鱗滝の養子   作:松雪草

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14話

 義勇が岩を割った翌朝、山の空気はやけに澄んでいた。

 秋が近づくにつれて、狭霧山の朝は少しずつ冷たくなってきている。

 

 冷たいのに――胸の奥は、妙に熱い。

 

 岩を割った。

 錆兎も、義勇も、割った。

 藤襲山へ行ける。

 

(……行ける、ってことは)

 

 行く、ってことだ。

 

 布団の中で目を閉じていたけれど、昨日の夜から頭のどこかがずっと起きているみたいだった。

 

 朝は相変わらず騒がしい。

 

「錆兎ー、義勇ー、起きてー」

 

 呼べば、義勇は素直に身体を起こして「おはようございます」と挨拶する。

 

 錆兎はと言えば、布団の中で丸まったままだ。

 

「……まだ寝ていたい」

 

「気持ちは分かるけれど。起きよう」

 

「あと……。

 いいや、起きよう……」

 

「おお、珍しい」

 

 驚いて見せると、錆兎がばつの悪そうな顔をして視線を下げる。

 

「……いつまでも、宗右衛に起こしてもらうわけにもいかないからな」

 

「それは、……そうだね」

 

 錆兎も、それと言葉にはしないけれど義勇も、きっと俺と同じ気持ちなのかもしれない。

 

 今日は鱗滝さんは「訓練の準備をする」と言って、既に出掛けているので俺が竈の前に立つ。

 朝餉の準備をしながら、ふと梁の上を見る。

 家の烏が目を細めたまま、じっとこちらを見ていた。

 

「……なんだよ」

 

 返事はない。

 ただ、羽を一度だけふるわせる。

 

(あいつも、分かってるんだろうな。もうすぐだって)

 

 戸口の方から、桶を運ぶ足音が近づく。

 

 義勇と錆兎はいつも通り、笑い声を響かせて戻ってくる。

 

 ――いつも通り。

 その「いつも通り」が、やけに尊い。

 

―――

 

 その日から、稽古の質が変わった。

 

 「伸ばす」ためじゃない。

 明確に「仕上げる」方向へ、鱗滝さんが舵を切った。

 

 走り込みの距離が増え、素振りの本数が増え、刀を握るのが当たり前になる。

 水を汲むときも、山を歩くときも、呼吸を意識させられる。

 

「息を乱すな。

 鬼の前で呼吸を乱せば、死へ繋がる」

 

 そう言って、鱗滝さんは容赦なくメニューを積み増していった。

 

 そのきつさの中で、一番変化があったのは――義勇だった。

 

 義勇は、錆兎ほど騒がない。

 俺ほど何かを誇らない。

 でも、静かに、黙々とやる。

 

 たとえば、走り込み。

 

「今日は午前の内に二十周してみようか。途中で潰れても助けないからそのつもりで」

 

 錆兎が「鬼畜……!」と文句を言いながら走り出す。

 最初の数周は俺と競うように錆兎が走り、義勇は一歩後ろから様子を伺うように走っていた。

 

 けれど、十周目を過ぎたころ。

 息の荒くなった錆兎の横を、義勇がすっと抜いていった。

 

「……え?」

 

 錆兎が目を剥く。

 

「今日は負けないよ」

 

 短く言って、そのまま前だけを見て走っていく。

 足取りは重くない。

 身体の軸が、前よりぶれなくなっていた。

 

 結局、この日は俺が一番に走り終え、少し遅れて義勇、その少し後ろが錆兎になった。

 

「ぎゆっ……おま、いつの間にそんな体力……つけてたんだよ」

 

 地面に倒れ込んだ錆兎が、空を仰ぎながら文句を言う。

 

「宗右衛さんと錆兎が、いつも前で走ってくれてたから……。

 ついていこうと思ってたら、いつの間にか、だよ」

 

「いつの間にかで抜くなぁ……」

 

 文句を言いながらも、錆兎の顔はどこか楽しそうだった。

 

 そうして午後の訓練を一通りこなして、最後に模擬戦をする。

 

「最後に模擬戦を一本ずつやる。

 宗右衛、錆兎」

 

 岩場の脇の平らな土の上で、鱗滝さんがそう告げる。

 最初の組み合わせは、錆兎対宗右衛。

 

「行くぞ、宗右衛!」

 

