鱗滝の養子   作:松雪草

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15話

 出立の日の朝は、やけに静かだった。

 

 まだ薄暗い中で起き上がると、錆兎はすでに鱗滝さんと同じ柄の羽織に袖を通していた。

 義勇も半分は着替え終わっていて、少し落ち着かない様子で帯を結んでいる。

 

「……おはよう」

 

 声をかけると、二人とも同時にこちらを見た。

 

「おはようございます」

 

「おはよう。ついに、だな」

 

 錆兎はわざとらしく胸を張る。

 その顔に浮かんでいるのは、いつもの調子より、ほんの少しだけ硬い笑みだった。

 

 荷物といっても、持っていくものは多くない。

 着替えを少しと、一食分の握り飯、それから水。

 腰には日輪刀。

 あとは、瑞雲の羽織と、厄徐の面だけだ。

 

(……軽いな)

 

 布袋の重さを確かめて、ふとそう思う。

 四年前、裏長屋からここへ来たときに比べれば、今の自分はずっと重たいものを背負っているはずなのに。

 

 家を出ると、鱗滝さんはもう外に立っていた。

 天狗の面越しでも、目の下に隈が見える気がした。

 

「行くぞ」

 

 短くそう告げて、先に立つ。

 

 俺たちは三人並んで、いつも走って登る山道を、歩いて下りていく。

 朝霧がまだ薄く残っていて、道の先は白く霞んでいた。

 いつもと同じ道なのに、二度と同じ形では戻ってこられない気がして、胸がきゅっとなる。

 

「なぁ宗右衛」

 

 脇で、錆兎が声を潜めた。

 

「戻ってきたら、またあの鍋が食べたいな」

 

「この間寝言で言ってたよ、それ」

 

「おい、本当か? 嘘だろ?」

 

 疑うように聞いてきているが、心当たりがあるのか、耳の先が少し赤い。

 

「じゃあ、帰ってきたら、鱗滝さんに三人で言おうよ。

 作ってくれるよ、多分」

 

「今から帰りたくなってきたな」

 

「まだ狭霧山すら下りてないのに?」

 

 義勇から突っ込みが飛んできて、思わず三人とも笑う。

 

 義勇は、その笑いに少し遅れて、ふっと息をこぼした。

 

「……帰ってきたら、また三人で走り込みできますかね」

 

「するよ。絶対に」

 

 迷わずに断言する。

 

「走り込みのために最終選別に行くみたいでなんか嫌だな」

 

 錆兎が茶化すように軽く言う。

 確かに、帰ってきて三人ですることといって最初に思い浮かべるのが走り込みというのは、義勇らしい。

 

「あ、えっと、鍋も楽しみなんだけど、みんなで一緒に帰って来れたらって思って」

 

「いや、分かるよ。

 錆兎も、あんまりからかってやるなって」

 

 しどろもどろになる義勇と、いたずらが成功したみたいに笑う錆兎。

 

 けれど二人の表情はどこか硬い。

 それは、きっと俺もだ。

 

(こんなことを話せるのも、最後になるかもしれない)

 

 本当は、胸の中でそう思っている。

 口に出すと、自分でも落ち着かなくなりそうだったから、言葉と一緒に息を飲み込んだ。

 

 狭霧山を下りきると、道の脇に黒装束の人影が見えた。

 顔の下半分を布で覆っている。

 

(隠だ)

 

 隠の一人が鱗滝さんに恭しく頭を下げる。

 

「お預かりいたします」

 

「ああ」

 

 鱗滝さんは、短く応じる。

 

「宗右衛。錆兎。義勇」

 

 呼ばれて、三人、揃って振り返る。

 

「ここから先は、お前たちだけで行け。

 道は隠が案内する。烏もつけてある。迷うことはないだろう」

 

 家の烏が上空を回って、一声、甲高く鳴いた。

 

 分かっている。

 ここから先は、鱗滝さんの足では踏み入れない道だ。

 

 それでも、足が地面に縫い付けられたみたいに重い。

 

「宗右衛」

 

「はい」

 

「錆兎と義勇を、頼む」

 

「……はい」

 

 昨夜、「必ず帰れ」と言われた腕の締め付けを、身体がはっきりと覚えている。

 その感触と一緒に、胸の奥で何かがぐっと固まる。

 

「必ず三人で帰ってきます」

 

 言葉にした途端、少しだけ足が軽くなる。

 

