは分かるけれど。起きよう」
「あと……。
いいや、起きよう……」
「おお、珍しい」
驚いて見せると、錆兎がばつの悪そうな顔をして視線を下げる。
「……いつまでも、宗右衛に起こしてもらうわけにもいかないからな」
「それは、……そうだね」
錆兎も、それと言葉にはしないけれど義勇も、きっと俺と同じ気持ちなのかもしれない。
今日は鱗滝さんは「訓練の準備をする」と言って、既に出掛けているので俺が竈の前に立つ。
朝餉の準備をしながら、ふと梁の上を見る。
家の烏が目を細めたまま、じっとこちらを見ていた。
「……なんだよ」
返事はない。
ただ、羽を一度だけふるわせる。
(あいつも、分かってるんだろうな。もうすぐだって)
戸口の方から、桶を運ぶ足音が近づく。
義勇と錆兎はいつも通り、笑い声を響かせて戻ってくる。
――いつも通り。
その「いつも通り」が、やけに尊い。
―――
その日から、稽古の質が変わった。
「伸ばす」ためじゃない。
明確に「仕上げる」方向へ、鱗滝さんが舵を切った。
走り込みの距離が増え、素振りの本数が増え、刀を握るのが当たり前になる。
水を汲むときも、山を歩くときも、呼吸を意識させられる。
「息を乱すな。
鬼の前で呼吸を乱せば、死へ繋がる」
そう言って、鱗滝さんは容赦なくメニューを積み増していった。
そのきつさの中で、一番変化があったのは――義勇だった。
義勇は、錆兎ほど騒がない。
俺ほど何かを誇らない。
でも、静かに、黙々とやる。
たとえば、走り込み。
「今日は午前の内に二十周してみようか。途中で潰れても助けないからそのつもりで」
錆兎が「鬼畜……!」と文句を言いながら走り出す。
最初の数周は俺と競うように錆兎が走り、義勇は一歩後ろから様子を伺うように走っていた。
けれど、十周目を過ぎたころ。
息の荒くなった錆兎の横を、義勇がすっと抜いていった。
「……え?」
錆兎が目を剥く。
「今日は負けないよ」
短く言って、そのまま前だけを見て走っていく。
足取りは重くない。
身体の軸が、前よりぶれなくなっていた。
結局、この日は俺が一番に走り終え、少し遅れて義勇、その少し後ろが錆兎になった。
「ぎゆっ……おま、いつの間にそんな体力……つけてたんだよ」
地面に倒れ込んだ錆兎が、空を仰ぎながら文句を言う。
「宗右衛さんと錆兎が、いつも前で走ってくれてたから……。
ついていこうと思ってたら、いつの間にか、だよ」
「いつの間にかで抜くなぁ……」
文句を言いながらも、錆兎の顔はどこか楽しそうだった。
そうして午後の訓練を一通りこなして、最後に模擬戦をする。
「最後に模擬戦を一本ずつやる。
宗右衛、錆兎」
岩場の脇の平らな土の上で、鱗滝さんがそう告げる。
最初の組み合わせは、錆兎対宗右衛。
「行くぞ、宗右衛!」
「お手柔らかに」
言いながらも、本気でいく。
錆兎の踏み込みは、この前、俺の木刀を弾き飛ばしたときよりもさらに鋭くなっていた。
木刀と木刀がぶつかるたび、腕に重さが響く。
それを受け止めながら、足さばきをわずかにずらす。
(このくらいの重さなら、何とかなる)
問題は――その次だ。
いつ、水の呼吸の一撃が来るか分からない。
前に弾き飛ばされた時の感覚が、まだ腕に残っている。
攻めあぐねた錆兎の額に汗が滲み、踏み込みが少しだけ乱れ始めたところで、俺はあえて距離を詰めた。
錆兎が組み打ちを警戒して身体が固まった一瞬、木刀を滑らせるように使って、錆兎の体勢を崩す。
そのまま首筋に木刀があたる直前で、鱗滝さんの声がかかる。
「そこまで」
「ああああ、負けたぁぁぁ!」
―――久しぶりの一本勝ち。
思わずこぶしを握るが、あまり勝ち誇るのも錆兎に悪い。
勝利の高ぶりを、ゆっくりと息を吐いて落ち着かせる。
錆兎も相当に悔しかったようで地団太を踏んでいる。
だが、これはあくまで「今のところ」の話だ。
この先、錆兎の呼吸が安定しきったなら――木刀では勝ち目はないだろう。
そして、その次の組み合わせが、今日一番の驚きだった。
「次は、錆兎と義勇」