「お手柔らかに」

 

 言いながらも、本気でいく。

 錆兎の踏み込みは、この前、俺の木刀を弾き飛ばしたときよりもさらに鋭くなっていた。

 

 木刀と木刀がぶつかるたび、腕に重さが響く。

 それを受け止めながら、足さばきをわずかにずらす。

 

(このくらいの重さなら、何とかなる)

 

 問題は――その次だ。

 

 いつ、水の呼吸の一撃が来るか分からない。

 前に弾き飛ばされた時の感覚が、まだ腕に残っている。

 

 攻めあぐねた錆兎の額に汗が滲み、踏み込みが少しだけ乱れ始めたところで、俺はあえて距離を詰めた。

 錆兎が組み打ちを警戒して身体が固まった一瞬、木刀を滑らせるように使って、錆兎の体勢を崩す。

 そのまま首筋に木刀があたる直前で、鱗滝さんの声がかかる。

 

「そこまで」

 

「ああああ、負けたぁぁぁ!」

 

 ―――久しぶりの一本勝ち。

 思わずこぶしを握るが、あまり勝ち誇るのも錆兎に悪い。

 勝利の高ぶりを、ゆっくりと息を吐いて落ち着かせる。

 

 錆兎も相当に悔しかったようで地団太を踏んでいる。

 

 だが、これはあくまで「今のところ」の話だ。

 この先、錆兎の呼吸が安定しきったなら――木刀では勝ち目はないだろう。

 

 そして、その次の組み合わせが、今日一番の驚きだった。

 

「次は、錆兎と義勇」

 

「よし、今度こそ俺の本気を――」

 

 錆兎の言葉が、途中で止まった。

 

 木刀を静かに構える義勇から感じる違和感。

 立ち合いの前だというのに、まるで岩を切る時のような深い集中をしている。

 

 義勇から伸びる青い帯が、途中から色を無くすように灰色になり、景色に溶ける。

 これは”鱗滝さんの色”だ。

 

「始め」

 

 錆兎も義勇が何か違うことは理解しているだろうが、それでもいつも通り、迷いなく踏み込んだ。

 振るわれた木刀は俺が受けたものと変わりがないはずだが、義勇が受けると、妙に「沈んでいる」ように見える。

 錆兎の勢いを、吸い込んで流すみたいな受け方だった。

 

「っ……!」

 

 打ち込んでいる錆兎が一番それを感じているだろう。

 一瞬たりとも気を抜けないはずなのに、錆兎の色に戸惑うような緑が混じる。

 だが、それでも攻める。

 横から、斜めから、上段から、錆兎らしい力が乗った斬り込みが続く。

 

 けれど義勇は一歩も退かなかった。

 

「もう一度だ!」

 

 錆兎が角度を変えて振り込む。

 俺の木刀を吹き飛ばしたときと、ほとんど同じ気迫。

 全集中の呼吸の音。

 

 義勇は、肩と肘の角度をすっと変えて、そこに木刀を合わせた。

 錆兎の技を、ただ「受け止める」のではなく、「流している」。

 

 打ち込まれるたび、木刀が小さくしなり、角度を変え、力を逃がす。

 

「っぐ……くそっ!」

 

 錆兎が、押し込みきれずに歯を食いしばった。

 

(……あの重さを、受けきってる)

 

 俺は、さっきの自分の腕を思い返す。

 ほんの少しでも受け方を間違えていたら、また木刀を弾かれていただろう。

 

 義勇は、その「ほんの少し」を外さない。

 

 けれど、攻め手に回れず、押し返すこともできていない。

 とはいえ、決定的な一撃をもらう気配もない。

 

 やがて二人とも肩で息をし始めたところで、鱗滝さんの声が飛んだ。

 

「そこまで」

 

 義勇は木刀を下ろし、深く息を吐く。

 額に落ちた汗が、土に黒いしみを作った。

 

「ちくしょう、攻めきれなかった……!」

 

 錆兎が、木刀を肩に担ぎながら悔しそうに言う。

 

「ご、ごめんなさい……」

 

「いや、なんでお前が謝るんだよ!」

 

 義勇が小さく首を振る。

 

「受けるだけで精一杯で……宗右衛さんみたいに、崩すこともできなかったから」

 

「崩せたのは、俺があんな戦い方ばっかりしてるからであって……」

 