 錆兎が面を片手にひらひら振る。

 

「行ってくる!」

 

 義勇は、深く頭を下げた。

 

「お世話になりました。……必ず、戻ってきます」

 

 鱗滝さんは、何も言わなかった。

 ただ、天狗の面が一度だけ大きく縦に動いた。

 

 その姿を最後に振り返ってから、俺たちは隠の案内に従って、山道から街道へと歩き出した。

 

 その後の数日は、馬車や人力車を乗り継いでの移動だった。

 

 馬車の揺れに慣れない錆兎が、初日は「気持ち悪い……」と青ざめていたが、二日目には「これ、ちょっと楽でいいな」と言い出していた。

 義勇は、車輪の軋む音を聞きながら、じっと外を眺めていることが多い。

 

 窓の外を、畑と森と、小さな村が流れていく。

 そのたびに、ふと考える。

 

(櫛那姉ちゃんも、この景色を見たのかな)

 

 それとも、別の道から藤襲山へ向かったのか。

 どちらにしろ、選別の前に見た最後の景色は、きっとこんな風だったのだろう。

 

 夜は、隠が用意した宿で休んだ。

 三人で一つの部屋に寝転がると、天井の木目が妙にはっきり見える。

 

「前に帰ってこなかった人ってのは、どんな人だったんだ?」

 

 ある夜、布団の中で錆兎がぽつりと言った。

 暗闇の中でも、こちらを見ているのが分かる。

 

 いきなり胸の奥を掴まれたように、息が詰まった。

 

「……錆兎」

 

「宗右衛は知っているんだろ?

 そういう話をするとき、目が逃げるように泳ぐからな」

 

 錆兎は、天井の方に目を向ける。

 

「櫛那さんって言うんですよね、その、兄弟子さん」

 

 義勇も、隣の布団から小さく言う。

 

「こんな時でもないと聞ける話じゃないからな。

 ただ、話したくないことなら、忘れてくれ」

 

「そう、だな」

 

(二人には話してもいいのかもしれない)

 

 そんなふうに思える。

 口を開きかけて、あの人ならどうするだろうかと考える。

 

 櫛那なら。

 鱗滝さんなら。

 

 錆兎と義勇が、夜の闇の中で、息を潜めるようにして俺の答えを待っている。

 

「すごい人だったよ。

 俺よりもずっと強い人だった」

 

 そんな櫛那が、帰ってこられなかった試験。

 

 鬼にやられたのか。

 誰かを庇ったのか。

 一週間の試験の中で疲れ果ててしまったのか。

 

 考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。

 

 そして、その重さは二人が抱えるべきではない重さだ。

 

「あと、櫛那は兄弟子じゃなくて姉弟子な。

 優しいし、笑うとすんごい可愛いし、訓練してるときの横顔なんか凄い美人だったんだぞ」

 

 二人の気配が、わずかに動く。

 

「宗右衛、お前、そんな人と一緒に訓練してたのか、裏切り者め」

 

「錆兎から今まで聞いたことない声が出てる」

 

 櫛那は、死ぬかもしれないと分かっていて最終選別に挑んだ。

 鬼と戦うというのは、きっと誰かを失っても前に進むということだ。

 だから、二人を俺の仇討ちに巻き込んじゃいけない。

 

「話すよ、櫛那のこと。

 鱗滝さんと、俺と、三人で暮らしてたときのこと」

 

 櫛那の姿を思い出すたびに、胸が痛む。

 貴女を思い出して泣きそうになるけれど。

 

 二人に語ろうと思う。

 どれだけ素敵な人が、この世界に居たのかを。

 

 こうして三人の話す声は夜に溶けていった。

 

―――

 

 そして数日後。

 

 藤襲山に到着したことを告げられたのは、空が赤く染まる夕暮れ時だった。

 

「到着だ」

 

 人力車から降りたところで、隠が短く告げる。

 

(ここが、櫛那姉ちゃんが死んだ場所……)

 

 ふと、土の匂いに混じって甘い匂いが鼻を掠めた。

 

 藤の匂いだ。

 

 そこに広がっていたのは一面の藤だった。

 山の縁をぐるりと囲むように、長い房が垂れ下がっている。

 山の麓から中腹にかけて、藤の花が一年中、狂ったように咲き誇っている――そう聞いていたが、まさにその通りだった。

 

 藤襲山の山道の前に立ち、知らず呼吸が浅くなる。

 

「行こう」

 