「よし、今度こそ俺の本気を――」
錆兎の言葉が、途中で止まった。
木刀を静かに構える義勇から感じる違和感。
立ち合いの前だというのに、まるで岩を切る時のような深い集中をしている。
義勇から伸びる青い帯が、途中から色を無くすように灰色になり、景色に溶ける。
これは”鱗滝さんの色”だ。
「始め」
錆兎も義勇が何か違うことは理解しているだろうが、それでもいつも通り、迷いなく踏み込んだ。
振るわれた木刀は俺が受けたものと変わりがないはずだが、義勇が受けると、妙に「沈んでいる」ように見える。
錆兎の勢いを、吸い込んで流すみたいな受け方だった。
「っ……!」
打ち込んでいる錆兎が一番それを感じているだろう。
一瞬たりとも気を抜けないはずなのに、錆兎の色に戸惑うような緑が混じる。
だが、それでも攻める。
横から、斜めから、上段から、錆兎らしい力が乗った斬り込みが続く。
けれど義勇は一歩も退かなかった。
「もう一度だ!」
錆兎が角度を変えて振り込む。
俺の木刀を吹き飛ばしたときと、ほとんど同じ気迫。
全集中の呼吸の音。
義勇は、肩と肘の角度をすっと変えて、そこに木刀を合わせた。
錆兎の技を、ただ「受け止める」のではなく、「流している」。
打ち込まれるたび、木刀が小さくしなり、角度を変え、力を逃がす。
「っぐ……くそっ!」
錆兎が、押し込みきれずに歯を食いしばった。
(……あの重さを、受けきってる)
俺は、さっきの自分の腕を思い返す。
ほんの少しでも受け方を間違えていたら、また木刀を弾かれていただろう。
義勇は、その「ほんの少し」を外さない。
けれど、攻め手に回れず、押し返すこともできていない。
とはいえ、決定的な一撃をもらう気配もない。
やがて二人とも肩で息をし始めたところで、鱗滝さんの声が飛んだ。
「そこまで」
義勇は木刀を下ろし、深く息を吐く。
額に落ちた汗が、土に黒いしみを作った。
「ちくしょう、攻めきれなかった……!」
錆兎が、木刀を肩に担ぎながら悔しそうに言う。
「ご、ごめんなさい……」
「いや、なんでお前が謝るんだよ!」
義勇が小さく首を振る。
「受けるだけで精一杯で……宗右衛さんみたいに、崩すこともできなかったから」
「崩せたのは、俺があんな戦い方ばっかりしてるからであって……」
俺は苦笑しながら言う。
「今のは、錆兎の全力の一撃を、全部受けきったってことだろ。
それ、十分おかしいからな?」
義勇が、ぽかんと俺を見る。
錆兎も、少し間をおいてからニッと笑った。
「そうだ、宗右衛の様に卑怯な手を使わずに俺の全力を受けきったんだ。それでこそ男だ!」
「この前は『戦いに卑怯はない』って言ってなかった?」
「でもこれは木刀での立ち合いだろ!」
「言ってることが変わるなぁ」
くだらないやり取りをしていると、鱗滝さんから「最後だ」と声がかかる。
ちらりと義勇を見ると、義勇がほんのわずかに頷く。
今度は、俺と義勇が向かい合う。
「二人とも、一本だ。全力でやれ」
鱗滝さんの声に、木刀を構え直す。
「来い、義勇」
「……はい」
義勇の呼吸が、すっと整う。
足が、ふわりと浮くように前に出た。
肩と腰の線が、まっすぐ通る。
斬撃が来る瞬間。
かつて、櫛那に何度も斬られたときと、同じ「気配」を感じる。
色が見えた瞬間には、もう木刀が迫っている。
(――速い)
櫛那も始めたばかりの頃は、色を追えば受けるのも避けるのも、隙をついて攻撃するのも簡単だった。
けれど、岩を切ったあたりから、“こう”なった。
かつて岩を切った時、櫛那は『型を意識しなくてもいいようになった』と言っていた。
ならばこれはきっと、意識しなくても身体が動いているということなのだろう。
だからこそ、これの受け方も知っている。
色が変わる前の、ほんの一瞬。
筋肉が動き出す直前の、呼吸の揺らぎだけを頼りに、体を捻る。
木刀が掠める。
けれど避けられている。
更に踏み込んできたところを、今度は俺が押し返す。
義勇はとっさに、受けきるが、反撃は来ない。