 俺は苦笑しながら言う。

 

「今のは、錆兎の全力の一撃を、全部受けきったってことだろ。

 それ、十分おかしいからな?」

 

 義勇が、ぽかんと俺を見る。

 錆兎も、少し間をおいてからニッと笑った。

 

「そうだ、宗右衛の様に卑怯な手を使わずに俺の全力を受けきったんだ。それでこそ男だ!」

 

「この前は『戦いに卑怯はない』って言ってなかった?」

 

「でもこれは木刀での立ち合いだろ!」

 

「言ってることが変わるなぁ」

 

 くだらないやり取りをしていると、鱗滝さんから「最後だ」と声がかかる。

 

 ちらりと義勇を見ると、義勇がほんのわずかに頷く。

 

 今度は、俺と義勇が向かい合う。

 

「二人とも、一本だ。全力でやれ」

 

 鱗滝さんの声に、木刀を構え直す。

 

「来い、義勇」

 

「……はい」

 

 義勇の呼吸が、すっと整う。

 

 足が、ふわりと浮くように前に出た。

 肩と腰の線が、まっすぐ通る。

 

 斬撃が来る瞬間。

 かつて、櫛那に何度も斬られたときと、同じ「気配」を感じる。

 

 色が見えた瞬間には、もう木刀が迫っている。

 

(――速い)

 

 櫛那も始めたばかりの頃は、色を追えば受けるのも避けるのも、隙をついて攻撃するのも簡単だった。

 けれど、岩を切ったあたりから、“こう”なった。

 

 かつて岩を切った時、櫛那は『型を意識しなくてもいいようになった』と言っていた。

 ならばこれはきっと、意識しなくても身体が動いているということなのだろう。

 

 だからこそ、これの受け方も知っている。

 

 色が変わる前の、ほんの一瞬。

 筋肉が動き出す直前の、呼吸の揺らぎだけを頼りに、体を捻る。

 

 木刀が掠める。

 けれど避けられている。

 

 更に踏み込んできたところを、今度は俺が押し返す。

 義勇はとっさに、受けきるが、反撃は来ない。

 

「義勇、打ち返せ!」

 

 錆兎の声が飛ぶ。

 

 義勇が受け攻めの意識を切り替えようとするときに出来る隙。

 その一瞬の迷いを、俺は見逃さない。

 木刀が走り、義勇の木刀を叩き落とした。

 

「……そこまで」

 

 鱗滝さんが、静かに区切りをつける。

 

 義勇は、木刀を拾いながら唇を噛んでいた。

 

(攻めるのは、まだ怖いんだろうな)

 

けれど、さっきの一太刀は、三人の中で一番「美しかった」。

 

 水の流れみたいで、形だけ見たら、もう俺が真似できないくらいに。

 

(このまま育ったら……)

 

 もし、義勇がいつか迷いなく「攻め」が出来るようになったら。

 そのとき、どれだけの剣士になるのか、考えるだけで背筋が震えた。

 

(……やっぱり、すごい)

 

 宗右衛としては、素直にそう思った。

 

 走り込みの順位だけなら、俺が一番だ。

 純粋な出力だけなら、錆兎が一歩抜けている。

 

 けれど、「水の呼吸そのもの」としての美しさだけを取り出せば――

 

 夕暮れの中で型をなぞるように揺れる義勇の色は、水みたいだった。

 

―――

 

 その日の夜。

 

 鱗滝さんは竈の方から大きな鍋を持ち上げ、囲炉裏の上に載せる。

 

 ぐつぐつと、食欲をそそる匂いが広がった。

 

「……何か、匂いがいつもと違う気が」

 

「今日は、少し奮発した」

 

 蓋を開けると、中には肉と野菜がたっぷり入った鍋があった。

 山菜だけではない。

 鶏肉らしい切り身や、見慣れない丸い団子も浮かんでいる。

 

「鳥肉だ……!」

 

「団子も入ってる……!」

 

 錆兎と義勇の目が一気に輝く。

 

「二人が岩を割った祝いだ」

 

 鱗滝さんは、鍋をよそいながら静かに言った。

 

「腹をしっかり膨らませておけ」

 

 湯気の向こうで、天狗の面がこちらを向く。

 

(……そうか。いよいよ、本当に)