 錆兎が、いつもより小さな声で言った。

 義勇も静かに頷き、三人で足を進める。

 

 わずかに日の残る山道に、三人の足音だけが響く。

 

 緩やかな坂を上り切ると、そこには大きな鳥居と、敷き詰められた石畳。

 境内を思わせる雰囲気の広場があった。

 

(……ここか)

 

 すでに何人もの人間が集まっていた。

 十代半ばくらいの、同い年くらいの子が多い。

 緊張で固くなっている顔、無理に笑っている顔、妙にとがったような顔。

 

「なんだ、あいつら……」

 

 錆兎が小声で呟く。

 

「『鬼なんか楽勝だ』って言ってます……」

 

 少し離れたところで、おかっぱ頭の少年が仲間と大げさに笑い合っていた。

 

 義勇が少し怖気づくように言うと、俺と錆兎の背に回る。

 

(……あいつらも怖いんだろうな)

 

 だからこそ、笑っている。

 俺だって、裏長屋にいた頃なら、きっと同じように口だけ大きくしていた。

 

「並べ」

 

 ふいに、張りのある声が響いた。

 

 見ると、藤の花の手前に、隠たちが立っていた。

 

 隠の一人が、静かに一歩前へ出る。

 

「まもなく、お館様がお越しになる。静粛に」

 

 お館様――産屋敷耀哉。

 顔も知らぬ俺を、心配してくれていたという、鬼殺隊を束ねる長。

 

 隠の黒装束の間から、白い衣をまとった男が現れた。

 まだ若い。

 背格好は俺と大して変わらないように見える。

 しかし、その歩みは老人のようにゆっくりで、左右から隠が支えるように付き従っている。

 

「今宵は最終選別にお集まりくださり、ありがとうございます。

 皆、遠いところ、よく来てくれました」

 

 柔らかな声だった。

 耳に届くのに、少しだけ間があるような、不思議な響き。

 

 お館様は、一人一人の顔を見渡すようにして、言葉を続けた。

 

「この山には鬼殺隊の剣士が捕らえた鬼が閉じ込められていて、外に出ることがないようになっています。

 ご覧になっていただいた通り、山の麓から中腹にかけて、鬼が嫌う藤の花が一年中咲き乱れているからです」

 

(藤が、鬼の檻か)

 

 藤の房が、山肌を取り巻くように帯を作っている。

 その内側が、鬼の棲む山。

 

「しかし、ここより先には藤の花が咲いておりませんから、鬼どもがおります。

 この中で七日間生き抜くこと、それが最終選別の合格条件になります」

 

 誰かの喉が、ごくりと鳴った音がした。

 

 日輪刀の柄を握る手に、自然と力が入る。

 

「鬼を斬ってもよい。避け続けてもよい。

 七日目の夜明けを過ぎて藤の手前に戻ってきた者が、鬼殺隊の一員となります」

 

 七日。

 山暮らしに慣れた俺たちにとって、七日間生き延びること自体は難しくない。

 ただし、「鬼と一緒に」でなければ、の話だ。

 

(櫛那姉ちゃんも、この中に入って――戻ってこなかった)

 

 頭の中ではとっくに知っていたことを、もう一度現実として突きつけられる。

 胃のあたりが鈍く重くなる。

 

「それでは――」

 

 一拍の沈黙のあと、お館様は穏やかに微笑んだように見えた。

 

「どうか、御武運を」

 

 そう言って踵を返し、藤の花の中へと消えていった。

 

 短い静寂のあと、隠の一人が前に出る。

 

「受験者は、列のまま前へ。

 これより、各々別の入口から山に入ってもらう」

 

「なるほど、入る時に別々にされるのか」

 

 錆兎が、小さく呟く。

 

「……中で合流できますかね」

 

 義勇が不安そうに見上げる。

 

「できたらする。

 でも、最初はそれぞれ、自分の身を守ることだけ考えろ」

 

 言いながら、自分に言い聞かせているのが分かる。

 

(本当なら、二人のそばにいたいのにな)

 

 おそらく動き回るであろう錆兎が心配だし、緊張すると何をしでかすか分からない義勇も、別の意味で心配だ。

 

(って、俺までそんなでどうする。

 まずは自分が生き残ることを考えないと)

 

 まともに戦えば、もはや二人の方が強いというのに。

 それでも、自然と二人を支える前提で考えている自分に、内心で呆れる。

 