「義勇、打ち返せ!」
錆兎の声が飛ぶ。
義勇が受け攻めの意識を切り替えようとするときに出来る隙。
その一瞬の迷いを、俺は見逃さない。
木刀が走り、義勇の木刀を叩き落とした。
「……そこまで」
鱗滝さんが、静かに区切りをつける。
義勇は、木刀を拾いながら唇を噛んでいた。
(攻めるのは、まだ怖いんだろうな)
けれど、さっきの一太刀は、三人の中で一番「美しかった」。
水の流れみたいで、形だけ見たら、もう俺が真似できないくらいに。
(このまま育ったら……)
もし、義勇がいつか迷いなく「攻め」が出来るようになったら。
そのとき、どれだけの剣士になるのか、考えるだけで背筋が震えた。
(……やっぱり、すごい)
宗右衛としては、素直にそう思った。
走り込みの順位だけなら、俺が一番だ。
純粋な出力だけなら、錆兎が一歩抜けている。
けれど、「水の呼吸そのもの」としての美しさだけを取り出せば――
夕暮れの中で型をなぞるように揺れる義勇の色は、水みたいだった。
―――
その日の夜。
鱗滝さんは竈の方から大きな鍋を持ち上げ、囲炉裏の上に載せる。
ぐつぐつと、食欲をそそる匂いが広がった。
「……何か、匂いがいつもと違う気が」
「今日は、少し奮発した」
蓋を開けると、中には肉と野菜がたっぷり入った鍋があった。
山菜だけではない。
鶏肉らしい切り身や、見慣れない丸い団子も浮かんでいる。
「鳥肉だ……!」
「団子も入ってる……!」
錆兎と義勇の目が一気に輝く。
「二人が岩を割った祝いだ」
鱗滝さんは、鍋をよそいながら静かに言った。
「腹をしっかり膨らませておけ」
湯気の向こうで、天狗の面がこちらを向く。
(……そうか。いよいよ、本当に)
藤襲山の最終選別。
岩を割った者だけが行ける場所。
(俺たちが、行くのか)
「では、いただきます」
四人同時に手を合わせる。
鍋の汁をすすると、しみ込んだ出汁の旨味に、思わず声が漏れた。
「美味い……!」
「これ、ふわふわしてます……!」
「口の中で溶ける……!」
「味わって食え」
口では呆れたように言いながら、鱗滝さんも少しだけ、おかわりをしていた。
鍋がだいぶ減ってきたころ合いで、鱗滝さんが口を開いた。
「お前たち三人は、三日後に山を下りる」
三人の箸が止まる。
「その前に――鬼の話を、しておこう」
鍋が、すうっと静まった気がした。
「……三日後、ですか?」
最初に声を出したのは、義勇だった。
いつもより少しだけ高く、かすれている。
「ああ」
鱗滝さんは、変わらない調子で頷いた。
「藤襲山の最終選別は、年に何度もあるものではない。
次は三日後だ」
三日。
たった、それだけ。
(あと、三日しかない)
喉の奥が、からからに乾く。
囲炉裏の火が、ぱちりと音を立てる。
「鬼とは、人を喰うことで力を増すものだ。
多く人を喰らった鬼ほど、頑丈になり、速くなり、再生も早くなる」
俺たちは、黙って聞く。
「中には、肉体を大きく変えたり、奇妙な術を使うものも出てくる」
錆兎の喉が、ごくりと鳴った。
「日輪刀で頸を斬り落とせば、鬼は滅ぶ。
だが、その頸に辿り着くまでが難しい」
淡々とした説明なのに、一言一言がやけに重い。
「藤襲山の最終選別は、その鬼どものいる山で七日間を生き抜く試験だ。
夜の山で鬼を避けきるもよし、斬り伏せるもよし。
七日目の夜明けまで生き残った者だけが、鬼殺隊の一員となる」
七日間。
山で暮らすのには慣れているはずでも、「鬼と一緒に」と言われると別の話に思えた。
「……戻ってこなかった人も、いるんですか?」
義勇の声は、震えそうなのを必死に抑えているように聞こえた。
鱗滝さんは、少しだけ宙を見上げるように間をおいてから答えた。
「いる」
それだけだった。
それだけで十分だった。
(櫛那姉ちゃんも、その一人だ)
頭では分かっていたことを、もう一度突きつけられる。
「それでも行くか」
問われているのは、三人まとめてじゃない。
それぞれ、一人ずつだ。
「もちろんだ。そのためにここに来た」
真っ先に答えたのは、やっぱり錆兎だった。