 

 藤襲山の最終選別。

 岩を割った者だけが行ける場所。

 

(俺たちが、行くのか)

 

「では、いただきます」

 

 四人同時に手を合わせる。

 鍋の汁をすすると、しみ込んだ出汁の旨味に、思わず声が漏れた。

 

「美味い……!」

 

「これ、ふわふわしてます……!」

 

「口の中で溶ける……!」

 

「味わって食え」

 

 口では呆れたように言いながら、鱗滝さんも少しだけ、おかわりをしていた。

 

 鍋がだいぶ減ってきたころ合いで、鱗滝さんが口を開いた。

 

「お前たち三人は、三日後に山を下りる」

 

 三人の箸が止まる。

 

「その前に――鬼の話を、しておこう」

 

 鍋が、すうっと静まった気がした。

 

「……三日後、ですか?」

 

 最初に声を出したのは、義勇だった。

 いつもより少しだけ高く、かすれている。

 

「ああ」

 

 鱗滝さんは、変わらない調子で頷いた。

 

「藤襲山の最終選別は、年に何度もあるものではない。

 次は三日後だ」

 

 三日。

 たった、それだけ。

 

(あと、三日しかない)

 

 喉の奥が、からからに乾く。

 

 囲炉裏の火が、ぱちりと音を立てる。

 

「鬼とは、人を喰うことで力を増すものだ。

 多く人を喰らった鬼ほど、頑丈になり、速くなり、再生も早くなる」

 

 俺たちは、黙って聞く。

 

「中には、肉体を大きく変えたり、奇妙な術を使うものも出てくる」

 

 錆兎の喉が、ごくりと鳴った。

 

「日輪刀で頸を斬り落とせば、鬼は滅ぶ。

 だが、その頸に辿り着くまでが難しい」

 

 淡々とした説明なのに、一言一言がやけに重い。

 

「藤襲山の最終選別は、その鬼どものいる山で七日間を生き抜く試験だ。

 夜の山で鬼を避けきるもよし、斬り伏せるもよし。

 七日目の夜明けまで生き残った者だけが、鬼殺隊の一員となる」

 

 七日間。

 山で暮らすのには慣れているはずでも、「鬼と一緒に」と言われると別の話に思えた。

 

「……戻ってこなかった人も、いるんですか?」

 

 義勇の声は、震えそうなのを必死に抑えているように聞こえた。

 

 鱗滝さんは、少しだけ宙を見上げるように間をおいてから答えた。

 

「いる」

 

 それだけだった。

 それだけで十分だった。

 

(櫛那姉ちゃんも、その一人だ)

 

 頭では分かっていたことを、もう一度突きつけられる。

 

「それでも行くか」

 

 問われているのは、三人まとめてじゃない。

 それぞれ、一人ずつだ。

 

「もちろんだ。そのためにここに来た」

 

 真っ先に答えたのは、やっぱり錆兎だった。

 迷いのない声。

 

「……行きます」

 

 義勇も、ゆっくりと頷く。

 あれだけ迷い、足を止めていたはずなのに、今はちゃんと前を見ていた。

 

 俺も、息を吸う。

 

「俺も行く。

 約束した通り、錆兎と義勇を連れて、三人で帰ってくる」

 

 それが、俺がとっくに決めていた答えだった。

 

 鱗滝さんは、しばらく俺たちを見つめていたが、やがて立ち上がった。

 

「そうか――」

 

 箪笥の戸を開けて、細長い木の板のようなものを持ってくる。

 布が掛けられていて、中身は見えない。

 

 囲炉裏の前に戻ると、鱗滝さんは板をそっと置いた。

 布をめくる。

 

 白いものが、三つ並んでいた。

 

「……お面?」

 

 錆兎が思わず声を上げる。

 

 狐の面だった。

 ひとつは、目元がきゅっと吊り上がった、右頬に痣のある、勝ち気な雰囲気の面。

 ひとつは、少し眉尻が上がっていて、真面目そうな顔つきの面。

 そして最後のひとつは、丁寧に磨かれているように見える、穏やかな表情の面。

 

「厄徐の面、という」

 

 鱗滝さんが言う。

 

「お前たちは鬼の前に立つ道を、自ら選んだ」

 

 面を一つずつ手に取り、俺たちの前に差し出す。

 