「では、順に進め。

 藤の帯の切れ目ごとに、一人ずつ入っていけ。

 そこから先は、頑張って生き残ってくれ」

 

 隠の指示に従って、受験者たちが少しずつ前へ出ていく。

 

 俺たち三人も列に沿って進み、やがて藤の房が切れている場所ごとに立つことになった。

 

 錆兎が俺たち三人の中では最初に山の中に入っていった。

 

「義勇!! 宗右衛!」

 

 少し離れた位置から、錆兎が叫んだ。

 

「絶対、七日目にここで会おうな!」

 

「当たり前だろ!」

 

 負けじと声を張る。

 

「……はい。必ず!」

 

 二番目は義勇。

 

「絶対に生き残れよ」

 

「宗右衛さんも、気を付けて」

 

 お互いにぎこちない笑みだったが、別れる間際、義勇の色の縁が灰に染まりだしたのを見て、集中しているのが分かった。

 

 そして最後は俺。

 

「入れ」

 

 隠の声が、静かに告げる。

 

 藤の内側から吹き出してくる風は、さっきまでとは違う匂いがした。

 湿った土と、腐った血のような、歪な気配。

 

 藤の帯の内側は、すでに暗かった。

 夕暮れの残光は、木々の影に簡単に飲み込まれる。

 

 一歩、足を踏み入れる。

 

 二歩、三歩――

 

 背後で、藤の房が風に揺れる音がした。

 振り返らない。振り返ったところで、何も変わらない。

 

(ここからは、俺の仕事だ)

 

 深く息を吸い、肺の奥まで冷たい空気を満たす。

 

 ――すぅ、と、胸のざわめきが収まった。

 

(……あれ?)

 

 さっきまであれほど緊張していたはずなのに、妙に身体が軽い。

 心臓も、それなりに速くは打っているが、暴れるほどではない。

 

(昨日まで「櫛那姉ちゃんの仇だ」って、あんなに思ってたのにな)

 

 いざ山に入ってしまうと、その言葉が、急に借り物みたいに感じられた。

 

 鬱蒼と茂る木々の間を、ゆっくりと進む。

 枝が、時折肩や頬を掠める。

 土の上に、別の足跡がいくつも重なっているのが見えた。最近のものだ。

 

 何度か、遠くで誰かの悲鳴のようなものが聞こえた気がした。

 それでも、足取りは乱れない。

 

(……落ち着きすぎてる)

 

 自分で自分に、うっすら気味が悪くなる。

 この山のどこかで、櫛那は死んだ。

 鬼に喰われたのかもしれない。

 なのに俺は、鬼に会うその瞬間を、どこか「待っている」ような自分がいた。

 

 しばらく進んだころだった。

 

 山の匂いに、異質な臭いが混じった。

 

 長い間水に浸けておいた布をそのまま干したみたいな、鼻の奥を刺す臭い。

 

(来る)

 

 足を止める。

 日輪刀の柄に手を掛ける。

 

 暗がりの向こうで、何かが木の幹を踏みつける音がした。

 ずるり、ずるりと、地面を引きずるような足音。

 

「人間の匂いがするなぁ……」

 

 低く、濁った声。

 

 茂みをかき分けて現れたのは、背の高い男の形をした何か――鬼だった。

 肌は灰色に濁り、腕が不自然に長い。

 指先の爪が、獣のように伸びている。

 

「久しぶりの肉だぁ……こんなに若くて柔らかそうだ」

 

 よだれを垂らしながら、だらりと腕を伸ばす。

 

(こいつじゃない)

 

 まず、そう思った。

 櫛那を殺したのは、こいつじゃない。

 

 そんなの、会ったこともないくせに、なぜか直感だけはそう告げていた。

 

 初めて鬼を目の前にしたはずなのに、嫌に落ち着いている。

 油断なく、意識を広く持つようにしながら、目の前の鬼を観察する。

 

 意識の色は、黒。

 他に僅かに見えるのは、黄色だろうか。

 

 殺意と、油断と、興奮の色だ。

 

 胸の奥が、静かに冷たくなる。

 

(なあ、なにも感じないのか、俺)

 

 鬼を前にして、怒りも、恐れもしていない。

 

 櫛那の仇ではなくても、こいつは人を殺している。

 俺のことも、今まさに殺そうとしている化け物だというのに。

 

「……鬼、だよな」

 

 口から出た声は、驚くほど静かだった。

 