迷いのない声。
「……行きます」
義勇も、ゆっくりと頷く。
あれだけ迷い、足を止めていたはずなのに、今はちゃんと前を見ていた。
俺も、息を吸う。
「俺も行く。
約束した通り、錆兎と義勇を連れて、三人で帰ってくる」
それが、俺がとっくに決めていた答えだった。
鱗滝さんは、しばらく俺たちを見つめていたが、やがて立ち上がった。
「そうか――」
箪笥の戸を開けて、細長い木の板のようなものを持ってくる。
布が掛けられていて、中身は見えない。
囲炉裏の前に戻ると、鱗滝さんは板をそっと置いた。
布をめくる。
白いものが、三つ並んでいた。
「……お面?」
錆兎が思わず声を上げる。
狐の面だった。
ひとつは、目元がきゅっと吊り上がった、右頬に痣のある、勝ち気な雰囲気の面。
ひとつは、少し眉尻が上がっていて、真面目そうな顔つきの面。
そして最後のひとつは、丁寧に磨かれているように見える、穏やかな表情の面。
「厄徐の面、という」
鱗滝さんが言う。
「お前たちは鬼の前に立つ道を、自ら選んだ」
面を一つずつ手に取り、俺たちの前に差し出す。
「そんなお前たちを災いから守る様にと、まじないをかけておいた」
錆兎の前に差し出されたのは、きりっとした吊り目の狐だった。
「お前は、よく吠え、よく笑う。
面も、それらしくなった」
「か、かっこいい……!」
錆兎は、頬を赤くしながら両手で面を受け取る。
義勇の前に差し出されたのは、少し眉尻が上がった、凛々しそうな狐だ。
「義勇。
お前は、まだ足がすくむこともあるだろうが……」
一瞬、言葉を選ぶように間をおいて。
「いざというときには、踏み出せる子だ」
義勇は少し泣きそうな顔をして、顔を伏せる。
「……はい」
小さな声で返事をして、面を胸に抱きしめた。
そして、俺の前に来たのは――どこか見覚えのある、優し気な印象の狐だった。
(これ、どこかで)
行燈の明かりを当てるようにして傾けて、はたと気付く。
(……櫛那姉ちゃんの、面……?)
そう思った瞬間、胸の奥がどくんと鳴った。
「それは、お前のだ」
鱗滝さんが、短く言う。
「錆兎と義勇は、新たに弟子として迎え、面を拵えた。
お前の面は――」
俺をじっと見ながら、言葉を継ぐ。
「櫛那の面をなぞって作った」
喉が詰まる。
やっぱり、と思った。
「櫛那は、あの日、藤襲山から戻らなかった。
あやつの面も、もはやこの世にはない」
だからこそ、と続ける。
「ならば、せめて『形』だけでも繋いでやりたかった。
あやつのあとを継いでここまで来たお前にな」
面の白さが、妙に滲んで見えた気がした。
(あの日の櫛那に、やっと、やっと追いついた……)
ようやく、櫛那のいた場所に、自分も立てたのだと思う。
「……必ず、帰ります」
気がついたら口が動いていた。
「三人分とも。
自分のも、錆兎のも、義勇のも。
全部、藤襲山から持って帰ってきます」
鱗滝さんは、何も言わなかった。
ただ、天狗の面の奥で、目が細められたように見えた。
「今日は、もう休め。
ここから先の三日は、心と体を整える時間だ」
そう言って、背を向ける。
錆兎が面を頭に被ってみて「どうだ! 似合ってるか!?」と騒ぐので、義勇と二人で「それ、今は外して寝ろ」と突っ込みを入れた。
笑い声が、しばらく山に響いた。
―――
夜。
錆兎と義勇は、面を枕元に並べて、すでに寝息を立てていた。
俺の枕元にも、厄徐の面がある。
その向こうに、櫛那の名が書かれた木札が、月明かりを受けて薄く浮かんでいた。
(櫛那姉ちゃん)
心の中で、そっと呼びかける。
(俺、ちゃんとここまで来たよ)
胸の中に溜まっていくものが多すぎて、このまま寝たら溢れてしまいそうだった。
そっと布団を抜け出す。
囲炉裏の火は、まだ小さく残っていた。
火のそばに、鱗滝さんが座っていた。
背中が、いつもより少しだけ大きく見えた気がする。
「……鱗滝さん」
声をかけると、火箸を動かしていた手が、ぴたりと止まった。
「寝られぬか」
「……少し、です」