「そんなお前たちを災いから守る様にと、まじないをかけておいた」

 

 錆兎の前に差し出されたのは、きりっとした吊り目の狐だった。

 

「お前は、よく吠え、よく笑う。

 面も、それらしくなった」

 

「か、かっこいい……!」

 

 錆兎は、頬を赤くしながら両手で面を受け取る。

 

 義勇の前に差し出されたのは、少し眉尻が上がった、凛々しそうな狐だ。

 

「義勇。

 お前は、まだ足がすくむこともあるだろうが……」

 

 一瞬、言葉を選ぶように間をおいて。

 

「いざというときには、踏み出せる子だ」

 

 義勇は少し泣きそうな顔をして、顔を伏せる。

 

「……はい」

 

 小さな声で返事をして、面を胸に抱きしめた。

 

 そして、俺の前に来たのは――どこか見覚えのある、優し気な印象の狐だった。

 

(これ、どこかで)

 

 行燈の明かりを当てるようにして傾けて、はたと気付く。

 

(……櫛那姉ちゃんの、面……?)

 

 そう思った瞬間、胸の奥がどくんと鳴った。

 

「それは、お前のだ」

 

 鱗滝さんが、短く言う。

 

「錆兎と義勇は、新たに弟子として迎え、面を拵えた。

 お前の面は――」

 

 俺をじっと見ながら、言葉を継ぐ。

 

「櫛那の面をなぞって作った」

 

 喉が詰まる。

 やっぱり、と思った。

 

「櫛那は、あの日、藤襲山から戻らなかった。

 あやつの面も、もはやこの世にはない」

 

 だからこそ、と続ける。

 

「ならば、せめて『形』だけでも繋いでやりたかった。

 あやつのあとを継いでここまで来たお前にな」

 

 面の白さが、妙に滲んで見えた気がした。

 

(あの日の櫛那に、やっと、やっと追いついた……)

 

 ようやく、櫛那のいた場所に、自分も立てたのだと思う。

 

「……必ず、帰ります」

 

 気がついたら口が動いていた。

 

「三人分とも。

 自分のも、錆兎のも、義勇のも。

 全部、藤襲山から持って帰ってきます」

 

 鱗滝さんは、何も言わなかった。

 ただ、天狗の面の奥で、目が細められたように見えた。

 

「今日は、もう休め。

 ここから先の三日は、心と体を整える時間だ」

 

 そう言って、背を向ける。

 

 錆兎が面を頭に被ってみて「どうだ! 似合ってるか!?」と騒ぐので、義勇と二人で「それ、今は外して寝ろ」と突っ込みを入れた。

 

 笑い声が、しばらく山に響いた。

 

―――

 

 夜。

 錆兎と義勇は、面を枕元に並べて、すでに寝息を立てていた。

 

 俺の枕元にも、厄徐の面がある。

 その向こうに、櫛那の名が書かれた木札が、月明かりを受けて薄く浮かんでいた。

 

(櫛那姉ちゃん)

 

 心の中で、そっと呼びかける。

 

(俺、ちゃんとここまで来たよ)

 

 胸の中に溜まっていくものが多すぎて、このまま寝たら溢れてしまいそうだった。

 

 そっと布団を抜け出す。

囲炉裏の火は、まだ小さく残っていた。

 

 火のそばに、鱗滝さんが座っていた。

 背中が、いつもより少しだけ大きく見えた気がする。

 

「……鱗滝さん」

 

 声をかけると、火箸を動かしていた手が、ぴたりと止まった。

 

「寝られぬか」

 

「……少し、です」

 

 俺も、向かいに腰を下ろす。

 

 しばらく、ぱちぱちと炭が弾ける音だけが続いた。

 

「宗右衛」

 

「はい」

 

「少し、外へ出るか」

 

 促されるまま、上着を羽織って外に出る。

 夜風は冷たかったが、星がよく見えた。

 

 家の脇の、大きな杉の根元に腰を下ろす。

 隣には、鱗滝さん。

 

 しばらくは、何も話さず、虫の声だけを聞いていた。

 

「……なぁ、宗右衛」

 

 ふいに、低い声が落ちた。

 

「お前は、自分の出自について、何か聞きたいと思ったことはないか」

 

「出自、ですか」

 

 少し考えてから、首を傾げる。

 