「そうだよォ。お前は、その、餌だねェ」

 

 鬼が、ゆっくりと笑った。

 

 余裕を見せる鬼を前に俺は―――

 

(怖くない)

 

 自分でそう言い切れることに、一瞬だけ、ぞくりとした。

 怖くない、という事実が、余計に怖い。

 

 櫛那を思うと、胸は確かに痛い。

 錆兎と義勇の顔を思い浮かべると、喉が締め付けられる。

 

 でも今、目の前の「鬼」という存在に対して、俺はほとんど、何も感じていなかった。

 

「なぁ、逃げてもいいぞぉ?」

 

 鬼が、わざとらしい優しさを滲ませて言う。

 

「俺はよォ、獲物を追いかけて、捕まえて、絶望してる顔を見ながら、ゆぅぅぅぅっくりと、それを食うのが好きなんだよぉ」

 

 怖がらせようとしているのか、首元まで届く舌をうごめかせながら迫ってくる。

 

「……いや」

 

 刀を抜く。

 金属の鳴る音が、森の中に短く響いた。

 

「俺は逃げないよ」

 

 鬼は楽しそうに喉奥をくつくつと鳴らす。

 

「いい度胸だねぇ、それじゃあ、逃げたくなるように、かるぅくいたぶってやろうかなぁ!!」

 

 言葉の途中で、地面を蹴っていた。

長い腕が、鞭のように振り抜かれる。

 

(遅い)

 

 体が先に動いていた。

 

 一歩、踏み込む。

 肩を落として、腕の下を潜る。

 呼吸を乱さないように、意識の端だけで整える。

 

 櫛那の型を、何度も何度も真似した。

 錆兎の踏み込みに、何度も何度も追いつこうとした。

 鱗滝さんの太刀筋を、何度も何度も頭の中でなぞった。

 

 その積み重ねが、勝手に身体を動かす。

 

「――水の呼吸」

 

 口の中でだけ、静かに言う。

 

「参ノ型・流流舞」

 

 刃が走る。

 鬼の首が、驚いた顔のまま宙に浮いた。

 

「……あ」

 

 間の抜けた声は、俺ではなく、鬼のものだった。

 

 灰色の肉が、崩れる。

 首も、胴も、砂のように風に散っていく。

 残ったのは、焦げた肉のような臭いと、わずかな灰だけ。

 

(……終わり、か)

 

 日輪刀を軽く払ってから、鞘に収める。

 

 心臓は、確かに速く打っていた。

 けれど、「斬った」という事実に、心はほとんど揺れていない。

 

 初めて、人の形をして、人の言葉を喋る生き物の頸を、刀で斬ったというのに。

 

 だというのに俺は、むしろこの鬼に憐れみすら感じている。

 

 こんなにも弱い生き物が、俺たちに切られるために藤の檻の中で閉じ込められているという事実に。

 

(俺は、櫛那姉ちゃんの仇を取りたかったんじゃないのか?

 鱗滝さんにも、鬼を斬るのだと、そう言って剣を習ったんじゃないのか?)

 

 自分で自分に問いかけても、答えは返ってこない。

 

 それでも疑問が頭の中をぐるぐると回る。

 

 鬼がこの程度の強さなら、櫛那が負けるはずない。

 じゃあなんで帰ってこられなかったのか。

 義勇と錆兎は大丈夫だろうか。

 どうしてこの山で鬼を育てるような真似をしているのか。

 

(いや、鬼は斬らなきゃいけない。

 ここにいる鬼も、全部櫛那姉ちゃんの仇だ)

 

 分かりやすい言葉を、わざと心の中に詰め込む。

 そうしておかないと、別の何か――鬼への憐れみとか、この山の理そのものへの疑問とか――が入り込んでしまいそうだった。

 

(ごめんな、櫛那姉ちゃん)

 

 心の中で、そっと呟く。

 

 鬼は全部、お姉ちゃんの仇だって分かっているのに、俺はそれに怒れもしない。

 

 一度も、櫛那のこと姉だなんて呼べなかったけれど。

 

 お姉ちゃんとの約束通り、ここまで追い越しに来たよ。

 

(ありがとう、お姉ちゃん)

 

 不出来な弟でごめんな。

 

(今の俺の心の色は、多分)

 

 自分の色は見えない。

 それでも想像はつく。

 

(きっと、酷く黒い)

 

 俺はまた一歩、森の奥へと足を踏み出した。

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