俺も、向かいに腰を下ろす。
しばらく、ぱちぱちと炭が弾ける音だけが続いた。
「宗右衛」
「はい」
「少し、外へ出るか」
促されるまま、上着を羽織って外に出る。
夜風は冷たかったが、星がよく見えた。
家の脇の、大きな杉の根元に腰を下ろす。
隣には、鱗滝さん。
しばらくは、何も話さず、虫の声だけを聞いていた。
「……なぁ、宗右衛」
ふいに、低い声が落ちた。
「お前は、自分の出自について、何か聞きたいと思ったことはないか」
「出自、ですか」
少し考えてから、首を傾げる。
「いつか話してくれるんだろうな、とは思ってましたけど」
「……そうか」
「でも、今が不満だったことは、一度もないので」
これは、胸を張って言えた。
裏長屋のことも、もちろん、まるっきり忘れたわけじゃない。
けれど、この山で過ごした日々が、それらを覆い隠すくらいに濃くなってしまったのだ。
「そう言われると、余計に話しづらいのだがな」
天狗の面の下で、小さくため息が漏れた。
「……お前の母の名は、ハルという」
静かな声が、闇に落ちた。
「行商人だった。
荷を引いて村々を回り、布や細工物を売って歩いていた」
ハル。
聞き馴染みのない名前なのに、どこか懐かしい響きがした。
「儂が若いころ、あやつの親と取引をしていた。
何度か一緒に山を越えたこともある」
少しだけ、懐かしむような声だった。
「あるときから、ハルの両親が市に姿を見せなくなった。
しばらくして、事故で亡くなったと聞いた」
「その子のことまでは詳しくまでは聞かなんだが――
市に出入りしていた華族の男に、ハルが目をつけられたらしい」
言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。
「ハルはとても美しい娘だった。
本人の望まぬ形で子を宿し、手切れ金を渡された。
それでもハルは、その子を産むことを選んだ」
胸の奥が、じわりと熱くなる。
「産む場所が必要だったハルは、とある商家の伝手――政吉という男を頼った」
政吉の名を聞いて、少しだけ肩に力が入る。
「ハルはそこでお前を産んだ。
だが、体を酷く損ねていてな。
心も、休まることがなかったらしい」
夏の終わりを告げるような風が、一陣吹いた。
「お前が乳離れするところまで育てて、亡くなった。
そう聞いている」
知らない人の話を聞いているみたいだった。
でも、「そうだろうな」とどこかで納得している自分もいた。
「その後のことは、その商家の大旦那様から聞いた」
鱗滝さんは続ける。
「政吉はお前の扱いをどうにも決められず、心を病んでいる。
なので、どうか引き取ってはもらえないかと、そう言われた」
なんとなく、想像がついた。
記憶の初めの方にいる政吉は、いつも眉間にしわを寄せていたが、所かまわず怒鳴り散らすような男ではなかった。
帳簿を睨みつける目と、ふっと視線を逸らして字を教える手と。
断片的な記憶が、勝手に繋がっていく。
いつ頃からか俺を見るなり逃げ出すようになり、いつからかは拳が飛んでくるようになった。
「お前の目は、ハルに似ている。
それを見るたびに、あやつは自分の弱さも、華族への怒りも、
全部、お前に向けてしまったのだろう」
ああ、と心のどこかで思った。
たまに顔を見せる「おじちゃん」から、いつの間にか災厄みたいな存在に変わった理由が、ようやく形を持った気がした。
「政吉がお前を裏長屋に移したことで、側仕えの者が耐えきれず大旦那様に相談したらしい。
そこで育手である儂に話が回ってきたのだ」
そこで初めて、話の線が、自分の知っている場所に繋がる。
鱗滝さんの視線が、こちらに向いたような気がした。
「わしが裏長屋に行ったとき、お前は――」
少しだけ、口元が緩む。
「食い物を半分盗られながらも、年下の子に残りを押し付けていた」
「……覚えてないです」
そう言いながら、「やりそうだな」とも思った。
「ハルは、最後まで自分の子を守ろうとした。
政吉も、決して褒められたやり方ではないが、全部を投げ出して逃げたわけではなかった」