「いつか話してくれるんだろうな、とは思ってましたけど」

 

「……そうか」

 

「でも、今が不満だったことは、一度もないので」

 

 これは、胸を張って言えた。

 

 裏長屋のことも、もちろん、まるっきり忘れたわけじゃない。

 

 けれど、この山で過ごした日々が、それらを覆い隠すくらいに濃くなってしまったのだ。

 

「そう言われると、余計に話しづらいのだがな」

 

 天狗の面の下で、小さくため息が漏れた。

 

「……お前の母の名は、ハルという」

 

 静かな声が、闇に落ちた。

 

「行商人だった。

 荷を引いて村々を回り、布や細工物を売って歩いていた」

 

 ハル。

 聞き馴染みのない名前なのに、どこか懐かしい響きがした。

 

「儂が若いころ、あやつの親と取引をしていた。

 何度か一緒に山を越えたこともある」

 

 少しだけ、懐かしむような声だった。

 

「あるときから、ハルの両親が市に姿を見せなくなった。

 しばらくして、事故で亡くなったと聞いた」

 

「その子のことまでは詳しくまでは聞かなんだが――

 市に出入りしていた華族の男に、ハルが目をつけられたらしい」

 

 言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。

 

「ハルはとても美しい娘だった。

 本人の望まぬ形で子を宿し、手切れ金を渡された。

 それでもハルは、その子を産むことを選んだ」

 

 胸の奥が、じわりと熱くなる。

 

「産む場所が必要だったハルは、とある商家の伝手――政吉という男を頼った」

 

 政吉の名を聞いて、少しだけ肩に力が入る。

 

「ハルはそこでお前を産んだ。

 だが、体を酷く損ねていてな。

 心も、休まることがなかったらしい」

 

 夏の終わりを告げるような風が、一陣吹いた。

 

「お前が乳離れするところまで育てて、亡くなった。

 そう聞いている」

 

 知らない人の話を聞いているみたいだった。

 でも、「そうだろうな」とどこかで納得している自分もいた。

 

「その後のことは、その商家の大旦那様から聞いた」

 

 鱗滝さんは続ける。

 

「政吉はお前の扱いをどうにも決められず、心を病んでいる。

 なので、どうか引き取ってはもらえないかと、そう言われた」

 

 なんとなく、想像がついた。

 

 記憶の初めの方にいる政吉は、いつも眉間にしわを寄せていたが、所かまわず怒鳴り散らすような男ではなかった。

 帳簿を睨みつける目と、ふっと視線を逸らして字を教える手と。

 断片的な記憶が、勝手に繋がっていく。

 

 いつ頃からか俺を見るなり逃げ出すようになり、いつからかは拳が飛んでくるようになった。

 

「お前の目は、ハルに似ている。

 それを見るたびに、あやつは自分の弱さも、華族への怒りも、

 全部、お前に向けてしまったのだろう」

 

 ああ、と心のどこかで思った。

 

 たまに顔を見せる「おじちゃん」から、いつの間にか災厄みたいな存在に変わった理由が、ようやく形を持った気がした。

 

「政吉がお前を裏長屋に移したことで、側仕えの者が耐えきれず大旦那様に相談したらしい。

 そこで育手である儂に話が回ってきたのだ」

 

 そこで初めて、話の線が、自分の知っている場所に繋がる。

 

 鱗滝さんの視線が、こちらに向いたような気がした。

 

「わしが裏長屋に行ったとき、お前は――」

 

 少しだけ、口元が緩む。

 

「食い物を半分盗られながらも、年下の子に残りを押し付けていた」

 

「……覚えてないです」

 

 そう言いながら、「やりそうだな」とも思った。

 

「ハルは、最後まで自分の子を守ろうとした。

 政吉も、決して褒められたやり方ではないが、全部を投げ出して逃げたわけではなかった」

 

 月の明かりが、天狗の面の表面で揺れる。

 

「お前をここに連れてきたのは、儂の我儘だ。

 運が良かったと言ってしまえば、それまでだ」

 

 そこで、言葉を切った。

 

「――ただ、一つだけ確かなのは」

 

 炭を動かしていた手が、布の包みを引き寄せる。

 中から、古びた布切れを取り出した。

 

「お前の名を決めたのは、ハルだ」

 

 布には、稚い字で「宗右衛」と書かれていた。

 ところどころ、滲んでいる。

 

「行商の途中、寺子屋に少しだけ通って、ようやく覚えた字でな。

 何度も何度も書き直したと聞いた」

 

 指先が、わずかに震える。

 

「『宗』は、人の集まるところ。

 寄りどころ、人の根っこのようなものだ」

 

 布の字を、そっとなぞりながら続ける。

 

「『右衛』は、右側で守る者。

 強い者ではなく、誰かを『守る者』になってほしいと」

 

 そんな意味が込められていたなんて、考えたこともなかった。

 

「……俺」

 

 声が、うまく出なかった。

 

「名前、もらってたんですね」

 

「ああ」

 

 迷いのない即答だった。

 

「お前は、捨てられたのではない。

 守ろうとした者たちがいて、守りきれなかった者たちがいて、

 それでも生き延びた」

 

 鱗滝さんの声が、少しだけ低くなる。

 

「だから――」

 

 思わず顔を上げたところで、視線がぶつかった気がした。

 

「お前は生きねばならん」

 

 そこにあったのは、赤でも、青でもなく。

 

 思わず目を瞑りたくなるような金の帯が、俺に伸びていた。

 

 しばらく、何も言えなかった。

 

 やがて、ゆっくりと息を吸う。

 

「……今、俺が生きてるのは」

 

 言葉を探しながら、ぽつりぽつりとこぼす。

 

「母ちゃんが、産んでくれて。

 政吉が、どうあれ一応は生かしてくれて。

 鱗滝さんが、拾ってくれたから、ですよね」

 

 鱗滝さんが、わずかに肩を揺らした。

 

「だから、今、俺は幸せです」

 

 それだけは、はっきりと言えた。

 

「錆兎と義勇がいて。

 櫛那姉ちゃんとの約束も、ちゃんと覚えてて。

 鱗滝さんの弟子で、鱗滝の苗字を名乗れてる」

 

 喉の奥が熱くなる。

 でも、涙は出なかった。

 

「だから、そんな顔しないでください」

 

 気づけば、そう言っていた。

 

「……お、と」

 

 一瞬、舌がもつれる。

 

「お、親父」

 

 顔から火が出そうだった。

 言った瞬間、布団に頭を突っ込みたくなる。

 

 けれど、もう遅い。

 

 ぐい、と強い力で引き寄せられた。

 

「うおっ」

 

 鱗滝さんの腕が、がっしりと俺の背中を抱きしめていた。

 肋骨がきしむ。

 

「い、痛い痛い痛い!」

 

「黙って抱かれておれ」

 

「ご無体な!」

 

 いつもより少しだけ、震える声だった。

 

「……必ず、帰れ」

 

 耳元で、低い声が落ちる。

 

「どれほどの鬼がいようと、どれほどの地獄であろうとだ。

 宗右衛。お前は、必ず帰ってこい」

 

 喉の奥が、ぎゅっと締め付けられる。

 

 痛い。苦しい。

 でも、不思議と嫌じゃなかった。

 

 俺も、同じくらいの力で腕を回す。

 

「……うん」

 

 短く返事をした。

 

(絶対に死なない)

(錆兎も、義勇も、誰も置いていかない)

(櫛那姉ちゃんを、ちゃんと追い越してやる)

 

 自分に言い聞かせるように、心の中で何度も繰り返す。

 

 やっと腕を離されたときには、息が上がっていた。

 

「もう寝ろ。

 明日からの三日で、体を壊すなよ」

 

「……はい、お、お、お、親父」

 

 なんとかもう一度そう呼んでから、ばっと立ち上がる。

 背中がむず痒かった。

 顔もいまだに火を噴きそうなほど熱い。

 全集中の呼吸もしてないのに心臓の音が早い。

 

 ほとんど逃げるように布団に戻ると、錆兎が「へへ……帰ったら……また鍋……」と寝言を言っていた。

 義勇は、小さく、静かな寝息を立てている。

 

 遠くで鈴虫の鳴く声が聞こえる。

 

 枕元の厄徐の面にそっと手を置いて、目を閉じる。

 

(絶対に、帰ってくる)

 

 そう心の中で呟きながら、ゆっくりと意識を沈めていった。

 

 藤襲山の最終選別の夜は、もうすぐそこまで来ていた。

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