月の明かりが、天狗の面の表面で揺れる。
「お前をここに連れてきたのは、儂の我儘だ。
運が良かったと言ってしまえば、それまでだ」
そこで、言葉を切った。
「――ただ、一つだけ確かなのは」
炭を動かしていた手が、布の包みを引き寄せる。
中から、古びた布切れを取り出した。
「お前の名を決めたのは、ハルだ」
布には、稚い字で「宗右衛」と書かれていた。
ところどころ、滲んでいる。
「行商の途中、寺子屋に少しだけ通って、ようやく覚えた字でな。
何度も何度も書き直したと聞いた」
指先が、わずかに震える。
「『宗』は、人の集まるところ。
寄りどころ、人の根っこのようなものだ」
布の字を、そっとなぞりながら続ける。
「『右衛』は、右側で守る者。
強い者ではなく、誰かを『守る者』になってほしいと」
そんな意味が込められていたなんて、考えたこともなかった。
「……俺」
声が、うまく出なかった。
「名前、もらってたんですね」
「ああ」
迷いのない即答だった。
「お前は、捨てられたのではない。
守ろうとした者たちがいて、守りきれなかった者たちがいて、
それでも生き延びた」
鱗滝さんの声が、少しだけ低くなる。
「だから――」
思わず顔を上げたところで、視線がぶつかった気がした。
「お前は生きねばならん」
そこにあったのは、赤でも、青でもなく。
思わず目を瞑りたくなるような金の帯が、俺に伸びていた。
しばらく、何も言えなかった。
やがて、ゆっくりと息を吸う。
「……今、俺が生きてるのは」
言葉を探しながら、ぽつりぽつりとこぼす。
「母ちゃんが、産んでくれて。
政吉が、どうあれ一応は生かしてくれて。
鱗滝さんが、拾ってくれたから、ですよね」
鱗滝さんが、わずかに肩を揺らした。
「だから、今、俺は幸せです」
それだけは、はっきりと言えた。
「錆兎と義勇がいて。
櫛那姉ちゃんとの約束も、ちゃんと覚えてて。
鱗滝さんの弟子で、鱗滝の苗字を名乗れてる」
喉の奥が熱くなる。
でも、涙は出なかった。
「だから、そんな顔しないでください」
気づけば、そう言っていた。
「……お、と」
一瞬、舌がもつれる。
「お、親父」
顔から火が出そうだった。
言った瞬間、布団に頭を突っ込みたくなる。
けれど、もう遅い。
ぐい、と強い力で引き寄せられた。
「うおっ」
鱗滝さんの腕が、がっしりと俺の背中を抱きしめていた。
肋骨がきしむ。
「い、痛い痛い痛い!」
「黙って抱かれておれ」
「ご無体な!」
いつもより少しだけ、震える声だった。
「……必ず、帰れ」
耳元で、低い声が落ちる。
「どれほどの鬼がいようと、どれほどの地獄であろうとだ。
宗右衛。お前は、必ず帰ってこい」
喉の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
痛い。苦しい。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
俺も、同じくらいの力で腕を回す。
「……うん」
短く返事をした。
(絶対に死なない)
(錆兎も、義勇も、誰も置いていかない)
(櫛那姉ちゃんを、ちゃんと追い越してやる)
自分に言い聞かせるように、心の中で何度も繰り返す。
やっと腕を離されたときには、息が上がっていた。
「もう寝ろ。
明日からの三日で、体を壊すなよ」
「……はい、お、お、お、親父」
なんとかもう一度そう呼んでから、ばっと立ち上がる。
背中がむず痒かった。
顔もいまだに火を噴きそうなほど熱い。
全集中の呼吸もしてないのに心臓の音が早い。
ほとんど逃げるように布団に戻ると、錆兎が「へへ……帰ったら……また鍋……」と寝言を言っていた。
義勇は、小さく、静かな寝息を立てている。
遠くで鈴虫の鳴く声が聞こえる。
枕元の厄徐の面にそっと手を置いて、目を閉じる。
(絶対に、帰ってくる)
そう心の中で呟きながら、ゆっくりと意識を沈めていった。
藤襲山の最終選別の夜は、もうすぐそこまで来ていた。